第十二話 その原木を買ってはいけない
その朝、羽鳥凛鈴は上機嫌だった。
外は曇りがちで涼しく、室内の温度も安定している。
湿度計を一瞥すると、63%。――ちょうどいい。
彼女は床のフローリングを軽く踏み、その一枚だけきっちりと音が違う場所を開けた。
音を立てずに板を外し、鍵のかかった金属扉のロックを回す。
そこにあるのは、いわゆる床下収納と呼ばれる小さなスペース。それを大家の許可のもとに少し拡張し、熟成庫へと改装されているため冷暗かつ乾燥した空間に仕上がっている。その中には小さな木製の棚と吊るされたフック。
そこに、一対の肉塊がぶら下がっていた。
ひんやりとした空気の中、凛鈴の目が細くなる。
フックに吊るされた肉の塊は、もはや何の肉か即答できるような姿ではない。
脂が白く光り、外皮の下には赤身が覗く。
その形状と筋の通り方、まるで木材のように硬く収縮したそれは、通称原木と呼ばれるものである。
吊るされたそれは2本。既に血抜きと塩漬けを終え、乾燥と熟成を待つ状態。その表面の皮膚は取り除かれ、粗塩と香草に覆われていた。
凛鈴はその一本を、両手で持ち上げる。
しっとりと湿った表面が、肌の体温を吸い取っていく。
「いい具合。うん……脂は残しつつ、表面は締まってる。塩もなじんできたわね」
すでに漬け込みを終え、今日は風乾と初期の熟成を始める日だった。
冷水で塩を丁寧に洗い落とし、ペーパーで拭き取り、外気にさらす。
彼女は台所に戻り、カスタム済みのシンクに肉を置いた。
「この“原木”、やっぱり若いわね。香りが違うのよ」
ジュニパーベリー、ローズマリー、セージ。
独自に調合した香草をペースト状にし、肉に塗り込んでいく。
その指先はやけに丁寧で、時折撫でるような手付きになる。
塗り込みが終わると、今度は糸で縛り、吊るす準備。
再び地下の貯蔵庫へと戻し、フックにかける。
狭いながらも風通しを良くしつつ、温度を保てるようにするには苦労した。
凛鈴は収納庫の壁面部分に取り付けた換気口を少しだけ開け、わずかに風を通した。
温度計は16度、湿度は61%。計算通り。
サラミも干せるが、生ハムならこのくらいがいい。
「……まだね。あと10日。じっと、じっと待つのよ」
彼女は愛おしげに微笑むと、床板を静かに閉じた。
「……あら?」
そしてふと顔上げたとき、庭の窓越しに人影が見る。
よくよく見れば、例の隣の主婦――野崎沙那が、洗濯物を干すついでにこちらを覗いていたらしい。
慌てて視線をそらすその様子は、見られたことの証明だった。
だが凛鈴は笑顔で応じることにした。彼女から見れば、隣人は肉の味の違いが分かる同士。
なので、気にするでもなく部屋で過ごしていれば、程なくしてチャイムの音。
「おはようございます~。あの、さっきたまたま見えちゃったんだけど……また何か作ってたんですか?」
現れた沙那には若干の遠慮がちな仕草が見えるが、凛鈴にとってはそんな気遣いはあまりかんけいない。
「ええ、生ハムを。少し変わったやつをね」
隠すこともないので素直に何をしていたかを告げるのだった。
「生ハム!? すごーい! 本格的なんですね~。やっぱり、豚肉ですよね? イベリコとか?」
「……ちょっと違うけど、特別なのは間違いないわ」
言いながら凛鈴は冷蔵庫の中から、スライスした生ハムを真空パックした小袋を取り出した。以前作った分の残りだ。
綺麗にパッキングされたそのラベルは、まるで市販品のようだった。
「わぁ、ありがとうございます! すごく綺麗……赤身が濃い色ですね。なんていうか、すごく若い?」
「ええ、“収穫”のタイミングが良かったのかしら。今作ってあるものも、よろしければ差し上げますわ」
「ホントに!? でも、お高いんじゃないの?」
隣人が手ずから作った生ハム。その食品自体が決して安いものではないことくらいは沙那も知っている。
さすがにホイホイと貰うには少しだけ気が引けたようだ。
一応、最初は断っておく。これも処世術である。
「いえ、かまいませんわ。奥さまは"味がわかる"方ですので、ぜひ召し上がってほしいと思いましてね」
「あらそう? なんだか悪いわねぇ、それじゃお願いしちゃおうかしら」
しかし"味がわかる"、そう言われれば悪い気はしない。結局彼女はもらえるならばと二つ返事で約束を取り付けたのだった。
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そして10日後。凛鈴は約束通り生ハムを届けるため隣家の玄関前に立っていた。
「これ……いただけるんですの?」
慎重に包みを差し出す凛鈴。沙那はその大きさと重さに多少の気後れをしたが、即座に飛びついた。
包みを開けると、真空パックされた生ハムの原木が姿を現す。骨付き。皮付き。しっかりと乾燥され、早速梱包を開いて見れば香り高いスパイスの芳香が鼻をくすぐる。
「いや、これ……マジで? ……すご……」
丁度在宅だった夫である野崎雄馬もその迫力に思わず尻込みする。
「凄いよね! ねぇ、うちでこういうのってどこに置く? リビング? キッチン?」
「いやいやいやいやいや」
沙那は既にインテリアの一部と化すつもりでウキウキしていたが、雄馬の顔は青ざめていた。




