薄氷の下は奈落
修学旅行最後の夜。
入浴を済ませた悠人は、その帰り道にある売店の前で叶に会った。
「あ、悠くん」
「……カナ」
正直なところ、今は叶と顔を合わせたい気分ではなかった。
『自分の幸せのために誰かが不幸になるんだったら、あたしはお祈りしたいとは思わないかな』
『好きな人を振り向かせるのは自分自身の力で、って決めているから。あたしは』
叶の顔を見ると、昼間の班別観光の際に抱いてしまった最低な考えを思い出してしまうから。
自分の欲のために他者の不幸を願うこと。それは、自分が彼女の忌避しようと心掛けていた四百年前の己と通じるものがある。
彼女の前では真祖としての残虐な本性を曝け出さず、彼女がこちらに抱いている英雄の仮面を装着していよう――そう誓った悠人として、一瞬でも真祖さながらの残虐に呑まれたというのは、非常に恥ずべき事実であった。
気まずさのあまり目を逸らす悠人のことを、叶は最初はきょとんとした表情で眺めていたが、流石は幼馴染。割と即座に内心を察知したらしい。
「あ……もしかして、あたしのせいで自分が行きたかった場所を諦めなきゃいけなくなったこと、根に持ってた……?」
「え……あ、いや、そんなんじゃなくて」
慌てて悠人は否定。今気まずさを覚えている理由に自分が行きたいと思っていた縁切り神社が絡んでいるのは確かな事実だが、それは直接的な理由ではない。
しかし直接的な理由の根底にあるルチアとローラの縁切りについて、世界の裏側の事情を知らない叶にはとても言うことはできず、悠人はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
思わず口を濁した幼馴染の姿に、叶は何を想ったのだろうか。
しばらく沈黙が続いていたが、ややあって彼女は言葉を発する。
「……そっか。きっと悠くんは、縁切りのお願いをしちゃったらあたしが傷付くと思ったから、自分から諦めることにしたんだろうね。本当に悠くんは幼馴染想いだなあ」
「……まあな」
苦笑する叶があまりにも眩しすぎて、悠人は思わず目を逸らす。
大切な幼馴染が自分自身が望まない行動に出ようとしたのにも関わらず、咎めたり嫌悪したりしない彼女に対し、悠人の良心は非常に痛んでいた。
「……悪い、カナ。お前の嫌がるようなことをしようとして」
「いいんだよ。実際にしたらちょっと軽蔑しちゃったかもだけど、悠くんは踏みとどまってくれたから」
「踏みとどまったとはいえ、間接的にお前に軽蔑心を抱かせようとしていたことに変わりはないだろ? だから、さ」
自分がすでにどす黒く穢れた存在だとはつゆ知らず、「あたしの英雄」と信じ寄り添ってくれる叶。彼女にとてつもない罪悪感を覚えた悠人は、彼女に対し何か詫びをしなければ気が済まないような気がしていた。
だが、叶の前での自分はしがない男子高校生。自身の正体を知っているローラの場合とは異なり、何か大それたことができる訳ではなかった。
だから、
「……ちょっと待っててくれないか?」
それだけ告げ、悠人は一旦叶から踵を返す。
そして寄ったのは傍らにあった売店。しばし物色した後、会計を済ませた品物片手に再び叶の元に戻った。
「悠くん、どうしたの?」
「お前に今回の詫びをやろうと思って」
言いつつ悠人は、購入したものを叶に手渡した。
お土産用の紙袋に入ったそれを取り出すべく、ビリビリと袋を破く叶。そうして中から取り出されたのは、ころんと丸い狐のストラップで。
「え、悠くん……こんなものをお詫びにもらっちゃっていいの!? 高くなかった!?」
「五百円くらいだからあまり大したものじゃねえよ。でも、お前のことを危うく傷付けそうになった以上、俺への戒めも兼ねて少しはいいものを買ってやらなきゃな、って思って」
本来ならば、叶に対しての謝意はこんなものでは足りない。もっともっと大きなもので、彼女のために尽くしたかった。
しかし繰り返すが、今の自分はしがない男子高校生。今、彼女の前で、彼女への罪悪感を晴らすためにできることはこれが精一杯だった。
「お前にとっての英雄がこんなザマじゃカッコ付かないからな。だからそれは俺のせめてもの償いの気持ちだ。本当に大したものじゃないから詫びにしてはまだ足りないけど、残りの分は幼馴染としてお前を護ることで埋めようと思ってる」
これは悠人の、紛れも無い本心だ。
吸血鬼の真祖である以上、いつかはこれ以上に叶の心を傷付けてしまうかもしれない。もはや叶が望む「英雄」でいることもできなくなってしまうかもしれない。
だが、叶がまだ何も真実を知らないうちは、まだ彼女が信じている通りの綺麗な英雄でいたい。いなければならない。
