6.全てを捧げた踊り子
*****
オルフォ教。
天上の「火が昇る泉」にて踊り続けるとされる女神オルフォを崇め、
かの地に至らんと修行を重ねる者たち。
同名の町を拠点としており、街の中心にあるオルフォ大神殿では
信徒たちが己を鍛えながら祈りを捧げ、
巫女たる踊り子たちが神の御許で舞を奉納している。
オルフォ僧兵は炎の魔術を扱う魔法戦士で構成されており、
炎を象った大鎚を得物とし、恐ろしく精強かつ容赦のない戦闘で知られる。
炎の魔術で赤熱化した大鎚を、鍛え上げられた強靭な身体能力で押し当てる
僧兵の戦いは畏怖をもって語られている。
僧兵はその戦い方から火傷とは無縁でいられないが、
彼らは火傷を女神から賜る勲章と信じており、一切恐れない。
その強さを体験しようと、
腕試しや修行のために大神殿を訪れる流離人は後を絶たないという。
*****
「申し訳ありません、信徒以外の者には修行を見せられません」
顔と手のひらに火傷の痕が残る屈強なオルフォ教の僧兵は、
慣れた様子できっぱりと拒絶した。
しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。
拒絶に負けじと、シルスは気合を入れなおす。
「では、試合は受けてもらえるのでしょうか?」
「申し訳ありません。戒律で私闘は禁じられております」
間髪入れぬ拒絶に、入れた気合はあっさりと何処かに飛んで行った。
「そうですか……」
流離人に稽古をつけてくれる武芸者は少ないとはいえ、
はるばる旅をしてきて無駄足になるのは気落ちがする。
「信徒となれば、修行を目にすることも叶いますが」
表情を変えずに言う僧兵。
恐らく、流離人に答える定型文のようなものなのだろう。
確かに、彼の言う通り形だけでも信徒となれば、
オルフォ僧兵の修行を見る事ができる。
だが、目を閉じて浮かんだ人達は、全て己の目標に真摯だったように思う。
あの殺人者ですら。
そして、彼らもオルフォという神を真摯に信じ、修行を重ねているのだろう。
「すみません、信徒にはなれません。
心から神の元へ至ろうとする貴方たちを侮辱する行為だと思いますから」
自然と言葉が出ていた。
流離人に言われてもそれこそ不快ではないかとも思ったが、
僧兵の気に障るようなことはないようだった。
軽く礼をして大神殿を後にしようとするシルスを、僧兵が呼び止める。
「オルフォ教からの仕事を受けてはもらえませんか?
明日街を出発し、我々僧兵と共に東に三日ほどのオルフォ・コーへ。
そこから、この街へ来る踊り子の護衛を依頼したいのですが」
突然の仕事依頼に驚きはしたが、すぐに仕事内容へと思考は移る。
騙してどうこう、という事はまずないだろう。
オルフォ教にそういう噂を聞いた事は無い。
報酬が相場より少なめとは聞くが。
僧兵と共に行くのなら、彼らの戦いを間近で見る機会があるかもしれない。
しかし、いくつか疑問がある。シルスは率直にぶつける事にした。
「僧兵がそのまま護衛しないのですか?
