真祖とクルースニク
いつまでも淑女が男子トイレの中にいてはいけないということで、ひとまず悠人とローラは病棟内のラウンジに場所を移すことにした。
「ふむ……無知な彼には何処から語るべきかね」
と、真正面に座るローラは自動販売機で購入したカフェモカに口を付けながら、こちらを意に介することなく思案している様子。
そんな彼女を疎ましげに見据えつつ、悠人もまた同じ機械で購入したホットココアを一口含んだのだが、
「……ん?」
ココアの甘味が一向に感じられない。口内で転がし喉に流し込んでみても、伝わってくるのは湯の温かさだけ。
自動販売機が壊れて湯しか出なくなったのかと一瞬思ったが、自分の目の前にある紙コップに注がれた茶褐色の液体を改めて認識した途端、それは違うと断定できた。そもそも機械が壊れていたのだとしたら、目の前にいるローラだけが美味しそうにカフェモカを味わっているのはおかしい。
(じゃあ、おかしくなったのは俺の味覚の方……?)
口を押さえつつ悠人が怪訝の表情を浮かべた時、呆れ返ったようにローラが言った。
「馬鹿かね貴様。吸血鬼が人間の飲食物を味わえる訳無かろうに」
「……ってことは、吸血鬼は人間の血の味しか感じることができないってことか」
「そういうことになる」
ローラがまた一口カフェモカを飲む。
そうしている間に何処から語るべきかを大方定めたらしい。形のいい唇からほっと吐息を漏らした後、彼女は改めて話を切り出してきた。
「さて、まず語るべきは貴様の本性――真祖と呼ばれる者についてであろうな。ここから語らねば貴様は何も理解しまい」
「真祖……それがどういうものかは、俺に蘇った四百年前の過去とゼヘルとかいう奴の発言から何となく分かっている。確か、吸血鬼の王とされる存在だったっけ?」
「いい線を突いてはいるが前提としては全く違う」
一蹴された。
「そもそも真祖というのは、この世に在る全ての吸血鬼の起源のことである。分かりやすく例えると、一般の吸血鬼をクロマニョン人とするならば真祖はアウストラロピテクスということだな」
「全然分かりやすくない例えなんだが……」
「すなわち現在世界中に悪しき吸血鬼が巣食っているのは、真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムが諸悪の根源として世界に存在していたからであり――」
「無視かよ!」
悠人がツッコミを入れるも無視をされる。
そんな彼を鬱陶しそうにしながら、ローラはなおも語り続けた。
「とにかく、真祖無くしてこの世界に吸血鬼が存在することはない。何せ真祖が死ねば他の吸血鬼は皆根絶するのだからな」
「……!? ……おい、今何て……」
「分からんのかね? つまりは貴様がその命を差し出してくれさえすれば、世に蔓延る悪しき吸血鬼を根絶させることができるのだよ」
さりげなく発せられた残酷な言葉。それを耳に入れた途端、悠人は先ほどの無視された苛立ちを忘れ、ただただ絶句する。
自分が死ねば世界に平和がもたらされる――そんな一時期流行ったアニメの展開みたいな状況が、まさかこの自分に委ねられるだなんて思いもしなかった。自らの生命も世界の平和も二者択一にするにはあまりにも酷すぎる選択肢を突き付けられ、戸惑いの感情を心中で堂々巡りさせることしかできない。
「真祖が……俺が死ねば……」
「ああ。言わば真祖は吸血鬼にとっての心臓部。人間が心臓を損傷すれば死ぬのと同じように、吸血鬼も真祖という『核』を喪えば存在することができず消滅する。一体残らずな」
「……そうか。道理であのゼヘルとかいう吸血鬼は、俺のことを取り戻そうと……」
「真祖の死は彼らの生の沽券に関わる。生存のために何が何でも護りたいのだろうな。特に、四百年前に亡くした真祖が復活した今となっては」
四百年前に真祖は一度死んでいた――その事実もまた、ゼヘルとの邂逅の際に既知にしたことだ。
『我々はずっと待ち侘びておりました。四百年の時を経て、再び貴方様が現世へと蘇るこの時代を。貴方様の恐るべき力が復活し、我々を導く王としてワラキアに再臨するこの日を』
あの時の彼の言葉は、忠臣として王が復活したことを純粋に喜んでいるものだと思っていた。しかしローラに吸血鬼の実態を聞かされてからは、その言葉は実は「死にたくないから真祖にこちらに戻ってもらおう」という魂胆を含んだご機嫌取りだったのではとも思えてくる。