そんな想いがあるから、悠人は自分に戒めを課した。
たとえローラに恋情が傾きつつあっても、叶が古くから大切な幼馴染であることに変わりはないから。叶は五年前の事件の時からずっと、何があっても最優先で護るべき存在であるから。
しかし、その悠人の内心を、彼女が知ることは無い。
それでも、叶が何も知らないことを望む自分自身としては、それでいい。
「護るって……あたしは『あたしのことを護ることができなかったんだとしても、あたしの傍にいてくれる限り悠くんはあたしにとっての英雄』って言ったはずなんだけどなあ。そんなに壮大なこと言われても、逆に悠くんに余計に気を遣わせちゃうみたいで困っちゃうよ」
悠人が発した誓いの言葉に叶は微苦笑していたが、ややあって苦笑の部分が取り除かれ、純粋な微笑みと化す。
「でも、今はローラちゃんのことが好きなんだとしても、それでもあたしのことを気遣ってくれるのは嬉しいな。あまりやりすぎると二股だと思われかねないから、程々にしてもらいたいとは思ってるけどね」
「分かってるから安心しろって。お前のことは親友以上恋人未満の幼馴染って思っておくことにするよ」
「それならよかった。……でも本当は、あたしはまだ悠くんへの恋を諦めてないんだけどね……」
叶は概ね満足しているようだ。最後に小さく呟いたらしい言葉は上手く聞き取ることができなかったが。
しかしその意味深な呟きも、直後に叶のハイテンションに紛れて消えた。
「それにしても、このストラップすごくかわいいなあ。名前、何にしようかな……」
「無難に可愛い名前の方がいいんじゃねーの?」
「うん、そうだね! じゃあこの子の名前は『小次郎』で!」
「全然可愛い名前じゃねーだろそれ!」
「だって狐だから和風っぽい名前にしたくて……」
「気持ちは分かるがもっといいの無かったのか!?」
それは、幼馴染の少年と少女の、何の変哲も無い普通の会話だったのかもしれない。
だが、すでに取り返しの付かないくらい穢れてしまっている少年にとって、何色にも染まっていない純真な少女と親しげに語らうことは、特別な意味を持っていた。
しばし叶と談笑した後、「あ、もうそろそろ同室の子たちが心配するかもだから戻らないと……」ということで、彼女とは売店の前で別れることになった。何故売店前かというと、単に悠人が部屋に戻る前にトイレを済ませようかと考えたためである。
だがトイレを出て、不思議と人気が少ないロビーの前を通りすがった時、
「やっほー、真祖様。ダインスレイヴ=アルスノヴァちゃんが謁見に参りましたよー」
何故か、ゼヘルと一緒に行動すると言って別れたはずのダインスレイヴと、ホテルの中で遭遇した。
「な……!? 何で、こんなところに……!?」
――まさかとは思うが、ゼヘルとダインスレイヴもこのホテルに滞在していたということなのか?
そんな推測を悠人はしたが、どうやらそれは否であるらしかった。
「あ、僕はこのホテルに滞在してねーですよ? ただ単に真祖様にお伝えしたいことがあってわざわざここを訪れただけですんで」
「伝えたいこと……?」
「そ。とっておきの危殆情報を持ってきたんです」
危殆情報なのに「とっておき」とはどのようなことなのか。
そんな疑問を抱く暇さえ、ダインスレイヴは与えてくれない。
「昨日、マリーエンキント教団の聖騎士に会ったでしょ? ……そ、あの金髪の。実は偶然聞いちゃったんですけど、今からあの子が真祖様の大切な御方を強制的に奪いに来るらしいですよ?」
その瞬間、悠人は気の遠のくような錯覚を感じた。
マリーエンキント教団の聖騎士ルチア。彼女が最終的に奪おうとしている人物など、一人しかいないではないか――。
「まさかルチアの奴、ローラのことを……!」
「どうやらそうみたいですねえ」
ダインスレイヴはまるで他人事のよう。ニヤニヤとシニカルな笑みを浮かべながら、こちらがどんな反応をするかを心待ちにしているみたいであった。
「まあでも、僕の事前リサーチによると今あの子は清水……とかいう場所の周辺にいるみたいですよ? 今から急行すれば、今の真祖様にとって何よりも大事なものは奪われなくて済む……ということです」
「……」
悠人は平静を装うが、それと反比例して心臓の鼓動は異様に高鳴っていた。
(もし、今すぐにルチアの元に向かえば、ローラは教団に連れ戻されずに済む……)
頭に浮かぶのはその考えばかりだ。
しかしその考えは、思考回路をぐるぐると巡るばかり。危機的状況を思い浮かべても、実際に対策を行動に移すことが出来ずにいる。
