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ほのぼのとしたエティルたちを残して、他方、不機嫌な四人を乗せたパトカーは盛大なサイレンを唸らせて通りを疾走しているが、その中は険悪な雰囲気であった。歩行者が見れば極悪人を護送中にしか見えないかもしれない。
そもそも運転手を務める若い刑事、マイケルは大声でレイアの姉、シェリリールを非難しそれを弁解するのは窮屈そうに後部座席に座るバサラで当の本人はまったく涼しげに外の景色を見ている。もう一人の刑事であるコストナーはさも無愛想に肩肘を付き、時折、いいかげんにしねぇか、と言うものの仲裁に入るのも面倒くさいのかそれだけであった。非番のところを駆り出されてはこんなものだ。
記者が漕いでいた自転車がどんどん後方に遠ざかっていくのを気づいたのはレイアだけであったが、その彼女はやはり何も言わなかった。まぁ、大丈夫でしょうと楽観したのだ。この上り坂では車に並ぶのは無理があると思った。
「次の信号を左に曲がって後は真っ直ぐお願いします」
行き先を告げる時だけ口を開くレイアは淡々としていて、感情の欠片も見せないが、それがまた若いマイケルを逆撫でするのだった。怒声に対してさらなる音量で応えるバサラたちを冷めた目で見ていた。
「おいおい、こっちの方角に今の時期に経営している宿泊施設なんかあるのか?ここはヴォール街が近いぜ」
内心、舌打ちしたが慌てる様子もなくレイアは、この道でいいのよ、と言い返した。コストナーは経験から嫌な予感を感じてさらに言い寄る。
「俺たちはお前さん方の宿に向かっているんだよな?その宿屋の名前を教えてもらえないかな」
「ロイヤルホテルのスイートよ」
「車を止めろ」
珍しく冗談めかしたレイアを無視して車は止まった。まだ、坂道の途中である。
「どうしたんですか?」
事態の飲み込めていない後輩を怒鳴りつけたくなったが、それは後回しにしてコストナーはシートの間から身を乗り出してレイアを見据えた。
「どこに向かうつもりだ?」
「御察しの通りよ。私たちはヴォール街に用事があるの」
驚愕の声を上げるマイケルの声に苛ついたのか左腕で頭を押さえつけた。
「正気か?あそこはハンターズギルドが総出で対策を進めている真っ最中だぞ!来週にはハンター部隊を出撃させることになっている。そんな危険なところになんで行こうとする。作戦が終わればいつだって行けるだろう。広場にあるクレープ屋のレアチーズラズベリーは俺も好物で楽しみしている。真っ先に行こうと思っている。なんで今日なんだ?」
「来週では遅いからよ。中に住人が取り残されているとして、あそこが閉鎖されてから今日で十日目になるわ。来週では死んでいるかも。助けなければならない人がいるの」
まるで今日ならば助かる命があるのだと主張しているが、政府判断では生存者は無く、その為に充分な戦力を確保してから解決にあたるというものであった。公務員たる彼らはその発表を否定するわけにはいかない。
「無意味だな。今日でも来週でもかわらねぇよ」
「変わるかもしれないわ。だから行くのよ」
レイアは車から降りようとした。ドアを開けた瞬間、湿気を含んだ風が彼女を包んだ。外の方が過ごしやすそうだと思った。ここは高台にあり海が見える。
遠いところに石炭の発掘が採れることとその形で有名な軍艦島が見えた。その上空には『高天の原』がある。
ここからだとあの位置に見えるのか。一時間後には変わっているかもしれない。あの浮島を見るとつい睨んでしまうレイアの癖はこの時もそうだった。その間に槍を車から引っ張り出したバサラは彼女の隣に並んだ。そして、歩き出した。ヴォール街へ入るだけなら何も正面のアーチを潜らなくてもいい。入り口は目の前にある。
「あの御仁の言う通り危険かもしれぬ。いや、危険こそ俺の求めるものだが、お主はそうではないだろう。何故、狩人などをしている。生活ならばエティルが面倒をみてくれるだろう」
「そうね。ラグナロク以降に出現するようになった妖怪たち、そのすべてを狩るためよ。それが私の義務だと思っているわ」
「姉の疑いを晴らすのではなく、その責任をとるというのか?」
数度、首を振ったレイアは歩き出した。誰にも打ち明けたことのない真実は未だ彼女の胸の中にのみあった。右肩に担いだ刀ケースの位置を直した。
充分に視認できるヴォール街の暗雲は自然界のものとは異なり濃い紫色をしていた。それが強風でも四散することなく停滞している。異常な光景であったが、見慣れたものでもあった。それをじっと観察するレイアは洞窟の入り口を連想した。きっかり線引きでもされたように、或いは透明の水槽に囲われているように魔素は漂っているが、彼女の方にはみ出してはこない。
魔素の発生は世界各地で確認されており、妖怪の巣となるとこが多いが、時には妖怪ですら立ち入ることが出来ない高濃度の魔素が立ち込める事もあったことから、妖の仕業ではないという見解がある。原因不明の力場。それが魔素領域である。
人間はもちろん、支族さえも拒むこの毒々しい雲が出現したのは約二週間前で、それは日中に突然沸きだしたという。逃げ果せたものは多かったが、中に取り残されたと推測される人々は数百人に上る。その全てを死亡と判断するのに政府が要した時間は四日間であった。それからこの一帯を封鎖したのだ。
その四日間、国が何の対策も講じていないわけもなく二人の刑事の同僚もこの救出作戦で何人も命を落としていた。
「またここに戻ってくるとはなぁ。今は多分、あのクレープ屋も閉店だろうぜ。やっていてくれても買わないし喰わないけどよぉ」
焼かれた生地の中に何がはいっているか想像するだけで寒気がした。
「?あなたたちもくるの?生命の保証はしないわよ。ここは本職の私たちに任せてくれれば良いの」
「なあ、もう一度だけ確認させてくれ。本当にたった一人の安否を確認するだけだよな。つまり死んでいるか生きているかを確かめるだけってことでいいんだよな?そいつの居場所は判っているのか」
「ルルブン、職業は占い師。魔素発生時刻は営業時間ということだからまだ店内に取り残されている確立は高いわ。水や食料を備蓄していてくれることを願うばかりね」
「これだけの魔素に人間が触れれば正気を失いかねない。生きてはいても殺さなきゃならんかもしれない」
マイケルが無駄を悟らせようと念を押す。
「このルルブンという男は十二支族の酉族だから生きてはいるでしょう。ジッと息を潜めて助けを待っている。酉族は戦闘には不向きよ。自力で脱出できないのでしょうね」
「そんなことまでエティル殿の手紙には書いてあったのか?」
その手紙を受け取り読み始める。そんなことはどこにも書いていない。レイアを見る。
「あのお爺様はとても気紛れでね。来客の全てを占うというわけではないわ。特に支族の巳族が嫌いみたいで、私は占ってもらえなかったの。でも今度は、一応、命の恩人になるしエティルの紹介状もあるから大丈夫でしょう」
魔素が現れる以前に訪れていたということかと、納得してバサラは手紙を返した。
ガチャンという音がしたのは後ろからだった。刑事たちは拳銃の弾倉を確認し安全装置を解除した。
「人命救助なら付き合うが、報告書の作成には付き合ってもらうぜ」
「俺は非番だったんだぞ!」
「足手まといだから来ないで、と言ったところで無駄でしょうね。この中がどうなっているか判らないから一撃離脱のつもりで行くわよ。ルルブンの店を知っている私が先鋒を務めるからバサラは後方を頼むわね。二人は私たちの間に入って。弾はそんなにたくさんはないでしょう?無駄使いしてはダメよ」
「発砲するような場面に出くわすと思うのか?」
これはバサラの問い掛けであったが、答えは判りきっている。すでに内部からは何者かの声が聞こえているのだから。それはとても不気味で苦しんでいるようにも受け取れた。未知に挑む時、気持ちが高揚してくるのがバサラは好きだった。そして、それはレイアも同様であるらしく瞳が輝いている。神代の時代に神々の戦闘員として造られた十二支族の血脈がそうさせるのだと伝えられている。まさしくその通りだと、否定する要因は何もなかった。
「それじゃ、行くわよ。絶対に立ち止まっては駄目よ」
レイアの号令で四人は濃い霧に向かって突撃していった。レイアの姿がまず消えた。彼女の腕が虚空をさ迷うのをバサラは見た。いきなりあの大蛇を使うつもりなのだと知れた。この中には激戦が待ち受けている。頬が上がり、笑っているのだと自覚できた。この笑みはテレビを見ていたときのものとは似ていて非なると判っていた。彼は本当に楽しくてしかたないのだ。視界は一気に狭くなった。前を走る刑事も紫のフィルター越しのように見えたし、大気が淀んでいて息苦しいのはこの霧のせいだけではない。
まずい、そう思った時には遅かった。問題はないのだが、これくらいの魔素であれば人間では本当に五分もせずに正気を失い魔の虜となってしまう。これについてはレイアがすでに対応していた。このための大蛇であったのかと、感心した。
彼女の隣には大蛇がいて主人の歩調に合わせてクネクネと動いていた。
支族がもつ特殊能力で自分たちの周囲だけ魔素を中和しているのだ。それもバサラがやるよりもずっと上手にやっている。この辺りは数多くのハンターと一緒に活動してきたレイアの経験が成せる技であろう。これならばルルブンなる人物の占い館まで走って行けそうだった。腹の底から絞り出したような呻き声はいまだ途絶えることはなかったが、いつ飛び出してくるのかとワクワクしながら待ち侘びていたバサラはあることに気づいた。
「レイア、なにかおかしくはないか?」
刑事二人の頭を越えバサラは意見を仰いだ。彼女は速度を落とし立ち止まった。止まるなと言ったのはレイア自身ではなかったのか。不審な顔をするマイケルはそれでも黙っていた。
「ええ、このヴォール街自体は決して広くないわ。三ブロック程度しかないし、そのほとんどが商店ばかりよ。つまりとっくにルルブンの店に到着しているはずなのよ」
「なんだって、おい!どういうことだ?店がなくなっちまったってことかよ!」
「いえ、違うわ。あそこの果物屋さんを覚えている?ヴォール街の入り口付近にあった店よ。そして、その隣には食堂が見えるわね?あれは広場に近い所でみかけた記憶があるわ」
「言われてみればそうだな。なんか、おかしいな」
なんだってんだ、畜生!コストナーは叫んだが、レイアにとってはただうるさく、説明の手間が面倒くさいから連れてくるのではなかったと思い始めていた。
「空間が捻れている。そういうことか?」
若いマイケルが言い支族の二人は頷いた。
「よく判ったわね。昔から時々あるとこなのでしょうけど、あの『高天の原』が現れてからはとくに頻度が増えたみたいね。あれも空間をねじ曲げてあそこに在るように見えているだけだから。いろんなところに同じような影響を与えているようね」
そして、本当はどこに在るのかも判ってはいない。浮かんでいるのがちょっと珍しいだけの迷惑な島。
「この状況ではルルブンの店を見つけ出すのはかなり難しいわ。作戦変更ね」
「すげぇ、いやな予感がしてきたぜ」
「俺もですよ」
「この魔素の原因を排除してからルルブンにゆっくり占ってもらいましょう」
「希望通りではないか」
