表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流離い槍術士、槍を極める  作者: 白さわら
3/8

3.仇討ち

 *****




 稽古場。

 武術の師範が弟子たちに稽古をつける場所で、

 この世界においては村にある事も多い。


 彼らは自警団を兼ねている事が大半であり、

 武芸者は生活の基盤を確保でき、村人は自衛の武力を保有できるからだ。


 稽古の内容は楽しく体を動かす体操のようなものもあれば、

 殺し合いと紙一重の苛烈なものまで、師範の数だけ存在すると言っていい。

 それに優劣があるはずがなく、師範の数だけ正解があるのが稽古であり、

 弟子たちは自分が望む稽古をしてくれる師範の下で学ぶ。


 だが、己の正解を押し付ける者は当然のように現れる。

 それが友好的で理性的な議論であれば問題にはならないが、

 稽古場で学ぶのは武術、敵を倒すために磨き上げられたもの。

 敵を倒すための技は、百の言葉より雄弁に

 己の正しさを証明した気にさせてしまう。


 稽古場では血が流れる事も珍しくない。

 理性を捨て、自分こそが正しいと喚き散らす者がいる限り。




 *****




 先端を布で丸く覆い槍頭の代わりとした、練習用の木槍を構えるシルス。

 相対するは、藍色の布を左腕に巻いたこの稽古場の師範。


 一気に踏み込み、上段を狙った突きで仕掛けた。

 師範は槍を素早く回して受け流しシルスの攻めを牽制する。

 先ほどより間合いが近づいた。お互いにゆっくりと動き、隙をうかがう。

 更に攻め立てる。槍頭を強く弾き、

 防御を解いた所へ上段からの石突を打ち込むが、

 柄でしっかりと受け止められた。

 続けての振り下ろし。これも柄で止められたが、

 浅くかする程度に振った予備動作も兼ねた一撃、本命は次だ。

 師範の槍は上段に構えられている、一気に踏み込んで胴へ渾身の突きを放つ。

 しかし、槍は空を切る。師範が体を逸らし、紙一重で躱した。

 無防備な腹に、軽く打ち込まれる木槍。


「……参りました!」


 構えを解き、師範に礼をするシルス。


「ちょっとだけ、攻めを焦り過ぎたね」


 穏やかに指摘してくれる師範。

 もっとも、彼が厳しくした所や怒った所を見た事は無い。


「最後のは惜しかったなあ、ついに師範が一本取られるかと思ったよ!」

「でも、師範が負ける所はあんまり見たくないな」

「違いねえ!」


 周りで見ていた十数人の弟子たちがシルスと師範を取り囲み、

 尊敬する師範に勝てぬまでも善戦した健闘を称えてくれる。


 この稽古場では厳しい鍛錬などはせず、

 楽しみながら強くなる事に重点が置かれていた。

 そのためか稽古場の雰囲気は和やかであり、

 怒声が飛ぶような事は一切無かった。

 弟子たちには流離人という事で最初こそ不信の目で見られはしたが、

 今ではそんな事もなく気さくに話しかけてくる。


「あの一撃は入ったと思ったんだけどなぁ」


 シルスに負けじと稽古に熱を入れる弟子たちを見ながら

 悔しさの溜息をもらすと、


「明日にでも一本取られるかもしれないね」


 師範がシルスの左腕に巻かれた藍色の布に手を置き、そう言って優しく笑った。




 闘技大会に出場していた師範に頼み込み、

 今は村の稽古場で弟子として稽古をつけてもらっている。

 弟子たちの提案で宣伝のために出場したらしいが、

 弟子志願は結局シルス一人であり、弟子たちは一様にがっかりしていた。


 今日で四十日くらいだったろうか。

 一本でも勝てたなら免許皆伝を授けてもらえるが、三本勝負の全てで負けた。


 このような短い期間での皆伝は、

 別にシルスが天賦の才を持っていたからではない。

 流派が同じなのか、シルスが村で学んだ槍と

 そっくりと言っていいほどよく似ていたからだ。

 師範が独自に改良したという部分を修めるのに、そう時間はかからなかった。


「君の村にいたのはもしかしたら、私の兄弟弟子だったのかもしれない」


 そう言って修行時代を懐かしむように遠くを見つめる師範の姿に、

 故郷を思い出したりもした。

 故郷の稽古場もどちらかといえば和やかで、

 下らない事で笑い合いながら腕を磨きあったものだ。

 そして、稽古場に集う者たちのもう一つの顔もまた、故郷と同じだった。




「ありがとうございました!」


 太陽が高く上がった昼頃、早朝から続いた稽古は師範への礼で終わる。

 足早に帰っていく弟子たち。

 昼飯を食べたらすぐに稽古場に戻ってくるのだが。


 師範と弟子たちは、この村の自警団も兼ねている。

 腕っぷしが強く、自警団という村を守る役目に誇りを持ち、

 師範と共によき守り手といっていい者たち。

