02人並みってなんですか
途中で目が覚めれば、パサパサの味のない栄養食を食べて、水を飲んで、また眠る。
それを何度繰り返しただろう。
気づけば夜になっていて、また気づけば朝になっていた。その次には夜になっていて、また朝が来ていた。
ようやくまともに起きたエリザは、部屋の鏡を見て肩を落とした。
「ひどい顔……」
頬はこけていて、肌が白すぎて顔が青い。
髪はぼさぼさ。目に光がない。
「こんなの、まるでグールね……」
その時ふと、後輩のスカーレットの姿を思い出した。つやつやの赤い髪をきれいにまとめていて、花の髪飾りを付けていた。服は官給品のローブだったが、ベルトを付けたりレースを付けたり、手を加えていた。肌はきらきらと輝いていて、頬紅を差していて、口紅もつけていた。
――きれいだった。
別の世界の住人のように。
スカーレットだけではない。きっと、同僚は、みんな。
涙が零れる。
理由もないのに泣けてくる。
「あれがきっと人並みというものなのね……最低限の身なりぐらい整えないと、きっと次の仕事も見つからない……」
エリザはまず顔を洗った。そして持っている少ない服の中から、なんとかまともそうなのを引っ張り出して着替えた。
飾り気のないベージュのワンピース。
髪も櫛で解かして、また三つ編みにしなおす。もちろん化粧品やアクセサリーなどは持っていないため、身支度はそれで終わりだ。
一階に降りて、他の客のいない食堂に行くと、女将がキッチンの中で何やら思案顔をしていた。
エリザに気づくとぱっと顔を上げ、愛嬌のある笑顔を浮かべる。
「あらまあエリザちゃん、もう大丈夫なの?」
「はい、お気遣いありがとうございます。ご飯をいただいてもいいですか。できたらオムレツを……」
この食堂で女将の手料理を食べるのも久しぶりだ。
エリザが言うと、女将は困ったような顔をする。
「そうしてあげたいんだけど、いまちょっと魔導コンロの調子が悪くてねえ。火がつかないのよ。この前修理に来てもらったばかりなのに」
ふう、物憂げな息をつく。
「ねえエリザちゃん、ちょっと見てもらえる? あ、ごめんなさい。宮廷魔術師様にこんなお願いをするのはダメなのよね。あらそういえばお仕事の方は大丈夫なの?」
「大丈夫です。わたしはもう宮廷魔術師ではないので」
「え?」
キッチンに入り、驚いている女将の後ろを通って魔導コンロの調子を見る。
「うん……魔導に不純物がこびりついて、ちょっと流れが悪くなっていますね。はい、直りました」
魔術師にしか見えないという魔導回路を見て、歪みを修正する。
点火のスイッチを押すと、火が着く。
火力調整のスイッチを押すと、火が大きくなったり小さくなったり、機能通りの働きをする。
「あらあらまあまあ、すごいわエリザちゃん! ありがとう!」
「はい、でもこれは秘密にしておいてくださいね。魔術師の資格がないのに魔導具をいじるのは違法なんです」
「資格がないって……さっきの宮廷魔術師じゃないって言葉も、どういうこと? エリザちゃんがんばっていたじゃない」
「クビになっちゃって、魔術師の資格も取り消されちゃったんです。あはは……」
情けなく笑い、首を傾げる。
自分でもどういうことなのか、いまだによくわからない。
ただいまのエリザは宮廷魔術師ではなく、魔術師の身分証も返却した身だ。ただの一般人である。
「……よくわからないけれど、きっと大変だったのね、エリザちゃん……わかった、誰にも言わないわ。でも本当ありがとう。旦那の残してくれた魔導コンロだからね。できるだけ長く使いたいのよ」
女将は優しい顔で、寂し気な瞳でコンロの火を見つめる。
「でも本当にすごいわ。新品みたいよ。エリザちゃんは本当に素敵な魔術師さんなのね。――よし、これでエリザちゃんの食べたいものなんでもつくっちゃう。たくさんお食べなさい!」
◆ ◆ ◆
「うう……く、苦しい」
女将の大サービスでお腹どころか喉までいっぱいに食べた状態で、エリザはふらふらと職人通りを歩く。
「……でも、おいしかったな……食べ物って……味があるんだ」
ずっとパサパサで味のない栄養食を食べていたからすっかり忘れていた。愛情のたくさんこもった食べ物が、どれだけおいしいのかを。
胸までいっぱいになり、幸せな気持ちで通りを歩いていると、理髪店が目に入った。
「うん、久しぶりに髪を切ってみよう。いままで自分で切ってきたから、めちゃくちゃなんだよね……」