大仰に頷いたバサラの姿が一瞬ではあるが歪んで見えた。こうして立っているだけでも空間の流れに攫われようとしているのだと、レイアは理解したがそれは恐ろしい想像だった。これほどの魔素領域が人間の街中に自然発生するとは思えないのだ。
「二人の刑事さんは私たちから離れないでね。あなたは刀の鞘を掴んで離さないで。そちらのコストナーさんもバサラの服でも掴んでいて。ただの迷子ではなくて、ここの主に敵意を持ったとたんに襲ってくるなんてね。会話は全て聞かれているようだわ」
濃い紫の向こうから奇異な動きをして多数の影が近づいて来るのが判った。そいつらを倒してから先に進む。そんなことを考えたのは寅族の武芸家だけでレイアは駆け出していた。
「なにしてるの?早く逃げるのよ!こんな大軍を相手にしていられないわ」
「む?そうなのか」
残念そうな呟きはバサラの裾を掴んでいる刑事にしか聞こえなかった。彼は自分の不運を嘆いた。どうせならあっちのまともそうなハンターと一緒がよかったと。
「俺は!今日は非番だったのに」
その彼の運のなさは直ぐに発揮された。先を走っていたレイアたちを見失ったのだ。これはいかん、バサラが言い、刑事は、終わった、と溜息を吐いた。
「バサラ!私たちはこのまま魔素の中枢に向かうわ!そこで合流しましょう」
声だけが辛うじて届いた。判った!という返事が相手に伝わったかどうか。周囲はどこを見ても紫であった。
「バサラさんよ、この魔素の中心がどっちか判るのか?」
「うむ。ルルブンの店は確かに探せないが、それなら判る。魔素が濃くて敵の障害が多い方へ行けば良いのだから。少し待っておれ。魔素を中和せねばお主が保たない。……お見せしよう、我が寅族に伝わる秘技を!寅発頸発動!」
気合いの声はバサラの身体に少しだけ変化をもたらした。なかなかの美男子である顔に猫のような髭が両側に三、四本ずつピンと生えてきたのだ。それ自体が本物の毛ではなく霊質で構成されたものだと後になって説明を受けるのだが、とりあえず、この時の刑事がそんなことを知っている筈はなく、その間の抜けた髭を笑えば良いのか、真面目にやれと怒ればいいのか、正直なところ泣きながら家に帰りたい気持ちだった。しかし、気分はずいぶん楽になったのを感じた。
「さて、中枢に行けばどのような手強い相手が待ち受けていてくれるのか。ふふふ」
停職くらいで任務放棄できるなら本当にそうしたかった。霧の中から現れた奴らの姿を見てしまってからはさらに強く思った。俺を帰してくれ、と。
一方のレイアたちはまったく敵の抵抗を受けずに順調に進んでいた。不気味なほど静かで視界が紫一色ということを除いてはただ歩いているだけである。なぜ、これほど何も起こらないのか、おそらくこの大蛇を畏れているか、同族――妖怪だと思われているのではないだろうかと考えるばかりだった。さっきも声だけで襲ってくる気配はあまり感じられなかった。ならば、分散化した状態はあまり好ましくないが、別に好きで離ればなれになったわけでもない。それにバサラならばなんとか切り抜けてくれるだろう。寅族の能力も使えば人間の一人くらい庇えるはずだ。
クスリと思いだし笑いをするレイアを若い刑事は、不謹慎なやつだな、と注意した。
「ふふ、寅族が能力を使う時は身体に変化が現れるのですけど、髭とか猫みたいな耳が出てくるのです。使う能力によって部位は変わるらしいけど、あのバサラもやっぱり寅族ならそうなのだろうと思ったのです」
いやに丁寧な口調を今更ながらに訝しんだ。最初は敬語だったとすぐ思い至ることができなかった。普通ハンターと言えば荒々しい気性で国家権力など歯牙にもかけないという態度の輩が多い。彼が目にしてきたハンターは全てがその例外からははみ出さない。このレイア以外は。それをそのまま質問として投げかけるには抵抗があったので、遠回しに聞いてみた。
「そんなに弱そうな態度だと他のハンターから舐められるんじゃないのかい」
遠回しすぎて意図を外したと後悔したが、すでに遅い。
「そうですね。小馬鹿にされないように普段はギルドの制服とランク徽章を付けていますし、現場に入ってハントが始めれば、まぁ、私の力をみんな認めてくれますよ」
やはり、問い掛けに忠実に応えてくれるのだが、刑事が聞きたかったこととは少しずれていた。
「私のこの話し方は巳族の祖母の躾がきちんとしていたからですね。目上の方や先輩、お世話になった人に礼を欠くな、と。仁義を貫き通せるものは少ないですが、礼を尽くすことはその意志があれば誰でもできるのだと」
なるほど祖母の教育のかと納得した。そして、彼女とほかのハンターとの違いも判った。この世の中に数多いる紛い物とは違う、本当の輝きをその裡にもつのだと。
あのレストランで因縁をつけた自分が恥ずかしくなった。彼女を育てた祖母はきっとあのシェリリールも育てたはずなのだ。この国ではシェリリールは特に犯罪者としては扱われていない。周辺国の軍事国家ワーテルローなどは賞金首にしてしまっているし、そういう国では犯罪者の家族への虐待も絶えないという。しかし、この国はそうではないのだ。もしかしたら、レイア自身、そうした国を選んで少しでも安全な場所でハンター業を行っているのかもしれない。
「その通りですよ。国によっては、私は入国ですら拒否されますから」
「俺はラグナロクの時はまだ子供だった。ただ周囲の大人たちが、世界がこんな酷いことになったのは、首都――当時は帝都――の婦警、シェリリールって女性のせいだと聞いて大人になった。教えてくれないか。どうして君のお姉さんは世界の敵にされてしまったんだ?どんな失態を犯したんだ」
「さあ、特に意味はないと思いますよ。きっと誰かのせいにしないとやっていけなかったのではないでしょうか?それが死んだ人間なら反論もできませんし、都合が良かったのかもしれませんね」
事も無げにあっさりと言う。それが事実なら歴史上まれに見る冤罪であるのだが、本人にはそんなことはどうでもいいことらしい。唖然とするマイケルに淡々と静かに語る彼女は続ける。
「どちらにしろ、全ての妖怪は私が狩ると決めていますから」
この発言に刑事は自分の耳を疑った。この少女は世の中にどれほどの妖怪がいるのか理解しているのだろうか。全世界で起こっている年間の妖事件は一万件に及ぶ。ハンターたちに駆逐されているとはいえ、少なくとも数千単位でハントをしなければならないのだ。それは彼女の一生を費やしても叶うことはできない数字だった。
「あくまで意気込みですよ。途中で死にますね。きっと、どこかの妖怪に殺されます。それが少しでも先になることを願っていますが」
紫の霧の僅かでも前をみようとしているのだろうが、目を細めて遠くを見た。何もない。あっても見えないのだろうが、それでもこの魔素と周囲から響く地鳴りに似た声は彼女の感覚を充分に狂わせた。よからぬ過去の幻聴まで聞こえてきたりする始末だった。幻視まで見えるようになったらとりあえず大蛇の光線を全方位に向けて放つつもりだ。長居は無用だったが、もうずいぶん歩いたのに中心部といえる程の魔素の塊で辿りつけないでいた。
「しかし、なんでまた妖怪を全て狩るなんて決意をしたんだい?」
「?なんのこと?」
「いや、いま君が言っていたことだよ」
「ああ、それはきっと幻聴よ。二人になってから私は口を開いていないから。こういう場所だとよくあるのよ」
とても自然にあっさりと言われて刑事は顔が赤くなったのを自覚した。
「な、なんて恐ろしい場所なんだ。じゃ、俺は一人でぶつぶつ話していたのか。気の触れた老人みたいに」
悔しさではなくそれが恥ずかしかったのか、とレイアは珍しく気遣いをみせた。
「いえ、あなたは何も言っていなかったわ。たぶん、脳内でのやりとりだったと思う」
実際には刑事はずっと独り言を繰り返していたのだが、特に自分には関係ないだろうと無視していたのだ。幻聴に捕らわれているかもしれないとも思ったが、それでも実害はないと判断したのだ。
刑事は安心したのか、ホッと息をはいた。
「自分の存在をはっきり意識していないと魔素の影響は濃くなるばかりよ」
「そんなことを急に言われても修行なんて刑事の教育課程しかやったことがないからな。難しいな。どうやるんだ?いや、こんなにあのお嬢さんが饒舌なはずがない。これも幻聴か?」
大蛇が鎌首を持ち上げた。その大きく開かれた口の中に光が収束される。いままでとは全く違う行動に刑事は慌てた。レイアを制止しようとするが、もう遅い。
放たれた光線は長い筋となり空を撃ち抜いた。建物を壊さないように上空に向かっての一撃は淀んだ紫の霧を一瞬だけ吹き飛ばし青い空を見せてくれた。
「この霧、厄介ね。まさか、私にまで幻視をみせるなんて、刑事さんは平気だった?変なものを聞いたり、見たりしなかった?」
「いや、充分に聞いたよ。これは現実の君か?」
「君とか言われると背中が寒くなるので止めてもらえるかしら。よっぽど変な体験をしたみたいね」
「どこまでが現実で幻聴だったのか、まったく違いが判らないよ」
「その二つの違いは元々ひどく曖昧で、はっきり区別することは難しいわね」
氷の彫像から紡ぎ出される冷たい言葉は、間違いなく彼女が本物のレイアであると実感できた。ずいぶん道草を食ったな、とマイケルは溜息を漏らした。
レイアの刀ケースを握っていた手を少し離して、掌の汗をスラックスに擦り付けた。それからまた鞘を握り直す。その鞘がスッと逃げ鞘ではなく刀の柄が差し出された。
「着いたわ。ここがヴォール街の魔素の中心地。そして、あれが魔素の原因。以前ここに来た時はそんな怪しい雰囲気はなかったのだけど」
白い人差し指の先には一本の大きな樹があった。その葉は夏場の青々としたものではなく、見事に紫紺となっていた。いままで自分には霊感なんてものはないと信じていた刑事は激しい悪寒を感じていた。あんな禍々しい樹は、当然見たことがなかった。
吐き気を抑えながら、刀を手にした。ずっしりとした重量が手に馴染むわけもなくどう使えばいいのかも判らなかった。
「私はこれからあれを退治してくるけど、大蛇が傍を離れれば後ろのお客さんたちがあなたに襲いかかるわ。せいぜい二分か三分、自分の身は自分で守ってもらわなければならない。魔素への中和効果も距離的にそんなに期待できないから、かなり辛くなるわよ」
後ろのお客さんと表現されたのは、群がる群衆であり逃げ遅れた人々であろう。彼らは生きているのか死んでいるのか見当もつかなかった。同じ表情がないレイアでも彼らよりはずっと人間らしいと思えてくる。頭部の半分くらいが吹き飛んでいるものもいれば、その隣にはまったく外傷のない者がいる。そいつらは妖樹を畏れ大蛇も畏れ、それでも生在る二人を妬み取り込もうとしている不死者であったが、そんな説明は、今は不要である。魔素に取り込まれた時点で彼らの魂は死んでいたし、肉体への損傷の有無などは一切問題外であった。
「すでに死んでいるから遠慮はいらないけど、引き金を引ける?無理なら逃げ回っていてもいいわ。三分間よ」
冷徹に言い放つとレイアは前方に駆け出した。迂回する時間も惜しむその突進はまさに速攻であり、彼女の支配下にある大蛇もそれを望み主と並走する。その後方では戦うことよりも逃げる方を選んだマイケルの気合いの雄叫びが聞こえてきた。
――危険な事は私に任せてくれれば、妖怪のいない世界を作るから!世界を元に戻してみせるから!