それに、明日出発なら数日前から流離人を雇えばよかったのでは?」
「踊り子の護衛は、戒律により信徒の助力が禁じられているのです。
出発の日時は、流離人が見つかり次第という予定でした」
筋は通っている。嘘をついているような様子もなく、
用意された言葉を喋っているわけでもなさそうだ。
「貴方の一存で俺に決めてもいいのですか?」
最後の疑問を口にすると、僧兵は意外と愛嬌のある笑顔で言った。
「明日、私が流離人を探しに行く所でしたので。手間が省けます」
***
僧兵十人、オルフォ教の信徒である子供達五人と共に
大神殿の街を出て、今日で二日目。
森に入る直前で野宿をし、日の出と共に森に入った。
あらためて、十人の僧兵たちを見る。
炎を象った大鎚を背に、鍛え上げられた屈強な戦士としての風格。
さらに炎の魔術すら操るという。それが十人。
この集団に向かってくる野盗など、自殺志願者以外の何者でもないだろう。
とはいえ、気は抜かずに周辺を観察しておく。
この道を一人で護衛しながら戻る事になる。
不意の襲撃を受けそうな場所は覚えておかなくてはならない。
「おじさん、森怖いの?」
きょろきょろしているシルスを怯えていると思ったのか、
男の子が話しかけてきた。
僧兵達は周囲を警戒こそしているが堂々と歩いており、
比較されてしまったらしい。
傍から見れば、威風堂々としている僧兵に対して
随分情けなく見えそうだなと自嘲し、彼の言葉を正直に肯定する事にした。
「ああ、森は怖いさ。君は平気かい?」
「僕は僧兵になるんだ。だから、怖いけど怖くない!」
本音が出てしまっているが、
それでも怖くないと言い張るのは彼の誇りと意地なのだろう。
男の子の瞳にきらきらと輝く決意、意志、可能性を信じる心。
「なら俺も、未来の僧兵に負けるわけにはいかないな」
警戒と観察は怠らないが、少しでも格好良く見えるよう堂々と歩く。
幼い輝きが、極みへの道を一瞬だけ
はっきりと見せてくれたような気がして、微笑んだ。
日が暮れる少し前、森を抜けた。
近くに旅の宿があり、後は一本道を行けばオルフォ・コーに着くという。
「我々は使命がありますので、ここに留まります。
この子たちをよろしくお願いします」
僧兵のうち八人とは、森の出口で別れた。
使命については説明されなかったが、
聞いても教えてはもらえなかっただろう。
宿での夕食は川魚だったが、僧兵と子供たちは目に見えるほど落胆していた。
「魚料理も悪い訳ではないのです。
しかし、この宿のトゲトゲ鳥の炙り肉は絶品でして……。
楽しみにしていたのですが」
落ち込んだ声を隠せていない僧兵が教えてくれたが、
トゲトゲ鳥とはこの辺りでのみ飼育されている美味な鳥だそうだ。
厨房の亭主に聞いてみた所、入荷は明日の夕方になるとの事。
楽しみにしていた僧兵と、それを聞かされていて
わくわくしていた子供たちの落胆は相当なものだった。
オルフォ教では娯楽が少なく、
食が最大の楽しみなので落胆もひとしおだと僧兵は嘆いていた。
厳しく自らを律し鍛え、女神の元へ至らんとする彼らも
やはり人の子なんだな、とシルスは何となく安心した。
そして、予定通りなら明日はこの宿に再度泊まる事になる。
心の中で鳥肉を食べ損ねた彼らに謝りつつ、美味い川魚を存分に味わった。
朝っぱらから元気な子供たちの騒ぐ声に叩き起こされ、
眠気を堪えて目的地へと向かう。
周辺は放牧場や農地であり、そこで働く人たちも時々見かける。
子供たちは初めて見るものに興味津々と言った様子で、
僧兵を質問攻めにしていた。
森では気を張っていた僧兵たちも、
優しい父親のように子供たちの相手をする。
この辺りで働く者たちはオルフォ教の信徒であり、
最低限の力は持っているので警戒する必要がない、と僧兵が教えてくれた。
オルフォの町は安全とされ、
野盗や無法者が寄り付かないといわれる所以がそれなのだと。
確かにそうなのだろうが、
流離人であるシルスはオルフォのもう一つの側面を知っている。
安全を求めてオルフォに庇護を求めてくる弱者を、彼らは無慈悲に追い返す。
共に己を鍛え高め合う者は暖かい火に迎え入れるが、
ただ守ってもらおうとするだけの怠惰な弱者には氷のように冷酷であると。
自分を厳しく律するがゆえ、他人にも己に厳しくあれと求めるのだ。
シルスの脳裏に奴の顔がちらつく。
残忍であったがゆえ、極みを求めるなら残忍であれと言外に説いたあの女が。
旅を続け、殺し続けた先には無い、強さだけを求めた先にも無いと知った。
ならば極みとは何なのか? それに至るために何をすればいい?
