既視感と危機感と
「久しぶり、ローラちゃん」
黒い翼竜の背に立ち乗った状態で、吸血鬼の少女はローラに声を掛ける。
「こうして会ったのは数ヶ月ぶりのことだね」
言葉だけを取れば旧友との再会を喜んでいるように思えるが、実際はその真逆。表情にも声音にもポジティブな感情は全く含まれておらず、どころか敵意に満ちた視線をローラに送ってさえいた。
彼女の発言から察するに、おそらく自分はこの少女と一度何処かで邂逅しているのだろうが……
(……このような女は知らない)
僅かにだが、過去に同い年くらいの少女と親しくしていたような記憶が曖昧に残っている。
が、どうしてもその時のことを思い出すことができない。「自分は最初からこうして幽閉されていた」という事実が記憶の大半を支配しており、それ以外の出来事を思い出すことを拒んでいた。
「……まさか、記憶を失くしたの?」
そんなローラの表情を見た吸血鬼の少女が、目を僅かに細めて問うてくる。
「日本で高校生活を送っていたこともあたしたちがまだ友達同士でいた時のことも、そしてユークリッド様……悠くんのことを愛していたことも。全部覚えてないというの?」
「……ユーくん……? 誰のことだね、それは……」
と、眉根を寄せた途端、
『それでもお前が聖女としての使命感や過去に対しての罪悪感に耐え切れなくなったら、その時は俺がお前の負の意識を全部引き受けてやる。恋人である以上、彼女が苦しんでいる時は力を貸してあげるのが役割ってものだろうからな』
脳裏で何かがフラッシュバックを起こし、聞き覚えのある声がそのまま一気に再生され始めた。
「――っ、ぐ、あ!?」
押し寄せた記憶の断片の怒涛によって脳か許容範囲を超え、思わず嗚咽を漏らしてしまう。あまりにも短時間で膨大な記憶が高速で脳裏をよぎった反応は、激しい頭痛として跳ね返ってきた。
(分からない、記憶に無い……が、私は彼のことを知っている……!!)
吸血鬼の少女が口にした「悠くん」という名は、おそらくは真祖ユークリッドのこと。こちらの宿敵であることは確かだが逢ったことが無いはずの物の名だった。
出逢えば即座に殺し合いに発展するはずの彼と何処で出逢ったのか、今のローラには全く記憶が無い。
だが、今確かに言えることは、自身がが世界の敵たる真祖ユークリッド・ドラクリヤ・クレプスクルムのことを愛していたという事実は、何かの間違いに違いないということ。
「僅かには、脳裏に蘇った、が……!」
ぜえぜえと荒く息を吐きながら、ローラは少女を睨み付け告げる。
吸血鬼を滅ぼす使命を神より受けたクルースニクである己が、宿敵たる真祖ユークリッドに恋慕を抱くことなど、決して有り得る話では無い。そう彼女に言い聞かせるべく、動揺する自身を隠し虚勢を張ってでも対峙することを選んだ。
「私と彼は、断じて恋人同士では無い……!!」
「……」
ローラの決死の言葉を受けても少女は沈黙を貫いていたが、紅の瞳は僅かに瞬いている。感情は見えないが驚いているらしい。
だがその驚きは肯定的な感情から生じたものでは無い。どちらかと言えば落胆と失望を綯い交ぜにしたようなマイナス寄りの感情だ。
「……何それ。呆れた」
ローラに対し軽蔑の視線を向けながら、少女は言う。
「敵同士赦されない恋に落ちて、互いにどうしようもない障害に阻まれて、その果てにローラちゃんは今までのことを全部忘れちゃったんだね」
「何度も、言わせるでない……!」
「たとえ世界を敵に回しても愛することだけは諦めない、って悠くんもローラちゃんも固く誓っていたはずなのに。全部忘れちゃったローラちゃんは、大切な悠くんを愛することをやめちゃうんだね」
「そんなこと、ある訳が……!」
「悠くんは、今でもローラちゃんのことを強く愛しているのに」
真祖がクルースニクを強く愛している――それは「吸血鬼は神を憎むべきであり、神は吸血鬼を滅ぼすべきである」という、あらかじめ定められていた世界の理に反した事実。
当然、物心着いた時から吸血鬼への敵愾心を叩き込まれているローラにとって、それは身に覚えの無い話。そして、都合のいい絵空事としか思えない話であった――
(何、故……)
――はずなのに。
(彼、が……!)