妖樹に動きが出たのはレイアが改めてその大きさに目を見張りどうすれば倒せるのかを逡巡しているときだった。彼女の心理的な迷いを見透かしたような一撃は樹の幹から放たれた。その正体がなんなのか、レイアには推測もできなかったが、ハンターの本能によって回避されたそれが着弾した際の威力は留弾砲かと思えるものであった。巻き上がる土煙と轟音は視界と鼓膜を一時的にとはいえ麻痺させるに充分であった。
「刑事さん?」
煙で安否が確認できないマイケルという名も忘れて叫んだ。今の攻撃が自分ではなく彼を狙ったものだとしたら、この妖樹には知恵があるということになる。
「俺は無事だぞ!こんな所で死ねるか!」
威勢の良い声は立ち込める爆煙の反対側からであった。不死者までを巻き込んだ砲撃は返って幸運であったかもしれない。元気に走り回る男に向かって樹の幹に動きがあった。射角は狭いが、同じような弾丸を発射できる窪みが幾つもあるのだと観察できた。その全てを潰す必要はないが、この攻撃はあの刑事では避けられない。ならば、レイアは彼を庇わなければならなくなる。狡賢い樹木だった。考えがまとまるよりも先に幹が火を噴いた。それよりも僅かの時間、早くレイアの腕が宙を舞い、大蛇は樹木とマイケルの間に入った。弾丸は大蛇を直撃し、漆黒の鱗をばらまいた。
「防御なんてなれないことはしない方が身の為よね。私たちには攻撃あるのみ。さぁ、数千年の太古から生き続ける邪悪な大蛇!あれを喰らいなさい。この場はあなたの自由にしていいわ」
大蛇の鳴き声は苦痛によるものではなく、それは歓喜を現す聖歌隊の美声のようであった。地を這う速度は次の射撃を許さない態度であろうが、巨体をその巨大な妖樹に巻き付けていくのは失敗だと他の者は判断するだろう。その巻き付かれた箇所には複数の窪みがあり、それが砲台であることを失念した愚行としか映らないからだ。それよりも早く敵である妖樹を締め上げてしまおう、というのが大蛇の強攻策であった。砲撃戦では時間が掛かりすぎるし、その間の向こうの一発をもらえばそこで終了である。砲撃を大蛇に集中させ迅速に戦闘を終わらせる。
大蛇が力を篭めているのは妖樹からの音、ミシミシという軋んだものから判る。正面の樹脂が瘡蓋のように風にまった。まともな生物であるならば盛大に絶叫を上げていることだろう。この妖樹には口が無かった。目も耳もない。敵の位置は熱源が教えてくれた。妖鳥もその手助けをしてくれていた。
この公園のシンボルとして植えられた平和の樹がこうして人を苦しめている。その報いを受ける時がきたのだと漠然と思った。この大蛇とハンターの力は想定外だった。だが、まだ早い。知恵を持つ大樹は大蛇によって塞がれている砲口に弾丸を込め始めた。それは妖樹自身の身体の一部であり樹木そのものであった。少しだけ攻撃のために削り水分と妖力を込めて練り上げる。後は身体の中を移動させているうちに転がって丸くなる。砲台はゆっくりと『あの女』が身体を改造して作ってくれた。これで思う存分に暴れることができるわ、お願いね。
妖樹は激しく憤った。何がお願いね、だ。
もし口が在れば、自分はこんなことはしたくないのだと主張したかった。助けを求めたかった。それは植物には不可能であったが、だからこそ『あの女』は自分を利用しようと企んだのか。大蛇への攻撃も魔素の散布も樹の意志ではない。すべては『あの女』の妖力に侵食されたことが原因であった。
ヴォール街、あの日ここにいた大勢の人々を魔素によって殺しその後も討伐隊の警官やハンターを何人も殺した。そして、自分も今尽き果てようとしている。樹齢千年を超える自分より遙かに長い時を生きてきたこの蛇によって。身体を犯した妖力は未だ最後の抵抗をさせようとしていた。塞がれている数個の砲台に弾丸を挿入し始めたのだ。妖樹にはどうしようもなかった。呆然とそこに立ち魔素の拡散を止めることもできないのだから。
打ち出された砲弾は全てが大蛇に命中した。今回の悲鳴は苦痛のものであったが、それでもこの大蛇は楽しんでいると思った。
「そう。この妖樹は何者かに利用されているの。本当はこんなことはしたくないって、人々と共に在りたかった、そう言っているのね」
大蛇が感じ取ったことがそのままレイアに流れ込む。これが魂を同化させることによって得られる巳族の能力であった。
生まれ持った大蛇を使い育てるか、他の長年戦い力を付けた大蛇を引き継ぎまた育てるか。後者は自身の大蛇と融合させることで己の能力とする、魂の挙式と呼ばれる儀式を行うことで可能となる。レイアの大蛇は義理の祖母から受け継いだものだった。とても醜い性格でこのときもこの樹木を締め付けながら愉悦に浸っていた。妖樹が苦しんでいるからだけではなく、この樹木が利用されているだけの哀れな存在だと判った瞬間から、たまらなく愉快になっていた。
こういう犠牲者を堂々と嬲ることができるのだから、それはご機嫌だろう。
「嫌な奴」
レイアは呟いたが、そんなレイアの感情も大蛇には筒抜けなのだから、わざわざ言葉にすることもない。それでもつい声に出てしまう。よく感情の起伏が少ないと言われるが、こんな性悪な大蛇と長年連れ添ってきたら、ちょっとくらい変わった性格になってもしかたない、と思うのだ。立派に育った大蛇の制御に感情は不要であった。
「さぁ、いつまでも遊んでないでさっさと終わらせない!このウスノロ!」
発破をかけられ渋々ながら樹木をさらなる力で絞め付ける。妖樹から体液が滲んできた。表面を濡らす程度のものであったが、それは急速に広がり吹き出した。それほどの魔素を放出する妖樹の体液、それもまた毒でしかなかった。
音を立てて倒壊する大樹は悲しげであった。いったいいつからここに立っていたのかレイアは知らないが、きっとこの公園にやってくる人たちを見守ってきたのだろう。そんな可哀想な樹木から溢れ出た体液を大蛇が啜っている。いつものことだ。かなりの偏食で自分が食べたいと思ったものしか口にしないのだが、この妖樹の体液は好物だろうな、と思ったのだ。嬉しそうに美味しそうに赤い下を出して舐めている。
胸が悪くなる気持ちだった。あの刑事は無事だろうかと振り向いた。不死者も魔素の原因が消え去り開放されていることだろう。捻れた空間ももう少したてば風が吹いて空も見えるようになる。
「お、おい!こっちも助けてくれよ」
情けない声を上げたのはあのマイケルだった。
動きは格段に遅くなりもはや歩く程度の早さでしかないが、不死者はまだ刑事を追いかけていた。放って置いても心配はなさそうだった。結局、拳銃も刀も抜かなかったらしい。その不死者の群れが一掃されたのはバサラの長槍による閃きだった。彼は唐突に舞い込み横凪の一撃で不死者の半数を打ち倒した。残りを打ち倒すまでに要したのは欠伸に等しい労力であっただろう。
「遅かったか。全て終わっているではないか。せめて人目みたかった」
そんなリクエストに応えられるような相手ではなかったと話をしたらさらに悔しがるのが目に見えていた。レイアはそれどころではなく別の者と対峙していた。彼女が所有する大蛇である。
「さぁ、食事が済んだのならさっさと消えなさい。この程度の敵を倒したくらいで、この私を好きにできると思っているの?」
虚勢であった。しかし、それを悟らせてはならない。もしかしたら無駄かも、とは思わない。そう思うことで自分までを偽ってきたのだ。戦い喰らう度にそのおぞましさと強さを増してきたこの大蛇がレイアに御せるのも限界にきていた。素直に指示に従おうとしないのがその証拠であり、大蛇を召喚し使役することをいちいち躊躇うのはそのせいであった。これ以上成長させてはならない。判ってはいても妖怪に拮抗するにはどうしても必要となる力であり、強力な妖怪ほどその重要性を増すのだから世の中は上手くいかない。この時の大蛇はチラリとバサラをみた。そんな気がした。
「私の言うことが聞けないというの。また呼び出すときまで傷でも癒やして寝ていなさい」
赤い舌が出てきた。まるで獲物を見定めたかのように不気味な行動であった。
しかし、黒光りする鱗は霞となって消えていった。胸を撫で下ろすレイアはいつの間にか空が晴れているのに、いまさら気づいた。あの濃紺の霧もすっかり無くなっている。妖が失せたのだと確認できた。ようやく脱力して後方を見た。バサラと二人の刑事がじゃれていた。そんな仲ではなかったはずだが、三人とも笑っていた。夏の日射しに相応しいものだと感じた。
それから一行は占い師ルルブンの店を訪ねた。店内は荒らされた様子もなくキレイなものだったが、人の気配はなかった。
「まさか、霧が発生した時に逃げ出して今は安全な事所にいるなんでことはないよな」
マイケルは意見を述べたが、それはバサラやコストナーの考えでもあった。無駄足だったのかもしれない。疲労感が襲ったがレイアは誰もいない棚の影にむかって話しかけた。
「外はもう安全よ。今度はちゃんと占ってもらうからね」
「脅威を排除して恩を売ったつもりか。裏切りの一族はやることがえげつないのう?」
彼女が見ている先からくぐもった声がした。ギョッとしたのは刑事たちだけではなくバサラも同じだった。彼に存在を感じさせないほどの技とは如何なるものなのか。急に興味を惹かれた彼は一歩踏み出した。今のこの瞬間もそこに何者かが潜んでいる気がしないのだ。
「しかも、エティル・ガリラロイの紹介状つきよ。サイン入りで」
「な、なんじゃと!それを早く言わぬか!」
暗がりから老人が勢いよく出現した。そう、誰も何も居ないはずの場所に老人がポッと露見したのだ。
老人はレイアの手から手紙を奪うとそれをじっくりと読んだ。何度も見て最後に呻いた。
「敬愛なるなどと書かれているぞ!これはわしのことか?」
「ええ、そうよ。私の依頼を受けてくれるように書いてあるでしょう」
「うむ、うむ。確かに書いておる。あの忌々しい霧のおかげで彼女のコンサートに行けないことだけを悔やんでおったが、やはり、天は正しい者の味方をしてくださる。今日は人生で最良の日じゃ!」
紙切れに頬ずりまでする老人をなるべく冷めた目で見ないように努力しながら、穏やかに繋げた。