 村人たちは彼らを褒める事は大っぴらにするが、貶す事はまずしない。


 シルスは彼らと違い、住み込みで働いている雑貨屋へのんびりと戻る。

 背に槍を持たず、手ぶらで田舎村を歩く。

 旅立ちの日に捨てた、穏やかな幸せの中にいた頃を思い出しながら。



 ***



「お父さん、これ食べていい?」

「それは売り物だから駄目だよ、置きなさい」


 荷台に乗せた店主と息子の会話を聞きつつ、雑貨が積まれた荷車を引く。

 今年で七つになるという息子は、

 町から取り寄せた果物の砂糖漬けに興味津々で、

 瓶を開けようとして店主に止められている。


 稽古は慈善事業ではないので当然タダではない。

 授業料を取るからこそ師範は暮らしていける。

 路銀が心許ないシルスとしては

 この村で何かしらの仕事をするつもりだったが、

 雑貨屋に紹介してくれたのが師範だ。


 三十日ほど前に店主が足の骨を折ってしまい、

 周辺の人々が手伝ってこそいたが、手が回らない状態だった。

 流離人を幼い子供がいる雑貨屋に住み込みで働かせる事に、

 店主と妻は当たり前だが難色を示した。

 しかし、師範が言うならと承諾してくれた。


 槍や短剣などの武器になりうるものは師範に預け、実直に働く事しばらく。

 警戒は徐々に解けていき、今では彼ら家族と一緒に食卓を囲んでいる。

 寝泊まりしている小さな物置に置かれた荷物は

 すっかり部屋の一部となって隠れてしまい、昨日は苦労して探したものだ。


「師範から聞いたけど、一本取ったら免許皆伝なんだって?」

「まだまだ遠いだろうけどね」


 店主への返事は率直な本心だった。

 これは決まった、と自画自賛した一撃をあっさり躱されたのだから。


「長く世話になるわけにもいかないし、今日こそは一本取りたかったんだけど」


 店主の足もかなり良くなっており、荷台の揺れでも痛みはほぼ無いらしい。

 必要が無いのにいるタダ飯食らいになってしまう事になり、気が引けた。


「シルス、行っちゃうの?」


 寂しそうにこちらを見つめる店主の息子。

 父親が怪我で遊んでくれなかった分なのか、

 元気で好奇心旺盛な少年に遊び相手としてずいぶん振り回されたものだ。

 そのおかげかは分からないが、

 今ではすっかり仲良くなり、シルスの槍稽古を隣で真似していたりする。


「こんなに働いてくれるのに授業料と食費だけでいいんだ、

 もっと居てくれてもいいよ」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、目的があるから」


 陽気に笑う店主に答えつつ、荷車を引く手に力を込めた。

 槍を極める。その目的だけは忘れたくても忘れられないもの。


 まだ誰にも言っていないが、

 師範から一本を取れなくても、五日後にはこの村を去ろうと決めている。

 穏やかな幸せの中に居続けるのなら、

 最初から妹の願い通り故郷に骨を埋めればよかったのだから。


 それに、苦境に身を置いていると

 己の槍が研ぎ澄まされていくような気がしていたというのもある。


「おっと、ちょっと止まってくれ。

 シルスも疲れているだろうし、果物でも食べながら休憩しよう」


 青果店の横で荷車を止めると、息子が軽快に荷台を降りて果物を選び始める。

 きょろきょろしながら悩む少年の姿に、

 しばらく時間がかかりそうだなと笑いつつ酷使した腕を伸ばす。


 通りにはちらほらと人が歩いているのみで、

 田舎村の人通りとしては少し多いくらいだろうか。

 その中に見知った顔を見つけた。その腕には藍色の布。

 弟子の一人が、ぐったりしながら泣き続けている男を背負って歩いている。


 男が泣きながら繰り返している言葉によると、

 子供の頃から好きだった女性に告白しようか

 十年間迷っていたら他の男とくっついていた、らしい。

 十年も言わずにいたら当然だろうとシルスとしては考えるが、

 弟子は男を優しくなだめ、きっといい人が現れると励ます。

 村人の些細な揉め事にも真摯に対応してくれる、

 だからこそ彼ら自警団は好かれているのだろう。


 久しぶりに村の自警団をやってもよかったのだが、それは無理だった。

 流離人に自警団などさせるわけがない。

 山賊に宝物の見張りをさせる商人がいないのと同じだ。


 もう慣れたとはいえ、少しだけ寂しさを覚えながら青果店に目を向けた時。

 総毛立つような、凄まじいまでの殺気を感じた。

 どこから、誰がこんな殺気を向けてきたのか分からない。

 果物を買ってきた店主の息子を庇うように立ち、周囲を見回す。


「ど、どうしたの?」

「静かに。声を出さず、じっとしているんだ……!」


 シルスの様子にただならぬものを感じ取ったのか、