心が、とてつもなく痛くて苦しい。
未だ会ったことも無い真祖のことを想うと、何故か激しく胸が痛む。心臓が破裂したかのような衝撃に身を縛られ、呼吸することさえも無意識に止めてしまう。
どうしてそう想ってしまうのか全く分からない。彼に対しての切ない感情を紐解こうとすればするほど思考がこんがらがってしまう。逆にこれが愛情なのかと潔く認めようとしても、自分に定着した聖女としての使命が強く拒絶し、彼への感情が敵意や憎悪へと勝手に変換されてしまう。
もはや意識を閉ざした方が楽になれるのではと思うほどの感情の奔流に弄ばれ、ローラの脳と胸がより一層大きな悲鳴を上げた。
「……やっぱり、思い出せないか」
混乱するローラを冷たい目で見下ろし、吸血鬼の少女は唇を軽く噛む。
「まあいいや。忘れたなら思い出させればいいだけだし」
微かに諦観の表情を浮かべた彼女は一歩前へと足を踏み出し、片手をすっとこちらに突き付ける。
これは紛れもなく、少女による攻撃の予兆。存在しないはずの記憶にもがき苦しんでいたが故、気付くのに数秒もの致命的な遅れが生じてしまった。
「本当は思い出さないでくれたらあたしとしては嬉しいんだけど……これはユークリッド様のためだから。悪くは思わないで」
刹那、自室にあった家具や装飾、照明の全てが透明な水へと変換され、怒涛と化してローラへと押し寄せてくる。
質量に換算すれば、おそらく二十五メートルプール一つ分ほどの水量だろう。押し寄せてくれば溜まったものでは無い。
「――っ!!」
あまりにも突然の出来事。苦悶していたローラには、避ける間も無ければ防御する間も無かった。
(せいぜい、溺死さえしなければ済む話だが……)
どう足掻いても被弾は不可避。流されること、呑み込まれることを覚悟したローラは、せめて命拾いさえすればいいなと思いつつ強く目を閉じる。
だがこちらの悪い予想に反して、水に呑み込まれることは無かった。
「それ以上、我が愛し子へ在りもしない妄言を吐くのはやめてもらおうか」
これまでずっと事態を静観していたイェルクが、たった一睨みしただけで、膨大な質量の水が一滴残らず雲散霧消したのだから。
「……な」
一体いつ、迎撃の姿勢を見せたのだろうか。ローラも吸血鬼たちも、この場にいる誰も彼もが、不可解な現象に度肝を抜かれている。
皆が言葉を呑み沈黙する最中、当のイェルクは攻撃の手を止め呆然と竜の背に突っ立つ叶に向け、はんと鼻で笑いつつ蔑視した。
「彼女が真祖ユークリッドの恋人だと? 笑わせるな。そんな訳が無かろう」
「でも、前までは確かにそうだった。前までローラちゃんの友達でクラスメイトだったから、ローラちゃんと悠くんのことをずっと見てたから、確かにそう言える」
「何かの間違いでは無いか? 彼女は俗世に染まらぬ純然たる聖女であり、真祖を滅ぼすという使命に忠実なクルースニク。それ以上でもそれ以下でも無い。其方の勝手な妄想で決め付けるのはやめてもらおうか」
今度はイェルクの方が、吸血鬼たちの元へと一歩踏み出す。
無論、何のためかは十二分に理解できる。劣悪な敵を排除するためだ。
「こんなところで手を汚したくは無かったのだが、悪くは思うなよ?」
詠唱も武器も無しに、砲撃の神術を撃ち込もうとするイェルク。不敵な笑みと共に放出された莫大な聖なる力は、可視できるほどに周囲へと撒き散らされ、バチバチと耳障りなスパーク音を立てながら砲丸の形へと具現かされていく。
卓越した神術の才能を持つローラの目から見ても分かる、あまりにも桁外れな威力を秘めているであろう一撃が、今突然の闖入者に向け解き放たれんとしていた。
「この程度で……!」
だが少女は怯まない。ローラの部屋をぐるりと取り囲んでいた壁を全て水の塊へと変換し、それを盾にする形でイェルクを迎え撃とうとする。
しかし、両者共に全力の一撃をぶつけ合おうとしていた刹那、
「駄目だ、カナ!」
「っ、えっ!?」
カナという名らしい吸血鬼の少女を乗せていた竜が突如急旋回。これ以上教団から接触されることを避けるかのごとく、ぐいとローラたちの元から身を引いた。
敵側に強引に間合いを開けられたせいか、イェルクの攻撃の一手は被弾せず的外れな方向へ。彼方の空で雷鳴のような爆音が響いたが、それには全く意を介さず、竜は剣呑めいた声音で少女を説き伏せていた。
「ここにはもういてはいけない。今はまだ死にたくないだろう?」
「でも……」
「それに、こんなところで配下が想定外の事態に巻き込まれて死ぬなんていうシナリオは、ユークリッド様だってお望みじゃない。ユークリッド様の名誉のためにも、僕たちでどうこうせず一旦退くべきだ」
「……うん」
あまりにも強引で強制的な撤退に、少女は最初は不服そうにしていたものの、竜に説得され一応は納得したようだ。大人しく従い、切羽詰まった様子の竜と共にこの場から退去する。