「よければ年末に行われる彼女のチケットを一枚差し上げましょうか?」
もらいもので機嫌良く占って貰えるならば安いものだが、この調子ではコンサート当日までにチケットはなくなってしまうのではないかと、バサラは鋭く推測した。そして、チケットは他人に上げてしまってコンサートに行けなかったの、と言い訳をするレイアが思い浮かんだ。そんなシナリオを彼女も考えているのだろう。
「いや、それには及ばん。なぜならもう持っているのでな。値は張ったが、今度こそエティルの歌声を生で聞くぞ」
老人の鼻息は荒かったが、機嫌は確かに良さそうだった。
「話がまとまったところでルルブンさん。私には占っていただきたい場所があるの。この近辺にある巳族の隠れ里よ。ご存じの通り私も巳族だけど、幼少の頃に両親に連れられてこの街に移り住んだので、生まれた故郷への帰り道を知らないのよ」
「なんじゃ、そんなことか。確かに人間がおっぱじめた戦争によって里を追われた支族は多いからの。十五年前、戦後はこの街にも巳族だけではなくもっと多くの支族が暮らしておったが、皆、故郷の再興を誓って戻って行くか、すっかり人間社会に溶け込んでしまった。純血の支族はもういないのかもしれんの」
その中にレイアの家族もいて暮らしていた。十四歳になるまで里を出たことがなかったバサラは、そんな世界規模の戦争の話を聞いたことはあったが、人間の戦争とは火器を使うのが主流で、彼が得意とする武芸の範疇ではないためにいまいちピンとこないのだ。それでも彼の関心をひいた。戦いの話題だったからだ。
「まぁ、昔話はそのくらいにして占って貰えるわよね?」
「……断る。いやいや、サイン入りの紹介状を持っていかんでくれ、返してくれ。話を最後まで聞けというのに。まったく!わざわざ占うこともないという意味じゃよ。わしがまだ若い頃に何度も巳族の里を訪れたことがある。地図はあるか?」
パイプに火を灯しながら手わたれた地図になにやら書き込んでいる。単に里の位置を示しているのではなく、目印も一緒に書いてくれているのだと判った。まだしばらく時間はかかりそうだった。にわかに外が騒がしくなった。妖が断たれたので人が集まり始めたのだろう。
「さっきの話じゃが、純血の支族という者はわしともお前さん方とも違う存在じゃよ。寅の無教養そうな男、お主は知っておるのか?十二支族がこの世界に生み出された理由を」
「もちろんでござるよ、ご老人。神代の頃、神々は二つの軍勢に別れて戦をしていた。その戦は非常に長い間続いて神々も疲弊してきた。そこで自分たちに似た形の兵隊を作った。それが我ら十二支族。そして、他の支族との交配で誕生したのが亜氏族、つまり人間でござろう」
「事実じゃよ。そして、神々の戦いは終わり、勝利した神は『高天の原』に引き込んでしまった。時折、使者の天狗が降りてくるが、基本的に交流はない。なぜ、この世界の支配者である神はあんな浮島に引っ込んでしまったのだと思う?せっかく戦が終わったというのに」
「俺も博識ですが、そこまでの知識はないですな」
「巳の嬢ちゃんはしっとるか?」
「……神々をも震撼させ世界を恐怖に陥れた魔獣が現れたのだと聞いています。誰もが知っていることだと思っていたけど」
学のない男はシラをきり、おお、ど忘れしておった、などと言っているがレイアと目を合わせようとしない。
「まぁ、その通り。つまり神々の助力も得られず繁殖能力で大きく人間に劣り、それでも子孫を残したい一心で人間との婚姻を取り入れ、その結果、長い時間の中で血は薄れ支族の力、能力も弱まった。我らは神代とともに滅ぶべきだったのかもしれぬ」
「なぜそんな話を?」
「支族の中には少しでも優れた血を掛け合わせ世代を重ねて、純血に等しい子孫を残そうという動きをしていると聞いたことがある。お主らを見ているとそんなことを思い出したのじゃよ」
「少しでも優れた存在、それは第十三支族のことではないのですか?」
「過去には確かにそう呼ぶに相応しい力や能力を持った人間がいたが、そんなものは幻想じゃとわしは思っている。過去六人しかおらぬ。『高天の原』での選定によって選ばれるとあるが、歴史的に見て能力の秀でた人間への神からの賞賛、それが第十三支族という言葉、称号だと」
老人が何を言いたいのか人間の刑事二人には全く判らなかった。しかし、レイアとバサラにはそれぞれ思い当たる節もあるらしく妙に神妙な顔をしている。
「ほれ、できたぞ」
「ありがとうございます」
きちん礼を言い地図に目を落とした。あの森のかなり奥地の方だと記されているのを見てレイアはまた焦りを感じた。急がなければならない。
「ルルブンさん、私は直ぐにでも街を出て里に向かうわ。ありがとうございました」
いつもは冷静なレイアの頬が少し赤くなっている。高揚してくると彼女でもこうなるのかと思っていたバサラは、お次は森の探検隊か、と心躍った。
「いや、ちょっとまってくれ。これからすぐにだって?悪いがそれは出来ない相談だぜ」
制止の声はコストナーだった。
「君はこのヴォール街を開放してくれた。そいつは有り難い。初めは人命救助のつもりだったが、結果としてそうなった。それは状況として仕方ないが、せめて事情の説明と報告をする義務があるだろう。ギルドへも我々この街の治安を守る警察に対しても」
意見はごもっともだが、レイアはそれを受け入れるつもりはなかった。そんなことをしていたら時間ばかりが浪費されるからだ。バサラを向いた。
「このヴォール街を開放したのはあんたということにして欲しいの。お願い!」
必死な、というほどではないが、普段からは想像ができないほど感情が込められていた。どうしても急がなければならない理由があるようだ。バサラを人身御供としてギルドやら警察の事情聴取に突き出すというのだから。
「判った。行ってこい」
「お土産は買ってくるから!」
駆け出すレイアを塞ぐ形で二人の刑事が立ちはだかったりはしなかった。本気で取り押さえようとすれば怪我をするだけであるからだ。代わりに、気をつけてな、と声を掛けた。
「さて、バサラの旦那、署までご同行願いましょうか?」
「よかろう。だが、もう少しだけ時間をくれ。この老人にまだ用がある。ここに来た時、おれは確かに老人の気配など微塵も感じなかった。しかし、レイアは最初からそこにいると判っていた。潜んでいた技術とレイアがそれを見抜けたわけをご教授願いたい」
「なんじゃ、そんなことか。お主も知っての通りわしら酉族の能力は戦闘には不向きじゃ。未来を断片的に予見することしかできぬ、と思われがちじゃが、実はもう一つ時間に関する能力を持っている。それは一族の秘技なので教えられぬ。巳の嬢ちゃんは昔、誰かに聞いたことがあるのではないのか?それでそれを見抜く方法を知っていた。あの物騒な大蛇の能力を借りれば、十分可能じゃよ」
「つまり俺が同じように隠れることも、見つけることも出来ぬというわけか。それはつまらんな」
感慨深く溜息をはいた。本当に面白くなさそうにしている。関心をすっかり無くした彼は刑事に、さて警察署まで案内してもらおうか、と名乗り出た。どちらが連行される側か判らなかった。
『黄昏の歌姫』エティル・ガリラロイ襲撃の現場となったレストラン、ジャロイルで働くショコラ・ストライフは、少女を助けた際に軽い擦り傷を負ったため警察病院に連れてこられて大げさな治療を受けていた。三日もすれば完治しそうな傷に捲かれた包帯はずいぶん厚みがあった。
「一応、妖物検査は陰性でしたが、傷の治りが遅いなどの異常がでた場合また受診して下さい」
月並みな台詞で診察は終わった。妖物検査といっても特に何かをしたわけではない。十二支族の猪族の元で魔術というものの修行をした医師が傷口に手を当てて何かを呟いただけだった。妖怪との戦闘で受けた傷はそこから妖気に侵食されていることも考えられたのだが、彼女の場合は床を転がった時に割れた皿か何かに運悪く引っかけられただけなのだ。制服も破れたが彼女よりも軽傷だった。今は私服に着替えて落ち着きを取り戻したが、命のやりとりを初めて目の当たりにしたショコラは、不安な気持ちが込み上げてくるのを意識していた。あんな真似は自分にはとても出来ない。恐ろしく早い鞭のようにしなる髪の毛を優々と避けて斬りかかるなんて、しかもそれを行ったのは同年代くらいの女性だったのだから、本当に驚いたものだ。
右の頬に手をあてた。そこはあの歌姫にぶたれたところだった。なぜ、自分が叩かれなければならないのか判らないが、妖怪との戦いを見た以上の衝撃を受けたのは事実だった。
「力がないなら引っ込んでいろ、か」
彼女の独り言は白い廊下に吸われてしまったが、外からは病院らしからぬ喧噪が聞こえてくる。何事かと窓から見下ろすと眼下には報道陣が詰め寄せていた。なにか事件でもあったのかしら?そんなことを呑気に考えていると、白衣の天使が――二十年前にはきっとそうだったに違いない――看護婦が駆け寄ってきた。その恰幅から婦長ではないかと思ったが、ショコラは道を譲った。
「いや、あなたよ!ショコラ・ストライフさん。報道関係者があなたに取材させろ、って押し寄せているのよ。エティルが襲撃されて、あなたが子供を助けたことで、ちょっとしたヒーロー扱いよ!紙面も飾れるかも」
婦長の体格でそんなに鼻息を荒くされるとまるで野生じみてみえるのだが、事の重大さにショコラは冷静であった。別にどうということはない。襲撃されたのはエティルで、それを撃退したのはあの女ハンターだ。自分は逃げ遅れた子供を救助したかもしれないが、何もしていないとも言える。マスコミに愛想良くしてニュース番組にでも出演し、トントン拍子でメジャーデビューまで辿り着く――そんな都合の良い思考を振り払った。
――私は私の歌と実力でのしあがる。こんなイレギュラーな事件を踏み台にしたりはしない。
揺るがぬ決意であったが、その願いもつい先日の自称音楽関係者の誘いを断ったことで潰えそうになっていたことを思い出した。しかも、勤務先であるレストランがあの状態では再開されるのにかなりの日数が必要とされるだろう。自慢の大ガラスが木っ端微塵にされたのだから。失業手当などは期待できない。事実上の無職となったショコラはそれでもやはり、こんな事態を利用する真似はしたくなかった。