 店主と息子は頷きすらもせずに指示に従う。


 男を運んでいる弟子を見てみる。

 平然と話しながら歩いていて、殺気に気付いていないようだ。

 村人や旅人たちも気付いておらず、

 何事も無いような普通の日常にしか見えない。

 気のせいだと思いたいが、未だに殺気が消えない。


 警戒を解かずに見回していると、

 通りの向かいにある家の陰から出てきた人物と目が合った。

 その時、理解する。こいつが殺気を撒いているのだと。


 古びて汚れた旅装束、背には槍。恐らくは流離人の武芸者。

 そいつはシルスが自分を見ている事に気付くと、

 餌を前にした獣のように獰猛な笑みを浮かべる。

 その瞬間、シルスは自身のうかつさを呪った。

 殺気は罠。

 それに気付き、殺気の元である己を見つけられる者を探す撒き餌だった。


 周辺に撒かれていた殺気が、シルスにだけ集中する。槍に手がかかる。

 昼間という時間帯、しかも少ないとはいえ村人がいる場で仕掛けてくるなど、

 無法者であっても正気の沙汰ではない。

 だが、狂気じみた笑みがそれをやると言っている。

 今にもこちらに向かって突っ込んできそうだ。


 槍は持っていないし、短剣など武器になりうるものは全て師範の家にある。

 周辺にある武器になる物をざっと探してみたが、

 短い棒切れが荷台に転がっていた以外は何もない。

 緊張で冷や汗が流れるが視線は外せない。

 棒切れを掴み最低限の動きで構えるが、短剣と見紛うような短さだった。


 悲壮な決意でシルスが棒切れを構えた時、殺気が急激に消えていく。

 流離人はつまらなそうな顔をしつつ、

 シルスと歩いていく弟子を交互に見て、何か分かったかのように頷いた。

 そして、ひらひらと馬鹿にしたように手を振ると、

 家の陰へと消えるように去っていく。

 体から一気に力が抜け、その場にへたり込むのを辛うじて耐える。

 大きく息をついて、精神を落ち着かせた。


「シルス、どうしたんだ!? 一体何が!?」

「……早めに帰った方がいいかもしれない。村に、危険な奴がうろついている」


 突然の事に戸惑う店主にそれだけを言い、荷車を引いて動かし始める。

 何か不穏なものを感じ取ったのか、シルスを信じてくれているからなのか。

 店主は小さく頷くと息子を抱きかかえて、

 店に帰りつくまで荷台に座ったまま動こうとはしなかった。




 すっかり日も暮れ、ランプの明りだけが雑貨屋の一室を照らす。

 部屋には店主とシルスの二人だけで、

 店主の妻と息子は奥の部屋で眠っている。

 寝室へ直接入るには壁を破壊するか、格子が備え付けられた窓を通るしかなく、

 雑貨屋で一番安全な部屋だといえる。

 店主の手にしたコップには酒が注がれてこそいるが、

 ほとんど手を付けられておらず水面が細かく波打つのみ。


 窓から外をうかがいつつ、昼間の流離人について考えるシルス。

 店主たちと己の身を守るためにも寄り道を一切せずに雑貨屋に帰り、

 夜まで警戒を続けたが杞憂だったかもしれない。


 目に付く人を殺していくような殺人狂ではなく、明確に標的を決めていた。

 標的を自分に定めた理由は、恐らく殺気に気が付いたから。

 気が付かなかった人には一切関心が無かったように思う。


 この時点で店主たちに危害が及ぶ事はほぼ無いと言っていいだろうが、

 今は万が一を考えて窓から店の入口を見張っている。

 強者との稽古や試合を求めてきた武芸者とも違う。

 殺気をぶつけて敵対心を煽る必要など無いし、得も無い。

 それなのに、奴は殺気に気が付いたシルスを見て笑ったのだ。


 目的が分からず、思考が堂々巡りを繰り返す。

 自分の頭の弱さに悲しくなりつつ、夜が明けたら師範に相談しようかと考えた。

 師範と、稽古場の仲間である弟子たちの藍色布。流派を示す証と呼ぶべきもの。

 それを見て頷いた姿を思い出し、

 初めて頭の中で目的が繋がったような気がした。


 深読みしすぎ、倫理観に囚われ過ぎていた。

 あいつの目的は、もっと単純な事ではないのか。

 すなわち、"強者を真剣勝負で殺す"。


 噂だけは聞いた事がある。

 強者との命の奪い合いこそが武の高みへと至る道だと信じる殺人者たち。

 棒切れしか持たないシルスを見逃した事も納得がいく。

 勝負に値しない弱者でしかなかったからだ。


 奴の目に雑貨を乗せた荷車を引く自分と、

 失恋男を背負った弟子がどう見えたかを考えてみる。

 同じ藍色布を腕に巻いた武芸者。

 同じ師を持つ弟子と考えるのがもっとも自然だろう。

 こいつは勝負に値しなくても、その師ならばどうかと思うのではないか?

 試合なら師範がそう簡単に負けるとは思わないが、

 どちらかが死ぬまで終わらない殺し合いなら?