一体ゼヘル・エデルは何を想って襲来してきたのか……考えれば考えるほど疑問は尽きない。
それに加え、悠人はふと気付く。ゼヘルの襲撃そのものが何よりも不可解な出来事だったと。
「……なあ、ローラ。確かさっき『真祖が死ねば吸血鬼は一体残らず消滅する』って言ったよな」
「話を聞いていなかったのかね? 私は同じ話題を繰り返してきたはずだが」
「いや、話を聞いていなかった訳じゃなくて……」
彼女の剣幕に少し逡巡した後、悠人は腹を割って疑問をぶつける。
「どうして一度真祖が死んだはずなのに他の吸血鬼は消滅していないんだ? 四百年前に真祖が死んだなら、今この時代にゼヘルを含めた吸血鬼がいるなんてあり得ないはずじゃないか」
「ほう。その点を追及するとはなかなか聡いな」
納得したように相槌を打ち、ローラは回答を示す。
「だが残念だったな。それは私にも分からん」
「……は?」
「だから、分からないと言っているだろう。いくら聖女であれ、この私にも未知は存在する」
「お前……吸血鬼専門の団体に所属しているんだろ? だったらそれくらい知っていても……!」
これまで吸血鬼についていろいろと答えてくれた彼女から飛び出たまさかの「分からない」という発言に気が動転し、悠人は堪らず立ち上がってしまう。
そんな彼に対し、ローラは二度目の呆れの溜め息。
「どうやら貴様は筋金入りの馬鹿のようだな。そもそも何故真祖が再び蘇ったのか、一度真祖が死んだのにも関わらず他の吸血鬼が消滅しなかったのかについては、我がマリーエンキント教団の中でも最大級の未解決な論点となっているのだよ。何せ四百年前の出来事だ。その時代を知る証人どころかまともな資料すら存在しないのだから、現代の誰にも真相が分かるはずがない」
「……」
反論の仕様が無い事実を突き付けられた。これ以上追及しても求める答えは得られないと判断し、悠人は諦観して着席する。
しかし求める答えは無くとも、答えに繋がるヒントはあるようで。
「尤も、その懐疑点に直結していると思わしき要素は唯一遺された有益な資料――とは言ってもそれは我が教団の経典たる書物なのだが、その記載事項の中に間違いなく存在していた」
「資料あるじゃねーか……。で、その記載事項っていうのは何だったんだよ?」
「先代のクルースニクが真祖を仕留める際に何かしらの小細工を仕掛けたのでは、という憶測だよ。その小細工というのが何なのかは理解しかねるが」
「クルー、スニク……」
悠人の脳に『クルースニク』というここに来て新たに追加された固有名詞が引っ掛かる。
(何故だ……? 初めて聞く単語のはずなのに、懐かしさが……)
否、初めてというのは語弊だろう。数時間前の住宅街での戦闘の際、ゼヘルがその意味不明な単語を口にしていたような気がする。
それに自身の本性が四百年の時を経て蘇った真祖だというのならば、一度目の死の間際に『先代のクルースニク』という存在と確実に邂逅しているはずなのだから。
「……む。そういえば貴様にはまだクルースニクについては解説していなかったな」
失念していたとばかりにローラが説明を付け足す。悠人が既視感を感じていることなどつゆ知らず。
「クルースニクというのは、この世で唯一真祖を殺すことのできる人間の通称だ。通常の吸血鬼は個々の心臓を貫くことで討滅することができるのだが、真祖に至っては如何なる聖別された武器でも滅ぼすことは儘ならない。そんな超越的存在を滅し人類を救済する使命をクルースニクは背負っているのだよ」
「つまり、吸血鬼たちは俺がクルースニクっていう存在に殺されないようにするため俺を吸血鬼側に引き戻そうとしている……と」
「そうだ。先ほども言ったが、真祖は一度先代のクルースニクに討伐されている。だから真祖が復活し新たなクルースニクも再びこの世に現れた今、奴らは過去の轍を踏まぬよう一刻も早く貴様を奪還せんとしているのだ」
一通り説明し終えたローラは、冷め切ったカフェモカを一気に飲み干す。そして空になった紙コップをゴミ箱に捨てようと椅子から立ち上がった。
それからすたすたとゴミ箱へとまっすぐに向かい丁寧に紙コップを捨てると、今まで全く見せなかった薄ら笑いを浮かべながら悠人の方向へと首を回し開口する。