「裏口からそっと帰ります」
婦長は驚いて引き留めようとした。歌手への想いなど知るはずもなく、ただ単に、テレビに出られる機会をもったいないと言っているのだ。一度言い出したら聞かない頑固な性格には自分でも辟易するが、自分は間違っていない、絶対に正しいのだという確信があった。
荷物を預かってもらっていたナースステーションに声を掛けて鞄とギター、それにもう着ることもないレストランの制服を受け取った。次の仕事は早急に決めねばならなかった。そうしなければ少ない貯蓄では来週までは大丈夫でも、月が変われば家賃の支払いがくる。そこまでの余裕はない。日雇いのバイトでもいいから何か見つけなくてはならない。同居人のサラにも事情を説明して今後の事を話さなければならない。やるべきことは多かった。取材などにかまけている時間はないのだ。急ぎ足で裏口へ案内してもらう。治療費などはギルドだかガリラロイ家が支払ってくれるらしいので彼女はそのまま礼を言って警察病院を抜け出した。そこで後悔した。
「もしかして取材を受ければお金もらえたのかな?」
警察や診察、治療に時間をとられて今はもう夕暮れが近い。節約のために路線バスではなく徒歩で帰宅しようと決めて歩き出した。前方から同じように肩を落とし気味に歩いてくる男にはそんなに注意を払わなかった。なぜなら、警察病院と隣接する警察署の裏口から、署員に見送られて出てきた男が不審者のはずがないからだ。妙に長い槍を担いでいたとしても。そして、逸れ違いざま二人は同時に溜息をついた。
「やれやれ、どうしょうかしら」
「やれやれ、困ったものだ」
お互い三歩進んでから足り止まり振り向いた。夕陽を受けて顔が赤くなっているが、見違えるわけもない。あの飛頭蛮とかいう妖怪を倒したハンターの仲間だ。彼も警察に引き留められあれやこれやと質問攻めにあっていたのだろう、と同情した。聡い娘だ。
「あの勇敢なウェイトレス殿ではないか。お主もやっと開放されたのか?」
「え、ええ、そんなところです。お連れの方はまだ拘束されているのですか」
支族特有の古風な言葉使いにドキッとしたが、まったく通用しないわけではない。どちらというと原語としては彼らの方が伝統と正統性を有していると聞いたこともある。
「あれは今頃この街にはいない。まぁ、十日もせずに帰ってくるとは思うが」
それまで暇でしかたないのだ、と零した。よくハンター同士で恋人の関係になるとことがあるというが、彼らもそんなところだろと決め込んだ。小娘の勘違いであったが、この場で修正されることはなかった。彼女がきかなかったからだ。
「それよりこれから帰宅するのなら自宅まで送っていくが?時刻も遅いし、妖気に触れたことに疑いはない。警戒した方が良いな。あれらは同族の臭いに引き付けられて集まる習性がる」
怖がらせるそんなことを言っているのではないと真摯な眼差しで判ったが、それでもショコラは迷った。ここから自分のアパートまではかなり遠い。金銭的にゆとりのない彼女が家に着く頃には日付が変わっているかもしれない。そこまで付き合ってもらうのも申し訳ない気がするのだ。
「えっと申し出は嬉しいのですが……、私の家はここからだとかなり遠くて」
「ではますます放っておくわけにはいかんな。安心しろ、代金などはいらぬ。暇潰しだからな」
自信満々の笑顔は腹黒さとは無縁のもので、ショコラはこの良い人を捲くのは難しいだろうと諦めた。
「では、よろしくお願いします。ショコラ・ストライフです」
ぺこりと頭を下げた。
「俺はバサラ・T・テンゲ。寅族だ」
形だけの自己紹介を済ませると並んで歩き出した。屈託のないバサラはいろいろと話しかけていたが、すぐに聞き手の側にまわった。ショコラは彼以上に話し好きだったのだ。楽しい会話の中でショコラが心配していたのはたった一つだった。
――家、ホントに遠いんだけどな。
だんだん小さくなっていく街の明かりを蒸気機関車の客席から眺めていたレイアが考えていたことは特になかった。まるで闇の中に街が覆われてすぐにまた現れるという一部の人間には絶景の光景なのだが、彼女の関心を得られるものではなかった。週末にはそういった目的の人たちが大勢乗り込んでくるというが、今日はまだ火曜日だった。乗客はまばらで閑散としている。
ヴォール街の怪奇を解決した後、走ってその場を去ったレイアはパトカーの近くで知っている顔と遭遇した。名前は知らないが、レストラン、ジャロイルから自分たちを自転車で追いかけてきたあの記者だ。何も言わず自転車の荷台に座った。スカートなのでもちろん横座りだ。
「えっと?」
事態が飲み込めず困惑する男に、
「ちょっと乗せていって欲しいの。この長い下り坂の先にある大通りまででいいから。その代わりジャロイルとヴォール街で何があったのか話して上げる。この時間なら夕刊に間に合うでしょうし、もし無理でも朝刊にはあなたの記事が一面を飾ることになるわ。悪い取引ではないはずよ。さぁ、判ったら行って。時間はどんどん無くなっているのよ」
自転車は当然、勢いよく走り出した。長い勾配はブレーキを利かせながらで、古い自転車のそれは悲鳴を上げていた。その間、記者はレイアに質問を浴びせ続けた。やがて平地に変わってからも記者が口を閉ざすことはなかった。
目的の大通りについてレイアも記者はあれことと尋ねレイアは丁寧に答えた。
契約は履行される為にあり、法は遵守される為にあるのよ。こういう時は義理姉がこんなことを言っていたのを思い出すのだ。真面目なレイアは、なるほどととても納得して聞き入ったものだ。とはいえ、尽きることのなさそうな質問にいつまでも付き合ってはいられない。支族としてハンター業で鍛えられた慧眼はタクシーを見逃さなかった。素早く手を挙げて招き寄せる。
「運賃としてはもう十分かしら?」
「えっと、あ、はい。でもまだ……」
間抜けな返事は見た目によく合っていたが、彼の失敗はこのあと彼自身が気づくことになる。
「あ、名前訊くのを忘れた」
走り去るタクシーを呆然と見送りながらである。匿名希望の情報提供者で新聞がかけるか、などと怒鳴られそうであるが、せっかくのチャンスである。彼は会社に向かって自転車を走らせた。
それを車内から見届けたレイアは下宿している安アパートに向かっていた。街を出てからは四日間も蒸気機関車での移動、下車してからは森の探検になるのだ。準備を惜しむつもりはないが、時間はそういうわけにもいかない。彼女の記憶が正しければ、主要都市への機関車であれば夜間運行もある。だが巳族の隠れ里がある方角はそうではない。最終列車は六時くらいだったと思う。それを逃すとまた十二時間は待たなければならない。アパートに移動してからも望郷への思い、一日も無駄にはできない焦りが普段の明快な思考力を削り取る。
そうと判ってはいても、なかなか自分はうまく扱えないものだ。それでもなんとか入念な準備をしてまた駅へ向かう。急がなければならない。
今度もタクシーを使ったが、宿屋の主、トレイルに頼んで先に呼びつけてもらっていた。バサラが一緒ではないのを残念がっていたが、当然の様にそれを無視した。列車の時刻表など持ち合わせていないレイアは心配でならなかったが、タクシーの運転手曰く「まだ時間はありますよ」との言葉にも安堵を得られなかった。結局、大荷物を背負って駅に着いて時間を確かめたら、まだ三十分は余裕があると知り、ようやく落ち着いた。それからはゆっくりと座席を探して荷物の点検をする。多少の忘れ物は駅の売店でも買えるだろうと思ったのだ。
元々ハントに使う野外用の装備も持っていたので、さすがに抜けはなかった。食料と水は途中の停車駅で購入しなければならない。
汽笛が発車を告げるまでの間、ルルブン特製の地図を見たりしていたが、たいして頭に入らなかった。レイアは静かに目を閉じた。思いでの故郷は緑に囲まれた小さな村だ。そこに帰る。約十五年ぶりの帰郷であった。
それからそう時間を置かずに蒸気機関車は動き出した。残してきたバサラのことを少しだけ思い出したが、それもすぐに消え去った。巳族の里には多くの優れた大蛇使いがいる。そう信じている。ようやく自分が預かっている大蛇を手放せる時が近づいてきたのだ。これが喜ばすにいられようか、そんな気持ちでいっぱいだった。
ショコラ・ストライフの自宅まで彼女を送り届けることを約束したバサラ・T・テンゲはほんの少しだけ困っていた。それは彼女が思いのほか頑固で融通が利かない性格だということに起因する。
街のほぼ中心部にある警察署からデミダスダムズの外れにあると思われる自宅まで距離があるのはしかたないとして、路面電車を使うことを彼女が拒否したことだ。あのレストランの一件で職を失ったらしいショコラは節約のために歩いて帰ると言い張って、バサラの交通費なら自分が出す、という説得に応じなかったのだ。
理由は明白で、そんなことをしてもらうような関係ではない、とのことだ。
それを前面に出されては無理強いも出来ぬ、とおとなしく横を並んで歩いていた。今夜はテレビを見られそうにないのが心残りだが、深夜はいわゆるピンク系の番組が多いらしく、自分としては喜劇を見たかったのでそれほど残念がることもない、と言い聞かせていた。実際にはお色気の喜劇もあったのだが。
「それでね、ルームメイトのサラは男性に節操がないよ」
「なるほど」
「部屋に連れ込む男は毎回違うし、平気でお金を貸してそのまま音信不通になっちゃうし。それでも懲りずにまた別の男をくっついちゃうんだから」
「それは感心できぬなぁ」
などとショコラの話は途切れることをしらないが、饒舌とは無縁のレイアよりは取り付きやすい。勝手に話をさせておけば良い。他愛のない世間話だ。戦いの中に身を置く者ではないショコラへの興味は薄い。今夜、こうして家までの時間を歩いて話して過ごしそれ以降は出会うこともないだろうと思っていた。
「そう言えば支族は歌を聴くと強くなるって聞いたことがあるけど、それはそういう原理なの?私たち人間から見れば凄く変な話よね。特異体質よね?」