答えの見いだせない思考に没頭して歩き続ける。
昼前に目的地であるオルフォ・コーへと到着した事に気付いたのは、
没頭しすぎて入口の壁に頭をぶつけた時だった。
***
オルフォ・コーの修行場には、信徒しか入る事を許されていない。
子供達は僧兵に連れられ、修行場の中へと入っていく。
彼らの何人が僧兵に、踊り子になれるのか。
シルスには知りようもない事だが、五人全員がそうなれるよう祈った。
しばらく修行場の近くで待っていてほしいと言われ、
今は特にやる事もなく荷物を下ろし、地面に座って周囲を眺めている。
修行場は巨大な建物となっており、中をうかがうことはできそうにない。
周囲には小規模ながら村が作られており、いくつか店もある。
食堂らしき場所からはいい香りが流れてきて、
ふらふらと立ち上がりそうになってしまったほどだ。
「昼は食べたばかりなのに、腹が減ってくるな……」
「あの店の料理、とっても美味しいんだって」
独り言に返答され、驚いてのけぞりながら声のした右に振り向く。
シルスの右後ろにいつの間にか座っていた少女は、
人懐っこそうな笑顔を向けてくる。
見るからに幼さが見える顔立ち、恐らく年は十代前半。
薄手の服にはオルフォ教のホーリーシンボルが大きく描かれている。
「わたし、パシュナ! あなたは流離人だよね?」
聞いてもいないのに自己紹介してくる少女に困惑しつつ、
「流離人のシルスだ」
名乗られたからには返すのが礼儀と、簡潔に返答する。
パシュナはそれを聞きながら、
シルスの膝に乗るような位置に移動して座りなおし、口を開く。
「わたしね、流離人に会ったら聞いてみたい事があったの」
確実に始めて会ったはずなのだが、
距離感が近すぎて少女の顔を押し出したい衝動に駆られる。
実の妹ですら、ここまで馴れ馴れしくはなかったのだが。
仕方なく頷きながら体をずらして離れると、
パシュナも体をずらしてこちらに移動してきた。
「答えるから、もう少し離れ……」
「あなたはどうして流離いの旅をしているの?」
注意を遮って、人懐っこい笑顔のまま発された少女の無邪気な質問。
言葉にすれば一言。己が生まれた時から求め続けていたもの。
だが、とっさに口に出来なかった。
それが何なのかすら分かっていないもの。
それを口にしていいのか迷った。
無意識に動かした左手が、地面に下ろしていた槍に触れる。
竜に挑み続ける男が打った槍は、
日の光に照らされていただけではない熱を持っているように感じた。
本当にあるかなど分からなくても、誰に嘲笑されようとも、
道半ばで力尽きるのだとしても、この道を進み続けると誓ったはずだと。
「槍を極めるために」
はっきりと自分自身で口に出した言葉は、
決意となってシルスの心に染み込んだ。
そして、それを聞いた少女の笑顔が少しだけ変化する。
嬉しそうで、それでいて安心したような笑顔。
「……わたしと同じだね」
言葉の意味を考える間もなく、女性の声が思考を遮る。
「あなたが護衛依頼を受けてくれた流離人ですね? お待たせいたしました」
膝に乗っている少女をやんわりとどかせて立ち上がる。
女性はパシュナの服を少し豪華にしたような色違いを着ている。
彼女が正式な踊り子で、
この馴れ馴れしい少女は修行の途中なのだろうと考えた。
「オルフォ大神殿まで踊り子の護衛をすると聞いています。
出発は今日でしょうか?」
「はい、今から発てば日が暮れる前に宿に着くはずです」
修行場は見れず、特に面白いものがあるわけでもない村に
留まる意味もなかったので、出発が早いのは良い事だ。
女性は旅の荷物も持っている。すぐにでも出発できるだろう。
だが、女性はその荷物をパシュナに渡して瞳を潤ませた。
「大神殿でもあなたの踊りを貫きなさい。あなたならきっとオルフォ様に届くわ」
「はい!」
元気な返事をした少女はまるで踊るように歩き、
数歩進んでシルスの方に向き直った。
「シルスさーん、早く行こうよ! 日が暮れるまでに宿に着けないよー?」
困惑したシルスは女性とパシュナを交互に見つめる。
女性はきょとんとしていたが、
困惑する理由に思い至ったようでくすくすと笑う。
「あなたに護衛していただく踊り子は彼女、パシュナですよ」
稀代の才能を持ち、八年の修行を四年で終えたオルフォ教史上最年少の踊り子。
踊る為に生まれたとすら言われる神童。
少女の教官だという元踊り子の女性は、羨望と共にそれを教えてくれた。
***
少女と二人で、夕焼けに彩られた風景を楽しみながら宿への道を歩く。
彼女の性格や人懐っこさからして質問攻めや面白い話をする事は
覚悟していたのだが、意外にも一切の会話は無かった。
ずっと西を、恐らくはその先にあるオルフォ大神殿を見据え、
時折踊るような動作を交えて笑顔で歩いている。
ふと、こちらから話しかけた場合は答えてくれるのだろうかと疑問がわいた。
「夕日が綺麗だな」
「そうだけど、歩く方向にあると眩しいね」
独り言のような呟きだったが、パシュナはちゃんと返事をしてくれた。
歩みは止めずシルスの方に向き直り、言葉を待っている。
何らかの話をするきっかけだと思っているのだろう。
ちゃんと答えてくれるのか試した、とは言いにくい。
少し悩んだ末、この護衛依頼についての疑問を聞いてみる事にした。
「この仕事、信徒が護衛してはいけない理由があるのか?