 そこに思い至り、すぐにでも師範の家へ向かわねばならないと思った矢先、

 誰かが雑貨屋に走ってくる。

 一瞬だけ緊張したが、すぐに警戒を解く。

 見るからに疲労でふらふら、今にも倒れそうな走りだったからだ。

 入口の扉が乱暴に叩かれる。

 店主が驚いてコップを取り落とし、酒を床にぶちまけた。


「大丈夫、昼に話した危険な奴じゃない。俺が出るよ」


 シルスが扉を開けると、そこには肩で息をしながらへたり込む青年がいた。

 左腕には藍色の布。

 その様子から、彼が何を伝えに来たのか分かってしまった。


「シルス……師範が、師範が……殺された……!」



 ***



 夜の稽古場。弟子たちの持つ松明に照らされ、師範の体は横たわっていた。

 細かい傷はあるが、致命傷となったであろう傷は

 腹と喉を抉られたような凄惨なもの。

 なぜ致命傷が二つもあるのかと違和感を抱きつつ、周囲の弟子たちを見る。

 悲しみ涙を流す者、怒りと憎しみの形相を隠そうともしない者、

 うなだれ気力を失ったかのように呆然とたたずむ者。


「一体何があったんだ、誰か詳しく知っているなら教えてくれ」


 死は見慣れているし、最悪の予想とはいえ

 こうなる事も考えていたシルスが務めて冷静に聞く。

 すると、左腕に血の滲んだ包帯を巻いた年若い弟子の少年が、

 泣きながらぽつぽつと話してくれた。




 日が沈みかけた夕暮れ時、少年は師範と共に村の見回りをしていたのだが、

 そこに流離人が立ち塞がった。

 何か用だろうかと声をかけようとしたら、

 険しい表情をした師範に止められたという。


 そいつは槍を構えて自分と戦うように師範に迫ったが、師範はそれを拒否した。

 私の槍は無意味な殺し合いのために振るわれるものではない、と言って。

 師範が言い終わった途端、流離人は一気に踏み込んで少年の腕を斬りつけた。

 突然の暴挙に師範も槍を手に取りざまの一撃を放つが、

 流離人は悠々と間合いを取って避ける。

 裂かれた藍色布が血で染まる。

 わざと藍色布を、流派の証を狙ったのだと少年にも分かった。


 これで意味ができたろう、と流離人は獰猛な笑顔を見せる。

 お前が戦わないなら弟子を殺すと言外に告げながら。

 激怒の雄叫びを上げて槍を振るう師範。

 そんな姿を見たのは初めてだったと少年は語る。


 だが、怒りが師範の動きを単調にさせたのか、流離人が師範より強かったのか。

 師範が細かく傷を負っていくのと対照的に、

 そいつに槍が当たる事はついに無かった。

 踏み込んだ胴への一撃を紙一重で躱され、師範の腹を抉るように貫く槍。

 それはまるで朝に行われたシルスと師範の試合、その最後の攻防の再現だった。


 血を吐きながら仰向けに倒れこむ師範。

 その喉に、勝ち誇るようにして流離人の槍が突き立てられた。

 少年は腰を抜かし、恐怖で声すら出なかったという。

 その様を嘲笑うかのように、流離人は師範の腕に巻かれた藍色布を奪い、

 少年に見せつけながらこう言った。


 これを返してほしかったら森の近くにある小屋に来い、

 明日の夕方まで待ってやる、と……。




「僕……僕は、見ているだけで、何も……!」


 少年の言葉は、嗚咽でそれ以上聞き取れなかった。

 彼が向かっていかなくてよかったと心から思う。

 もしそうしていたら、彼の命まで奪われていただろう。


「許さねえ……森の小屋だったな、オレがブッ殺してやる!」

「待て! 師範が勝てなかった相手だぞ!? 無駄に命を落とすだけだ!」

「だったらどうしろってんだ! 師範の仇を放っておけとでもいうのかよ!?」

「そんな事は言ってない!」


 弟子たちのまとめ役をしていた二人の激しい口論を聞きながら、

 なぜ奴がそんな事を言ったのか考える。


 まるで報復に来いといわんばかりに居場所を明かし、少年を殺めず逃がした。

 いや、推察した目的が合っているなら意図的に、報復に来いと言っている。

 確証こそないがシルスを名指しして。


 奴はシルスが殺気に気が付き、藍色布を巻いていたのを見ている。

 師が殺されたら仇討ちに来るだろうと。

 時間を区切ったのは"おまけ"でしかないからだろう。

 師より弱い弟子など、戦えなくても別にいいという事か。


 もし仇討ちに行けば、間違いなく命を落とす。

 相手はあの師範が槍をかすらせる事さえできなかった強者だ。

 数段劣る自分の槍で勝てるとは思えない。

 だが、恐らくは見て見ぬ振りもできないだろう。


 口論を聞く限り、どちらも仇を討ちたいという意見は一致している。

 誰が挑めばもっとも勝率が高いか、

 例え死しても流派と自警団の名誉がこれ以上汚れない者は誰か。

 それを考えれば。


 気付けば口論は止み、弟子たち全員の視線がシルスに集中する。

 もっとも命を懸けた戦いに慣れており、自警団でも村人でもなく、

 死んでも一晩悲しめば済む流離人に。

 打算ではなく、無意識に理由をつけていった結果がそうなっただけだろう。


「シルス、頼む……師範の仇を、討ってくれないか……」


 逃げようと思えば逃げられる。

 仇討ちを引き受け、小屋に行くふりをしてさっさと逃げてしまえばいいだけだ。

 だが、師範の仇を討ちたいという気持ちも確かにある。

 同じ流離人の武芸者として、