「別に体質というほどのものではないが、俺たち支族は戦うことを目的として神々に創造された。その長い戦いの中で自身と仲間を鼓舞する手段として歌や舞が尊ばれてきた歴史は確かにある。あまり細かい事を気にした支族も居なかったので、ただなんとなくこの歌を聞いて、この舞を見ていると頑張れる気がする、といった曖昧なものだったようだ。それに敵側に支族が居た場合、そいつまでも強化してしまうからな。となると開戦前に陣地内で行う儀式の一つだったらしい。仲間を力づける為に戦場で歌うなどということを最初にやってのけたのは、昼間に逢ったであろう。エティル・ガリラロイだ。妖怪の能力を減じる効果があることも彼女が実証してくれた。それ以降、各国や組織は増減者の素質を持つ者を発掘、養成するようになった。ハンターと妖怪事件、それらに対抗するのに比較すると頭数が足りぬらしい」
「へぇ、歌なら誰のでもいいというわけじゃないんだ。実は私も歌手を目指しているんだけど、それを聞いて安心したわ。ハンターや妖怪が戦っている場所で歌うなんて私には無理よ。もし将来有名になってもハントに誘われたりはしないわけね」
まずその前にはデビューしなければならないのだが、それは現状ではとても難しい。まずは生きていくために就職活動をしなければならないくらいだ。
それにしてもずいぶん歩いてきた。そろそろ深夜になろうとしている。まだ着かないのかと、そろそろ訊いた方がいいだろうか。道を間違えている可能性は零ではないと不安になってきた時に響いたショコラの明るい声はこの不気味な路地には不似合いだった。
「あ、着いたわ。ここがそうよ。ありがとうございます。おかげで帰り道を怖がらなくて済んだわ。やっぱり遅い時間は危険だもの」
立ち止まり右手の古いアパートを指さした。戦前の建物なのは明白で茶色い煉瓦のいたるところははげ落ちている。窓からの明かりは少なく、それが一層不気味さを強調していたが、よくよく辺りをみれば似たり寄ったりの建物が並んでいる。あの飛頭蛮討伐の現場となった集合住宅地の方が住まいとしては快適そうだ、などと思いながら、
「うむ。お役にたつことが出来て良かった。では、またどこかで」
挨拶も短く去っていく。いつまでもここに留まれば彼女が家に入りにくい、そう察してのことだった。
その大きな背中を見送ってからショコラは四つしかない階段を上り共通のドアの前で鞄に手を突っ込んで鍵を探し当てた。そいつを使ってドアを開けた。中は他の住人の部屋があり、当然ではあるが、静まり返っている。内鍵を閉めるのを忘れず、ギターを担ぎ直して階段を上っていった。面倒臭がったので鍵はまとめてポケットに突っ込んだ。彼女の部屋は四階にあり、何故か四号室だった。縁起が悪いのか他の部屋よりも少しだけ家賃が安い。いつもの位置を踏むといつもの軋んだ音がした。何も違和感はなかった。そうやって四階に着いた頃には少し汗ばんでいる。とにかく今はトイレに行きたかった。警察病院で治療の合間に済ませてから数時間いっていないし水も飲みたかった。生ぬるい水道水しかないのだが、それでもコップで何杯も飲みたかった。
今夜は特に暑い。細く尖った顎を流れる汗を手の甲で拭い部屋の鍵を開けた。何もおかしい事はないはずだ。しかし、ショコラは酸欠のような状態になっていた。これは何、と自問しても答えなどはない。初めての体験だった。強いて言えば昼間、職場で見かけた妖怪への嫌悪感に似ていた。『あれらは同族の臭いに引かれて集まる』というバサラの言葉が脳裏を横切るが、それならば実際に妖怪を倒したあの女性の方に集いそうなものだが。ドアノブを回し、扉を開けた。
――あの人は街を出たと言っていた。だから、こっちに来たのね。
めちゃくちゃに荒らされた室内をみて、妙に納得した。カーテンが開いているが、光量としては不十分でどうなっているのか判らなかった。とりあえず明かりをつけなければと部屋に踏み込んだ。
「サラ?いるの?」
居ないかもしれない。この前知り合ったという男性の自宅に居るのかも。そうであってほしかったが、彼女はすでに知っていたのかもしれない。サラという同居人はすでにこの世にいないことを。
明かりを付けた瞬間、目に入ったのは床に転がるサラであった。いつものように半裸に近い格好のまま、もちろん寝ているのでない。死んでいる。知識などなくてもそれは明らかであった。世界大戦末期に生まれたショコラは、幼少時の記憶として戦闘や死体を目にしたことは何度かあったが、大人になってからは初めてであった。込み上げるのは恐怖とそれがもたらすパニックである。
しかし、賢いショコラはまずは逃げるという選択肢を導き出した。それが、結果として命を救うことになるのだが、ギターと荷物をソファーに投げ捨てて後方の玄関に向かった時、視界には女性が立っていた。
こいつか、と直感的に洞察したショコラはその脇を擦り抜けて脱出に成功した。わざと逃がしてくれた、と錯覚するくらいうまくいった。その後ろを小さな生き物が押し寄せてくる。サラの変わり果てた姿と同じくらいの恐怖を彼女に与える生き物、ネズミである。それが大量にいる。ご近所中のネズミが総動員で体育会でも催しているのかと疑う数だ。
ショコラは一計を案じ、思いっきり腹の底から悲鳴を上げた。この異常事態を知らせるためである。警察とハンターズギルドに通報してもらいたかった。
トイレのことなど忘れて階段を数段とばしで声を上げながら駆け下りる。鍵をポケットから取り出してから共通のドアを開ける。三階に住む中年の婦人がひょっこり顔を出したが、ネズミの大群を見てすぐにドアを閉めたのが見えた。それと同時に彼女も木製のやたらと重い共通部分の扉を閉めて鍵を掛けた。その勢いで数匹建物の内側に吹き飛ばされたのが判った。ざまあみとっと会心の思いだった。サラの恨みはまだこんなものでは済まさない。
ショコラはさきほどまで一緒だったバサラを探した。路地の右に行ったはずだった。しかし、その心配はなかった。彼の方から駆け寄ってきたのだ。
「大丈夫か?何があった」
「ええ、どうして戻ってきたの?」
「あの盛大な悲鳴が聞こえぬほど、もうろくしてはおらんよ。それよりどうしたのだ?」
「ダメ、すぐに来るわ。まずは逃げましょう。数が多すぎる」
建物の隙間を使ってあのネズミたちが溢れてきた。それらは野生の動物でありながら、しっかりとした目的を与えられていた。赤く光る目は自然な状態のものではなかった。
「どうやら操られているようだな。確かに多勢に無勢か。広い公園などはあるか?」
「小さいのならあるけど、充分に暴れられるスペースが必要ってことなら少し走るわよ」
「案内を頼む」
ショコラたちは走り出した。拳大の生物をたくさん引き連れての駆けっこである。負ければ身体を喰われる。そういう危険な動物なのだ。しかも、いまはあの女に操られているというではないか。骨も残さず平らげてくれそうだった。
前を走るのがショコラでは追いつかれると思ったバサラは彼女の横に並ぶといきなり左腕を伸ばし彼女の右腕を掴んだ。驚き抗議するショコラより先にバサラは彼女を引っ張り背中に背負った。ざっと四十四キロ。身長が平均以上なのにずいぶん軽いと思った。背中に柔らかい感触を感じたが、それは気のせいだと自分に言い聞かせて走ることに集中した。
「しっかり掴まれ。道案内は任せるぞ」
背中にしがみつきながらショコラはこの速度は路面電車より速いのではないか、と感じるほどであった。後方を見るとネズミの群れがどんどん引き離されていく。これならば公園まで逃げ切れる。安堵感を感じたが、いったい公園でこの大軍を相手にどうするつもりなのだろうという新しい不安が込み上げてきた。
「サラは良い子だったのよ。良い子すぎて人の言うことをすぐに信じちゃって。騙されて。でも、泣き言はいわないし、決して恨んだりもしなかった。あんな死に方、可哀想だわ。あの飛頭蛮とかという奴らの仲間なのかしら」
鼻声はバサラの耳元でしたが、彼は問いへの答えではなくまったく別のことを考えていた。それは今、口にするようなことではなかったし、彼女には残酷な事になりかねない、と思い留まった。
「そうかもしれぬし、違うかもしれぬ。俺には判らんよ。だが、ここを生き延びなければ、それを確認する手段は永遠に失われるだろう」
確かにその通りだと思ったが、霧が晴れるようにすぐに悲しみが消えることはない。背中から道案内をするがそれは酷く事務的な感じになっていると実感していた。感情は抑えなければならない。今はまだ。
「次の十字路を右よ。その先が公園!」
「承知した」
掛け声と共にバサラは勢いを落とすことなく指示通りに進んだ。闇の中でもはっきりとその公園が見えた。少ない街灯はバサラの暗視能力をもってすれば昼間のように周囲を視ることができた。そして、公園自体も彼が要求した以上の空間であった。
「ここで奴らを迎え撃つ。俺から離れずに、常に真後ろにいてくれ」
「わかったわ」
短い会話の間にネズミたちはどんどん押し寄せてショコラたちに迫る。
「昼間のヴォール街では暴れ足りないと思っていたところだ。十分に付き合ってもらうぞ」
その言葉はまだ姿を見せない、ショコラが部屋で見た女に向かってのものだったが、ちゃんと伝わったかはもちろん不明だった。
強襲するネズミを一匹一匹仕留めていたのでは埒が開かない。そうふんだバサラはこの広い場所で一網打尽にすべく寅発頸を発動させた。昼間とは違い今度は両腕にふさふさした体毛が生えてきた。それらは短い毛だったが、猫のものに似ていると思ったショコラは、間近で見ていてやっぱり支族は特異体質だと確認した。
「俺の槍は音を味方に付けることが出来るのだよ」
技も何もあったものではない。力任せの一撃は風を巻き上げ強風となってネズミを吹き飛ばした。耳の奧に鋭い痛みが走ったショコラはそれでも目を閉じたりせずに推移を見守った。ブランコやジャングルジムの鉄製パイプが不自然な形で曲がる瞬間を見た。
――槍の力で超圧縮されて歪んだ空間が風みたいになって襲いかかった?
