堕ちた聖騎士
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今から四年くらい前、あたしの運命は激変した。
その時のあたしはごくごく普通の小学生で、故郷のイタリアで父と母、そして姉と弟と平穏無事に暮らしていた。
本当にごく普通の、どこにでもいるような少女の、とてもありふれた生活でしかなかったけれど、それでも充分に楽しかった。満たされていた。
だけど、その日常は唐突に破壊された。
忘れもしないあの日、あたしが住んでいた町を突然吸血鬼たちが襲った。
家や教会が壊され、金や宝石が奪われ、そして多くの人の命が潰された。
下卑た嗤い声と泣き叫ぶ声が入り乱れる地獄の中を、無力なあたしはただ逃げ惑っていた。
一緒に逃げていたはずの家族はとうに殺されていた。父は腹を裂かれ、母は首を裂かれ、姉は胸を突かれ、弟は脳天を突かれた。それだけに留まらず、身体から溢れ出した血は一滴残らず啜り取られた。
残されたのは骨張り干からびた遺体だけ。本当は大切な家族のことを弔ってあげたかったけど、生き残ることしか頭に無かった私にはそれにかまけている暇なんて無かった。
――生きなきゃ。
その想いだけが、あたしを支配していた。
――生きなきゃ、いけない。
無残に殺された家族の命のバトンを継げるのは、生き残ったあたししかいなかった。だからあたしだけは、何としてでも生きなければならなかった。
きっと家族はあたしだけでも生き残ってほしいと願っていたはず――ただそれだけを信じて。
でも、駄目だった。
逃げ切ることはできなかった。
「こんな真夜中に吸血鬼から逃げれるなんて思ってたのかい?」
決死の逃走も虚しく、簡単に追い付かれてしまった。
目の前にはニタニタ嗤う赤い瞳の男女数人。どう足掻いても反抗なんて出来やしなかった。
「どうするの? アタシ、こんな小さな女の子を甚振る趣味なんて無いんだけれど」
「万が一ってこともあるじゃん。『人間はできるだけ殺しておけ』って命令されただろ?」
「それに、ちょうど俺たちもまだ足りないって思ってたところだし。幼女の血は格別に美味いし、別にいいじゃねーか」
下品な声を響かせながら、彼らは嗤っていた。ギラギラとした瞳は、さながら獲物を狙う肉食獣のようだった。
彼らを前にして、あたしは死を覚悟した。ここで逃げてもどうせ追い付かれるという諦めが、あたしを支配していた。
――ごめん、みんな。
すでに死んだ家族に生き残れそうに無いことを謝り、あたしは命を奪われる衝撃に耐えようと――
「生きることを諦めるな」
――したその時、あたしは出逢った。
「安心するがいい。後は私が引き受けよう」
あたしの救世主。白い修道服に身を包み、白い髪を靡かせる、あたしにとっての女神。後に吸血鬼を狩る立場となったあたしの憧れの存在。
ローラ・K・フォーマルハウトお姉様に。
*****
深夜の嵐山は、驚くほど静寂に満ちていた。
当然ながら、観光客は誰もいない。天龍寺も野宮神社も、付近の露店でさえも閉まっている今、好んで嵐山に行こうとする観光客なんているはずが無い。
だが、草木も眠る丑三つ時、闇の帳が下りた山中をふらふらと歩く者がいた。
「……お姉様……」
マリーエンキント教団の聖騎士ルチア・タルティーニである。
彼女の表情に生気は全く感じられない。見開かれた瞳に深い絶望を宿し、覚束無い足取りでただ歩いている。
その様子は、さながら未練を残した幽霊のようであった。
「お姉様は、もうすでに……」
虚ろな呟きを零し行く宛も無いままに彷徨い続けるルチアに、彼が接触したのはその時のことだった。
「やっほー、調子はどう?」
「……あんたは、昼間の……」
「そうそう。『困った時にはいつでも何処でも駆け付けるフリーランス吸血鬼』のダインスレイヴ=アルスノヴァちゃんだよん」
昼に会った時と異なり、今のダインスレイヴので服装は完全に戦闘の装いだ。カラーサングラスは古めかしいゴーグルに、Gジャンは襤褸切れのような外套に、ロゴ入りTシャツは薄汚れたカッターシャツにそれぞれ変化している。そして背には、自身の得物として巨大な鎌を携えていた。