 このような非道を許せず、見過ごす事もできないという思いも。

 とはいえ、まともに戦えば奇跡でも起こらない限り殺されて終わるだろう。


 弟子たちと共に数の力で何とかする方法もあるが、

 一体何人の死傷者が出るだろうか。

 そもそも十数人に囲まれたなら突破して逃げるだろうし、

 それだけの力を持っていると考えた方がいい相手だ。

 一人では勝てず、数を頼みにはできない。


 ならば、卑怯と罵られようと策を使う。

 恩師を貶めて殺した相手を見逃せるほど無感情ではない。


「分かった。だが、俺一人では無理だ。皆の協力がいる」

「何をすりゃあいいんだ? 師範の仇を討てるなら何だってやってやる!」


 口論で仇を討つと息巻いていた方の弟子が、

 背の槍を手に取り石突を地面に突き立てる。

 冷静に、冷酷とさえいえる声で言う。


「明日の夕方までに用意してほしい物がいくつか。

 それと、一番重要な事がある。

 俺と一緒に、武芸者の誇りを捨ててくれ。

 そうしなければ師範の仇を討つ事はできない」


 策の内容を詳しく説明する。

 卑怯ともいえる策に戸惑う者もいたが、最終的に全員が頷いた。


 師範の遺体を家へ運ぶシルスと一人の弟子を除いて、

 村へと足早に散っていく。

 もう動く事の無い、穏やかでいつも優しかった師範に心の中で謝る。

 自分の力が足りないばかりに、

 貴方が教えてくれた誇りを捨てさせる事になってしまったと。



 ***



 簡素な地図を見ながら、奴がいるという森の小屋へと辿り着いた。

 時刻は夕方、日が沈みかけ辺りが暗闇に染まりかける頃。

 小屋の窓からは薄明かりが見える。いや、まだここにいるぞと見せている。


 背の槍、腰につけなおした短剣。そして左腕に巻いた布。

 改めて全てを確認し終え、小屋の扉の前に立つ。


 こちらが歩いてくる音は確実に聞こえている、

 奇襲はされる事はあっても仕掛ける事は不可能。

 扉を開けて中に入った途端に槍が飛んでくる可能性がないわけではないが、

 奴の目的を考えればその心配はいらないとも思う。


「そんなボロい扉に罠なんか仕掛けようがない、怯えてないで入ってきな」


 中からどこか楽しそうな声で呼ばれる。

 意を決して扉を開く。

 確かにぼろぼろで、軽く体当たりでもすれば壊れて外れてしまいそうだ。


 ランタンは扉のそばに置いておく。淡い明りに照らされながら中へと入る。

 森を仕事場とする者たちの休憩所なのか、

 最低限の物しか置いていない小さな小屋だった。

 扉を閉めると、薄暗い屋内から再度声がした。


「来ないかと思ってたよ、待たせやがって」


 窓枠に置かれたランタンに照らされながら、

 床に座っていたそいつは水袋に口をつけて中身を飲み干す。

 槍は手元に置かれていて、仕掛ければ即座に反応してくるだろう。

 その姿と声に違和感があったが、近くで見てようやく分かった。


「お前、女か」

「今ごろ気付いたのかい、見る目の無い奴め」


 やれやれといった感じで肩をすくめ、不敵な笑みを崩さない女。


 女武芸者は数こそ少ないが時々見かける。

 だが、女の流離人は非常に珍しい存在だ。

 男でも一年間流離人を続けられる者は二割といわれているが、

 女の場合は更に少なくなる。


 あらゆる権利を持たない、野垂れ死にしていても気にも留められない女。

 彼女たちのほとんどにどんな末路が待つかは言うまでもない。

 家を再興すると言って流離人として旅に出た元貴族の少女が、

 五日後に痣だらけの顔で娼館にいたなどという話も転がっている。


 だからこそ流離人たちは言う。女の流離人には気をつけろと。

 想像を絶する下劣な欲望と死への誘い、

 それを乗り越えて生き抜いてきただけの力を、必ず持っているからだと。

 数は分かりやすい力だ。強者に寄生し力を借りる事もできる。

 魅力や話術も力となりうる。力といっても色々だ。


 ただ一人で奇襲すらせずに師範を殺し、

 報復すら楽しみに待っていたこいつの力とは何か。

 純粋なる力と技。己の武技だけを頼りに生き抜いてきた女流離人。


「こいつを取り返しに来たんじゃないのか?

 仇討ちのために布の色までわざわざ変えてさ」


 師範から奪った藍色布をひらひらさせながら、女はシルスの左腕を指差す。

 腕に巻かれた布は鮮やかな黄色であり、決意の証だと受け取ったようだ。

 戦いが始まってしまえば会話などする余裕はない。

 その前に聞いておきたい事があった。


「どうして師範を殺した?」

「あんた、もう察しがついてるだろ。あたしの目的も含めてね」


 シルスの顔を見つめ、やはり不敵な笑みのまま女は答える。

 師範が殺された夜に考えていた推察。女が目指すものは恐らく自分と同じ。


「槍を極めるためだ。

 真剣勝負で強者の命を奪う度、極みに近づくと信じているから殺したんだ」


 その言葉を聞き、女はまるで童女のように笑った。


「あはは! あたしの事分かってくれると思ってたよ、ご同輩。

 おまけをわざわざ一日待ったかいがあったね。

 ちょっとだけ違うのは"信じている"んじゃなくて、それがこの世の真理だ」


 女が藍色布から手を離す。

 ひらひらと、布は女の近くに落ちて埃を舞い上げた。


「実戦に勝る訓練無しって言うだろ?