なぜそんなことが判ったのか不思議だったが、彼の攻撃の理論をショコラは正確に理解していた。それよりも、一体どうやったらそんな事ができるのか、支族ならば誰でも出来ることなのか。そう言えばあのレストランで戦っていた女性は驚異的な身体能力で妖怪を圧倒していた。あんな動きも人間には不可能だと思った。
「さすがに一撃で全滅はできぬか。数が多いからな。もういっちょういくか。……ふん!」
気合いの声の中に含み笑いを感じた。この男は楽しんでいる、この状況を喜んでいるのだ。まるで相手にならない雑魚を散らすのは面白いが、暇潰しにもならないと。早くあの女の妖怪を引きずり出したいのだ。
――なんて非常識な男なの!
ただ守られて後ろに控えているだけで見ていることしか出来ないショコラは憤りながらも抗議すらできなかった。
この寅族の男が放ったのは三撃までで、後はネズミの変形した奇怪な死体だけが残された。遊具も彼の前方にあったものは曲がれ捻れている。もう使い物にはならないだろう。
「ふむ、どうやら黒幕のお出でらしいな。ふふ、勿体ぶらせてくれる」
大量の砂が風に乗って上空から降り注いだ。まるで砂の瀑布であったが、それも数瞬のことでそれらは凝固し人の形をとった。髪の毛の先、濃い睫毛まで見事に形成されたことで相手の力量を推測したバサラは、中々の敵だと評価した。
「夜分に恐れ入りますわ。突然のご自宅訪問でずいぶんと怖がらせてしまいましたね」
どこかの貴族令嬢のような口調だが、表情は遠く及ばす冷え冷えとしていた。
「これはご丁寧に。さて、ここで死ぬか、襲撃の理由を語ってから死ぬかを選んでもらえぬか?」
単刀直入な物言いにバサラの方が危険な臭いを醸し出しているのでは、とショコラは思ったが、妖怪の言葉には不思議な力があり、会話自体がとても危険極まりないことだと話に聞いたことがある。鋼鉄の意志がなければ精神を挫かれるのだと。
「理由ですか?特にはないのですが、昼間、そこのお嬢さんをたまたま見かけましてその時に身に着けていらしたこれが欲しくなりまして」
手に持ったネックレスを指で摘んで差し出した。それにはショコラも見覚えがあった。どこかの骨董店で買った古いネックレスだと。それだけの物だ。そういえば今日はそれを付けて出勤していた。確か鞄にしまったはずだ。
「それでいろいろと手を回してお住まいを調べて、ご自宅を物色しておりましたら、別のお嬢さんがご帰宅されて、暇潰しに付き合っていただいたの」
「暇潰し?暇潰しって何よ?サラに何をしたのよ!」
直情的なショコラはバサラから身を乗り出して詰め寄ろうとした。止めたのはバサラでの太い腕だった。白い体毛に包まれていて幻想的だった。
「そんなもの、くれと言われればすぐにあげたわよ!人の命をなんだと思っているのよ!」
「愚かなお嬢さんだこと。妖にとって人間などはただの餌、玩具でしかないことをご存じないとは。そちらのハンター殿、襲撃の理由は以上になりますが、私を斬れるとお思いか?そんな鉄の槍でこの私を」
「まだ話は終わって……」
丸太のような腕がグイッと再び動きその力に逆らえずショコラは数歩後退いた。
「ふむ。充分だな。妖怪がそんな装飾品に興味を持つとは思えぬが。まぁ、話すつもりがないのならそれでいい」
左半身に構えて槍の先端を砂女の喉元に狙いをつける。
「さて、今の俺ならば砂でも斬れると思うのだが、どうかな?」
鋭い、というにはまだ足りぬ、音を置き去りしたような突きは正確に喉を捉え貫いた。が、それだけであった。
「我々、非定形の妖を斬るにはまだ力不足のようですね」
「そうでもないようだが?今度は寅発頸を上乗せするぞ」
砂女の白い鎖骨の辺りに一滴の青い血が流れていた。それを手で拭うと唇に塗りつけた。
「この血の一滴をあなたの命で贖っていただきましょう。いずれ、またの機会に」
吹き荒れた突風は砂を撒き散らしそこには何もなくなった。脱力感と疲労だけが残されたショコラはその場に膝をついて激しく呼吸を繰り返す。戦闘をこれだけ近くで見ていたのだから、仕方ない。友人を失った衝撃はさらなる苦しみを与えていることだろう。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
「やれやれ、本日三度目か」
ショコラはゆっくりと立ちあがった。無理はしないほうが良いぞ、バサラは明るく声をかけた。
「……忘れていたわ。もう安全なのよね?あなたはここから動かないでね」
必死の形相に珍しくバサラは気圧されて、間を置いてから頷いた。それを確認するのが早いか、彼女は脱兎の如く走り出した。そっちには簡素な公衆トイレがあった。
「はばかりか」
一応、背中を向けておこうか。月は出ていて大地を照らしていたが、同時に『高天の原』を浮かび上がらせていた。あれを見ると思い出されるのは一人の女性だった。
「シェリリール、お主ならばあの砂女を斬れたのか?」
回答を得られないのは承知であったが、つい言葉にしてしまってから自嘲する。他人には見せない顔だった。
「斬れるに決まっている。早く再会したいものだ」
そして全身全霊の技を見て欲しいと思い焦がれていた。
パトカーがようやく公園に到着したとき、ショコラも戻ってきた。顔色は悪く涙目になっているが気丈にも倒れこんだりせずにがんばっている。とりあえずバサラの近くにいた方がいいかな、と彼の隣に並んだ。
「お?まだ非番のはずではなかったのか」
「うるせぇよ。ヴォール街の事件に関わった公務員にしばらく休みはねぇとさ」
そんな冗談をどうしてあんな戦いの後で口にすることが出来るのかショコラには全く理解不能であった。
ヴォール街の開放が報じられてから丸三日が経過していた。そして、慌ただしく動いた時間はまだマシだったとショコラは理解していた。お約束の事情聴取は重要参考人として招集されながらも、同行者にバサラ・T・テンゲがいたことで予想外にあっさり終わった。どうやら彼はギルドの上役からの信頼が高いだけでなく、この国の要人にも顔が利くらしい。そのおかげで翌日の昼過ぎには自宅に戻り後片付けをすることができた。といっても、荷物などはほとんどなく身よりのない十代の小娘二人が寄り合って生活していた部屋は、自分のものを箱詰めしサラの物は孤児院に寄付をした。彼女たち二人が育った孤児院である。それからサラの葬儀に出席し――夏場で遺体の保存が難しく司法解剖などもされなかった――今はサラとの思い出と一緒にその孤児院にいる。
あの部屋に戻る気にはならなかったし失職中であることを主張し、一ヶ月だけの滞在を許可された。これなら残された貯蓄でも仕事を探せるし、もし早い時期に職を決めることが出来れば家賃の契約も出来るかもしれない。孤児院は見返りを求めない。だが、そこに住む子供と働く職員以外の口を賄うゆとりが在るわけではない。一ヶ月という日数には院長の善意を感じざるを得ない。
そういった事情から早急に転職活動に精を出さねばならないはずだが、一向に動く気になれなかった。サラの死はそれほど大きい物だったのだ。この日も裏手の日陰に腰を下ろして何をするでもなく呆然としている。時折、口ずさむのはサラが好きだった歌謡曲ばかりだ。売れた曲もあればそうで無いのもある。
いつも歌い終わると、本物が歌うより上手じゃない!と褒めてくれた。男性に誘われればそのほとんどに応える、かなり困ったところもあったがそれでもショコラにとってサラは大事な親友だったのだ。それを砂女が欲しがったネックレスのために命を奪われるなんて、とても許せそうにない。しかもそれはサラではなくショコラの持ち物だったのだ。苛立ちは募るばかりだ。復讐してやりたいが、自分にはバサラやあのレストランの女性のような戦う力はない。今から修行をするよりは働いて金を貯めてそれこそバサラに討伐依頼をした方が確実だろう。悲しみは溶けることなく彼女を苛み、言葉は歌となって流れていた。
それを言い訳にするつもりはないが、建物の入り口の方から車椅子の女性が近づいてくるのにまったく気が付かなかった。いつからそうしていたのか、ショコラをジッと見つめていたのはあのエティル・ガリラロイであった。
何か思い詰めた表情にも見えたが、優しげに微笑んでいるようにも映った。侍女を下がらせて自分の手で車輪を回しショコラに近づく。そういえば今日はこの孤児院に慰問にくると、昔馴染みで今はここで働くリッドがとても楽しみにしていた。数曲ではあるが、歌も披露してくれるらしいからだ。こうした慈善活動を積極的に行っていることもあり、彼女は民衆に受け入れられているのだ。生まれ持った美貌や美声だけではない。
「あまり好きな楽曲ではなかったけど、良い歌だと素直に感じるのはあなたが歌っているからかしら?ショコラ・ストライフさん」
「私の名を?」
「ええ、バサラくんに聞きました。お友達のことも。とても親しい方だったようですね。残念でしょう」
車椅子に座ったまま短い黙祷を捧げてくれる、その姿に偽りはなかった。彼女は本当に悲しみ冥福を祈ってくれている。それが判っても礼を言うのには抵抗があった。
「今日はぶたないんですか?」
代わりに口から出たのは喧嘩腰だった。
「あら、根に持っていたのね。……当然か。私はレイアちゃんほど冷静ではないからね。カッと頭に来ると後のことはあまり考えずに行動してしまうのよ」
とても思慮深い性格で感情を表に出すような女性には見えなかっただけに驚いた。それに、レイアちゃん?あのレストランで飛頭蛮を倒した女性だろうか。
「そうよ、レイア・S・パン、ハンターズギルドに所属するA級ハンター。まぁ、私にとっては妹みたいな存在ね」
「パン?ラグナロクのシェリリールと何か関係が在るのですか?」
ゆっくり頷き彼女の義理の妹よ、と素っ気なく応えた。義理、それはそうだろう。シェリリールは人間で、その妹であるレイアが支族なのだから、血縁者である可能性は低い。条件によっては両親からの遺伝では決して有り得ないことはないが、それは常識的には珍しいケースとなる。
「そのシェリリールの義理の妹とどうしてあなたが懇意にしているのですか。ラグナロクの罪人とされ賞金首にしている国もあると聞いています」
「だって、シェリーさんとは友達だったもの。今も生きていればその関係は変わらなかったと思うわ。彼女は罪人なんかではないし、生きていてくれれば私もそれを証明する為に壇上に立っても良いと思っているわ」
「つまり死んだから放っている。それでも友達なんですか!」
激しい口調は親友を失った直後ゆえのものではない。ショコラはエティルの不誠実さに憤りを感じたのだ。
