誰のための
そして、放課後。
自身の役目と役割を肝に銘じたローラは、今までよりも気分が軽くなった心地を感じていた。
故につい数時間前よりも、狂いつつある悠人に対し臆すること無く接することができたような気がする。
「なあローラ、今日帰りに立ち寄りたい場所があるんだけど、俺と一緒に行ってくれないか? どうしてもお前が傍にいないと不安でさ」
「分かっている。要は有無を言わさず貴君に同行すればいいのであろう?」
「本当か? 分かってくれて嬉しいよ、ローラ」
本心が見え透いているにも程があるその言葉に返答をすると、悠人はぱあっと顔を明るくさせた。
その喜色満面の笑顔に心惹かれているのもまた事実。彼のことを心から愛しているローラは、改めてしみじみと実感する。
「然して、何処に行くつもりなのかね? 校内……という訳では無さそうだが」
「デート」
「……あ、ああ」
随分と率直な答えに、ローラは唖然。
もちろんデートが何を指す言葉なのかはローラでも知っている。恋人同士での逢引、二人だけの仲睦まじい時間――かつて叶がまだ親友だった頃、彼女がそんなことを弾んだ声で語っていたことを思い出した。
しかしそれは、もっと精神的に余裕のある時に楽しむべきなのではないだろうか。少なくとも、教団が一気呵成で襲撃してくる時が刻一刻と迫っている中、悠長に二人で仲良く遊んでいる訳には……
(……いや、一理はあるか)
マリーエンキント教団の襲撃をこちらが確実に穏便に退けられるとは限らない。もしかしたら何かしらの不運により、聖騎士たちの思惑通り本拠地へと連れ戻され、悠人と決別してしまうことがあるかもしれない。
だからせめて、猶予があるうちに彼との平穏な日常を享受することは一考なのではと思う。いつまでも共にいられる関係では無いのだから、余計に。
「ローラ? 何ボーッとしてるんだ?」
「……すまん。少しばかり思考に耽っていた」
悠人に呼び掛けられ、ローラは思考の海から現実へと戻る。
「で、どうする? 行くか? 行かないのか? ローラが『行かない』って言うなら素直に止めるけど――」
「……それは――」
改めて、恋人より誘いを投げ掛けられる。
しかし先程とは異なり、ローラはきちんと決断していた。
グレイも言っていたように、この与えられた一ヶ月間だけの穏やかな日々は、彼と共に愛し合うことのできる最後の機会。
長いようであっという間の時、なおかつ敵が襲い来る前に運良く訪れた平和なのだから、無駄にするのは勿体無い。
だから、
「――当たり前だ。何の邪気も無い貴君の誘いならば、当然行くに決まっているであろう」
だからローラは、悠人の誘いに乗ることを選んだ。
悠人自身が何を思ってデートに誘ったのかは分からないが、敵より与えられた彼との時間を有効活用するのに、目いっぱい彼と共に過ごすというのは最適の提案だろう。
尤も、彼と離別する気など微塵も無いし、離別させられる気もさらさら無いが。
しかし何か不幸が起こる可能性が杞憂では無い以上、今のうちに恋人らしく共に在るべきなのではないか。そもそも教団の介入の有無にかかわらず、いずれ決別する運命にある自分たちだが、せめて今だけは恋慕を深め合っていてもいいのではないか。
そんな甘いことを、この時までは考えていた。
*****
悠人がローラのことを連れて行った場所は、駅前のショッピングモールだった。
しかしより正確に言えば、ショッピングモール前の広場で開催されていたクリスマスマーケットだった。
「……こういうこともやっていたのだな、この街は」
「ああ。ちなみにこのクリスマスマーケットは、メルヘンエンパイアと並ぶ夜戸市の名物だったりするんだぜ。たぶん、この街の権力者も兼ねているうちの理事長の趣味でやってるんだろうな」
ぽつぽつとした会話を互いに交わしながら、仕事帰りだったり学校帰りだったりする人々で溢れるクリスマスマーケットの喧騒の中を歩く。