石膏像の女神のように美しい容姿を持つ少女が見せた可憐な笑顔。それに酔い痴れぬ男など世界の何処にも在りやしないだろうが、悠人は何故かその笑顔に微かな戦慄を覚えた。
どうしてそう感じてしまったのかはまるで分からないが……。
「ちなみに言い忘れていたが、クルースニクの最大の特徴は雪のように真白き髪と石膏のような色白の肌、そして水晶のごとく透き通った銀灰色の瞳らしいよ。例えば――」
言葉を紡ぐと同時、ローラはスーツの懐をまさぐり、
「――この私のようにな」
ゼヘルに向けていたものと同様の、銀色に輝く銃剣を抜き出した。
瞬間、彼女が不意に薄ら笑いを浮かべた理由を悠人は悟り、そして激しく震駭する。
「まさかローラ、お前……!」
「貴様の想像通りだよ。私こそが新たに神より選抜された真祖の討滅者。その使命を果たすべく、四百年の時を経て蘇った貴様を殺すためにこの場所を訪れたのだ」
「でも言ってたよな!? 何も分かっていない俺を殺してもつまらないって!」
「だから私は説明してやったのだが?」
ローラはきょとんとしている。
「確かに私は『無知なままの真祖を殺してもつまらない』とは言った――が、今の貴様は私の解説のおかげである程度の知識は備えたはずだ。まだ全てを知らぬとはいえ、少しでも理解をしたならば『何も分かっていない』とは言えないのではないのかね?」
「……っ!」
やはり冷然と答えるローラ。その静かな平静を保った有り様は、何も知らない人間を騙したことへの非が彼女の心中に端から存在していないのだということを示していた。
悔しいことに、ローラの指摘はあながち間違っているとは言い切れない。だから己を取り巻く真実を理解し切れていない悠人は、彼女の突き放すような何も言い返すことができなかった。せめてできる反抗の意思表示は、歯噛みをして恨めしげに睨み付けることだけだ。
「理解したならば潔く死んでくれたまえ。ここが公共施設である以上、たった一人の殺害にあまり時間をかけられないのでな」
流れるような動作でローラがこちらに銃口を差し向けてくる。剥き出しの殺意を注がれ、悠人の足は情けなく萎縮した。
(逃げられねぇ……!)
自ずとそう悟ってしまう。
三方を囲む壁と廊下に挟まれる形で存在しているラウンジは、ナースステーションからも病室からも完全な死角となっている。おまけに時刻は深夜、余程のことが無い限り見舞い人がいるはずもない。かといって誰かが来るのを期待し、静粛を要求される病棟で叫び声を上げるなどもっての他だ。
つまり運悪く、この修羅場をたまたま誰かが目撃するなんて奇跡を成立させない条件が見事に揃っているのである。
ならば少女を振り切り逃げればいいのではないかと思うだろうが、残念ながらそれも無理だ。たとえ逃げたとしても、人智を超える力と身体能力を持っている彼女ならすぐに追い付いてしまう。
(……死にたくない。死ぬ訳には、いかない……)
自分が死ねば平和が訪れるという事実を告げられてもなお、生への執着を捨てることができない。つい今朝までは命の尊い世界に暮らす普通の高校生だった分、余計に。
何よりも悠人には、今どうしても死ぬことができない確固とした理由があった。
(……俺が死んだら、カナは誰が……)
浅浦叶。幼馴染の彼女こそが、悠人の『生への執着』を固く縛っている。
叶の心痛を理解できるのは、彼女と旧知の仲である自分しかいない。かつて己の弱さのせいで彼女に心の闇を与えてしまったからこそ、悠人は頑なに誓うようになった。
もう二度と、五年前のあの事件のような目には遭わせまいと――
「懺悔は済んだかね? 尤も、懺悔したところで貴様に昇天は赦されないが」
思考をぶち破るように挟まれたローラの声が、タイムリミットを否応なしに告げる。
――カナ、ごめん。
未だに意識を取り戻していない幼馴染へと心中で謝罪し、悠人は次に迫り来る銃弾の一発を覚悟する。
『Agnus Dei,qui tollis peccata mundi(神の小羊、世の罪を祓われし御方よ)――』
ゼヘルとの戦闘の際にも耳にした聖なる響きを持つ異国の言葉が、今再びローラの唇より紡がれる。
『――dona eis requiem sempiternam(彼らに永遠の安息を与え給え)』
そして彼女は、悪しき真祖に止めを刺すべく、標的に突き付けている銃剣の引き金に指を、
「悠人!」
――だが、救いの手はやはり予想外の形で差し伸べられる。