戒律にしては妙だと思ってな」
正直に言えば、戒律だし知らない程度で流されると思っていた。
だが、パシュナは少し考えこんだ後、
「戒律でそう決まってるんだけど、わたしはそれだけじゃない気がするんだ。
ここで止めて逃げてもいいよっていうのと、
たとえ殺されてもこの道をいく覚悟はあるかって聞いてるんだと思う」
今まで見せた事のない真剣な顔で、シルスを見つめながら答えた。
彼女が考えた理由は、意志を試す試練。
その瞳に怖気だつほどの決意を見たような気がして、
気圧され足が止まってしまった。
「でも、わたしを攫おうなんて思わないでね? わたしは大神殿で踊りたい!」
真剣さはすっと消え、満面の笑顔でくるくると踊る少女。
踊りの良さなど分からない流離人の身だが、パシュナの踊りは美しかった。
「あれって、トゲトゲ鳥の宿じゃない? 先生がよく話してた!」
ようやく見えてきた見覚えのある宿を指差しつつ、
逆の手でシルスの手を掴んで引っ張るパシュナ。
やはり、この少女もトゲトゲ鳥が楽しみなのだろうと、
少し足を速めて宿へと向かった。
宿の部屋に荷物を下ろす。
本来4人部屋だが、客が少なかったらしく二人で使う事になった。
ほとんど疲れを見せないパシュナは、
毛布にくるまって横になりながらごろごろと床を転がっている。
修行場では八人の相部屋であり、
広い部屋を独り占めする事に憧れていたのだそうだ。
「遊んでないで、そろそろ飯にしよう。トゲトゲ鳥を食い損ねるぞ」
先ほどから炙り肉のいい匂いが漂ってくる。
どれだけの客が注文するかは知らないが、早いに越した事は無いだろう。
だが、毛布で自分を簀巻きにしていたパシュナは予想外の事を言った。
「わたしはヤバヤを食べるから、一人で食べてきて。水も貰ってあるし」
「ヤバヤ?」
聞いた事のない何かの名に困惑するシルス。
パシュナは蛇のようにうねうねと毛布を出て、
自身の荷物から包みを取り出し中身を見せてくれた。
濁った緑色のパンと形容すればいいだろうか。
それを一口大にちぎり、軽く咀嚼したのち
水を飲んで流し込むように食べるパシュナ。
「……俺にも一口くれないか?」
浅ましい願いにも思えたが、
炙り肉を諦めてまで食すそれが気になってしまうのは、人の性だろう。
パシュナは小さくヤバヤを千切り渡してくれたので、早速食べてみる。
「ンぐむっ!?」
口を中途半端に開けていたら間違いなく吐き出していた。
不味い。色々な不味い物も食べてきたが、
口に入れておく事さえ拒否したくなる代物は初めてだった。
一人なら確実に吐き出していたが、
心配そうに見つめるパシュナの前でそれは出来ず、
決死の覚悟を持って飲み込んだ。
「吐き出してもよかったのに」
ばつが悪そうに苦笑しつつ革袋を差し出すパシュナから
ひったくるように受け取ると、水を一気に口と喉に流し込む。
「……なんだ、これは……」
かすれた声しか出ないシルスに軽く謝ってから、
パシュナは謎の食べ物について説明してくれた。
ヤバヤは女神オルフォが授けたとされる栄養食であり、
踊り子の美と肉体を作るものだという。
実際に栄養価が非常に高く、
これさえ食べていれば他の食べ物を必要としないとまで言われている。
唯一の欠点はこの世のものと思えないほど不味い事。
踊り子は七日に一度、朝にヤバヤを食べる事が習慣なのだという。
食べたふりをする者も多いそうだが。
あのおぞましい味の食べ物……とすら言いたくない物体に
そんな効果があるのか疑問だったが、話にもう一つの疑問があった。
「何故それを今食べているんだ? 朝に食べるんじゃないのか?」
「わたし、四年間ヤバヤだけ食べてるから。三食全部ヤバヤと水だよ」
「こんなおぞましい物しか食べてないだって!?」
驚愕して、思った事をそのまま大声で口にしてしまった。
どう考えても失言だったが、パシュナは笑いだす。
「おぞましい物なんて言ったらオルフォ様に怒られるよー?