夕闇が差した街路をイルミネーションが煌びやかに照らし、点在する屋台にはクリスマスのオーナメントやデフォルメされたサンタクロースの人形が所狭しと並べられている。まるで異国に来たかのような幻想的な雰囲気が、そこら中から漂っている。
焼きソーセージや粉砂糖をまぶしたケーキのいい匂い、売り子や買い物客の喧騒なども相まって、まだクリスマスでは無いというのにもう当日なのだと錯覚しそうになった。
「ローラって確かドイツとかその辺りの出身だろ? だからこういうドイツらしいイベントだと楽しめるのかなって思って」
「……そう、だな」
明るく振る舞おうとしたものの、ついローラは歯切れの悪い返答をしてしまう。
確かに自分は、教団の本拠地があるドイツで長いこと生活していた。が、だからといってその生活の中でドイツらしいものに触れていたかと問われると、そうでは無い。
むしろ、聖女として完璧で穢れ無き存在であることを求められていた自分は、教団の外に溢れている世俗的なものには一切触れさせてもらえなかった。
当然、クリスマスマーケットに連れて行ってもらったことは一度も無い。だから悠人が「楽しめるかなと思って」と思って連れて行ってくれたのだとしても、自分には楽しみ方が全く分からない。
「……あ、よく考えたらそうだよな。ローラは教団に縛られ続けた聖女だから、こんなこと経験したこと無いんだよな」
「悪い」と小さく謝りながら、悠人は困ったような顔で苦笑する。
聖女の過去を何一つ知らない悠人でも、ローラが自由を制限されていた立ち位置にあったというたった一つの事実だけは知っている。そのことを盲点としていたが故、苦笑せざるを得なかったのだろう。
「……まあとにかく、今はローラの辛い過去についての話は無しだ。初めて経験する新鮮な出来事なんだから、今くらいは教団のこととか自分自身のこととか忘れて楽んだもの勝ちだぞ?」
そう言って悠人は、苦笑を微笑へと転じさせ、ローラの手を軽く引いた。ローラの不安を取り除くべく、心の底から楽しいひと時を過ごさせるべく。
「あ、そういえば前偶然知ったんだけどさ、お前ってちょうどクリスマスの時期が誕生日なんだよな?」
「……っ!? あ……いや、確かにそうではあるのだが」
自分の誕生日がちょうど降誕祭の時期――十二月二十五日であるということは、これまで悠人に直接的に伝えたことは無い。それなのにどうしてこちらの生まれた日を知っているのだろうかと、ローラは問われるや否や動揺してしまった。
しかし、よく考えてみれば大して気にすることでも無い。生年月日というものは、学園内外問わず公的な資料ならば必ず記入させられる事項。それを偶然目にしてしまったが故に知ってしまったということも可能性としては大いにあり得るであろう。
(一体いつ何処でユートが知ったのかは定かでは無いが……)
やや引っ掛かる点は残るものの、さりとて最重要視する問題でも無い。ローラはぶんぶんと首を振ることでその懸念を振るい落とし、不意に浮かんでしまった疑念を忘れ去ることを決意。
一方悠人は、訳も無く煩悶とした様子を見せるローラを前に、怪訝そうに目を細めている。
「……ローラ?」
「な、何でも無い。それよりも、今は貴君と楽しむことを最優先とする」
こちらの内情を悟られぬようにと、ローラは悠人から屋台の方へと視線を逸らし、気を紛らわすつもりで陳列されていた商品を手に取る。
その結果手中に収まったのは、赤鼻のトナカイのぬいぐるみ。適当に手にしたつもりだったが、なかなかに自分の好みに刺さる外見をしていた。
「ほら、見てみるがいいユート。此奴、とてもかわいらしい眼差しをしているではないか。私の想像する馴鹿は些かいかついものであったのだが、此奴は何ともかわいらしい団栗眼で――」
「……欲しいのか?」
