悪意の萌芽
真紅の大剣に白き聖女が斬られる光景を、暁美悠人は薄目で見ていた。
(ロー、ラ……)
幸いにも斬撃は臓器にまでは到達していない。胸から腹にかけての肉が縦に裂かれただけだ。
しかし彼女は激しく出血している。放っておけば確実に死ぬ。
ここで自分が動かねば。
(くそ……っ、どうして俺は、何もできずに……)
心臓と胸の損傷はほとんど修復し、踏ん張れば何とか動けるまでには回復していた。
が、何故か悠人の身体は動こうとしない。動かす気すら起きない。
ゼヘルの超人じみた身体能力に怖気付いたのか、それとも――
(たぶん俺、最初から諦めてたんだ……『どう足掻いても運命は変えられない』って、割と最初から……)
「護りたい」という想いはあった。しかし「自分は冷酷非道な吸血鬼の王だから護るなんて大層なことはできない」という疑問も抱えており――そんな矛盾を無意識に孕んだままで、現在起こっている惨劇に足を踏み入れたのだ。
最初はあれだけ否定していた「自分は吸血鬼だ」という自覚をいつの間にか受け入れていたことが、その矛盾を正当な理由として大きく裏付けている。
(……ああ、そうだ。今の俺は矛盾の塊だ。『人類の敵が人類を護ろうとする』、俺のその行為自体が理から矛盾している……)
だが――
(……だが、そんなの知ったことか)
護るべき者たちが命の危機に瀕したこの今、自身の矛盾など気にしている場合ではない。
自分の行為が間違っていようが関係無い。ただ、大切な存在を護るためだけの力が欲しい。
(俺が吸血鬼の真祖だっていう事実は絶対に変えられない……が、だからといってそれらしく振る舞う必要なんか無い! 俺は俺のやりたいように生きるだけだ!!)
――そう、かつて世界を欲しいままに蹂躙した過去の自分自身のように。
(思い通りにならない世界ならば壊してしまえばいい!! 俺の行動を阻害するものは殺してしまえばいい!! 護りたい存在を護る、それさえできれば――!!)
そのためには、力が必要だった。
人間のままの今の自分はあまりにも無力。護るために必要な力が圧倒的に足りなさ過ぎる。
だから、今まで忌避していた彼を呼び起こす。
(目を醒ませ、もう一人の俺。世界の理なんかどうだっていい。世界の敵が世界に従う必要は無い。自分の望む結末さえ手に入れられれば、自分を縛る世界など滅んでもいい)
今まで心の奥底に押し込めていた暗黒全てを解放する。
傲慢強欲我欲獣欲肉欲色欲殺意敵意害意欲望野望嘱望悦楽道楽愉楽快楽淫楽淫乱淫蕩淫靡耽美甘美加虐残虐暴虐嗜虐――己の真実を知って以来見ないふりをしてきた、己自身の悪意全てを。
(大切な存在を護るための、いや、逆らう存在全てを壊すための力を寄越せ、もう一人の俺自身――吸血鬼の真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルム!!)
*****
そして、彼はゆっくりとその身を起こす。
『Tu fui,ego eris(我は汝、汝は我)……Tu fui,ego eris(我は汝、汝は我)……』
意味深長な詩を繰り返し口ずさみながら立ち上がる彼。
その表情には、他の吸血鬼とは比べ物にならないほどの邪悪な笑みが湛えられていた――。