常ならば、吸血鬼が臨戦できるような姿で現れれば、即座にルチアは武器を手に取り交戦に入る。のだが、現在の彼女は普通ではなかった。
「……何の用なの?」
一言だけ零す。
その間に武器を取るようなことはしなかった。ただ立ち尽くして、目の前の吸血鬼を虚ろな目で眺めていた。
吸血鬼の討伐意識が高い聖騎士にしては明らかに異常な挙措にダインスレイヴは目を見開いたが、すぐに彼は「面白いものを見た」と言わんばかりに笑う。
「その様子から判断するに、相当凹んでるみたいだねえ? 愛しのお姉様が穢されたのがよほどショックだったんだ?」
「……黙って」
制止の声を上げる。ただそれだけだった。
武力で黙らせることはしない。吸血鬼を狩ろうという意欲は、ルチアからとうに失せていた。
もう、何もかも手遅れだったのだ。
かつて憧憬を抱いた、強くて美しい『お姉様』は何処にもいない。今代わりに在るのは、宿敵に純粋な好意を寄せている哀れな少女だけだった。
彼女の強く一途な想いに、自分の憧憬が介入する余地は、もう何処にも無かった。
「……この先あたしや教団が何と説得しようと、お姉様は絶対に考えを変えないわ。お姉様の強い意志を宿した目を見て分かったもの。お姉様はたぶんあたしが思う以上に、真祖のことを本気で想ってるんだわ」
「でもそれって、『お姉様』の本当の意志じゃない可能性もあるんじゃないの?」
諦め切ったようなルチアの吐露に、ダインスレイヴは口を挟む。
ニヤニヤと、本心の見えない笑みを浮かべながら、彼は話を続けた。
「これは僕の憶測でしか無いんだけど、真祖様はクルースニクのことを洗脳してるんじゃない? 『クルースニクが自分を愛するように仕向けて、自分の敵を無くそう』ってさ」
「……何ですって?」
虚ろだったルチアの目の色が変わる。瞳に映り込んでいた諦観は、嫌疑と嫌悪と憎悪にすげ替えられていた。
彼女が話に乗ってくれた――それを確信したダインスレイヴは、口の端を釣り上げながら語り続ける。
この聖騎士は自分の話が完全な作り話だと疑っていない。それをいいことに。
「今の真祖様が『普通の男子高校生・暁美悠人』としての一面を持っているのは事実。でも、すでにあの人は四百年前の記憶と力を取り戻してるんだよ? だったらさ、かつて自分のことを無残に殺したクルースニクのことを恨んでいてもおかしくは無いんじゃないかなあ?」
「……だから、彼はお姉様を……?」
「そうなるだろうねえ。だからあの人は、今度こそ自分が殺されないようにするために、クルースニクを手駒にしようとしてるのかもだよ? そして彼女が完全に自分に溺れてくれたところを狙ってグサッと――」
「もういいわ」
覇気の無かったルチアの声に、力が宿っていた。
その力は生半可なものでは無い。今までのように――否、今まで以上に、真祖に対する恨みと妬みが篭もった力だった。
「つまりあんたはあたしに『真祖を殺せ』って言いたいのね?」
「ちょっと違うかなー。ただ真祖様とクルースニクのことを引き離してくれればそれでいいんだよ。真祖様が死んじゃったら僕だって死んじゃうからね」
「あたしとしてはそれが本望なんだけど」
つらつらと喋るダインスレイヴをルチアは睨むが、その視線には彼に対しての敵意は無い。今の彼女が本気で敵意と殺意を抱いているのは、ユークリッドただ一人だった。
(このアホな吸血鬼のことは、お姉様を取り戻してからでもどうにでもなるわ)
互いの利害が一致している以上、彼には充分に利用価値がある。
愛しの「お姉様」のことだけを想っているルチアは今、彼女を如何に真祖から取り戻すかということのみを考えている。目の前の吸血鬼のことは、今は敵だとは考えていなかった。
そしてダインスレイヴもまた、目の前の聖騎士のことを敵だと考えていない。
「それじゃあ、君は僕と一時的に手を組むということでいいのかな? 契約内容は『クルースニクと真祖の関係を引き裂く』ということで」
「ええ」
ルチアは頷く。
「お姉様」がクルースニクに洗脳され、いずれは殺されるかもしれない。そう危惧すればするほど、阻止しなければという想いに駆られた。
そしてそのためには、手段を選んでなどいられなかった。
かつて自身の家族を殺した憎き吸血鬼の手を借りることになったとしても、愛しのお姉様が取り戻せるのならば、それでよかった。
