4.山神への槍舞
*****
神。
超越的な力を有する人格的存在とされ、
この世界には数多の神が存在しているという。
信仰の方法は人によって、地域によって違う。
神に全てを捧げる生き方もあれば、友人のような気軽さで接する生き方もある。
神に届くと信じて人は祈りを捧げるが、
それが本当に届いているのかを知る者はいない。
それでも人は神に祈る。
その神を信じていなくても、誰かが信じているならと祈る者もいる。
誰かが信じて祈っているのなら、
きっとそこに神がいて祈りを聞いているだろうから。
*****
無言で山道を歩く。
どうしても、景色を楽しむような気分にはなれなかった。
街道から少し外れた道を進むのは、
二日前立ち寄った宿場で聞いた話が気になったからだ。
ここから北にある山村に槍を極めた男がいる。
その槍は万人を魅了する舞のようだった、という噂。
それを聞いた瞬間、次の目的地は決まった。
その男ならば言ってくれるだろうか。極みの道は死の先になど無いと。
それとも、やはり屍の道を踏み越えて至った者なのだろうか。
微かな光明でもいい。見失った極みを、極みへと至る道を見せてほしかった。
宿場から三日歩き、山村が見えてくる。
村はしっかりした柵に覆われ、獣や野盗の侵入を拒んでいる。
村の入口では自警団であろう青年が槍を手に、退屈そうに欠伸をしていた。
「すみません、ここはゲウマの村でしょうか」
突然かけられた声に驚いたのか、青年は慌てて立ち上がり槍を脇に構える。
「あ、ああ、そうだ。この村に何の目的で?」
「俺は流離人のシルスといいます。
この村に槍を極めた男がいると聞き、稽古をつけてもらいに来ました」
シルスの言葉を聞き、青年は怪訝な顔をする。
「槍を極めた? この村で? そんなの聞いた事も無いけど」
隠しているという様子ではなく、
まったく知らない事を聞かれた時の困った表情。
所詮は噂。本体の数十倍はある尾ヒレがついたり、
誰かが作った嘘だという事の方がほとんどだ。
また外れかと落胆しつつも、もしかしたらがあるかもしれないと食い下がる。
「万人を魅了する舞のような槍を振るうという話を聞いたのですが……」
「そんな事言われてもな……うん? 舞に槍……?」
何かが気になった様子の青年を見て、少しだけ期待する。
大抵はすぐにまた落胆する事になるが。
青年は微妙な顔をしながら、村の奥を指差す。
「ここを真っ直ぐ行くと村の広場なんだけど、
多分そこにいる爺さんの事じゃないかな。
槍で舞と言われたらあの爺さんしか思いつかないよ」
「ありがとう、行ってみます」
青年に礼をし、村の広場へと向かう。
過度の期待は禁物だが、青年が知っているのだから
少なくともそういう人物はいるはず。
シルスの背に向けて、青年はでもなあ、うーん、などと
ぶつぶつ呟いていたが、聞こえないふりをした。
胡散臭い口先だけの極めし者でも構わない。
何でもいい、道しるべが欲しかった。
村の広場に近づくにつれ、
布をかけられた巨大な物が広場の中央に鎮座しているのが分かる。
遠目で見てもその大きさは、村の家々と比べて二倍近い。
そして、気になるのは広場から聞こえてくる大きな怒鳴り声だ。
誰かが言い争いをしているような声に耳を傾けながら、
少し早足で広場へと向かう。
そこでは、槍を持った老人を抱きかかえるように抑え込んでいる男がいた。
ざっと見た所、槍は過剰な装飾が施された儀礼品。
老人は右足に包帯と添え木のようなものを巻いていて、
恐らく足を骨折している。
「離せ! 儂以外にやるという奴はおらんじゃないか!」
「その足で出来るわけないだろう! いい加減にしてくれ、父さん!」
槍を振り回して怒鳴る老人を抑え込み、彼の息子らしい男が怒鳴り返す。
見なかった事にしてさっさと立ち去りたいが、
村の入り口で青年が教えてくれたのは十中八九あの老人だろう。
二人に話しかけようとした時、老人が振り回す槍に目がいった。
あれだけ暴れていながら、
押さえつけている息子や自分自身に槍が一度も当たっていない。
偶然にしては流麗な、見る者を魅了するような槍捌き。
それに気付いた時、自然と足が彼らの方に動いていた。