でも、とんでもなく不味いのは本当だし仕方ないか」
「美味い物を食べようとは思わないのか?」
「思わない」
即答するパシュナは、いつの間にか真剣な表情でシルスを見つめていた。
「だってわたしは、踊りを極めたい。
オルフォ様と同等に……ううん、それ以上のものが踊りたいの」
夕日に照らされた少女の瞳に見た、
怖気だつほどの決意の正体をはっきりと理解した。
信仰する神すらも超える踊りの極みに至る。
そして、気圧された理由も理解した。
この少女は極みに至るため、己の人生全てを踊りに捧げている。
踊る為に"生まれた"ではない、踊る為に"生きている"。
対して自分はどうだ?
槍を極めると誓いながら美味い物に心躍らせ、呑気に旅を楽しんでいる。
パシュナの人生全てを捧げた極みへの道に対して、
自分の極みへの道が薄っぺらい物に感じたからこそ怯んだ。
それが分かった時、いてもたってもいられなくなった。
「そのヤバヤ、余分があれば分けてもらえないか? もちろん代金は払う」
「七日分くらい持ってきてるし分けてもいいけど、何に使うの?」
妙な事を言い出したシルスに困惑するパシュナ。
シルスは自身の荷物から水を入れる革袋を取り出し、
決心を示すように床にどんと置いた。
「俺もこの護衛依頼の間、君と同じようにヤバヤしか食べない事にした」
その宣言を聞いたパシュナはよろよろと立ち上がり、
泣きそうな顔でシルスの肩をゆすった。
「ごめんなさい、ほんの悪戯のつもりだったの!
しっかりして、正気に戻って!?」
ヤバヤの不味さの所為でおかしくなったと思ったのか、
立てた指の本数を数えさせたりしてくる。
正気であることを証明するのに随分時間がかかり、
すっかり日が暮れてから二人でヤバヤを食べた。
シルスにとっては拷問のような時間だったが、
得意げに平然と食べ進めるパシュナに負けたくない一心で食べきった。
***
次の日の朝、森の入り口。
そこには森で別れた僧兵の一人が立っており、
二人を見るとすぐに視線を逸らした。
声をかけようとするパシュナを止める。
「"偶然" 俺達が通る日に森の見回りをする予定だったんだろう。
邪魔をしてはいけない」
パシュナは合点がいったようで、気の抜けた声を出しながら目を細めた。
戒律で信徒の助力は禁じられているが、
通り道である森を"偶然"今日見張る事まで禁じられているわけではない。
流離人ひとりに任せて踊り子に何かあっては困るので、当然の保険だろう。
「恥ずかしい事言っちゃったような気がする」
昨日の夕方に話した事を思い出し、手で顔を覆うパシュナ。
あの決意を恥ずかしいなどとは思いもしなかったし、
もし茶化す者がいたら殴りかかっていたかもしれない。
この子の決意が馬鹿にされるような物なら、遥かに劣る自分の決意は……。
首を振って無理矢理思考を打ち切り、正面からパシュナを見つめる。
よく見れば指は開いており、しっかりシルスを見ていた。
「よし、それじゃ確認するぞ。
森を抜けるまで勝手に横道にそれない、俺から離れない、
ちゃんと後ろからついてくる」
「お父さんが子供に言ってるみたい」
笑い出すパシュナの髪をくしゃくしゃにしてやる。
時々妹にやっては怒られたものだが、
口でこそ抗議しつつもパシュナは楽しそうに笑っていた。
警戒しながら森を進むが、
そこまで心配する必要は無かったかもしれない。
一定の距離ごとに僧兵がおり、
入り口の僧兵と同じように視線を逸らして見て見ぬふりをしていた。
いつの間にか横を歩いているパシュナはやはり西だけを見据え、
森で見るものに一切の興味を抱いていない。
ふと気配を感じて振り向くと、僧兵が一定の距離を保ってついてきていた。
それにつられてパシュナも振り返り、僧兵を見つけると大きく手を振る。
僧兵は両手で顔を隠し見なかった事にするらしく、
その様子がおかしくて二人で顔を見合わせて笑った。
その後は拍子抜けするほど何事もなく森を抜け、
