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同じ空の下

作者: 宇多瀬与力



「………この海はあの人のところにも続いているのかな」


 不意に隣で男は言った。俺は男とその先の窓から望む大洋をちらりと見る。そして、気だるく彼に応えた。


「これを言うのが何度かわからないが、海はこの地球を包んでいるんだ。お前の思い人がよっぽどの内陸地に住んでいない限りは、きっとこの海の先にいるはずだ」


 隣で深い溜息が聞こえる。瞬く間に車内の空気が重くなる。

 そのような中で運転を続けるのが耐えられない俺は男に問うてみた。


「その人ってのは確か最近流行っているというメル友という存在なのだろう?」


 一瞬俺を見た男だが、すぐに前を見て言う。その時の目は、流行り言葉に疎い中年男を馬鹿にした様なものだった。


「まぁそんなものですよ。メールだけでしか会話をした事もない……会った事も話した事もない女性ですよ、確かに」


 一度言葉を切り、相変わらず窓から見える海を眺めると、視線を海に向けたまま彼は言葉を続けた。


「でも………恋をするのに、必要なのでしょうか? 僕はただヘレン・ケラーの様な恋をしているだけです。相手の顔を見れない、そして声を聞けない。………ただそれだけです」


 俺はそれに何か言おうとした。だが、言葉が見つからない。

 思考のどこかで彼の言う漠然とした恋愛感情に対し、携帯は愚か、電話も発達しきれていない自分の幼少時代の初恋を重ねてしまったのだ。









 俺の初恋は、云十年も昔、十歳にも満たない時であり、当時はテレビも各家庭に1つあるかどうかと云う時代であった。

 相手は近所に住んでいた女学生であった。しかし、当時、いや現在であっても俺は彼女の本名も、住所も知らなかった。

 知っていたのは、彼女が『ちーちゃん』と呼ばれている事と、友達のいなかった俺が一人で路地裏で遊んでいると毎日声をかけてくれた事だけだった。


「こんにちは。今日も一人で遊んでるの?」

「あっ、ちーちゃん。こんにちは。うん」


 俺は遊びを止め、彼女の隣に近づく。


「他の子と一緒に遊べばないの?」

「なんだかつまらないんだ。あいつらガキだし」


 彼女はクスッと笑うと、壁に寄りかかると、顔を上へ上げる。路地から見える狭い空を眺めながら、彼女は言った。


「でも、私は明日から来れないの。遠くの町に引っ越すんだ」

「えっ!」


 俺は彼女の顔を見上げた。驚きと不安が波の様に俺を襲う。動揺が隠せていない俺を、彼女は優しい目で見つめ、言った。


「だから、これからは他の子と遊んで。いいじゃない、ガキでも。きっと外から見たらつまらなそうに思えても、中に入れば楽しいかもしれないよ?」

「そんなのわからないじゃないか」

「でも、試してみなければわからないよ?」


 彼女の言葉に俺の反論は止まった。確かに、彼ら自身が楽しんでいるのか、つまらないのか、それはわからない。

 しかし、具体的にその感情が何なのかわからなかった俺も、彼女に二度と会えない事への動揺は消えるわけでもない。


「だけど、もうちーちゃんには会えないじゃないか」


 所詮は俺もガキだった。気がつけば、彼女の腰に抱きついて泣いていた。

 少し戸惑った彼女だったが、涙が止まない俺の頭を撫で、優しい声で言った。


「どうしても私に会えないのがつらいのだったら、空を見て。嬉しい時、何かに感動した時、辛く悲しい時、空を見て私へ語りかけて。私も同じ空を見て、キミのその言葉を聞き取るから。いつも同じ空の下に私も、キミもいる。だから、離れていても寂しくないわ」


 そう言って、彼女は空を見上げる。俺もつられて空を見上げる。

 路地から見える狭い空。しかし、それは青く澄んでいた。そして、ゆっくりと雲が通過していく。

 確かに空はある。どんなに遠くに行っても、同じ空の下にいる。恐らく、あの雲も遠く全く知らない誰かの下を今と同じように通過していくのだ。そう、俺は思った。

 すると、不思議と悲しみも、不安も消えていた。涙も俺の頬に後を残しているのみであった。







 翌日から本当に彼女は現れなくなった。

 そして、俺は彼女から言われた通り、同世代が遊ぶ輪の中に入っていった。壁を始めこそ感じてはいたが、やがてそれはなくなり、彼女の言葉通り、一緒に遊ぶ事が楽しくなった。


「すげー! ホームラン打ったぞ!」

「何してんだ! 空見てないで、走れ! 走れ!」


 俺は空を見上げて、その喜びを伝えた。

 それは、気がつけば俺の癖になっていた。歳月が経ち、恋人が現れ、結婚をし、子どもができ、中年になった今でも、時々感情が高まる事があると空に心の中で語りかける。

 やがて気がついた事は、彼女とあっていた時の感情も初恋と言えるかもしれないが、もっと確信を持って恋をしたといえるのは、むしろ彼女が姿を消した後、空へ語りかける様になってからであったという事だった。

 恐らく俺は、空の下にいるであろう『ちーちゃん』という存在に恋をしていたのだろう。








 そんな古い記憶、感情を今隣にいる男の感情に重ねてしまい、彼を諭す言葉をかける事も、見つける事も出来ずに、気がつけば海は離れ、目的地が見えてきた。


「なぁ、いつもそう言って海を見ているが、その人に会いたいのか?」

「さぁ? 実はよくわかりません。ただ、現実にあの海の先に僕が恋い焦がれる女性がいる。………多分、それだけで十分なんだと思います。変……ですかね?」


 唐突に聞いた俺の質問だったが、男は苦笑しながら言った。答えをわからないかの様なそぶりを見せているが、すんなりと言葉がでている所を見ると、自身の中では答えは大体出ているのだろう。


「いや。それでお前が幸せならば、俺はいいと思う」


 そして、俺は窓から空を見上げて、心の中で語りかけた。



 そうだろ、ちーちゃん………。





【END】

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