nausea
日付が変わってからの世界は、時の流れが何倍速にもなったかのように速く感じるものだ。
果てしない闇の続く丑三つ時に怯えていたと思えば、何処からか鳥の囀りが聞こえ、青が溶かされ黄色い空となる。
──そして、それと共に決まってやってくるものがある。私が何年も前から悩まされてきた症状である。
簡単に云ってしまえばそれは「吐き気」だ。趣味である読書を夜通し行おうと思うと、強いそれに見舞われる。
しかしそれは、単なる吐き気ではないと私は思う。文字を追うことに酔ったわけでもないし、胃液が逆流してくるわけでもない。──はてさて、この原因不明の吐き気••••これは一体何なのだろう。
余りの気分の悪さに立ち上がり、冷蔵庫のある方へと向かう。ペットボトルの蓋を開け、半分ほど入った茶を一気に飲み干す。
口についたそれを袖で拭うと同時に、例の吐き気は何処かへ消え去った。
朝方決まって私に襲いかかるその症状は、何だかんだ云ってもすぐに収まってしまうような代物だ。夜更かしをする私を戒めているのだと思えば、案外あっさりと受け入れられる気もするのだが。
治まった吐き気に気を良くし、再び読書を始めると、すぐに太陽は熱を帯びた。皆が眠っている時間に起きていることが特別に感じられるだけで、誰もが目覚める時間には魅力を感じない。そんな性格だから、いつも太陽が頬に差し込む頃に私は眠りに就く。
皆がせかせかと働きに出掛ける中、悠長に眠りを貪るなど、いいご身分だと自分でも思う。
私は社会人でもなければ学生でもない、ただの無名な作家である。好きな時に寝て、好きな時に起きる。気が向いたら仕事をし、気が済めば眠る。そんな自堕落な生活を始めてもう三年が経つ。
昔は自分自身、平凡なOLとして働き、結婚して家庭を持つものだと思っていた。しかし何処で狂ったのか、今ではただ今日を生きるだけの廃人だ。それに原因不明の病──単なる吐き気に病など大層な名前を付けて良いのかは甚だ疑問だが──を患っている。いい所など何一つない、出来損ないの模範がこの私だ。
そんなことを考えていると眠るにも眠れず、結局一睡もすることもなく一日を始めなくてはならなくなった。適当な椀にシリアルを乱雑に流し込み、上から牛乳を注ぐ。スプーンでぐしゃぐしゃと混ぜながらばりばりと頬張る。
食事に対する興味などなく、朝は決まってこのメニューだ。昼もまたこれを作る時もあるし、何も食べないこともある。夕飯はコンビニで調達した弁当で済まし、深夜はポテトチップスやアイスクリームを貪る。
この偏った食生活を改善しようと考えたことは一度もなく、倒れたら倒れたでその場で乗り切ろうと思っている。入院すれば面倒な原稿の締切に追われることもなく、ただ消毒の匂いが充満した部屋で眠っていればいい。
ふやけたシリアルを牛乳で流し込み、それを飲み込む。味気のない食事も、腹に入ってしまえば同じだ。
パソコンの電源を灯し、真っ白なワードを開く。小一時間文字の埋まらぬ画面と格闘したが、結局はこちらが折れてしまった。
創作に身が入らぬ時いつもそうするように、今日もネットを巡る。知らないページから知らないページへ進み続け、奥底を探すのだ。
そこで見つけたのは、一つの個人サイトだった。それは真っ黒な画面に『Nausea』とだけ打ち込まれており、私は頭を傾げた。
何処かのページへのリンクもなく、ただ『Nausea』と通常フォントで書かれたそれは、何を目的としたものなのかが皆目検討がつかない。
しかしその不思議さ故、今では珍しいシンプルな装飾に目を引かれたのも確かだ。
私はその『Nausea』という英単語──日本語では吐き気と云ったか──をじっと見つめたり、連打してみたりしたのだが何の変化もなく肩を落とした。
期待を裏切られた気分で、パソコンの電源を消そうとしたその時、真っ黒な画面が急に色を帯びた。
赤い部屋が映る。五畳半程の正方形の部屋だ。そこには畳が敷かれ、小さなテーブルも確認できる。
こちらが部屋を監視しているようで気分が悪いが、どうも目を離すことができない。
暫くその部屋を凝視していると、女の顔が画面いっぱいに写り込んだ。
女の顔面は青白く、目は落ちくぼみ生気がない。幽霊とはまた違った、生きている人間の奇妙さが窺える。
ひっ、と小さく悲鳴をあげ、座っていた椅子から転げ落ちる。再び画面に目を向けるとその女の姿は無く、ただ赤黒い部屋が映るだけだった。
パソコンの電源を落とし、ふっと思わず笑う。