男の子に情けない姿を見せた事を少しだけ悔やんだ。
日も暮れた夜。
数日前に僧兵や子供たちと野宿をした場所で、焚火が静かに燃える。
火の明りに照らされ、シルスとパシュナは毛布に突っ伏して悶絶していた。
手に持っているのは小さな枝に刺して焼いたヤバヤ。
「まさか余計に不味くなるなんてねえ……」
引きつった顔で焼きヤバヤを見つめるパシュナ。
「すまない……せめて調理すれば何とかなるかと……」
ヤバヤを調理してみようと言い出したのはシルスだった。
食べなくてはいけないのなら、
せめて少しでも美味しく食べようと考えたのだ。
野宿のうえ水以外の物が使えないので、
焼きヤバヤを試してみたがこの有様である。
焚火には小さな鍋がかけられ、ヤバヤスープが煮えている。
かつてない覚悟をもって器にすくったスープをパシュナに手渡し、飲む。
それを飲み込んだ瞬間、二人で革袋に直行して水をひたすら飲んだ。
「うん、酷い。もう、その……酷い」
いつも朗らかな少女が無表情で呟いた言葉に、一言一句同意する。
何故調理がされないのか疑問だったが、
火を通すと余計に不味くなるという単純な答だった。
「……これは責任をもって俺が処理するから、パシュナは普通のを食べてくれ」
笑顔を見せたつもりではあるが、
我ながら間違いなく引きつった顔をしていただろう。
目の前の少女は四年間これしか食べていない。
流離人がたった二日で音を上げていられるかという意地だけで腹に流し込む。
もがき苦しみながらスープと死闘をしていると、パシュナが声をかけてきた。
「どうしてこの旅の間ヤバヤしか食べないなんて言ったの?」
明日には旅も終わる。その前に疑問を解消したかったのだろう。
手に持つ器に視線を落とす。少し濁ったスープが微かに波打つ。
「パシュナの"極み"を少しでも知りたかった。
俺の極みへの道が、君と比べるのもおこがましいものに思えて。
旅を楽しみ、美味い物を楽しむ俺は、
槍を極める事を適当に考えているのではないかと……」
「そんな事ない」
きっぱりとした否定に顔を上げる。真剣な表情のパシュナと目が合った。
「あなたは一途に極みを探してる。
修行場で聞いた言葉はわたしと同じだって感じたから。
単にやり方が違うだけ、歩く道が違うだけで、優劣なんかあるわけない」
「だが、君は何もかもを捨てて極みに向かっている」
「何もかも捨てなくても進めるなら、持ったままでいい」
静かで、それでいて力強い少女の言葉。
表情をふっと和らげ、パシュナは手に持ったヤバヤを目の前にかざす。
「オルフォ教の歴史上、踊りを極めようとして
ヤバヤしか食べない踊り子は稀にいたの。
彼女たちの踊りは女神に匹敵するといわれた。
でも、みんな三十になる前に死んだそうだよ。
まず心が壊れていって、次に体が壊れて死んでいく。
踊りを楽しいと感じられなくなったら、
他に何の楽しみも無い生に人の心は耐えられない」
オルフォ教では食が数少ない娯楽であり、
楽しみであるとトゲトゲ鳥を食べ損ねた僧兵が言っていた。
たった二日で食事を拷問に感じたのに、
それを命の終わりまで続けるなど想像を絶する。
今すぐ止めろと言いたいが、
それは彼女の決意と意志の前では無意味でしかない言葉。
無言で歯を食いしばり自身を見つめるシルスの姿に、
パシュナは嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「止めないでいてくれると思ってた」
「君が、命尽きる以外の事で止まるものか」
「あなただってそうなんでしょ?」
目を閉じ、思い返すのは今までの事。
殺人者に道を曇らされ、黒竜には人が届くとは思えない強さを見せられた。
故郷に戻り安寧に過ごす事も、
友のように立身という形が見える目標を目指す事もできた。だが。
「俺は槍を極め"なければいけない"じゃない……極め"たい"んだ」
目を開く。
人生の全てを捧げてまで踊りを極めるために生きる少女が頷く。
「わたしはせっかちなの。
