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第十五話 野蛮とは言わせない

今更ですが本作はフィクションであり、今回登場する調理方法を現実に行うことは極めて危険です。

 火を通さぬ料理は、原始的で野蛮だ――そんな声がある。

 だが本当にそうだろうか?


 よく欧米では日本のスシやサシミに対して「生のままなんて野蛮」「調理も知らない原始人」というようなニュアンスの侮蔑をすることがある。

 では、火の入っていない料理は本当に料理に非ずなのか?


 答えは否。なぜなら火を入れずに食べる料理には、そのための調理法がきちんとある。


 刺身にせよ、カルパッチョにせよ、ユッケにせよ、火を使わぬなりの技術と文化があるのだ。

 そしてそれらの技術を駆使することで、素材そのものの真価を引き出す。


 素材の育成に気をつかい、清潔な環境での管理、鮮度の維持。

 捌くときは手際よく、組織を傷つけないよう繊細な技術を要する。迅速な提供。

 更にそれらの食材が傷む前に素早くパッケージングし、輸送。そうしてようやく消費者のもとに届くのだ。

 

 届いた後も行程はまだ終わらない。

 彩りと盛り付けを丁寧に行い仕上げを行うことであたかも一つの芸術作品のように飾り立てられて皿の上に鎮座する。

 ここまで手間を掛けて食卓に並んだメニューを「料理以前の蛮族の所業」などとは呼ばせはしない。


 これは、火という文明の庇護を拒絶してなお残る「洗練」の形なのだ。


 それを可能にするために、羽鳥(ハトリ)凛鈴(リズ)の部屋には新たな設備が搬入された。

 たまたま見かけた大家から不審な目を向けられたが、彼女は気にしない。全てはこの一品のために。


 それはオゾン殺菌装置。


 業務用、しかも最新型。

 皮膚常在菌や細菌類の除去に特化した、過剰と言っていいほどの滅菌性を誇る。


 導入の動機は単純。

「たまには生肉を食べたくなった」からだった。


 火を通すことで生まれる旨味は確かにある。

 だが、時には素材そのものの舌触りを、その味を風味を繊維の断面に舌を這わせるように味わってみたくなったのだ。


 最初に切り出したのは、ロース部位。

 血抜きも、脱水も、熟成も、すでに適切に施されている。

 さらに、表層の菌を殺すために、仕上げのオゾン水を霧状に噴霧する。


 清潔。安全。完璧。


 彼女は肉塊をそっとまな板に置いた。


 装置の作動音が部屋の静寂に滲んだ。低く、湿った音。

 シュウ……というオゾン水の噴霧音は、まるで霧の中で誰かの息遣いを聞いたかのようだった。

 この一皿のためだけに投入された高性能装置。その用途はただ「安心して生肉を食すこと」。

 常軌を逸している、と笑う者がいれば、彼女はきっと笑って肯定する。

 料理とは、命と向き合う所作だ。火を使うかどうかは問題ではない。

 何より、この料理に関しては滅菌が甘ければ自分の命さえ危険が及ぶ。この料理に盛り付けるのは肉の命だけではないのだ。

 だからこそ必要ならば滅菌装置の一つや二つ、用意するのは当然だろう。


 盛り付けられたロース肉は薄くスライスされて、花びらのように並んでいる。その色は美しく澄み、さながら本物の花のように芳しい脂の甘さが仄かに鼻腔をくすぐる。


 大理石模様のように霜降った筋を慎重に見極め、凛鈴は極薄のスライスを更に重ね花模様を描いてていく。


 そうして出来上がった今夜の献立は、肉刺しの盛り合わせ。


 薄紅に染まるタン。しっとりと脂を含んだ肩ロース。淡いピンクのハラミ、そして心臓部位の淡い紫。

 この至福の為に希少部位も惜しまずに並べていく。

 臓物系の部位は噴霧するだけでなく、生成されたオゾン水でしっかりと揉み洗いしてあるので問題ない。

 器は白磁。飾りは芥子の葉。まるで季節を切り取った絵画のように整いテーブルの上に鎮座している。


 これだけの手間を掛けた料理のどこが野蛮だろうか?


 この静寂の中で、ドレスの上に掛けていたエプロンを外し、真紅のリップを引いて、鏡の中の自分に微笑む。


 珍しく羽鳥家のキッチンは火の気がなく、料理は湯気も立てていない、

 そんなただ冷やされたままの肉の皿に凛鈴は箸を伸ばす。


 一口。

 舌の上で脂が溶け、鉄の香りがほのかに広がる。


 凛鈴は満足げに目を細めた。


 野蛮などとは、言わせない。


 素材を殺し、解体し、管理し、加工し、選び、届けて、殺菌し、盛り付けた。

 どの段階においても、半分以上は他者の手によるものだが、そちらの仕事が完璧なのは彼女も知っている。

 それらの積み重ねの頂点に彼女の「調理」が加わることで、この料理は芸術へと昇華される。


 そう、ここまで手間をかけた以上、それはもう芸術作品なのだ。


 彼女はどんな作品であろうとも、そこに全力を尽くし向き合っていく。肉への冒涜は許されない。


 だから彼女は、堂々と箸を伸ばす。


 美しいテーブルの上で、赤く薄く、美しく切り揃えられた“それ”を、口へと運ぶ。


 次は趣向を変えて寿司にしようか、あるいはカルパッチョ?

 まだ見ぬ料理に思いを馳せつつ、いつものように赤いワインをグラスで踊らせながら、静かに一人食卓の夜が更けていくのだった。

※注意

本作中に登場する調理・喫食の描写は、あくまで物語上の演出です。

実際に生肉を調理・喫食する行為は、重大な食中毒や感染症のリスクを伴います。

国内でも一部の飲食店では厚生労働省の指導のもと、衛生管理を徹底したうえでユッケや牛刺しなどの提供が行われていますが、これはあくまで特定の設備・技術・免許を有した専門業者に限られた行為です。

また、オゾン水やオゾン発生機による消毒・殺菌も、生食に適した完全な安全手段ではありません。

家庭での模倣は極めて危険です。絶対に真似をしないでください。

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