それを理解するにはまだ早くて
「……散々な目に遭った」
帰路にて。白色の外灯が照らす夜の道を歩きながら、漆黒の髪を塩素臭い水で濡らした悠人は顰め面で呟いた。
マネージャーの仕事を手伝っていた時は制服ではなく体操服を着ていたため、悲惨なずぶ濡れ姿で帰宅をすることは免れた。が、情けなくプールに落下した気恥ずかしさは拭えない。正直言って、自分が吸血鬼を率いる王であると名乗ることが申し訳なくなるレベルだ。
「まあ、でも女子たちの前で溺れるなんていう情けない姿を見せることは避けられて何よりだったよ。何故か愛実さんが『人工呼吸したかった』って嘆いてたけど……って、カナ?」
自虐的に語っている最中、悠人はふと気付く。
「……」
普段の天真爛漫さは何処へ行ったのだろうか、叶のあどけない顔に一切の感情が見受けられない。顔を動かすこともなく、口を開くこともなく、ただ幼馴染の後を付いてくる。水泳部の練習の時は上機嫌だったというのに、一体彼女に何があったのだろう。
「カナ、どうしたんだ? こんなこと言うのもあれだけど、今日のお前、変だぞ?」
「……変なのは、悠くんの方だよ」
ぽつり、と叶が返答。それを受けた悠人は、心に深く杭を打たれるような感覚を得た。
「カナ……? なんでいきなり、そんなことを……俺はいつも通りだぞ?」
「いつも通りの悠くんだったら先生のことローラちゃんの名前で呼ばないし、ボーっとしてプールに真っ逆さまに落ちたりしないもん。分かるよ」
叶の童顔は前髪で隠され、見えない。が、彼女の頬には一筋、透明な液体が伝っていた。
それから叶は、今にも大気に溶けていきそうなほどの儚い声音で、こちらに尋ねてきた。
「……ねえ。あたしって、そんなに魅力無いかな」
「カナ……?」
「悠くんの心の中には、もうあたしの存在なんて無いのかな」
その言葉を受けた瞬間、先ほど心に打たれた杭がより深く傷口を抉った。
もちろん、叶は悠人にとってとても大切な幼馴染。五年前に起こった殺人事件を目撃してしまった時から、彼女のトラウマを再発させまいと奮迅してきた。自分が世界の敵であるという事実を知り、いずれ彼女のことを傷付けてしまうかもしれないという爆弾を抱えながらも、なお。
そして叶は、敵対関係にあるはずのローラと共に協力し合い、良好な関係を築くための存在でもあった。共に護る対象――悠人にとっては幼馴染でありローラにとっては友人である叶は、そうやって機能していた。だからローラのことばかりしか考えられなくなったのだとしても、その根底には純真無垢な一般人である彼女の存在が常に在ったのだ。
なのに、その当人から「もうローラのことしか頭に無いのでは」という指摘をされるとは思ってもいなかった。
「今までの悠くんは、多少なりともあたしのことを気遣ってくれてた。でも今は事あるごとにローラちゃんのことばかり。今日マネージャーのお仕事を頼んだ時だって、あたしじゃなくて、そこにはいないローラちゃんのことを見てた……」
叶の大きな瞳からぼろぼろと溢れ出す涙。それをどう受け止めてあげればいいのか、悠人には分からなかった。
その無理解を察しているのだろうか、彼女は悠人の胸に顔を埋め、自身の存在を焼き付けようとしてくる。
「ねえ、悠くんは、今でもあたしの英雄なんだよね……? たとえ悠くんの心がローラちゃんに傾きつつあるんだとしても、それでもあたしだけの英雄でいてくれるんだよね……?」
「……当たり前だろ。最近は全然見てやれてなかったけど、あの時からずっと『お前を護る』って、決めているんだから」
頭ごなしに返したその答えがひどく白々しく聞こえてしまい、悠人は内心で嫌悪を覚えた。
彼女にとっての英雄とは、精神的に追い詰められてしまった時に手を差し伸べてくれて、そしてそっと隣に寄り添ってくれる人物。そんな英雄に、いつしか叶ではなくてローラのことばかりに専心してしまっている自分はなることができない……そう、分かってしまった。
幼馴染が吸血鬼の真祖であることを知ればきっと彼女は拒絶するだろうということを知りながらも、これまでは叶の英雄でいたいと思っていた。が、彼女から心が離れつつある今は、そんな存在にはなりたいと思えない……そう、悟ってしまった。
幸いにも悠人が心の内で思っていることを、叶は理解していないのだろうか。彼の胸に頭を押し付けながら、そっと呟いた。