一瞬でも早く極みに辿り着きたいから、一直線に進む道を選んだだけ。
色んな事を試して、楽しみながら進んだっていいじゃない。
人それぞれなんだから」
祭りの槍舞をしたことを思い出した。
あの祭りは己が外道に堕ちる事と、諦める事を止めてくれた。
見えなくなっていた極みへの道しるべになってくれた。
黒竜の闘士は、道半ばで倒れても後悔はないと笑っていた。
自分ができる精一杯で生きたのなら、ただそれだけでいいと。
思い返せば、彼らの言葉もそうだった。自分でも奴に言った事だ。
それを一言で表したのが"人それぞれ"なのだろう。
ならば自分の道とは何か。今までの旅路が答えを自然に出した。
「俺の"極み"は……極みを求め、かつ人生を楽しむ事の先にこそあるもの。
成功も、失敗も、苦悩も、喜びも、出会いも、別れも、
全ての経験を糧として進んだ旅の先にあるもの」
"それ"はやはりまだ、姿もおぼろげで形すら分からない。
だが、パシュナのおかげで道だけははっきりと見えた。
それでいいんだと納得できた。
「ねえ、槍を使った踊りってあるの?」
祭りの槍舞を思い出し、頷く。
次にパシュナが言う事は何となく分かっていた。
「その踊り、見せてほしいな」
踊るために生まれ、踊るために生きている少女の前で、
たった七日学んだだけの槍舞をする。
そんな情けないものを晒したくはないと、今までならば言っていただろう。
だが今は違う、優劣など知ったことか。
師に教わった舞を技術の限りを尽くして舞うだけだ。
「この槍舞は山神に奉納するものなんだが、オルフォ教徒の前でいいのか?」
「オルフォ教はそこまで排他的じゃないから、別にいいんじゃないかな」
あっけらかんと言うパシュナの言葉は話半分に聞くべきだろうが、
今は二人きりなので問題も無いだろう。
槍を構え、槍舞を始める。
出し惜しみなどせず、最初から派手に技を出していく。
竜を討つために作られた槍で、
たった一人の信じる神が違う観客の前で槍舞をする。
先ほど言った道の通りに。
この瞬間も、きっと先に進むための糧になると信じて。
舞に合わせて、地面に座ったままのパシュナが小刻みに体を動かしている。
まるで共に踊っているかのよう。
その所作だけでも実力差が分かるが、卑下などしない。
後悔の無いように力を尽くしたい。
今自分ができる最高の槍舞を見せなければ、
この小さな旅を納得して終われない。
槍舞を終え、一礼する。槍を置くと同時にパシュナが立ち上がった。
「真っ直ぐ力強く進んでいくみたいな、わたしの大好きな踊りだ」
嬉しそうにそう言った直後、
パシュナの表情は触れれば斬れるような真剣さに満ちたものへと変わる。
「今から踊る"女神の昇る炎"って、
本当は信徒以外には見せちゃいけない踊りらしいから、
聞かれても見た事ないって言ってね?」
いたずらっ子のように言うと、稀代の踊り子は女神のためでなく
自分と、一人の流離人のために踊り始めた。
どんな美麗な語句を並べても言葉の方が負けてしまう、
踊りの極みにもっとも近しいもの。
華奢で可愛らしい少女の見せる、
彼女が大好きだと言った真っ直ぐで力強い踊り。
彼女の意志を示すような踊りを、生涯忘れる事は無いだろう。
あまりにも短く感じた踊りが終わる。
その時初めて、座る事すら忘れていた事に気が付いた。
「わたしは踊りを極めたい」
「俺は槍を極めたい」
パシュナの突然の宣言だったが、シルスも自然と返していた。
よく似た道を行く友に言いたかったし、聞いてほしかった。
「必ず辿り着こう」
パシュナとシルスは向かい合い、同じ言葉を重なるように口にして頷きあった。
自分の決意を示した言葉であり
進み方は違えど同じ道を往く相手への励ましと誓い。
二人の意志を表しているかのように、焚火は静かに、しかし赤々と燃えていた。
***
オルフォ大神殿前に到着した時、
パシュナは瞳をきらきらさせて人の目など気にせず踊りだした。
それは美しいとしか形容しようがなく、