「すみません、貴方が槍を極めたというお方でしょうか!」
「何じゃ!? お前さん、流離人かね」
怒鳴り声に負けないようにと大声で話しかけた事に驚いたのか、
老人と男の動きが止まる。
また怒鳴り合いになられても困るので、口早に用件を伝える事にした。
「俺は流離人のシルスといいます。
槍を極めた武芸者がこの広場にいると聞いてきたのですが」
シルスの話を聞き、老人と男はきょろきょろと周りを見渡す。
そこに自分たちしかいない事を確かめると、顔を見合わせて首をひねった。
「そんな武芸者は聞いた事がないけれど……」
「舞のような槍を振るう老練の槍術士らしいのですが……」
男の否定に対し、シルスはじっと槍を持った老人の方を見る。
その言葉に何か引っかかるものがあったのか、
老人は納得したように何度も小さく頷いた。
「多分、それは儂の事だが……勘違いしておる。
儂は山の女神様に捧げる槍舞を極めたと自負しているが、
槍を使っての戦いなど二流がいいところだ」
「……つまり?」
「"舞のような槍"ではなくて、"槍を使った舞"という事だな」
人の口を伝わる内にひっくり返ってしまったのか、
噂の相変わらずな適当さに怒りすらわいてくる。
教えを乞おうかとも思ったが、武芸者でない老人に槍の極みとは何かなど、
聞いても困らせてしまうだけだ。
突然の失礼を詫びて立ち去ろうとすると、
老人はシルスの腕を掴み、にやりと笑った。
「見つかったぞ。神輿の上で舞う槍使いがな」
突拍子もない老人の言葉に、シルスと男は同時に驚きの声を上げた。
「いや、俺は武芸者であって舞などした事も無いが!?」
「今会ったばかりの流離人に、何させようとしてるんだ!?」
二人の抗議の声など聞く耳持たんと言わんばかりに、
老人は布をかけられた何か、恐らくは神輿を見つめる。
その目には悔しさと寂しさが宿っていて、それ以上声をかける事を躊躇わせた。
「流離人よ、少しだけこのジジイの話を黙って聞いてくれ」
先ほどまでの威勢が嘘のように、静かに老人は語り始める。
ゲウマ村では三年に一度、山の女神に豊穣を願う小さな祭りがあり、
そこでは神輿の上で槍舞を奉納するのがしきたりだった。
だが、神輿の上という不安定かつ高い足場で舞うために怪我人が多発し、
舞い手は老人以外いなくなった。
今年を最後に神輿の舞台は取り外され、
失敗しても怪我をしないように地面に置いた状態で舞う事になる。
武舞と祭りに心血を注いだ老人にとって、人生で最後の舞台。
それなのに、練習で神輿から落ち足の骨を折ってしまった。
もう自分では舞えないが、
祭りの主役たる神輿の上での槍舞はあってほしかった。
今年で最後なのだから。
「無茶を言っているのは承知の上だが、
槍を使う武芸者のお前さんしかできんのだ。
怪我をする可能性も当然ある、無理ならば断わってくれて構わん。
恨み言を言うつもりはない、女神様の思し召しとして潔く諦めよう」
深く頭を下げる老人に、男は困惑している。
先ほどまでの剣幕はどこへ行ったのかと。
シルスには、何となくだが老人の考えが分かる気がした。
槍術士が偶然小さな村を訪れる事などそうはない。
最後の機会、断られればそういう運命にあったのだと諦められる。
シルスもまた、槍の極みは屍の先にしかないと、
奴以外の誰かに言われれば諦められるだろうから。
諦めたくなかったから、老人にも諦めてほしくなかった。
「武舞の披露が何時なのか教えてください。それと、別に条件が二つ」
「祭りは八日後。それで、条件とは?」
否定の言葉でない事に、老人の目が期待に満ちる。
準備期間がたった七日という強行軍も気がかりではあるが、
そんな事より聞きたい事が一つだけ。
「俺は今、槍の極みに迷っています。
貴方が達したという極みで俺を導いてください」
「お前さんの迷いを晴らす一助程度にはなれるかもしれん、
舞の極みでよければいくらでも語ろう。条件のもう一つは?」
見失った旅の目的という問題とは別の、こちらも切実な問題だ。
「滞在費と寝床、そして報酬です」
少し情けなさそうに言うシルスを見て、
老人は怒鳴り声よりも大きな声で笑った。
「三食つけてやる、儂の家に泊まれ!