それでも、至近距離にいた怨敵を意識することを放棄した訳では無いらしい。
「……今回は命拾いしたね。でも、あたしはまだ、悠くんの一途な想いを無駄にしたあなたのことを許していないから」
遠ざかりつつも背後を振り向き、ローラの姿を冷たい視線で一瞥している。
「……どうせこうなるんだったら、最初から好きにならなければよかったのに」
そうして彼女は、黒い竜と共に遥か彼方の空へと消えた。
静謐な悋気と失望に満ちた一言を、置き土産に残して。
(……何だったんだ、今のは……)
吸血鬼たちの姿が遠く離れて完全に見えなくなると同時、ようやく精神的な呪縛から解放されたローラの膝は糸が切れたように頽れる。
だが、激しい動悸と頭痛は未だに止まらない。少しでも気を抜けば、見知らぬ記憶と少女の痛い言葉が瞬く間に蘇ってくる。
訳の分からない感情に押し流されぬよう。これ以上苦痛を味わわぬよう。ただローラは自分の肩を抱きかかえ蹲ることしかできなかった。
「奴らの甘言に惑わされるな、ローラよ」
理由も分からず心と脳が締め付けられる感覚に翻弄されるこちらを見かねてか、やけに優しい声をしたイェルクがそっと寄り添ってくる。
「奴らは其方の心を誑かそうとしていたのだ。神の祝福を受けたクルースニクたるもの、決して悪しき存在の声に耳を傾けるでない」
「……そう、だな」
何度も背を優しく擦られ、何度も精神安定の言葉を掛けられ。ようやくローラの苦しみ足掻く心は凪のような落ち着きを取り戻す。
(そうだ。彼女の言葉は世迷言、吸血鬼が吐く言葉は何の意味も無い戯言……それを真摯に聞き入れるなど、クルースニクとしてあるまじき姿だというのに)
聖女が悪しき存在の言葉を真に受けるなんてあってはならないこと。真実であろうが嘘であろうが、断じて彼らの言葉に惑わされてはいけない。
そう心に固く誓ったローラは、地に着けていた膝を上げ、普段通りの凜然とした様でイェルクへと向かい合った。
自分はもう大丈夫だ、と彼に言い聞かせるかのように。
「すまない、私がどうにかしていた」
「礼には及ばぬよ。其方が聖女として相応しき姿で在り続けているだけで、私の心は幸福感で満たされるのだからな」
「……その不愉快な発言さえ無ければ及第点だったのだが」
先ほどまでの頼れる姿は何処へやら、再びこちらへと理解し難い言葉を送ってきたイェルクの有り様に、ローラは肩を竦める。
と、場の雰囲気が吸血鬼たちの襲来する以前の和やかなものに戻ったところで、ローラは先ほどイェルクに来室の旨を問おうとしていたことを思い出した。
「ところで、先ほど問おうと思っていた用件についてだが、」
「それに関してだが、実は大した意味など無かったのだよ。我が愛しのローラの姿を一度でもいいから目に入れたいという積年の想いが募り、とうとう今日其方の元へと相見えんと――」
「……」
――今度ヴァレンシュタインに頼み、この男を金輪際出禁にしてもらおう。
結局何の用も無く訪れただけのストーカー紛いに対し、ローラは額に青筋を立てながら想った。
*****
「……カイン。さっきの言葉、どういうこと?」
マリーエンキント教団本部の周辺の空を飛ぶ黒い竜。
その上に騎乗しているカナは、竜に――というよりも竜の姿に変身したカインに問いただす。
「その気になればローラちゃんのことをユークリッド様の元へと連れ去ることも可能だったはずでしょ? なのに、ユークリッド様第一のあなたがそうしなかったのはどうしてなのかなって思って」
「……何となくだけど、悪い予感がしたんだ」
「でもさっきのローラちゃんがこちらの脅威になるとは考えにくいし……ってことは、ローラちゃんの隣にいた彼が危険だってこと?」
「……その通りだよ」
竜の巨体とは相反するか細い声で、カインは答えた。
爬虫類特有の固い鱗に覆われた顔をしている彼の表情を読むことは、今は不可能。しかし何処か緊張に引き締まっているようだと、カナは何となく感じた。
「これは僕の長年の勘だけど、クルースニクの隣にいたあの男は、ただの人間じゃ……否、そもそも人間ですら無いと思う」
「……それって、」
「よく考えてみてほしい。神の祝福を受けているクルースニクでさえ気付かなかった僕たちの異能による隠蔽を、壁を隔てた位置であっさり看破するだなんて、ただの人間だったら絶対にありえないことだろう?」
「まあ、確かに……」
「それに、彼は何処と無く全盛期のユークリッド様と似ている気がしたんだ。あの神術による砲撃は、きっとユークリッド様と同等の人外めいた力が無いと出せないだろうし」
「つまり、あの人はローラちゃんと同じくらい……どころかそれ以上の力を秘めているってことなの?」
「……たぶん」
一連の問答の中、カナは気付く。
普段は冷静沈着なはずの彼の声が、心做しか恐怖に震えていると。
「おそらく彼は……吸血鬼を根本から簡単に抹消する力を持っている」