「まあ、欲しいか欲しくないかと問われるならば欲しい。此奴が誕生日に贈呈されたのであれば大層私の心は満たされるであろう。絶対に」
「……そんなにか?」
「私は本気だ。冗談は言わない……であろう、おそらく」
ここ最近狂っている恋人に対し僅かに懐疑心と恐怖心のようなものを抱いていることを、当人に察知され、余計に正常な人間としての箍を外させる訳にはいかない。畏怖する内心をひた隠すように、ローラはひたすら出任せのような言葉を連ねていた。
その結果、話の展開が斜め上の方向へと行ってしまったように思えるが。
「……そうか。ローラの趣味はそういうものなのか……分かりやすいな……」
適当に口にしたつもりの言葉を、よりにもよって悠人は真に受け止めていた。
腕を組みしばし考え込むような所作を見せた後、彼は「ちょっと待ってろ」と言い残し、ローラを置き去りにして屋台の方へと駆けて行った。
それから、待つこと数分後。
「お待たせ。少し手間取った」
悠人の手には、新たにラッピング用のリボンが巻かれた、先ほどローラが気を紛らわすつもりで手に取ったトナカイが抱かれていて。
それを彼がどうするつもりなのかを、想像することはかなり容易だった。
「はい、これ。さっき欲しいって言ってたから。……本当はもっと凝ったものをあげたかったけど、ローラが『これが欲しい』って言うならこれくらい妥協するよ」
整った顔に柔らかな笑みを湛え、悠人はトナカイを自分の手からローラの手へと移す。
その際に、ふと気付く。トナカイの首元にさりげなく添えられたメッセージカードに「Merry Xmas,and Happy Birthday」と記されていることに。
当然、誕生日プレゼントとしての役割を想定されていない人形に、このような言葉が最初から添えられている訳が無い。つまりこのメッセージカードは、悠人が最初から密かに用意していたものということになるだろう。
「ユート、まさか貴君……」
「……実は今日ここにお前を連れてきたのは、お前の誕生日を祝うためなんだ。本当はもっとクリスマスに近い時期の方がいいのかなとは思ったけど、きっとその頃にはマリーエンキント教団が襲撃してくる頃だし、心に余裕も無いだろうなって思って……」
やや照れ臭そうな表情で語る悠人は、癖の無い黒髪に片手を宛がい、恥じらいの仕草を見せる。これがばつが悪くなった時に見せる悠人の癖なのだということは、かつて彼の幼馴染だった少女から聞いていた。
しかしなお、彼にはまだ伝え切れていない言葉があるようで。
軽く深呼吸して心を落ち着かせた後、悠人は深紅の瞳でまっすぐにローラを射貫き、再びはにかみながら小さく言祝ぐ。
「えっと……カードには書いたけど改めて口から言う。メリークリスマス、そしてハッピーバースデー」
「――」
愛する者より祝福の言葉を授かったローラの心は、体内の奥底から急上昇した恋情によってきゅんと高鳴った。
最愛の恋人のためここまで用意周到なことをしていたという事実に、驚くと共につい嬉しくなってしまう。
同時、この一面だけ見れば全く狂っていないように思える彼の恋慕にそれと無く触れてしまい、つい胸の内を温かくさせてしまう。
たとえそれが歪んだ形であるとしても、暁美悠人が心からローラ・K・フォーマルハウトのことを想っているというのは真実だと知ったから。
「……優しすぎるな、貴君は」
「え? 俺が?」
「ああ。本来は敵同士であるにもかかわらず、宿敵のはずの私を心から案じ、愛し、慈しもうとするとは……」
「当たり前だろ? かつては残虐非道な吸血鬼の王だったけど、今の俺はローラにとっての『英雄』なんだから。これくらいどうってこと無いって」
だが、その発言を受けた途端、温かくなったはずのローラの胸の内はまたしても真っ逆さまに氷点下へと叩き落とされた。
熱く湧き上がった恋情も、一瞬のうちに冷たく凪いでしまう。
(……何を、彼は何を言っている?)