報酬は少ないが勘弁してくれ! 儂はジンバだ、よろしくな!」
「流離人のシルスです。よろしく、ジンバさん」
がっちりと握手を交わすシルスとジンバを、
彼の息子は困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情で見つめていた。
***
ジンバの家に着くと、
説明どころか碌に言葉も交わさぬうちに庭へと連れてこられる。
手渡されたのは彼が持っていた装飾槍。武舞で使う槍らしい。
「まずはお前さんの演武を見せてくれ。
この祭りに決まった型は無い、
舞い手がもっとも素晴らしいと思う槍舞をするんだ」
そう言ってジンバは縁側に腰かけたまま、誰かを呼んだ。
「おじいちゃん、なあに?」
やって来たのは十にも満たないであろう幼い女の子。呼び方からして孫娘か。
ジンバは孫娘に小さな木の実が入った袋を渡し、隣に座らせた。
それを見て、どうしても思い出してしまう。腕に巻かれた藍色布の思い出。
「その、ジンバさん。
武器を持った流離人の前に、小さな子を連れてくるのは……」
「この子が必要なんだ。それに、お前さんはそういう男でもなかろう」
シルスの言葉を否定してくれたのは有難かったが、
本音は前半のような気がした。
武舞のために、孫娘が必要だから呼んだ。
流離人の前に無防備な姿を晒させるとしても。
何であろうと極めし者とは、極みとは、やはりそういうものなのだろうか。
また暗い思考に陥りそうになったが、
孫娘のわくわくした顔を見て後回しにする事に決めた。
架空の相手と手合わせするように、何もない空間に向かって槍を振るう。
何合か槍を重ねるうちに存在しないはずの相手が、
あの槍捌きと共にくっきりと浮かんでくる。
槍を突き出す。奴は軽々と躱し、あまりにも鋭い突きを放ってくる。
どうしても勝ち手が浮かばない。
奴があの時見たのと同じ、勝ち誇った笑みを浮かべ……。
……木の実を食べる固い音で、現実に引き戻された。
孫娘はシルスに対する興味をすっかり無くし、
木の実を食べる事に集中している。
それを見たジンバは優しく孫娘の頭を撫でて、
シルスの方に向き直り呆れたように言った。
「お前さん、誰と殺し合っておるんだ」
その言葉にはっとして、どこまで奴に縛られているのかと気が沈む。
それと共に、ジンバが孫娘を連れてきた理由が分かった。
子供は正直だ。面白いものは他の事など目もくれず見続けるが、
つまらないものは冷酷なまでに見てくれない。
達人の域に達していれば違うのかもしれないが、
シルス程度の腕でただ槍を振るだけでは
彼女の興味を引く事はできなかったらしい。
困ってジンバを見ると、老人は痛みに顔を歪めながらも立ち上がり、
腕だけで軽く槍舞を舞った。
手に何も持っていないのに、
豪快かつ優美に振り回される槍が見えるような舞。
「思いつく限りド派手にやってみるといい。
誰かを殺す槍でも己を守る槍でもない、誰かに見せる槍だからな」
そう言うと、ゆっくりと座って孫娘の頭を撫で、
彼女の視線を再度シルスに向かせる。
槍舞は祭りの主役だと言っていた。
ならば、子供一人の視線も釘付けにできない舞など恥さらしでしかない。
「……はあッ!」
気合を入れ、いつもより大振りで槍を振る。
両手でくるくると槍を回し、軽く跳躍して大上段からの叩きつけ。
派手に、激しく、熱く。
装飾槍に込められた想いが熱となって、自身を動かしているような気さえした。
それからどれくらい舞ったろうか。
疲労で息を切らせながら槍を止め、小さな観客の方を見る。
孫娘は袋の入口を握ったまま、楽しそうにシルスを見ていた。
「いい槍舞だった! そのくらい、いやそれ以上に派手にやるといい!」
「その流離人のおじさん、お爺ちゃんの弟子なの?」
嬉しそうに頷くジンバに、孫娘が疑問に思った事を聞いてくる。
そういう関係に見えなくもないが、依頼主と雇われ人。
