第十話 じっくりゴトゴト煮込んだラーメン
ごとごとと、寸胴鍋の中で何かが煮えている。
肉と骨の香りに、ネギ、生姜、ニンニク。時折はスパイスも。
それはどこにでもある、豚骨ラーメンの仕込みの匂い――の、はずだった。
夜更け、羽鳥凛鈴の部屋に立ちこめる白い蒸気。全力で換気をしてもなお、このむせ返る湯気はとどまるところを知らない。
寸胴鍋の中で煮込まれているのは、いくつかの香味野菜と「ゲンコツ」こと関節骨。
大柄な大腿骨を割り中の髄をこそげ出し、肋骨も一緒に大鍋に投入。
こうして一晩じっくり煮出したスープは、やや白濁していて表面に旨味の脂が浮かんでいる。
ここで徐ろにスープをすする。コクと甘味、そして妙な“深み”。
「……この苦味、やはり関節の軟骨部分かしら。少し焦げた?」
煮込みの火力が若干悪かったようだ。香草を足してリカバリを図る。
そんな濃厚ラーメンに添えられるチャーシューもまた自家製。脂身の少ない赤身中心。
肩ロース……にしては繊維の流れが違う。あえて切り分けた筋肉の集合体。
これも前日のうちに仕上げたものだ。
表面に塩胡椒とスパイスを揉み込み、強めの火力で表面を炙るように焼き上げ、その後は特製のタレで煮込み味を染み込ませる。
そうして火を止めたとは粗熱を取り、冷えたら密閉して冷蔵庫で熟成させる。
オーソドックスだが奇をてらっていない分シンプルに肉の味を楽しめるようだ
「ふふ、やっぱり部位ごとに味の出方が違うのよねぇ。特に、ここの腱のあたり――よく動かしてたわね、ふふふ」
そんなことをつぶやきながら、試食用に小さく切ったチャーシューの切れ端をつまみつつ、鍋をしっかりかき混ぜながら、煮込みは続く。
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そして翌日、ついに完成したラーメンスープ。
ラーメン鉢にに醤油ベースのタレとごま油を入れ、そこに煮込み続けていたスープを流し入れる。
そうしてこのタイミングで茹で上がった麺も投入。こってり目のスープなら少し固めの麺がいいとということで、茹で加減はバリカタだ。この一杯のために製麺所から購入してきた逸品である。
ここで具材を乗せれば完成、と行きたいところだが、ここでさらに背脂を大量に投下し、こってり感をブースト。
白濁したスープに白い脂の粒が乗っかり、煌めきを増したかのように光を湛えた丼ぶりがそこにある。
最後に自家製のチャーシューを多めに8枚程と刻みネギを乗せれば完成だ。
そしてテーブルに並べる。いつものようにテーブルクロスとランチョンマットに彩られた豪奢な食卓に不釣り合いなラーメンが置かれる。
エプロンを外し、ドレスを軽く整え直した凛鈴は椅子に座ってラーメンと向き合い、割り箸を割る。
まずはレンゲでスープをひと口。
その瞬間、スープの織りなすハーモニーが口の中いっぱいに広がる。
――コク、脂、香味野菜の香り。味は、極上。
「――ふふ、これはいいわ」
それだけつぶやくと、凛鈴はそこから何も言わなくなった。
箸を取り、以降、ひたすらに、黙々と食べる。
麺をすすり、チャーシューを噛み、スープを口に運ぶ。
能書きも、評価も、今は不要。
ただ、この一杯と向き合うこと。それだけが”今”のすべてだった。
ただ本能的な動作の繰り返し。
黙々と食べ続け、ひたすら食べ続け――気づけば、完食していた。
「ふう、これならまた近い内に作ってもいいかも知れないわ」
麺一本、スープ一滴のすべてを食べきり、珍しくワインではなくビールで食後の口を潤したあと、ようやく言葉を発した凛鈴。
肉も骨も脂も、すべて”同じロット”で揃えただけあって、味の統一感は素晴らしいという一言に尽きる。時間こそかかるが、出来上がりに関しては文句の付け所もなく、その労力に見合うだけの価値はある、そう結論づけて。
「我ながら後を引く味、しっかり食べたはずなのに、もう一杯という誘惑がたまらないわ」
濃縮された旨味の奔流は、脳にさらなる刺激への欲求を高め、まるで依存症がごとく次なる一杯を求めてしまう。
「でも、旨味は充分、次はもう少し甘みを出してみようかしら。さらなる満足がそこにはきっとあるわ」
だが、この程度では満足に至らなかったのか、凛鈴はさらなる満足を求め、次のスープの構想を練り始めるのだった。
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「……マジか……流石に凄いなこりゃ」
後日、肉の配達とゴミの回収に来た男は部屋の有り様にげんなりした。
今はコンロの火は落とされ、湯気もそこまで上がってはいないが、換気が間に合わず部屋中に煮込まれたスープの独特な臭気が立ち込めている。
決して広くないキッチンは脂の汚れが至るところに張り付き、掃除した形跡はあれど完璧に洗浄仕切れていないのが目に付く。
それを目にした彼にとっては、控えめに見ても惨劇の場にしか見えず、青ざめる他無かった。
「そうなの。とっても美味しくできたから、お隣さんにも『本格的すぎてお店みたい! っていうかお店出せる』って言われた。」
その言葉に一瞬眉をひそめるが、なんとか平静を保つ配達員。
「……あくまで個人で楽しむ分だけにしてくださいね」
いいながら、いつものように可食に適さない部位を黒いビニール袋に手際よく詰めていく。
今回は割れて尖ったモノが多いので、袋を突き破らないように最新の注意を払いながら。
「ところで、スープの研究してたら作りすぎちゃったんだけど、一杯食べてかない?」
そんなことを宣いながら、凛鈴はラーメンをすすっている。
先程お裾分けなどと言っていたが、本当に作りすぎたようで、彼が作業する傍らでもひたすらラーメンを食していた。
「……遠慮しておきます」
男は内心、冗談じゃないと叫びそうになりながら、若干食い気味に遠慮する。
「あら、残念。とっても美味しいのに」
「……処分に困るようならこちらで廃棄しますが?」
「それは駄目。無為に廃棄するなんて食材に対する冒涜。仕方ないから取り敢えず冷凍しとく。時々お隣さんにもあげよう」
できることならお裾分けもやめてほしいが、おそらく止めたところで彼女は聞かないだろう。
そんなふうに半ばあきらめながらも、自分がその丼ぶりに手を付けることだけはなんとか回避できて胸中で安堵した。
「……流石にこの有り様はひどいんで、後でハウスクリーニングも依頼しときます。臭いも外に漏れてますし」
「そう? ありがとう。いつもサービスいいわね」
「……これも仕事なんで」
少なくとも一般家庭で出していい臭いではない。定期的に入れているサービスだが、今回は臨時で依頼することになる。その報告に少し気が重いが仕方ないだろう。
「いつもありがとうございます。……それではまたよろしくお願いします」
そう言って、いつもより足早に部屋を辞して一例、そそくさと帰っていく配達員だった。
なお、程なくしてハウスクリーニングが入り、すべての汚れは痕跡一つ残すこともなく、完璧に除去された。
残り香すらも残らず、きれいに――まるで何事もなかったかのように――消え去ったことを、ここに付け加えておく。




