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流離い槍術士、槍を極める  作者: 白さわら
1/8

1.プロローグ・旅立ちの日


 *****




 病院の一室で、一人の老人がその命を終えようとしていた。


 医者と看護師、弟夫婦がベッドの傍で老人を見つめ、

 ゆっくりと心電図の音が遅くなっていく。


 病は苦しかったが、今は不思議と安らいでいる。

 今まで貯めた貯金は、弟に渡すように遺言状を書いておいた。

 自分の葬式は必要ないと言っておいた。

 あいつはそれでも兄貴の葬式だけは、と言ってやりそうだなと苦笑する。


 そろそろ走馬燈とやらが見えるはずだが、何故か見える気配がない。

 六十一年生きてきたが……何というか、普通だった。

 劇的な事などなく、ただ淡々と過ごす日々。

 仕事は金を稼ぐための物でしかなく、

 全身全霊で打ち込めるような趣味があった訳でもない。

 結婚はしなかった。一人が気楽だったというのもあるし、

 縁がなかったというのもある。

 幸せだったかと聞かれれば、間違いなく幸せだったと答えるだろう。


 自分なりにきっちり生きてきた。それを恥じる事などない。

 未練はといえば、毎月払っていた年金が結局貰えないことくらいだろうか。

 ……いや、そんなものは未練ではない。

 本当にどうしようもないほどの未練が、一つだけ。

 無情にも視界が白く染まっていく。人の命にやり直しなどは無い。

 だが、もしもそれが叶うのなら……。



 心電図が一本の線だけを表示し、甲高い音を鳴らし続ける。

 その日、ある老人が亡くなった。



 ***



 老人が目を開いた時、そこは白い空間だった。

 例えるなら、水で薄めたミルクの中にいるような奇妙な空間。

 目の前には光そのもののような何かがいる。

 それを直視しているというのに、眩しさを感じない。


「お疲れさまでした」


 光は、優しい声色で老人に語り掛ける。

 何となくではあったが、老人は光の正体とこの場所を理解した。


「私は死んだのですね。ここは三途の川? 閻魔庁? それとも、天国?」

「あなたが望むなら、その何処へでも」


 どうやら閻魔様の裁きを飛ばして、天国に連れて行ってもらえるらしい。

 光は優しく老人に告げる。


「未練があるのなら、その魂そのままに再度の苦界たる現世へ生まれる事でも」

「輪廻転生? いや……生まれ変わり?」


 殆どの者が願うであろう、人生のやり直し。未練を解消する事。

 その権利を与えてくれるという光の言葉を、なぜかあっさり信じられた。


「未練があります。それが残っているままでは何処へも行けない」

「その未練とは?」


 死ぬ間際に残ったどうしようもないほどの未練を、老人は光にぶつける。


「何かを極めたい。己の全てを懸けて、何かを極めたかった。

 極めようとする人たちに憧れ続けた。

 でも結局今のささやかな幸せを続ける事を選んだ。

 たとえ届かなくても、道半ばで倒れたとしても……。

 心の赴くまま、一つの事に人生を捧げて生きてみたいと思っていた!」


 老人の切なる願いを、光は静かに聞いていた。

 じっと光を見つめる。光が優しい笑顔で頷いたように感じた。


「未練を晴らしなさい。その思いを叶えられる現世に送りましょう」

「少し待っていただけますか」


 自身に伸びてくる光を手で制し、老人は続ける。


「魂がそのままという事は、記憶も残るのでしょうか?」

「あなたが望むのならどんな事でも」


 先に聞いておいてよかった、と老人は胸をなでおろす。


「この記憶、未練だけを残して全て消してください。他には何も望みません」

「理由を聞いても?」


 老人は、自嘲と照れ臭さが混じったような笑みを浮かべた。


「下らない意地と、吹けば飛ぶような誇りです。

 他の人と同じ条件でなくては、人生を楽しめない偏屈ですから」

「その意地と誇りが報われますように。いってらっしゃい」


 光が広がり、視界全てを包む。

 最後に聞いたのはまるで幼い頃に聞いた母親の声のようで、

 安らかな気持ちで意識が遠のいていった。




 *****




 フィフタングと呼ばれる世界の片隅、名も無き田舎村の郊外。

 日が地平線からわずかに顔を出す早朝。

 二つの質素な墓の隣に、男が墓を作っている。

 浅い穴を掘り終えると、

 その中に子供用の小さな槍を一本だけ入れて埋めなおした。


「……シルス兄さん、本当に行くの?」


 シルスと呼ばれた男が振り返ると、そこには彼の妹夫婦がいた。

 そして呼ばれた名は、彼が作っていた墓に刻まれている。


「師範代の話もあったんだろう?」


 今は義弟となった親友が言う通り、

 槍術の師範から免許皆伝と共に誘われていた。

 これから数十年、この穏やかな田舎村で槍を教えて暮らす。

 間違いなく幸せな人生だろうと思える。

 だが、生まれた時から……生まれる前からあった、焼け付くような想いがある。


「俺はこの世界を巡って槍を極めたい。流離人として」

「兄さんの夢だって分かってるけど、

 この村を拠点にした旅人でいいじゃない!?