理髪店で傷んだ髪を切る。腰まであった銀髪は、胸までの長さになってすっかり頭が軽くなった。重荷がなくなったみたいで、気分が一新された。
「――よし、服も買っちゃおう」
これから新生活が始まるのだ。丈夫で新しくて、きれいなものを。お金はたくさんあるのだから、新生活のために使う。
そうしてエリザは、ゆるっと部屋着、普段着のシャツとスカート、ちょっとした外出用のワンピース、そして旅用のコートも買い込んだ。
たくさん買い込んでから部屋に戻り、戦利品を並べてみる。部屋の中が一気に明るくなった気がした。
「これで、なんとか人並み……? あ、化粧品とか買ってない……うん、それはまた今度で」
その時、お腹がぐうと鳴く。
外を見るといつの間にか夕方になっていた。そろそろ夕食の時間だ。
「朝にあんなに食べたのに……食べないときは食べていなくても平気だったのにね」
ちゃんと食べるようになると、ちゃんと空腹がわかるようになる。
「無理させててごめんね」
お腹を撫でて、いままでの無茶を労わる。応えるようにまたぐうと鳴いた。
エリザは苦笑し、食堂へ降りる。客が何人かいてほっとした。
「まあまあ、きれいになって!」
エリザを見た女将が嬉しそうに声を上げる。
「これからどうするの?」
「仕事を探しに行きます。貯金だけではいつまでも暮らせませんし」
「あら。どんな仕事をするの?」
エリザは小声で答えた。
「決めていませんが、魔術と関係のない仕事になると思います」
「まあ……魔術師じゃないエリザちゃんなんて想像もつかないわ」
女将も小声で言う。
エリザもそう思うが、もう宮廷魔術師の身分証は返却してしまった。
この国では未登録の魔術師が魔術を使うと、魔術乱用罪で逮捕されるため、新たに魔術師ギルドに一般魔術師として登録する必要がある。だが、宮廷魔術師をクビになったエリザが一般魔術師として登録できるだろうか。
(無理じゃない?)
キノコとチキンのオムレツを食べながらそう思う。
夕食を食べ終わったエリザは部屋に戻り、掃除を始めた。物音を立てないように気をつけながら。
荷物は旅行用カバンと、その中にかけた空間収納魔法の中に詰め込んでいく。ベッドサイドに置いていた赤い小箱を手にした瞬間、エリザの手が止まる。
「…………」
長い間開けていなかった小箱の蓋を開けると、金属の澄んだ音がメロディーを奏で、中に入っている少年と少女の人形がくるくると踊り出す。子ども向けの魔導具――田舎から持ってきた、エリザの宝物だ。それもそっとカバンの中に入れる。
皆が寝静まるのを待ってから、エリザは窓から浮遊魔法で外に出た。旅行カバンと自作の魔術杖を持って。
宿屋の屋根に座り、月明かりの下で目を閉じる。周囲の魔導具の魔導回路――マナの流れに集中し、不具合を直す。
宿屋の中のものだけではない。意識が届くところすべて。魔導の力で灯る外灯。コンロ。時計。水道。噴水。炉。
難しいことはしない。ただ、流れを正す。魔導具の中にいるエレメンタルに、マナが正しく流れ込むように。
エリザはこの皇都でずっと魔導具の調整をしてきた。昨日の夜も。その続きを静かに行なう。
職人通り付近のものすべてを。
これは、世話になったせめてものお礼だ。
一か所だけ修理すれば、非公認魔術師に修理させたと問題になるかもしれないので、辺り一面一気に修理する。
「ふふ、これで犯罪者ね……もうこの国にはいられないわ」
空を見上げ、ふっと息を吐く。肩の力がすとんと抜けた。
「きれいな星……皇都でも星が見えるんだ……」
いままで下ばかり見ていて、空を見てはいなかったことに気づく。
田舎で一人で暮らしていた時に魔術師としてジェイドにスカウトされて、皇都に出てきたときからずっと、星を見上げる余裕なんてなかった。
そしてこれが、皇都で見る最後の星空かもしれない。
――エリザは魔術がなければ何もできない。
だがこの国ではもう魔術は使えない。
ならエリザの道は一つだけだ。別の国に行く。
「お世話になりました」
杖を手に持ち、とんとんと身体の節を叩く。
浮遊魔術に飛行魔術に風除け魔法。詠唱なんてものはいらない。エリザはずっと以前から、無詠唱魔術が使えていた。
エリザは杖に乗って、空を飛ぶ。鳥のように。風のように。
月明かりに浮かぶ皇都の姿は宝石のように美しく。
その向こうに広がる平野や湖水、山脈の姿は、もっともっと美しかった。