子供に教えるには難しい概念に、返答に困るジンバ。
「今年のお祭りの間だけ、ジンバ師匠に教えてもらっているんだ」
シルスがそう言ってやると孫娘はやっぱりと笑顔になり、
ジンバは孫娘に見えないよう、手で謝罪の形を作った。
そのまま、夕方まで槍舞を続けた。
孫娘の心は、夕飯の誘惑に負けるまでは掴んでいられた。
次の日、庭に一枚の木板が置かれていた。
板の表面はきれいに磨かれており、ささくれの一つすらも無い。
ジンバはやはり縁側に腰かけ、板についての説明を始めた。
「そいつは舞台と同じ大きさでな、そこから出ないように舞う必要がある。
靴も脱いでくれ、女神様の恵みを直に感じるという意味合いがあってな、
裸足で舞うのが決まりなんだ」
言われた通りに靴を脱ぎ、板の上に立つ。
先日のような動きはできそうにない狭さに加え、
でこぼこした地面に置かれている所為か安定も悪い。
試しに動いてみるが、どうしても小技頼みになってしまい、
派手とはとても言えない代物だ。
そして、きれいに磨かれた板は足を滑らせる。
練習では軽く地面に槍を突き立てでもすれば体を支えられるが、
本番は神輿の上でそうもいかない。
試しにと上段から大振りで振り下ろすと、
踏み込んだ足が土に触れてしまっていた。
「最初はそんなものだ。
一日でいきなり覚えられたら、儂の生涯は何だったのかと泣いてしまうよ」
そう言って、ジンバは丁寧に教えてくれる。
まず今日は板の大きさを覚える事。
どこまで動いていいのか、どんな行動ならはみ出さないのかを知る事。
何度も失敗しつつも、徐々に大きさを理解していく。
随分と不格好な槍舞だったろうが、ジンバは何も言わず、
ただ微笑んで悪戦苦闘するシルスを見つめていた。
三日目からは大きさに慣れつつ、
ジンバの指導を受けながら槍舞を組み立てる。
慣れてきたのか、指導が良いのか、
余程の大技でない限りは板からはみ出さずに出せるようになっていく。
四日目の昼時に、ある疑問が口をついた。
「山の女神様に捧げる舞ですし、
形だけでも信仰の意思を示した方がいいんでしょうか?」
「その時だけ適当に信仰をされても、女神様が困惑するだけだ。
別に信仰心など無くてもよかろう。
それにな、村の連中には言えんが儂もそこまで信じちゃおらん」
祭りと槍舞に人生を費やしてきた男の言葉とは思えない発言に、
驚きで変な声が出てしまう。
ではなぜ舞をとシルスが聞く前に、ジンバはゆっくりと腰を上げた。
「ちょっとだけ神輿を見に行こうか。背負ってくれると嬉しいんだがなあ」
練習時間を削ってまで見に行く意味はあるのかと、
一瞬だけ疑問に思ったがすぐに頭から振り払った。
今までの指導で分かる。ジンバは決して無意味な事をさせる師ではない。
ジンバを背負い、広場へと向かう。
その体は小柄な老人とは思えないほどに鍛え上げられ、重かった。
***
広場に到着すると、村人たちが祭りの準備をしていた。
見た事の無い様式の祭りなのだが、
故郷のものとどこか似ているような気がした。
「祭りの見物は後にして、神輿の方へ向かってくれ」
物珍しさで無意識にきょろきょろしていたらしく、
ジンバはシルスの両頬を押さえ、真っ直ぐ前を向かせてくる。
神輿に向かって歩いている途中、村人たちから声をかけられる。
ジンバの舞が見れない事を残念がる者、
流離人に舞が務まるのかと疑問をぶつける者、陽気に声援を送る者など様々。
神輿の前に着くと、ジンバはそこにいた男たちと軽く話し、
かけられていた布を外させた。
小さな村の村人たちが作った物だけあって技術そのものは拙く、
美術品としての価値は無いだろう。
だが、村の誇りと信仰、人々の想い、祭りの熱を
一身に浴びたであろう神輿の姿は、心に迫るものがあった。
「シルス、一度舞台に登ってみてくれ」
ジンバに言われ、彼を背から下ろし靴を脱いでいると、
一人の男が不機嫌そうな顔で話しかけてくる。