一目でも見た者は足を止め、少女の踊りに魅入られた。
しかし、その踊りは準備運動のようなものだと分かる。
彼女の本気の踊りは、昨晩のものなのだろうから。
「お疲れさまでした、流離人よ。後は我々にお任せください。
踊り子パシュナ、あなたの部屋に案内します」
僧兵に連れられていこうとする時、
パシュナは僧兵と話して何かを貰いシルスの前にやってきた。
「どっちが欲しい?」
開いた手には二つのペンダント、オルフォ教のホーリーシンボル。
オルフォの信徒がつけている白と、見慣れぬ橙色の色違い。
白は信徒の証。
女神オルフォを信仰し、かの地に至らんと修行を重ねる者が身に着ける物。
橙色はオルフォ教に助力した者の証。
信徒でない者は火が昇る泉に浸かる事が出来ないが、
これを持つ者は足だけ浸かる事を許され、生前の疲れを癒すとされる物。
「白だったら、一緒にいられるね」
説明を終え、冗談めかして言うパシュナの手から
橙色のホーリーシンボルを受け取る。
パシュナは最初からシルスがそうするのを知っていたように、
満面の笑みを浮かべた。
「先に火が昇る泉で待ってるから、いつか会いに来てね」
本心を言えば早くに死んでほしくはないし、
流離人の身では彼女よりずっと早く野垂れ死にするかもしれない。
それを言ったところで意味はないと思い、言葉に出さず飲み込んだ。
代わりと言ってはなんだが、聞きたい事が一つあった。
「踊りを極めたら、ヤバヤ以外も食べるのか?」
「踊りに必要じゃなかったら、あんな不味いの二度と食べないよ」
女神からの授かり物をあんな不味いの呼ばわりするパシュナの返答に、
僧兵が咳払いをする。
怒ったりする様子がないのは、味を知っているからだろう。
「なら、俺は何があろうとトゲトゲ鳥は食べない」
いきなり脈絡のない事を言い出したシルスを見つめ、首をかしげるパシュナ。
その仕草に年相応のものを見て微笑ましく感じつつ続ける。
「踊りを極めた後で君が食べて、どんな味だったか泉で教えてくれ。
必ず会いに行く」
「うん、約束だよ! その時は、あなたの楽しかった事もいっぱい聞かせてね!」
ほぼ同時に手を差し出し、しっかりと握手を交わす。
抱き合ったりするような仲ではない。
自分達の別れにもっとも相応しいのはこれだと感じた。
手が離れると、パシュナは踊るように大神殿へと駆けだしていった。
振り返る事なく。
僧兵から報酬を受け取り、シルスも大神殿に背を向けて歩き出す。
火が昇る泉でまた会うのだから振り返る必要などない。
ペンダントを見つめ、ふと考える。
もし死した後に未練はないかと聞かれたなら、
パシュナは何と言うのだろうか。
そんな事より火が登る泉はどこですか、と
人懐っこい笑顔で聞くのではないかと思い、自然と笑みがこぼれた。
そして、自分もそうありたいと願いながらペンダントを身に着けた。
*****
稀代の才を持ち、若干十四歳で大神殿の踊り子となった
パシュナの踊りは見る者全てを魅了した。
あまりにも厳しく己を律し、
彼女の生は踊る為だけにあったとすらいわれている。
女神からの授かり物と水以外を口にせず、ひたすらに踊った。
その様は同じ踊り子たちからも尊敬を超え畏怖をもって語られ、
踊り子たちの間では触れ得ざる孤高の存在であったという。
彼女が編み出した踊りの技法は大神殿の踊りを更に女神に近づけたとされ、
いくつかの技法には彼女の名がそのままつけられている。
ある日、彼女は大神殿での踊りが終わった瞬間に
突如意識を失いその場に崩れ落ちた。
あらゆる癒しが意味を成さず、
全ての命を使い切ったように衰弱していく彼女はただ一言、
トゲトゲ鳥の炙り肉が食べたいと口にし、信徒たちを驚かせた。
急ぎ用意された炙り肉を一切れ食べると、
彼女は幸せそうな笑顔で二十六年の生涯を終えた。
踊るために生まれた踊り子は女神と共に踊り続けるため、
天上の火が昇る泉へと旅立った。
小さな約束は自分の胸だけに秘めたまま。