ボトリ、とトナカイのぬいぐるみを地へと落とす。何処か当ての無い方向へと転がって行ってしまったが、今はそんな些細なことに介意はできなかった。
やはり彼は愛と妄信に狂っている。改めて思い知らされてしまったから。
「……貴君は、」
「ん? そんな暗い顔してどうしたんだ? というかここに来てからずっと、何処か浮かない顔をしているような――」
「貴君は、カナエの英雄では無かったのかね?」
つい反射的に、一縷の望みに縋るように訊いていた。
ローラに過剰に執着しローラの他に全く眼中を見せなくなった悠人の中には、今でも幼馴染の叶を想う心は残っているのかと。それを確かめたくて。
「そもそも私と共闘の盟約を結んだのはカナエのためであっただろう。それなのに、これまで大切にしていた幼馴染である彼女のことは、私への愛を貫くために用済みにしたとでもいうのかね?」
「ああ。敵に寝返った以上、もうカナは護る対象から外れたからな」
きょとんとした顔で即答する悠人。
後悔・罪悪感の一切の欠片も無いその様子を目に入れた途端、ローラは一縷の望みが潰えたような錯覚を得た。
「何故……何故、そこまで淡白に思考を切り替えられる? あれほどまでに長い間共に在った者を、ああも簡単に切り捨てるなど……」
「……」
ここまで来て初めて、悠人が表情を無にして黙った。
先ほどまでは後悔も罪悪感も見せず狂気的な盲愛を見せていた彼だが、この瞬間においてだけは、まるで狂う前の悩みもがいて生きていた暁美悠人に戻ったかのような、そんな悲痛な面持ちを見せていて、
「……全部『お前のため』って言ったら、お前は怒るか?」
ローラ・K・フォーマルハウトのため。
そう聞かされたローラ本人は、返すべき言葉を一瞬にして失った。
「……それは、」
返答を試みても、上手く言葉が出てこない。口の中が急速に乾燥していくような錯覚に見舞われ、思わずローラは口を半開きにしたまま硬直した。
無論、「他のことを一切忘却してでもこちらを愛してほしい」など頼んだ覚えは無い。「たとえ世界が赦さなかったとしても一途に愛してほしい」という、かつて乞うたこちらの願いを彼が歪曲しているということは、どう考えても明白だ。
なのに、悠人が敵対する聖女への愛に溺れ、愛する者以外の何もかもを切り捨て、その果てに狂ったことに対し、ローラは言いようの無い罪悪感を感じていた。
吸血鬼化した叶を前にした時の悠人が表出させていたものにも似た、理性に乏しい茫漠な罪悪感を。
(……全部、私のせいなのか? 彼の人間としての箍を外したのは、私なのか……?)
自分でも訳の分からない申し訳無さに苛まれ、ついローラは茫然と立ち尽くす。
そんな暗雲が立ち込めた状況下、さらに事態は悪化の一途を辿る。
「――あらあら、これはもしかしたら痴話喧嘩かしら?」
背後より不穏な含みを持った言葉を掛けられ、互いに沈黙していたローラと悠人は反射的に振り返る。
「周りのみんなが楽しい時を過ごしている中なんだから、恋人同士喧嘩なんかしたら駄目よ? ……たとえそれが、吸血鬼の真祖と我らが聖女様という、決して愛し合ったらいけない二人なのだとしてもね?」
目の前にいたのは女。優しげな微笑みを浮かべ、聖母のような眼差しでこちらを見遣る西洋人の女性。
彼女の細い首には、「一か月経つまで断じて接触しない」という条件を持ち掛けてきたはずのマリーエンキント教団の、その所属であることを示す無機質なロザリオが掛けられていた。




