第十八話 その狂気の生まれる前
いつかの古い記憶の中、台所の隅には誰にも言ってはならない“気配”があった。
それは言葉にならない匂い――鉄と脂の混ざったようなその気配は、古ぼけた冷蔵庫の下段――肉専用の引き出しから、じんわりと漏れ出している。
その肉のことを、彼女の祖父は何も語らなかった。
だが、凛鈴は知っていた。
仕事からの帰りが遅い夜、祖父は決まって一人で台所に立つ。
風呂上がりのように髪を濡らしたまま、真っ黒な袋を持ち帰り、黙々と洗い、まるでなにかに憑かれたようにそれ食う。
まるで野生動物のように、生のまま血みどろの肉を。
凛鈴は、いつもそれを部屋の戸の隙間から、こっそりと眺めていた。
小さな彼女には、“それ”が何か、正確にはわからなかった。
でも、祖父が食べるとき、少しだけ顔をしかめているのを見ていた。
その肉が、苦行や祈りのようなものであることを、なんとなく察していた。
−−−
「あれは罰であり、祈りであり、誓いだ」
そんな事を言っていたのは祖父がかつて”先生”と呼んでいた男。
元々は獣を狩る仕事だった筈が、いつしかその対象はヒトへと変わり、その生命を狩るようになった、といつか語っていたことを思い出す。
命を奪うという行為は大なり小なり、精神に対して強大なストレスを齎す。
そのストレスを和らげるために、狩った獲物の肉をその場で食すことで供養と償いとする。
そんな儀式をするようになった、と。
狩るものが獣だったなら、これでよかったかも知れない。しかし、ソレがヒトとなれば話がかわってくる。
ただの猟師が戦場に送られ、多くのヒトを屠り、戦争が終わってもなお同じ様にヒトを屠る羽目になり。
命を刈り取ったときのストレスは獣の時の比ではなく、最初の頃は気が触れそうになった。
そんな気が触れそう、もしくは気が触れた頃に彼の師は獣の時のように儀式を執り行うようになった。
そしてその教えを彼の師は彼にも継承していった。
彼はその教えは苦痛でしかなかったが、それでも、それを師との絆のようにも感じられ、師の亡き後、忌まわしき儀式は続いた。
──そんなある日、事件が起きた。
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いつものように祖父は外出し、夜になっても戻らなかった。
凛鈴はこの日はなかなか寝付けず退屈を持て余していた。
ふと思い立って冷蔵庫を開ける。
その奥に、血が滲んだラップ包みがあった。赤黒くて、筋ばった肉塊。
怖かった。けれど、興味が勝った。
「食べるなら、ちゃんとした料理のほうが、いいんじゃないかな」
そう思った。
普段それを辛そうにそれを食べる祖父を見ていた凛鈴は、せめて美味しく食べさせてあげたい、という気持ちとこの肉がどうなるのか見てみたい、という好奇心が彼女の小さな手を動かした。
流石に血がひどいので、軽く水洗いしてから水気を取り、肉に塩をすり込み、ショウガと酒で臭みを取る。
玉ねぎとニンニクを炒めて、ほぐした肉を入れ、炒め煮にする。
思いつく限りの味つけを重ねて、ひとつの「料理」が出来上がった。
両親は既に無く、家を空けがちの祖父に変わって料理位はと、レシピ本を片手に必至に覚えた調理。
きっと喜んでくれる、そう信じて。
その後、祖父が帰宅したのは夜の十時を回った頃だった。
いつも通りのいつもの仕事。それはそれとして、荒む心が表情に現れ、なんともいえない表情のまま帰宅。
そして、玄関を空けた瞬間に広がる匂いに、祖父はわずかに眉をひそめた。
「……これは、何だ?」
食欲を誘う香りと、こんな時間まで凛鈴は起きていたのか? という疑問が湧き上がりつつも、わざわざ夜食を用意してくれたのか、と思わず心が熱くなる。
「お帰り、おじいちゃん。あのね、リズがごはん作ったよ」
「はは、そうか。いつもありがとうな」
かわいい孫が手ずから作る料理。陰鬱な気分にさせる仕事が終わった後では最高のねぎらいだ。
破顔して凛鈴を抱き上げると、破顔したままダイニングへと向かう。
「さて、ウチのお嬢さんは今日は何を作ってくれたのかな?」
テーブルの上には湯気の上る皿とそこに盛り付けられた肉料理。
大根と共に醤油と生姜で味付けされた、和風の煮込み料理がそこにあった
「おお、なかなか豪勢だな。これは何の料理だい?」
「良いでしょ? 冷蔵庫にあったあのお肉で作ったの。これなら美味しく食べられるよね?」
そんな凛鈴の無邪気な一言で、彼の中に先程まであった温かな気持ちが雲散霧消する。そして、
「……なぜこれを!? ……勝手なことをするな……!」
と、低く凛鈴を叱りつけた。
褒められる思っていたのに、喜ばれると思っていたのに、なぜか叱られて混乱する凛鈴。
一方で祖父の方も、あの儀式を見られていた、それも辛そうにしている、と。
そんな自分に対して余計な気を使わせてしまったのだと知り、暗澹たる想いになる。
できることなら裏稼業など知られたくはないし、そんな仕事のためにあんな悍ましい行為をしていることなど見られたくはなかったからだ。
そんな“儀式”に割って入った凛鈴の料理。
禁じられた世界の扉を、ほんの少し開けた気がした。
思わず叱りつけてしまったが、ぐずる凛鈴をなんとかなだめて寝床へ送ったその後、祖父は黙ってその料理を食べた。
一口、二口――ゆっくりと噛み締める。
そして、ふと箸を止め、溜息のように呟いた。
「……たしかに、苦痛は減ったな」
それは敗北の言葉だった。
祖父にとっての“罰”や“誓い”が、孫の手によって、娯楽に変わっていくことへの警鐘。
けれど、その流れを止めることはもうできなかった。
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それからというもの、凛鈴は折にふれて「例の肉」を調理するようになった。
祖父はもう何も言わなかった。
凛鈴の瞳に灯る、“明るく無垢な好奇心”を、否定できなかった。
彼女は楽しんでいた。
他人が苦痛と捉えるものを、料理という形で“作品”に仕立てていく作業を。
その無邪気さこそが、何よりも恐ろしかった。