 武芸を鍛えるのなら真剣勝負に勝るものは無いんだよ。

 ひたすらに武芸者を殺し続けて、あたしはここまで強くなった。

 こいつが及びもしないくらいにね!」


 床が抜けんばかりに藍色布を踏みつけ、その勢いのまま立ち上がる女。

 その手には槍。体格に合わせてか少し短めで、

 槍頭は命を奪う度に何度も研がれたからか歪に削れている。

 自分勝手な理由で師範や弟子の皆を踏みにじった女に、怒りを覚えた。


「お前の真理とやらを、俺や師範たちに押し付けるな。

 極みを目指しているわけではなかった師範を殺したお前は、ただの殺人者だ!」

「強さを求めない奴が武器なんぞ持つからだ! 武芸は所詮殺すための技さ!」

「お前が殺す以外の使い道を知らないだけだろう!」

「それ以上の説教は、あたしに勝ってから存分にしな!」


 見た事の無い姿勢で槍が構えられる。

 これ以上の会話に意味は無いし、する気も無いだろう。

 奴の真理を否定するには、戦って勝つ以外の方法は無い。


「藍色布に懸けて! 流離人のシルス、師の仇を討たせてもらう!」


 高らかに宣言し、槍を構える。

 言葉の威勢とは逆に、女の殺気で心まで冷やされているような感覚がした。


「格好つけた自己紹介どうも。

 同輩のよしみでその名前、今日の間だけは覚えといてやるよッ!」


 小手調べであろう牽制の突きを払う。

 師範の技より確実に上と分かる、軽く放たれたとは思えない鋭い突き。

 シルスの技量は予想より下だったのか、女はつまらなそうに軽く首を振った。




 何合か槍を重ねるが、鋭く激しい攻撃を受け流すのが精いっぱいで

 防戦一方に追いやられている。


 まるで生き様を表すような矢継ぎ早の攻め。

 守りは甘いはずだが、隙らしい隙を見出せない。

 そしてそれ以上に、小屋が狭すぎる。長物を十全に振るえる空間が足りない。

 女は一気に攻めたてる事で後ろに空間を確保したのだと気が付いた時には、

 既に壁際に追い込まれていた。

 これでは柄が壁に当たってしまいかねないし、

 もしそんな事になって姿勢を崩したら確実に死ぬ。


 上段からの斬撃を柄で受けるが、即座に胴への突き。

 身をひねり躱すと同時に、

 女の槍が体に届かぬように、石突を床に叩きつけて差し入れる。

 シルスが師範との最後の試合で使い、

 また師範がこの女との最後の攻防で使ったという動き。

 いずれも躱しざまに腹を突いて終わったが、

 もし今シルスが攻め気を出していたら串刺しになっていた。

 感心したような表情を見るに、わざとこの動きを使って反撃を誘ったのか。


 シルスの技より素早く、無駄がなく、鋭い。

 師範と比べたとしても確実にこの女の方が上だろう。

 圧倒的に格下であるシルスとの戦いだが、女に遊ぶような様子は一切ない。

 相変わらずの残忍な笑顔でこそあるが、

 真剣に命の奪い合いを楽しんでいるように見える。


 この女はもしかしたら、

 自分よりも"極める"という目的に真摯なのではないか、と思った。

 愚直なまでに己の信じた道を行き、

 誰に否定されようとも目的のために命を懸けて進む。

 歪んだ理屈であってもそれに従って行動し、

 その結果死ぬとしても、こいつは己が見出した真理に潔く従うだろう。


 それに対し、シルスは策を練ってここに来た。

 武芸者の誇りを汚しても、生き残り仇を討つために。

 女の強さが何よりも雄弁に語る。

 極みに近いのは数多の屍を踏み越えて、それだけを求め続けた自分だと。


 気後れが動きに出てしまったのか、槍頭が軽い音を立てて壁に当たってしまう。

 その隙を見逃さずに襲い来る斬撃。

 辛うじて避けたが、左の肩口を浅く斬られた。

 大きめに引かれた槍、次に来るのは必殺の突き。

 これ以上長引けば守りを破られて死ぬ。策を使うにはこの瞬間しかなかった。


 身をひるがえし、女に背を向け全力で扉の方へ踏み込む。

 この位置ではどうしても二歩の助走が必要になる。

 意表を突いた動きが功を奏したのか、女の槍は脇腹をかすめただけで済んだ。


 更に一歩踏み込む。

 振られた槍で背中を裂かれた感触があったが、構う事なく扉に飛び込む。

 シルスの全体重をぶつけられた哀れな扉は、衝撃に耐えきれず外れた。

 その勢いのまま地面を転がる。

 三回転で止まったが全身をしたたかに打ち、うつ伏せで呻く事しかできない。


「背を向けて逃げるとはねえ、生き意地が汚い流離人は嫌いじゃないけど」


 女が小屋から出てくる。

 シルスは倒れていて槍も取り落とした状態、後は止めを刺すだけ。

 痛みを堪えて左腕を上げるシルス。

 扉のそばに置いたランタンに照らされ、黄色の布がたなびく。


「あいにくと、命乞いは聞かないようにしてるんでね!」


 女が槍を振り上げる。

 その瞬間、鋭く風を切る音がはっきりと聞こえた。




 槍を手に取り、体を起こす。

 痛みこそあるが動けないような怪我ではない。


「……道理で……攻めてこないと、思ったら……」


 苦しそうなかすれ声を出しながら、シルスを見つめる女。

