狂王覚醒
「う、ぐっ……」
大剣による躊躇ない斬撃をまともに受けたローラは、ひんやりと湿った腐葉土の上に背中から倒れ込む。
胸から腹にかけての皮膚をぱっくりと裂かれたため、身を起こすことはできない。無理に身体を動かせば傷が広がってしまう可能性があった。
『……Eja mater, fons amoris, me sentire vim doloris, fac, ut tequm lugeaum(御子よ、愛の泉よ、我に悲しみの力を感じさせ、御身と共に嘆かせよ)』
ひとまず回復の神術を唱え、斬り裂かれた箇所を修復する。しかしこれは応急処置として縫合しただけだ。身を焼き焦がすほどの熱と激痛はまだ身体に残っている。
本来ならば完全に傷を癒し、その上で反撃を開始するつもりだった。が、悔しいことに予定調和とはならず。
「終わりだ、クルースニク」
理由は単純。ローラが神術を詠唱している間に、未だ無傷のゼヘルが首筋付近に剣を突き立てていたから。
痛苦に身体を侵されたままのローラはまだ動くことができない。このままの状態だと首を裂かれ問答無用で冥府直行だ。
今までの任務でも生命の危機に晒されたことはあった。その度にどうにか奇跡的に生き延びてきたが、とうとうこの時を以て短い生涯が幕を閉じるのか。
(……すまない)
死を前にした聖女が真っ先に感じたのは、これまで出逢ってきた者たちへの懺悔だった。
何度も共に戦い幾度となく自分を慕ってくれていたマリーエンキント教団の団員たち。今でも吸血鬼の脅威から人間を護ってくれている彼らよりも先に天へと逝ってしまうのは心苦しい。
自分の初めての同性の友人となってくれた浅浦叶。意識を失っている彼女は、この戦いを知らない。敵から護ることすらできず知らぬ間に袂を分かつことになるのは胸が痛い。
そして、敵対する運命にあることにも介意せず、まるで自分を普通の少女のように扱ってくれた暁美悠人――
(……不甲斐ない少女で、本当にすまなかった……)
全てを諦観するように、ローラはそっと目を閉じる。そうすると、真紅の刃の鋭い切れ味が首筋の皮膚から脳に伝播される感覚が伝わってきたような気がした。
そして、突き刺さっている刃がそっと地面から抜かれ、ひゅんと風を切る音と共にローラの白く細い首が横薙ぎにされ――
『Tu fui,ego eris(我は汝、汝は我)……Tu fui,ego eris(我は汝、汝は我)……』
――なかった。
詩が聴こえる。未だに仮死状態にあると思われていた少年の声で綴られる詩が。
喋れもしないはずのラテン語を狂ったオルゴールのように漏らし続ける彼が纏う雰囲気は、明らかにそれまでとは異質。
口角を釣り上げて不気味に嗤う彼からは、絶対に触れてはいけない呪いに近しい気配が漂っている。何処までも禍々しく、だがその中には神聖さも含まれている、邪神のごとき恐ろしい気配。まるで「我に畏怖せよ」とこちらに強要しているようにも思えた。
雰囲気に魅せられているせいなのか、ゼヘルがこちらに対し斬撃を仕掛けることは無かった。ただ彼は大きく隻眼を見開き、詩を紡ぐ少年の方向を凝視している。
「……真祖、様……」
ゼヘルは振りかぶっていた剣をだらりと下ろし、ローラの傍からも静かに離れる。
そして少年の元へと静かに歩み寄り、そして跪こうとした。
「……自分は四百年もの間、貴方様が再び力を取り戻しなさる日を待ち続けて――」
「畏まる必要は無い。今宵は儀礼の場では無いのだからな」
「……は」
少年に座礼を制止されたゼヘルは、跪くことを止め、彼の前で直立することを選ぶ。
その過程で、ローラは気付く。
彼の喋り口調は、これまでのものとは違い随分と古風だ。それに加え、何処か高圧的で傲岸不遜な印象も感じさせる。
(アケミ……まさかユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムとしての記憶と意識を取り戻したのか……!?)