「余所者、しかも流離人なんぞを神輿に上げるのかよ」
「あの舞台は舞おうと思う者だけを乗せる」
そういう扱いには慣れているとはいえ対応に困っていた時、
ジンバが静かに言った。
最初に会った時の怒鳴り声とは真逆の静かな言葉。
それなのに、凄まじいまでの威圧感を放つ一喝に聞こえた。
「だからこいつが乗って、祭りで舞う。
舞台に上がろうという者は、もうこの村には儂以外いないだろう」
後継者不在のまま舞い続けた男のわずかな言葉で、
シルスに文句を言う者は誰もいなくなった。
靴を脱ぎ、備え付けられた木の梯子を上り、
神輿の頂上付近に備え付けられている舞台を踏む。
高さは大人の男を縦に並べて三から四人分と目測していたが、
上から見ると地面が遠く、それ以上の高さに見える。
地面から離れているからか、舞台は練習用の物よりずっと狭く感じた。
神輿の下では村人たちが準備の手を止め、シルスを見ている。
祭りの日には大いに食い、飲み、神輿の上の槍舞に喝采を送りつつ、
山の女神に豊穣を願い祈るのだろう。
槍は持っていないが、構えを取って軽く動いてみる。
村人たちよりも空に近い場所で、ただ一人自分だけが小さな舞台で舞う。
ジンバはこの場所で舞う事そのものを愛していたのだと感じた。
そこに信仰など入る余地はないのだと。
本番前の慣らしでもあったのだろうが、
それ以上に自身が愛したものを知ってほしかったのだろう。
動き終わってから少しの間だけ空を眺め、神輿を降りた。
「できそうか?」
「なんとか。ジンバさんのようにはいかないでしょうが」
シルスの返事を聞き、ジンバは満面の笑顔を見せた。
不機嫌そうな男は相変わらずの表情だったが、
目を背けながらシルスに話しかけてくる。
「ジンバ爺さんの言う通りだ、もう舞い手はあんたしかいないんだよな。
失敗するなよ」
言い方はやはり不満そうだが、
彼なりの励ましの言葉なのだろうと思う事にした。
靴を履き終え、ジンバを背負って帰路につく。
他の村人たちからも声をかけられたが、
不満や不安より励ましや期待の言葉の方が多くなっていた。
「……最後に舞いたかったのう」
周りに誰もいなくなった帰り道、背の老人が小さく呟いた思いは、
愛したものを看取れない寂しさに満ちていた。
***
練習の日々はあっという間に過ぎ、七日目の夕方。
神輿の上で舞う最後の練習を終え、
今はジンバと共に縁側に座り庭に置かれた板を見つめている。
「そうだ、条件として言っていただろう、
極みに迷っているとかどうとか。今話してくれんか?」
まだ祭りも終わっていないのにいいのかと迷ったが、
ジンバは頭を掻きながら笑う。
「儂の答えを聞いて納得しようが幻滅しようが、舞ってはくれるだろう?」
前払いにしてもいいくらいシルスの事を信用してくれているのは、
素直に嬉しかった。
「槍の極みへの道も目的も、見えないんです。
ある者が槍で語った極みが真理なのかと迷って」
左腕に巻かれた藍色布を軽く触り、シルスは話し出す。
武芸者の屍こそが己を極みへ導くと信じていた殺人者、
そいつに卑怯な手を使わなければ勝てなかった事。
ならば槍の極みとは、
殺人者が言った道にしか無いのではないかと迷っている事。
槍を極めたという男にその答えを聞きたくて、この村へとやって来た事。
庭を見つめながら話を聞き終えたジンバは、静かに言う。
「そいつの"極み"とやらはお前さんの"極み"と違った。それだけの話だろう」
「ですが、割り切れないんです。本当に違うのか」
「そんな事を言ったら、槍を使う儂の舞も武芸者を殺さんと極められんのか?」
言葉だけならば茶化しているようだが、ジンバの声色は真剣そのもの。
流離人をしていれば野盗の襲撃を受ける事も、
逆に野盗討伐の仕事を請ける事もある。
シルスの方が人を殺めた数は確実に多いだろうが、
ジンバの槍舞に勝てる気はしない。
「武芸を極めるなら誰かを殺さなければならんなどと、