 その体には四本の矢が突き刺さっていた。


「シルス、大丈夫か!?」


 弓矢を構えた弟子たちが、女をなおも狙いつつ声をかけてくる。


「少し斬られただけだ、問題ない。上手くいったみたいだな……」


 弟子たちに弓矢を村中から集めてもらい、

 シルスが特定の場所に誘導して一斉射撃するという策。

 扉のそばに置いたランタンも、夕闇の中で目立つ黄色の布も、

 大げさな名乗りも、全てこのためだった。


 弟子たちが放った十二本の矢は六本が外れ、二本は女の振るう槍に弾かれた。

 残りの四本は右胸、左肩、腹、右脚に深々と突き刺さっている。

 致命傷だけは避けているようだが、もうまともに動けるような状態ではない。

 罠に嵌めて飛び道具と数の暴力で仕留める。

 これで勝ったとしても、武芸者にとっては屈辱でしかない。

 だから言った。勝てない事を認め、武芸者としての誇りを捨ててでも討つと。


「師範の、師範の仇ッ!」


 師範の死を見届けさせられた少年が、声を震わせながらつがえた矢を放つ。

 顔を上げた女は右腕一本で槍を横薙ぎに振り、

 矢はあっさりと弾かれてその身を貫く事は無かった。

 女は苦痛に顔を歪めながら、心底嬉しそうに笑っていた。


「あは、ははは……ははははははは!」


 肺腑を貫かれてなお、どこから出ているのかと思わせるほどの笑い声。


「この人殺し野郎、どこまでオレたちを嘲笑えば気が済むんだ!」

「待ってくれ!」


 血気盛んな弟子の一人が弓を捨て、槍を手に取ろうとした所を止める。

 無意識に槍に触れたのだろう。自分たちの誇りを嘲笑い続けた殺人者を、

 卑劣に落ちてもせめて武芸者として討ちたいと。


「俺がやる。やらなければいけない。こいつと同じ流離人として」


 そう言って槍を構えると、弟子たちは静かに弓を下ろした。

 夕闇の静寂の中、

 ゆっくりと間合いを詰める自分の足音と、女の笑い声だけが森に響く。


 弟子の一人は嘲笑うと言ったが、シルスは違うものを感じていた。

 極みに真摯なこの女が嘲笑などするはずがない。

 路傍の石をわざわざ拾って嘲笑うような事を、誰がするだろうか。

 純粋に嬉しいから笑っている。

 槍が届く間合いまで近づき、女と目を合わせた時、はっきりとそう感じた。


「おおおおおぉぉッ!」


 同時に咆哮し、同時に槍が振るわれる。

 牽制の事を一切考えない、殺す事だけを考えた右腕のみを出し切った突き。

 己の真理を表すような最後の一撃。


 だからこそ予想できていた。

 突きを受け流し、がら空きになった胴に渾身の突きを放つ。

 槍は、女の体を貫き通した。

 数多の武芸者を殺してきたであろう手が力を失い、槍が地面に落ちる。


「……ふふ、ふ……はは……」


 命尽きる直前であっても、女は心から嬉しそうに笑っていた。

 こちらに倒れこむ女を抱きかかえるような格好になる。

 吐き出された血が服を汚した。

 軽く支えてやるだけで、その足は死しても地を踏みしめたままだった。




 夜、森から少し離れた場所。

 弟子たちに掘ってもらった穴に、ここまで背負ってきた女の体を横たえる。

 土が被せられ、埋められていく。

 死に顔はまるで楽しい夢でも見ているかのように安らかだ。

 完全に埋まった所へ、短槍を突き刺す。

 簡素な墓標だが、墓があるだけ流離人にしてはマシな方だろう。


 墓を作るよう言ったのはシルスだった。

 森に放置して獣が人の味を覚えたら後で困る、見せしめにもなる、などと

 それらしい詭弁で弟子たちを無理矢理に納得させた。


 せめて弔ってやりたかった。

 やった事は許せなくとも、同じ極みを求めた者として。

 墓標を見つめながら、なぜ最後まで笑っていたのかを考えるが、

 そんな事はもう分かっていた。


 自分が勝ったから笑っていたのだ。

 強者の命を奪う度に極みへと近づくという真理こそが正しかったと。

 否定するためにはシルス一人の武だけで勝たなければならなかったが、

 結局それを諦めた。


 圧倒的な力量差に押し負け、

 数と飛び道具に頼り罠にかけなければ勝てなかった。

 その事実こそが、奴の真理と生き様を肯定してしまった。


 槍を極めるために流離人になった。

 極みとは、ひたすらに命を奪わなければ辿り着かないものなのだろうか。

 師範のような人を殺してまで。

 極みに至る道とは、血塗れの屍を作り

 その上を歩いてしか進めないものなのだろうか。

 妹や友に誓った槍を極めるという目的への道が、

 闇に閉ざされたような気がした。



 ***



 翌朝、師範の家で簡単な治療を受け、

 雑に洗われてまだ乾ききっていない服を着る。

 弓矢の調達をしたせいで、

 小さな村で師範が流離人に殺された事を知らない者はいない。

 殺人者を自警団が討ち取った事は、

 弟子たちが夜のうちに伝えて回ったらしいが、早く村を出るに越した事は無い。

 シルスが殺人者と同じ流離人である以上、村人は相応の扱いをするだろうから。


 槍を背にすると、斬られた背が軽く痛んだ。