しかし少年は――ユークリッドは倒れているローラにはまるで気付いていない様子。陰湿な笑みを浮かべながら、ただゼヘルにだけ向き合っている。
「久しいな、我が忠実なる眷属――ゼヘル・エデルよ。こうして面と向かったのは実に四百年ぶりであったか?」
「いえ、数日前にもお会いしているかと思われますが……」
「あれを数えるでない。あの時の余は不完全に力を取り戻しただけのこと。全盛期の力を完全に手に入れた余が貴様と再び相見えたのは、今宵が初のことよ」
まるで親しい友人に語りかけているかのように、今のユークリッドはあまりにも鷹揚。
しかしローラもゼヘルも気付いている。彼の深紅の瞳の奥には底知れない邪念と憤怒が宿されている、ということに。
「さて……旧き知人との語らいはここまでとして、本題に移るとしよう」
吸血鬼の王の冷たい笑みは、周囲の空気を自然と張り詰めたものへと作り替える。
「まずはゼヘル・エデルよ、大義であった。ほかの四使徒の輩にも言えることであろうが、真祖の空席を四百年もの間聖騎士たちから死守したことは褒めて遣わそう」
「は。ありがたきお言葉にございます」
「だが――余が了承していないにも関わらず、一体誰の了見があって余を本来あるべき場所へと連れ戻そうとしている?」
「それは――っ!?」
ユークリッドは片手をゼヘルの首筋に宛がった。かと思いきや、そのまま片手で太い首を掴み上げる。
同じ男性同士でも、ゼヘル・エデルと比較すればユークリッドの方が幾分か小柄だ。だが彼はとても涼しい顔付きで、己の部下の首筋を人外の力で締め上げている。
「『再び貴様らの元へと帰る』などと余が一度でも口にしたことがあったか? 仮に以前口にしていたのだとしても、そんな昔の口約束をまるで訓練された犬のように易々と信じていたのか?」
「ぐ、あっ……!」
「しかもカインか誰かの差し金かは知らぬが、よくぞ己が独善的な行為によってこの余の身を傷付けてくれたな? クルースニクでなければ殺せぬ身であるとはいえ、主君の胸に平気で大穴を開ける忠実な配下がこの世に存在しても良いと本気で思っていたのか?」
ゼヘルは蒼白い苦悶の表情を浮かべている。呼吸が止められる痛苦というのはさぞかし壮絶なものだろう。吸血鬼という特性が故、これだけでは死なぬのだから尚更だ。
苦しげにもがく配下をまるで嘲笑うかのように、ユークリッドの冷笑がより一層の酷薄さを帯びた。
「眷属の醜態は主の醜態。貴様は余に恥辱を与えたも同然だ。恥を知れ」
首を締め上げることに飽きたのか、ユークリッドは配下を掴む手をぱっと放す。気道を塞がれ失神寸前にまで追い込まれていたゼヘルは、受け身を取ることすらできず地面に倒れ込んだ。
だが、ユークリッドによる鬼畜な折檻はこれで終わらない。
「ところで、四百年前に幾度か余が貴様の手合わせに付き合ってやったことを覚えておるか? それに今一度付き合ってもらいたい。力を取り戻したばかりの余の鈍った腕を直さねばならぬのでな」
「……」
「まだ絞首の影響で口答えできぬか。……まあ、よい。肯定したものと捉えるぞ」
言いつつユークリッドは、片手を自身の前方に突き出す。
「来たれ、我が半身――『魔帝ノ黒杭』」
突き出された腕から濃密な闇が放出される。しかしその暗黒は誰のことも包まない。ユークリッドの眼前で、ユークリッドに相応しい新たな形に自ら生まれ変わろうとしているのみだ。
闇が吐き出したのは、柄から刃に至るまでが黒に染められた両刃の大剣。その剣の最大の特徴は、鍔に装飾として組み込まれた、爬虫類の眼球のようにギョロギョロと蠢いている紅の宝玉だった。
目の前で顕現した黒い剣を、ユークリッドは片手で素早く取る。そして流れるような動作で、その切っ先をゼヘルに突き付けた。
「立て。立たぬと手合わせができぬであろう」
「……」
「立 て と 言 う 命 令 が 聞 こ え ぬ の か ?」
凄みの利いた声でユークリッドが言った瞬間、苦しげに噎せていたゼヘルの身体がすくと立ち上がる。その様子はまるで、糸に吊られた操り人形のようで。
真祖は格下の吸血鬼たちを声だけで強制的に従わせることができる――そんな話をローラは聞いたことがあった。ゼヘルが強制的に起立させられたのもそれが所以なのだろう。
「僭越ですが真祖様、この手合わせの準規とは一体……」
強制的に立たされたゼヘルが困惑したように尋ねる。するとユークリッドは、片腹痛いと言わんばかりに笑ったのであった。
「準規? そのようなものは必要あらぬ。何故なら――」
そうやって嗤ってユークリッドがゼヘルの視界から消えたのが一秒後のこと。
「――今の貴様には試し斬りのための道具としての役割しかないのだからな」
そしてユークリッドがゼヘルの首筋を斬り付けたのが二秒後のことであった。
しかし、ゼヘルの首にできた裂傷は非常に浅い。まるで猫に引っ掛かれたかのような、痛みすらも感じないであろうくらいのとてつもない軽傷である。
だがゼヘルは、自身が敗北したことを察する。無論それは参戦することができずにいるローラであっても同じ。
重傷であれ軽傷であれ相手の身体に傷を負わせること――それこそが、ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムの強力で凶悪な呪いの発露なのだから。
「貴様は一度余のことを斬ったのだ。こちらが一方的に斬ることも許されるであろう?」
そう語っている間の五秒間、本当に何の予備動作も予兆も無く、
「――っ……!!」
それまで繋がっていたはずのゼヘルの首が、唐突に地へと落ちた。
敵であれ味方であれ、自身に不快な思いをさせた者には容赦無い。
凶悪な死の呪いを身勝手にされた怒りから発した男を前にして、そうローラは再確認させられた。
「愚かな余の眷属よ、主君たる余の意思に反する行為に手を出さねば斯様なことにはならなかったのにな……!!」
確固とした忠誠心を持っていた配下でさえも躊躇い無く斬首した吸血鬼の真祖は、宵闇の森の中でただ悪辣なる哄笑を上げるのみ。