その真理はそいつだけの物だ。
シルスにはシルスの真理があるし極みがある。
それがまだ分からないから迷うんだろう」
それ自体は奴との会話で、シルス自身が言った事だ。
だからこそ道しるべとなる何かを求めた。
ただ一言でいい。
一瞬でも道を照らし見せてくれる何かがあれば歩いていける。
ジンバは孫娘にしていたように、そっとシルスの頭を撫でた。
父や故郷の師範を思い出す、年月を経た男の手。
「少なくとも、お前さんの道は殺し続けた先になど無い。これだけは断言できる」
なぜ断言できるのかとジンバの方を向くと、老人は優しく微笑んでいた。
「儂が極みは死の先にしかないと言ったら槍を捨てていたような男に、
そんな道は似合わん」
心の中を見抜くような言葉に息を飲んだ。
たったあれだけの会話でそれを理解したのか。
恐らく、シルスとジンバの心境がどこか似ていたからだ。
「"極み"というものはそう簡単に見つかるものじゃない。
道も、それに至る真理も。
右も左も分からない地を、磁石の向きだけを頼りに進むようなものだ」
昔を思い出すように目を閉じるジンバ。
数十年のあいだ槍舞の極みを求め、
達したと自負するがゆえの、実感のこもった言葉。
「だからお前さんは、
迷いながらでも自分の磁石が向く方向にひたすら進めばいい。
まだ若いというのに、これしかないと諦めるのは早かろう」
それだけ言った後、自分でも何を言っているのかよく分からんとジンバは笑う。
道を照らしてくれるような言葉ではなかったかもしれない。
だが、ずっと心に持っていた方位磁石の事を思い出させてくれた。
道が分からなくても、方角が分かればどちらへ進んでいるのかは分かる。
シルスの磁石は屍の先を指してはいないし、目的地を見失ってなどいない。
それが分かっただけで、まだ歩き続けられる。
「ありがとうございます。この迷い、少し晴れました」
「明日は最高の舞を見せてくれ。こんな風に怪我などしないようにな」
そう言って包帯の巻かれた足を小突くジンバは、やはり優しく笑っていた。
***
祭りの日。村は朝から賑やかで、本番が始まる昼過ぎどころか
午前中に酔いつぶれる者までいるほどだ。
そんな文字通りのお祭り騒ぎの中、
シルスとジンバは神輿の裏で最後の準備をしていた。
舞い手が着る衣装に着替え、祭りの段取りを改めて覚える。
「ジンバさん、祭りは見なくてもいいんですか?」
「儂は数十年のあいだ舞の準備しかしてこなかったからな、
こっちの方が落ち着くのさ」
祭りの喧騒から離れた静けさは、心地よい緊張感をもたらしてくれる。
そうなって他愛のない話をどのくらいしていたかは分からないが、
徐々に喧騒がこちらに移ってきた。
前の方を確保しようと場所取りに来る村人たちが集まりだすと、
どんどん賑やかになってくるのが分かる。
その賑やかさが頂点に達した時、
二人の男が神輿の前で楽器を数回鳴らし、音を確かめる。
見た事の無い楽器で、荒々しく心に届くような音色。
「音に合わせるんじゃない、音を引き連れて我儘に舞うんだ」
ジンバが槍を手渡し、背を軽く押して出番の合図をする。
楽器ありの舞はぶっつけ本番だというのに、
気楽に言ってくれるものだと苦笑した。
梯子を上り、舞台の上に立つ。
騒がしかった喧騒が一瞬で消え、広場は静寂に包まれた。
ほぼ総出で広場にいる村人たちがよく見える。
その視線がシルスに注がれている事もはっきり分かるほどに。
楽器担当の男たちもシルスをじっと見ている。
音の出だしはこちらに任せてくれるらしい。
緊張は当然あるが、不思議と心は落ち着いている。
楽器担当に向けて頷き、槍を構える。力強い音色と共に、槍舞は始まった。
音を従えて舞う。ジンバの教え通りに、ド派手で、誰かに見せる槍を振るう。
激しく舞いながら、頭では別の事を考えていた。
祭りの主役でありながら信仰心はあまり無いと言った、
ジンバの気持ちが分かる気がしたからだ。