 傷はそこまで深くなかったようで、治療してくれた弟子の一人から、

 包帯はそのまま持っていっていいと素っ気なく言われた。

 師範の死、殺人者を討った事、

 たった二日の目まぐるしい出来事に感情の整理が追い付いていないのだろう。


 葬式と別れのためにまだ埋葬されていない師範の遺体に祈りを捧げ、家を出る。

 家のすぐそばには稽古場。

 皆と楽しく笑い合った場所なのに、見ていると寂しさがこみ上げてくるばかり。

 いつもなら稽古の時間だというのに、そこに誰もいないからだろうか。

 それとも、誇りを捨てもう弟子ではなくなったからと、

 腕に巻いていた藍色布を置いてきたからだろうか。


「……ありがとうございました!」


 師範に届くようにと深く礼をして、村へと歩き出した。




 早朝、しかもあのような事件があった後。外を歩く人はいない。

 置いてあった荷物を取りに雑貨屋へ行くと、店主が開店の準備をしていた。

 シルスを見つけても、いつものような陽気さで声をかけてくれない。

 怯えと困惑がはっきりと見える。


「お世話になりました。これから村を出るので、荷物を取りに来たんです」


 始めて会った時より丁寧に喋る。

 もう自分に関わらなくていいのだと暗に伝える。

 何も言わず頷いた店主を見て、随分と慣れ親しんだ物置へ入る。

 部屋の一部となったように感じた荷物は、

 まるでお前はここに居てはいけないとでも言うように、

 入口に向かって倒れていた。


 荷物を手に取った時、女性の怒鳴る声と子供の泣き声が聞こえた。

 息子がシルスに会いたいと駄々をこねているようだが、

 店主の妻が止めているらしい。

 流離人がいかに恐ろしく下劣な無法者なのか、次から次へと語られていく。

 あなたまで師範みたいに殺されたらどうするの、

 という母の愛が聞こえた時、ちょうど物置を出た。


 雑貨屋を出ると、店主が待っていて包みを渡してくれた。

 中身は一枚の金貨と数日分の保存食。


「その……あいつも、そんなつもりで言ってるんじゃないんだ、だから……」

「いいんです、事実ですから。今までありがとうございました」


 店主に礼を言って、少しの間だけでも

 穏やかな幸せに浸らせてくれた雑貨屋を後にする。

 あんな事があっても流離人としてではなく、

 シルス個人を見てくれていた事が少しだけ嬉しかった。



 村の出口には、藍色布を巻いた弟子たちが待っていた。

 そのうちの一人、最年長のまとめ役が進み出て

 シルスの前に立ち、右手に持った物を差し出した。

 流派の証、彼らの誇りたる藍色の布。


「俺にはこれを巻く資格が無い」

「シルスに受け取ってほしい、皆伝の証として。師範もきっとそれを望んでいる」


 まとめ役が言い終わると同時に、弟子たち全員が頷いた。

 一度深く呼吸をしてから、布を受け取り左腕に巻く。皆と同じように。


「ありがとうございました!」


 その直後、シルスに深々と礼をする弟子たち。


「こちらこそ、今までありがとう」


 シルスが礼を返すと、

 弟子たちは口々に励ましの言葉をかけつつ、稽古場へと走っていった。

 彼らの姿が見えなくなってから、シルスも村を出て歩き出す。


 だが、その足取りは重い。

 体に負った傷は痛むが、足を重くしているのは心だ。

 目的地も、どれだけの先があるのかも分からなかったが

 歩き続けてきた"極み"への道。

 その道すら見えなくなってしまったら、どうやって進めばいいのだろうか。

 殺人者の嬉しそうな、勝ち誇ったような笑い声が

 どこからか聞こえたような気がして、何度も強く首を振る。


 朝日に照らされているはずなのに、

 星さえ見えない夜の闇の中を歩いているような錯覚を覚えた。




 *****




 藍色布の流派に属する槍術士たちは、

 自警団としてその後も村を守りながら稽古を続けた。

 師が生きていた頃は和やかな雰囲気で稽古をしていたらしいが、

 彼が流離人に殺されてから徐々に変化していく。

 より実戦的なものへ、より苛烈に。

 稽古場から笑顔が消えるのに、そう時間はかからなかったという。

 十日に一度怪我人が出るとさえいわれる厳しい稽古は、

 彼らを鍛え上げていった。


 彼らは知らない。変化した厳しい実戦形式の稽古は、

 師を殺した者が真理としていたものであると。

 実戦でこそ武芸が磨かれるなら、

 命の奪い合いこそがもっともよいと言った殺人者の思想と同じものなのだと。



 師の理想から離れていきながらも、藍色布の自警団は愚直に村を守り続けた。

 それが師の願いであると、あの日失った誇りを取り戻す手段であると信じて。

 師が望んだものは、彼の誇りは、

 和やかで楽しい稽古場にこそあったという事を忘れて。




#####

用語など


一合:互いに武器を打ちあわせる事。一合なら一回。


石突:いしづき。槍の刃と反対の方の柄にある先端部分。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