 "根っこ無し"なんて!」

「おい!」


 流離人に対する蔑称を口にする妻を咎める義弟。

 特定の拠点を持ちそこを中心に旅をする者を旅人。

 特定の拠点を持たない者を流離人と区別する。

 流離人は何にも束縛されないが故にいかなる権利もなく、

 何にも頼れない寄る辺なき無法者たち。

 地に根を張らぬ者、という意味の蔑称こそが"根っこ無し"。

 今から妹に蔑まれる身になるシルスは笑い、作り立ての墓に手をかけた。


「だからこうやって、俺は死んだんじゃないか。

 俺のような奴がこの村を拠点に放浪なんぞしていたら、

 生まれてくる子に悪影響しかない」


 ずいぶんと大きくなった妹のお腹を指差し、肩をすくめる。

 畑も財産も妹夫婦に全て渡した。

 余程の散財をしない限り暮らしていけるだろうし、

 義弟は真面目な働き者だ。

 そしてだらしない兄に代わり家計をやりくりしてきた自慢の妹、

 心配する要素が無い。

 自分の持ち物はある程度の路銀と旅の荷物、そして槍一本だけあればいい。


「……もう、帰ってこないんだね、兄さん」

「村長や師範たちには昨日伝えてあるからな、

 死人が無様に逃げ帰ってきたら村の笑いものさ」


 震えた声で俯く妹を見ると胸が痛んだが、

 それをごまかすように茶化して言った。

 村長と稽古場の皆はシルスが師範代になるものとばかり考えていたのか、

 口々に止められた。

 師範だけは何も聞かず、お前の思うがまま進めと言ってくれた。

 皆に反対されても決意は揺らがなかっただろうが、

 師範が応援してくれたのが嬉しかった。


「村を出たら俺は、お前たちとは何の関係もない流離人だ。

 妹を任せたぞ。

 もし泣かせるようなことがあったら顔が潰れるくらい殴るからな」

「なら、まずはお前を殴らないとな。人の大事な妻を泣かせる馬鹿兄貴を」


 二人で笑いながら拳を突き合わせる。

 お互いに幼い頃から知っている親友だ、今生の別れでもこんなものでいい。

 しかし、今や唯一の家族である妹はそうではない。


「分かってるよ……ずっと兄さんの夢だったって事は。

 父さんと母さんが死んでからずっと、私のために残ってくれていたんだよね」


 もし両親が生きていれば、

 もっと早くに父に殴られて勘当されながら村を出ていただろう。

 まだ幼かった妹を養い、幸せにする事こそが

 両親から託された兄の使命だと思って、

 焼け付く想いに蓋をして無理矢理押さえつけた。

 成長した妹は親友と恋に落ち、夫婦となって村で生涯暮らす事を選んだ。

 シルスが妹にしてやれる事はもう何もない。

 そう考えた瞬間、想いの蓋が吹き飛んだ。


「結局、お前の事を泣かせてばかりだったな……いつまでも幸せにな」


 幼い頃からやっていたように、妹の頭にそっと手を置き撫でる。

 いつもと違ったのは妹がその手を掴み、

 涙を浮かべながら精いっぱいの笑顔を作った事。


「もう子供じゃないから、大丈夫。これからは兄さんだけの人生を生きて」


 本心は違うだろうが、そ

 れを押し殺して送り出してくれた妹に最後だけ甘える事にした。

 二人に背を向けて歩き出しながら槍を手に取り、高く掲げた。

 "槍を極める"。その滑稽無形な目的に向かう決意を示すように、高々と。




 *****




 彼の妹夫婦はその生涯を村で過ごし、

 二人の子にも恵まれ穏やかな幸せの中生きた。

 子供たちは村から出る事を選ばず、

 両親と共に穏やかな幸せの中にその身を置いた。

 旅立ちの日、彼女が兄に言わなかった本心をなぞるように。

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