「……悠くんは、優しいね。曲がりなりにも友達のローラちゃんに対してこんなに嫉妬しているあたしにも、こうして優しく接してくれているんだもんね。やっぱり、悠くんは英雄なんだね」
「俺、は、」
違う、と否定の言葉を言おうにも、乾き切った口では上手く言葉にすることができなくて。
今までは優しい温もりを感じていた幼馴染に触れられていても、怖気と寒気が止まらなくて。
「あたしね……悠くんのことが好きなんだ。少しでも悠くんが、あたしじゃなくてほかの誰かの英雄になっちゃうのが、許せないくらいに。友達に対してこんなに醜い想いを持っちゃうくらいに」
叶が嘔吐きながら口にした告白は、ぐちゃぐちゃな感情を抱えたままの悠人には届かない。
*****
互いにぎくしゃくとしたまま叶と別れ自宅に入ると、そこには今日一日中頭から切り離すことのできなかった存在がいた。
「……ローラ」
「何だね、その無駄に神妙な表情は」
聖女としての務めのためなのか、一日悠人の元を離れていた彼女。何者にも襲われていないと分かる五体満足の身体を見た瞬間、得も言われぬ安堵感を覚えた。
それは、先ほどの叶との醜悪なやり取りを忘れたかったがためか、それともまだ自分自身でも自覚していない別なる感情がためか――。
「よかった……四使徒に襲われていたらどうしようか、って……」
「……何を心配しているのだね。私はクルースニクだ。四使徒とは充分渡り合える」
ふんと鼻を鳴らし答えるローラであったが、その美貌は刹那のうちに猜疑を孕む。
彼女は感じ取ったのだ。現在の暁美悠人が纏う、これまでの彼には無い違和感を。
「……ユート、何故私を心配するのだね? クルースニクの実力の是非を問わず、今までは貴君が私のことを心配するようなことなど無かったではないか」
「それは……」
いざ当人に問われると、何も言えない自分がいる。
今日一日いなかったローラの存在がずっと頭から離れなかった――と言うのは何故か気が引けた。このようなストーカー紛いのことを口にすれば彼女との関係がまたややこしくこじれることは目に見えている。
ただでさえ、今の自分は彼女に対し――……と想っているのに。その想いが儚く壊れてしまうのは、何故かひどく嫌であった。
あれこれ言うべき弁解を考えたが、最適解として思い付いたのは、ローラの存在が忘れられなくなってしまう契機となった、遊園地での一場面の話をすることであった。
「……それは、あれだよ。この前ゼヘルと戦った時、クルースニクでありながらローラは全く奴に敵わなかっただろ? だからもし、この前と同じように吸血鬼が襲ってきて、それでお前の聖女としての力が及ばなくて命の危機に瀕するようなことがあったらと思うと――」
だが、この時悠人は全く知らなかった。
自身が最適解だと思っていたその返答は、彼女に地雷を踏ませてしまう失言であったのである。
「……貴様が、」
親しくなった頃に使うようになった「貴君」から、敵対している頃に使っていた「貴様」へと、ローラの悠人に対する二人称が変化している。その二人称をぞっとするほど無感情な声で突き付けられただけで、彼女が今にも激情を暴発させる寸前にあることを察してしまった。
しばらくローラは顔を俯かせ肩を震わせていたが、ややあって顔を上げ、悠人に対し掴み掛かった。
「貴様が私に弱さを与えたからああなったのだ!!」
「は……?」
「本来であれば私とゼヘル・エデルは互角だった!! それなのに貴様に心を寄せてしまったせいで、貴様が私に心を寄せるよう差し向けたせいで!! 私はクルースニクとしての力を弱められた!!」
彼女が爆発させているのは恥辱、あるいはそれ以上の何か。どちらなのかは分からないが、真祖である自分が彼女のことを変えてしまった元凶なのだということは、悠人でも理解できてしまった。
ぶつけられる感情の真意が見えず困惑する悠人を余所に、ローラは八つ当たりのように難詰してくる。
「クルースニクは神への信仰心によって力を増幅させる……だが貴様が私に優しくしたせいで、私は神に愛想を尽かされ、結果として力を失った!! だから私はあの時四使徒に全く歯が立たなかった!! 貴様のせいで、貴様のせいで!!」
「ローラ……」
「だがそれ以上に、真祖である貴様に感情を揺さぶられた私も私だ!! 貴様が世界の敵であることを知りながら、私はそれを討滅するという任務も忘れ、かつての悪意を失いのうのうと平穏を享受していた貴様に交情を抱いた!! それが屈辱に感じて仕方が無いのだ!!」