ここでルチアを迎撃することは先刻猛省したはずの「彼女の不幸を願う行為」に当たるのでは、と考えてしまったから。
(でも仮にルチアのことをここで食い止めようとしたら、必ずルチアが不幸になる展開しか浮かばない。今の時刻は夜、力の増した真祖に普通の教団員が勝てる訳が……)
吸血鬼としての力が増す今の時刻であれば、真祖は本気を出さずとも相手を確殺することができる。だからルチアがこちらに挑んで満身創痍となるのは自明の理、そして人を害したこちらがまた罪を被り身を穢すのも自明の理であった。
だが、先ほど叶と対面した際にも感じたが、四百年前と同じように心を穢す訳にはいかない。そうすればいつか、叶を何処かで悲しませることに繋がるから。
だから悠人は、押し寄せる動揺を堪え、静かに耐える。
密かに恋心を寄せているローラのことが大切なのはもちろんだが、昔からの幼馴染である叶の気持ちも大切にしたい。まるで二股男の最低な言い訳のように思えるが、それだけはどうしても譲れなかった。
「……お前が俺に気を遣っていることはよく分かったよ。だがな、これは俺が出る幕じゃないと思う」
「つまり、あの子を止めに行かないっていうことで?」
「ああ、そうだな。教団側の問題に吸血鬼の王は絡むべきじゃない。それにローラだって弱くは無いから、無理やりにでも連れ戻そうとする同僚への対処法くらい心得ているんじゃないかな」
「……ふーん」
こちらを唆すダインスレイヴに、悠人は自身の考えをきっぱりと言い切る。教団の問題に自身は突っ込むべきではないと。
しかし跳ね除けられても、ダインスレイヴは何故か得心が行ったかのようにニヤリと笑んでいた。
「でも、そうやって本心を誤魔化している方が、かえって大切な人を不幸にしちゃうような気がしません?」
「は……?」
「自分の本当の想いに素直にならない方が貴方の大切な人を余計に傷付ける、ってことですよ」
その一言を耳にした瞬間に思い抱いたのは、ここ数週間の間に培われた自身の誓いだった。
(……思い出した。俺は、たとえカナのことが大事でも、自分のローラへの恋心には素直になろうって、そう決めていた)
先日、叶に「叶のことも大切だけど、それでもローラのことが異性として好きだ」といった旨を打ち明けたことを思い返す。
その際、たとえその恋が赦されぬものであろうが自分の恋心は偽らぬと、内心で決めたではないか――。
(カナだって、俺が想いを偽って行動していた時は悲しそうにしてたし、逆に俺が包み隠さず本音を打ち明けたら『本心を知ることができてよかった』って嬉しそうにしてた)
そして今この時だって、躊躇わずに行動した方が叶の想いを踏みにじらずに済むのではないかと、そう感じてしまった。
(それにローラはカナにとっても大切な友人……ここでローラが運悪く連れ戻されることになったら、俺だけじゃなくてカナまでが深く傷付くことに繋がるじゃないか……)
合点が行った途端、逸り出した悠人の想いを察したのか、ダインスレイヴが煽り立てるかのように追い打ちを掛けた。
「素直になりさえすれば、貴方は何だってできる。何故なら貴方は、どんな困難な欲望も容易く思い通りにした吸血鬼の真祖――ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム様なんですからね」
ダインスレイヴのその言葉は、悠人を迷いから醒ました。
(かつて俺は、自分の思うが儘に事を進めていた。真祖だからこそ、それができていた。だからきっと、この先だって――)
――元が傍若無人な真祖なのだから、自身の欲しい儘にすることへの躊躇いは無い。吸血鬼の王なのだから、抵抗のための力は充分にある。
それは、過信だった。
――大丈夫、殺しはしない。ただ大切な者を奪おうとする奴を傷付かぬ程度に食い止めるだけだ。
それは、妥協だった。
――間違えるな。これは俺の大切な者たちのための行為だ。ただ近しい者たちを護るだけの、穢れなき純然な行為だ――。
そしてこれが、絶対に踏んではならない過ちだった。
しかし悠人は、不運にもそれに気付かない。
妄執に憑かれた彼は、これは間違いではないと、狂いの無い正しい行為だと思い込んでいたから。
「……分かったよ、ダインスレイヴ=アルスノヴァ」
動揺など微塵も感じさせない声音を静かに紡ぐ悠人。
だが対峙する者を見据える深紅の瞳には、激烈な覚悟が宿っていた。
「ローラのことを護るために、カナのことを傷付けないために、俺は自分にやれることを為してくる」
そう口にした悠人は即座に踵を返し、襲撃者を食い止めるべく屋外へと疾駆する。
未だ真意不明のダインスレイヴが後を追ってくる気配は無かった。