「だから、教えて。お姉様と真祖の仲を裂くための方法を」
真祖に対しての恨みが満たんに詰まった声で問い掛けるルチア。
彼女に対し、ダインスレイヴは相変わらずニヤリと笑ったまま。
「うん、オッケー……って言いたいところだけど、敵とはいえ僕に依頼した訳だから対価を貰わないと」
「対価……ですって?」
「一応僕の肩書きは『困った時にはいつでも何処でも駆け付けるフリーランス吸血鬼』だからねー。何でも屋みたいなものを名乗っている以上、引き受けた僕にも報酬的なものが欲しいんだよね」
「まあ、大したものじゃないよん」と言いつつ笑うダインスレイヴが妙に胡散臭くて、ルチアは思わず眉根を顰めてしまう。
「ちなみに、対価の支払いを断ったらどうなるのかしら」
「断らせないよん。吸血鬼相手ならともかく、人間相手なら強制的に奪うから」
そう言った瞬間、ダインスレイヴの姿が消える。
……否、消えた訳では無かった。
「という訳で貰うよ、君の血液」
一瞬のうちにルチアの首元に寄っていたのだった。
「なっ――あがっ……!?」
ルチアには驚く暇すら与えられない。
ダインスレイヴは肉薄と同時に、白く細い首筋に牙を立てていたから。
「っ、何てこと、してるのよ……! やめな、さいよ……!」
「ん、じゅる……っ」
ルチアは暴れることで解放を試みようとするが、深夜になり身体能力を向上させた吸血鬼の抱擁からは逃れられない。細身の身体から発せられているとは思えない圧力に押されながら、首に牙を突き刺され、湧き水のように流れ出る赤い血をペロペロと舐められ続ける。
そうされるうちに、徐々にルチアは命が遠のくような感覚を抱いた。急激に血を失ったが故だ。
(まさか、対価はあたしの命……!?)
だが意外なことに、ダインスレイヴが吸血を止めたのはものの数分後のことだった。
「ぷは、っ……あー、今回の契約金代わりの血液ごちそうさまでしたっと。なかなか美味しかったよん」
「あ、あんた……いったい、何で……」
吸血鬼は食事中に理性を失うとされている。吸血中に我を忘れ、獲物の息の根が知らない間に止まっていたという話などごまんと聞く。
だからこそ、一見では本能で生きているように見えるダインスレイヴが吸血のしすぎでルチアが死なないよう理性を保っていたというのは、とても意外に感じたのである。
「あー、その顔。さてはどうして僕が吸血中に理性を保っていたか気になっていたんでしょ?」
口から垂れた血を拭いつつ、ダインスレイヴは答える。
「僕は雇われる条件として人間の血液を貰ってるのさ。でも、いくら何でも生きてる人間から直接吸うのは初めてだったなあ。本当だったら君の血を全部吸い尽くしちゃうところだったけど、流石に契約相手に死なれるのは困るから死なないギリギリ程度の血を飲ませてもらったって訳。これでも加減はしたんだよ?」
「……そういうことね」
未だに出血している首筋をハンカチで押さえながら、ルチアは一応納得の意を見せる。
失血の影響で意識は朦朧としていたが、生きているだけでもありがたかった。
(『生きることを諦めるな』……ローラお姉様がそう教えてくれた。家族や仲間……今までに繋いだ命を、お姉様のお陰で私は今こうして背負っている……)
自分が死ぬべき時は「お姉様」がクルースニクとしての使命を遂げた上で死ぬ時。その時まで、自分は死ぬことができない。
だが件の「お姉様」が、クルースニクとして真祖を殺せず、どころか真祖に手籠めにされた上で死なされようとしているのならば、
(……だから、お姉様を真祖から奪い変えす。たとえあたしが闇に堕ちることになっても、お姉様が闇に堕ちなければ、それでいいもの)
憎悪と欲望を孕んだ昏い瞳で、ルチアは臆する姿勢無く契約相手を見据える。
「さて、その様子から判断するに……ようやく覚悟はできたみたいだねえ。これで早速取り掛かれるよ」
そんな彼女を見返したダインスレイヴは、心底楽しそうに口の端を釣り上げた。
だが、契約が成立したことを純粋に喜んでいるように見えるその裏に、一つの邪念が潜伏していることに、ルチアは全く気付いていなかった。
――これでルチア・タルティーニは、自身の本来の雇い主のいい駒と化してくれた。
そんな邪念に。