「……」
掛けるべき慰めの言葉を失う悠人。ローラに好意を抱かせてしまったことによる後悔からそうなったのではなく、やり場の無い感情を撒き散らす彼女の想いに少し遅れて気付いたからであった。
彼女は悠人を責めているのではない。自分自身を責めているのだ。
吸血鬼の真祖の人情に触れ、共に護りたいものを護ることを誓ったにも関わらず、かつての強大な力を取り戻した真祖と反比例するように力が弱まってしまった聖女を恥と感じているのだ。敵同士であることを自覚しつつも共闘の盟約を持ち掛けた己自身が、幼馴染のためにそれに乗った真祖と対等な存在に成り切れていないことに悶えているのだ――。
「だから、貴様には分かってもらいたい。今の私は弱いのだ。共闘を誓ったものの、貴様に情を抱いた私は、以前よりも弱くなっている……」
先ほどよりも声音を弱々しく震え上がらせたローラが、悠人に掴み掛かった手を緩め、それを彼の背へと回してくる。まるで抱きしめるかのように。
「貴様ばかりが強くなったのでは意味が無いのだ。私も、神に愛想を尽かされたせいで弱まってしまった力を取り戻さねば……貴様が世界を敵に回した際、貴様を討つことができるのは私だけなのだから」
「……あの時言っただろ。俺は人間としての俺が失われないように精進する、って」
そう答える悠人もまた、ローラの背に手を回していた。二度と失われないように、失わせないように。
気高く高潔な聖女をここまで変えてしまったことへの責任感を感じつつ、しっかりと重みを利かせた言葉を続ける。
「だから、もっと俺を信用しろよ。俺は絶対にかつてのような残虐な俺には戻らないって約束するから、お前が俺を殺める未来が来ないようにするから。……そしてあの時の共闘の約束に関しても、今度は俺がお前以上に戦うって誓う。今まで俺のために戦ってきたお前の代わりに、取り戻した力を振るうって誓うから」
「……話を聴いていなかったのかね? それでは意味が無いと言ったであろうに……」
弱々しく肩を震わせながら応答するローラ。求めるように縋る彼女から漂う微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
刹那、悠人は今日一日頭から離れなかった彼女を求める焦燥感が加速する感覚を得る。
――そうか。俺は今、ローラのことを……
精神の深淵から際限無く湧き上がる情愛。それが誰に対してのものなのかが、天啓に導かれ降りてくる。
が、
『ねえ、悠くんは、今でもあたしの英雄なんだよね……? たとえ悠くんの心がローラちゃんに傾きつつあるんだとしても、それでもあたしだけの英雄でいてくれるんだよね……?』
数時間前に幼馴染が放った一言が思い出される。それによって情愛が蝕まれる。罪の意識が押し寄せてくる。
「――っ!」
気付けば、突き飛ばすようにローラと距離を取っていた。
熱に浮かされていた身体は急速に冷え込み、冷や汗が噴出し出す。甘い慈愛はとうに失せ、代わりに苦い後悔が脳内を支配し始める。
「あたしの英雄であることを忘れるな」――そういった類の話を叶からされたにも関わらず、自分の心はローラを求めてしまっていた。叶の想いに答えることもままなっていないというのに、ローラの想いに感化されてしまっていた。
一方の少女の想いを傷付けたままにしておきながら、すでに傷付いているもう一人の少女の慰めに走るなど、節操無しにも程がある。あまりにも最低な自分自身に、悠人は吐き気を感じさえもした。
「ユート……?」
突然の拒絶に、ローラはひどく困惑している。下校中の悠人と叶のやり取りを知らないのだから、その反応は当然のものだ。
何があったのかと測るような彼女の銀灰色の瞳。それがどうしてもこちらを責めているようにしか見えなくて、まともに見つめることを自身の良心が赦してくれなくて。
「……ごめん」
「っ!? ユート!?」
暁美悠人は二階のベランダから逃走した。
背後から聞こえるローラの引き止める声を無視し、夜の到来と共に上昇した身体能力を駆使し、ただ闇夜を駆ける。
突発的に家を飛び出したため、行き先は全く決めていなかった。が、ただ逃げることができればそれでよかった。
――ただ、ローラの顔も叶の顔も見なくて済む場所さえあれば、それで。