どうして私はあんなものに驚いているのだろう。あんな悪趣味な部屋、ありきたりな脅かし表現。ただの子供騙しだ。そもそもあの映像は何を伝えたかったのかも分からない。驚かす為だけに作られたものなら、もっと大袈裟な仕掛けを施したほうが印象に残るだろう。
──突然起こった出来事でさえ論理的に解決しようとするこの癖は、表現者の性か。
それから私は創作に力を注ごうと万年筆を片手に粘ったのだが、すぐに諦めて床に就くことにした。今日は何故だか夜を明かす気にはなれなかった。目を閉じると闇が私を手招きし、深い眠りへと誘った。
赤い部屋、途切れ途切れになる映像。私はその部屋を、画面越しに観察している。
ぐしゃぐしゃに乱れた黒い髪を掻きながら、白い服を着た女は畳を右往左往している。
座り込んだかと思えば、また立ち上がり部屋をぎょろぎょろと見回す。何だか気味が悪く、早くこの画面から目を逸らしたかった。
うっ、と私は口を両手で押さえる。突然襲った吐き気に、全身の孔という孔の毛は逆立ち粟立った。
私が低く唸ったその音に画面の中にいる女は気が付いたのか、大きな白い目玉をこちらへと向けて嗤った。
私は叫びながら目を覚ました。全身は汗でぐっしょりと濡れている。
目覚まし時計を覗くとまだ午前の三時を回ったところだ。閉ざされたカーテンからは薄っすらと月光が差し込んでいた。
ベージュの遮光カーテンを開き、窓を開放する。ひんやりとした風が、じっとりとした肌を徐々に冷やしてゆく。ひとつ身震いしたら窓の鍵を閉めて、布団に潜り込む。
秒針が煩い。踊り狂う時計の音は、私の睡眠時間と精神を確実に削っていった。最終的に眠りに就くことができたのは、ねっとりした色を纏った朝日が昇り始めた頃だった。
五畳半の酷く殺風景な赤い密室。画面中央には白い女が血管を張り巡らせた眼球できょろきょろと何かを探している。
──ああ、またこの夢。
小さな壁の隙間、薄い床、テーブルの下。女はありとあらゆる場所をがさがさと這い回り遊んでいる。
私はその女の存在を、心の底から畏怖した。これが作りものの恐怖なら、私も安息の眠りを遂げることができるだろう。しかしこの女は妙に生々しく、画面越しの観察に狂おしいほどの息苦しさを感じる。
パソコンの中でも、私の瞼の裏でも生きているその人間は何を考え、何を目的としてそこで歪んだ笑みを浮かべているのか。
「うぐっ••••」
──まただ。あの吐き気••••このままではあの女に見つかってしまう。
しかし、堪え切れぬ嘔吐感。私は総てを諦め、意のままそれを吐き出した。
目が覚めるとそこは、例の消毒臭い白い密室だった。ピンク色のナース服がよく似合う、黒髪の看護師が私の顔を覗いて笑みを洩らす。
「──良かった。目が覚めたようですね」
「あの••••ここは」
彼女の胸に付けられた、神城と書かれたネームプレートを凝視しながら私は問う。
「近所の方が、貴女が部屋で倒れているのを偶然見つけてくれて••••。悲鳴が聞こえて駆け付けたみたい。部屋の鍵を開けっ放だったことが幸いしたわね」
「それで、私は••••」
「もう、一日ずっと眠っていたわよ。貴女、結構有名な作家さんなんですってね。あまり寝ていないんじゃない?栄養も全然摂っていないみたいで、ガリガリよ」
「それは••••すみません」
神城静という名の看護師から優しい指導を受けた後、私はもう一眠りした。不眠症へと片足を突っ込んでいた私は、どうやらこの睡眠ですっかりと元気を取り戻したようだ。
院長から今までの生活を改善することを約束させられ、それから精神科へ一度かかってみると良いと勧められた。
そこで会った臨床心理士には、例の吐き気のことや、赤い部屋の女の話を総て打ち明けた。彼は眼鏡越しからでも優しさが窺える、そんな男性で、私も安堵をして長らく喋り続けてしまった。
彼は私の昼夜逆転の生活習慣と、過度なストレスが原因だと指摘し、睡眠薬やその他精神安定剤などの薬を少しだけ処方してくれた。
それから私は自宅で療養を続け、朝にきちんと起きてバランスの良い食事をし、仕事は日が暮れる前に辞めて眠るように努めた。薬の効果もあってか──或いは心的ストレスが軽減されたからか──、毎度のように襲われる吐き気は姿を表さなくなった。
しかし今でも見知らぬサイトにアクセスする時には、時々怖くなる。いつあの入り口へと繋がってしまうのか••••それを経験した私自身にも全く以て分からないからだ。
それは「誰が」や「何処から」と云った類の疑問には一切応えてくれない。またその悪夢に出くわすことがあれば、それこそ私の精神は悲鳴を上げ狂乱し崩れ去ってしまうだろう。
──そう、あの赤い部屋で生きる女のように。