神輿での舞は山神への奉納というより、今までの成果を試すもの。
舞の極みへ至る道であり集大成となるべきもの。
そこには神であろうと入る余地はない。
誰かのためにではない、自分自身のために舞う。
極みもまた同じ。
誰かのためにではなく自分のために極める。それを思い出した。
槍を目の前で回転させ、わずかに跳躍して大上段からの振り下ろし、
即座に体を回転させて元の姿勢に戻る。
歓声を上げる者、ジンバと比較してか微妙な顔をする者、
槍舞が気に入らないのか不機嫌そうな者。
ここから見るだけでも人には色々な考え方があり、色々な生き様がある。
ならば、我儘に舞おう。
誰に迷惑をかけるわけでもないなら、どこまでも我儘に極みを求めていこう。
屍の道を行くのは嫌だ。俺は他の道を歩んで、極みに辿り着く。
決意を示すように渾身の突きで槍舞を終え、
槍を儀礼の通りに構え直し一礼する。
歓声と共に酒をあおる村人たちの声を聞きながら、
神輿を降りてジンバに槍を返す。
「見事だったぞ、最後に天で舞う山神の舞い手よ」
そう言って、ジンバは笑顔でシルスの手を握ってくる。
力強く握られた手は、少し痛いほどだった。
「さあ、後は夜まで祭りを楽しもうぞ! お前さんも今日は盛大に食い、飲め!」
その言葉に頷き、広場の方へと向かうシルスの背に、
しょんぼりした声がかけられる。
「おいおい、師匠を放っていくのか?」
慌ててジンバを背負うシルスの姿がおかしかったのか、
ジンバは大声を出して笑った。
空に近い場所での武舞がもう行われない事の寂しさを感じさせる、
少しだけ震えた声で。
***
祭りの翌日。
昨日飲みすぎた酒のせいで軽く頭痛がするが、出立の準備を整えた。
見送りのために縁側に座っているジンバは、
シルスの倍は酒を飲んでいたはずだが平然としている。
「ありがとう。お前さんがこの老いぼれの無理難題を
引き受けてくれたから、最高の祭りになったよ」
礼と共に小さな袋を手渡される。中には金貨が数枚入っていた。
「こちらこそ、ありがとうございました。貴方に会いに来てよかった」
「儂が少しでも迷いを晴らす事ができたのなら幸いだ」
槍の極みが何なのかはまだ分からないし、そこへ至る道もまだ暗闇の中。
しかし、向かうべき方角だけは分かる。ならばこれからも歩んでいける。
シルスにとっての槍の極みは、
奴のようにただ殺し続けた先になど無い事が分かった。
焦る事は無い。自分らしく、我儘に槍を極めてみようと思った。
「また会いたいが、それは叶うまい。
お前さんが槍の極みを見出す事を祈っておるよ、シルス」
「お元気で、師匠」
シルスは全身で、ジンバは上半身だけで武舞の最後にした一礼をして、
お互いに顔を見合わせて笑った。
手を振るジンバを背に歩き出す。
姿が見えなくなるまで、ジンバは手を振り続けていた。
頭痛が気にならないほどに、今の気持ちは迷いこそあれど晴れやかだ。
あの時に神輿の上から見たような快晴の空を見つめ、
この村と師に巡り合わせてくれた事を山の女神に感謝した。
そして、山の女神が空にいるはずが無いと思い至り、独りで笑った。
*****
ゲウマ村で行われる祭りは山の女神に豊穣を願うものであり、
かつては神輿の上で槍舞が行われていたという。
しかし危険性の高さから舞い手が年々減少し続け、
槍舞を極めたという老人一人だけとなってしまっていた。
その老人がある流離人を雇って舞わせたという日を最後に、
舞台は神輿から下ろされた。
落胆するかと思われた老人は意欲に燃え、
舞を極めたとさえいわれた己の技術を惜しげも無く伝え
幾人もの舞い手を育て上げる。
後継者たちはよく学び、よく競い合い、高め合い、槍舞を後世まで伝えた。
老人の名は伝わってはいないが、
彼の槍舞は何度も建て替えられた神輿と共に、村人たちの心に在り続けた。
山に豊穣をもたらすとされる、名も無き女神の存在と共に。