「レイアちゃんがそれを望んだからよ。残された人間は生きて行かなくちゃいけない。だから、辛い過去は誰かのせいにして忘れることができるのなら、それが許される相手ならばそれが楽で良いって。九歳の子供がそんなことを姉の同僚たちに言ったらしいわ。私は背中の傷が元でまだ生死の境をさまよっていたから聞いていないけど。これが誰もが知るラグナロクを阻止できなかった無能な警官、昇竜組の組長シェリリールの真相よ」
とても納得できることではない。もし、ショコラが同じ立場であったら泣き叫んででも姉の無実を訴えているだろう。
「そんなこと我慢できない」
「そうね、レイアちゃん、変わっているから。まぁ、そこも可愛いんだけどね。ところで立ち聞きはあまり褒められないけど?」
エティルが入ってきた方とは逆側、ちょっとした木々が立ち並ぶ木陰から大きな猫が出てきた、と思ったがそれはバサラであった。なぜ猫と勘違いしたのだろうか。
「聞き入るつもりはなかったのですが、昼寝をしていただけなのですよ」
両手を挙げて無罪を主張するが、彼の意図が透けて見えていたショコラはやはり微笑むばかりであった。レストラン、ジャロイルでの襲撃事件の深夜にショコラが妖怪に襲われたという一報はエティルのもとにも届いていた。妖怪は妖の臭いに引かれて集まる習性をもつ。それを危惧してこうしてショコラに張り付いているわけだ。他にも理由はありそうだが、とりあえずあれ以降は不審な動きなどないようだから、もう大丈夫だろう。骨董品のネックレスを奪った砂の妖怪というのに関心があったが、生憎この街での滞在期間はもう少しで終わる。後はこの街のハンターたちに任せるしかない。
「ところでここ数日彼女の歌をそうして聴いていて何か感じることはない?」
「心に染み入る美声だなぁっと感服しております」
「隠してもダメよ。君ほどの男なら定量的に彼女の力を測れるでしょ」
さすがに鋭い。知の勝負ではバサラに勝因はなにもないと感じ、慚愧の思いで白旗を示した。
「ショコラの増減者としての素質、それは恐らく、気分を害しないでくだされよ、全盛期の頃のあなたに匹敵するものだと俺は思います」
「え?」
「実に正しい表現だわ。私の全盛期なんてラグナロク以前だもの。ふふっ、ついに次の世代がきたわね。どう?増減者になりたいならギルド宛の紹介状を書いてもいいけど」
突然の話で驚き戸惑ったが、バサラより何倍も頭の回転の速いショコラはすぐに事態を飲み込む。といっても突きつけられた事実は至って単純である。増減者になるかならないか。そんなの答えは判りきっている。
「いえ、結構です。私はあなたたちのように戦場で歌えませんし、歌いたくもない。私は私の歌を聴きたいと思ってくれる人たちのために歌いたい。サラの仇は討ちたいけど、増減者なんて私には無理です」
きっぱり断った。生まれ持った力を万民のために使わないとはなんて身勝手で嫌な奴に見えたことだろう。それでも歌を武器にするなんて考えられないことだった。エティルは優しく微笑み、
「そう。仕方ないわね。では歌を捨てなさい。優れた増減者の素質を持っていたと思われる人物が妖の犠牲に事件は時々起きているの。私も何度もそれと思われる妖怪に襲われたことがあるし。今までは運良く彼らに発見されずにすんできたのかもしれないけど、この先もその強運が続く保証はないわ。歌を捨てるのが一番安全なのよ」
そんな話は聞いたこともなかったのでバサラをみる。彼は頷いた。もしこの事が世の中に知れ渡ったら人々は安心して暮らせなくなる。まずは身の安全を確保する為に増減者の素質がないことを確認しなければならないのだから。床をじっと見る。何も言えなかった。増減者になる選択肢はない。それくらい歌わない自分を想像できなかった。
「お嬢様、そろそろお時間です」
「判ったわ。アレックス、お願い。私が言ったことを忘れないでね。死にたくなければ歌わないこと」
エティルが去りショコラとバサラが残った。
「おお、そういえばエティル殿も歌うらしいからな。行かんのか?……そうか。人の歌を聴くよりは自分で歌いたいか。しかし、彼女が言っていたことは、公表はされていないが事実だ。友を失い生きる望みも奪われたか。辛いな。その想いは俺ならわかる」
ショコラは顔を上げた。バサラがいつになく真剣な顔をしている。遠くから子供たちの歓声が聞こえてきた。あの歓声、手拍子こそショコラが求めるものだった。それは自分の歌によるものでなければならない。
「お主の歌、それは俺にとってのシェリリールだからだ。彼女と戦いたいという願望、それだけで俺はこの十年間、技を磨いてきた。それはもしかしたら叶わないのかも知れない。しかし、僅かでも望みがあるなら、俺はそれに賭ける」
「死人と戦う事なんてできないわ」
「誰も遺体を確認していないのだからまだ生きている可能性もある。いや、きっと生きていると俺は信じている」
この男も幻想の中に自分を置いているのか。それはショコラの夢よりも空虚なものに感じられた。酔狂ともいえる。
「さて、せっかくの歌姫の美声を逃す手はないな。俺は行くがお主はどうする?」
「行かない」
一瞬の沈黙の後に応えた。その刹那の間にバサラは期待したりもしたのだが、やはり拒否だったか、と諦めた。彼女ほどの素質を惜しむ気持ちもあるが、そういう生き方を強要することもできない。槍を担ぐとコンサート会場に様変わりした礼拝堂に向かった。一人になってショコラはまた座り、サラが好きだった曲を口ずさんだ。ほんの少し歌ってからすぐにやめた。妖怪が寄ってくるかもしれないからだ。いまならばエティルの方に集まってくれそうだが、確証はない。バサラが言っていたではないか。素質ならば彼女に負けていない、と。
「私、もう歌えないのかな」
そう考えると涙が溢れてきそうになったが、どうしてエティルは歌い続けているのかふっと疑問に思った。大貴族の令嬢で今は怪我のせいで車椅子での不自由な生活を強いられている。そもそも彼女が住む首都は大陸の東側にあり、ここは西岸だ。中央大陸コンサートツアーなど二年がかりでやる必要などどこにもないのだ。
エティルの歌は耳に届きその声に惹かれるようにショコラは立ち上がり歩いていった。小さな孤児院である。礼拝堂は満員でここの関係者と一部の報道の者しかいない。
その最後尾にいたバサラの左側にくると彼を盾にしてエティルを観察した。
孤児院の子供たちの中に混ざって大人の職員もいたが全員、彼女の歌声に聞き入っている。なにがそうさせるのか判らないわけではないが、自分とエティルの違いとなると、それを明確に掴むことができた。それはこの場に臨む気迫と言うべきもので、今のこの瞬間に全力で取り組んでいるということだった。まるで明日のことなど考えていない、喉が潰れても構わないという覚悟。ショコラは混乱した。こんな小さな慈善事業でそんなに全力を出し切ろうとするアイドルなんて聞いたこともない。
「今日はいつにも増して気合いが入っているようだな。だとすればそれはお主のお陰だろう」
「私の?」
「お主の資質と若さ、可能性に少なからず嫉妬したのかも知れぬ。『黄昏の歌姫』と巷で賞賛されていても、ただ一人の女だということだ。良いことだ」
どことなく俯瞰した物言いが気になったが、確かにこれほどまでに惹き込まれるステージは他の誰にも真似はできないであろう。
「あの人だってまだ十分若いでしょ。それにお金持ちだし、独身だし。可能性というなら私なんかよりよっぽど世の為、人の為にいろいろできるわよ」
拗ねたように唇を尖らせた仕草は子供っぽい。それが本音でもあった。
「いや、一般には知られていないが、彼女はそう長くは生きられない」
「え?」
「ラグナロクの時に受けた背中の傷が元で当時の診察では十年生きられないと宣告されたらしい」
ショコラは動揺を隠せなかったが、頭脳は冷静に考えていた。ラグナロクの時で余命十年、今年の年末であの厄災から十年となる。つまり刻が来る。車椅子で歌う彼女からはとても信じられない事だった。
「そうだ。エティルは年末までは生きているかも知れない。だが、来年のこの時期には失われている。それも非戦闘員の少女を助けて背中に追った傷が原因だ。昨日のお主の無謀な姿と被って見えて、同じ事を繰り返させないために頬を張ったのだろう。誰にでも確実に来る死というもの、彼女と俺たちの違いはそれが目に見える形をとってしまったとうことだ。彼女は誰に強要されたわけではない。自ら進んで戦場に赴き、最初は支族の後方支援ということで歌い始めた。それがやがて妖怪にも作用を及ぼすと判るのに時間は掛からなかった。なぜ彼女の歌が妖怪に効くのか猪族の連中は狂ったように研究を重ねた。そして、彼女だけが無二の存在ではないと判った。他にも同じような能力を持つ人間がいるのだと立証されたのだから、もう、彼女は歌わなくてもいい。だが、エティルは歌うことを辞めない。辞めたくないのだ。彼女は歌が好きだし、自分の歌で救われる人々が僅かでもいる限り、命ある限り歌うだろう。それが『高天の原』に飛ばされて一人だけ生き延びた自分の宿命だと思いこんでいる」
ショコラは何も言わなかった。生きている世界は同じなのに、なぜ、こうも違うのだろうと考えた。自分はそこまでの想いを歌に託したことがあっただろうか。太古から在る娯楽、教養として学問と同様に扱われた時代もあったそうだが、現代では言ってしまえば庶民の道楽に等しい歌をこんなにも命を賭けて取り組んでいる、いや、表現している。
増減者の素質が同等ですって?冗談じゃない、そんな真似、私にはできっこないわ。
「出来ると信じることが最初の一歩なのだそうだ。まだ、デビューしたばかりの頃、俺にそう言ってくれたよ」
遠くを見る。そこにはもちろんエティルがいるのだが、彼女もこちらをみていた。何か言いたいことがあるのだろうか、と不安がるほど真っ直ぐに。
「両親の猛反対を押し切ってオーディション――異界の神の名に似ている――を受けて見事に合格し、レコードを出した後も親からの理解を得られなくて落ち込んでいた時の話だ。いつかは判ってくれるとそれでも笑い周囲に笑顔を忘れなかった。結局、そのままラグナロクを迎えてしまい、退院した後も、もしかしたら現在でもまだ両親とはキチンと話し合っていないのかもしれない。だが、諦めずに続け信じることが、最初なのだ。その気持ちはまだ彼女の心の真ん中にあると俺は信じている」
「私に増減者になれって言っているの?お断りよ。命を危険に晒すなら、私は歌を棄てるわ。きっと、すぐは寂しいかもしれないけど。死んだらそれでおしまいだもの」
「そうか。それなら仕方ないな。俺が今言ったことは内密に頼むぞ。彼女の死は政治までも左右しかねないらしいからな」
そうね、同意したがその詳細などはまったく理解してもいなかった。新聞も雑誌もラジオですらあまり聞かないのだから、そういった事情には疎かった。詳しい友人もいないのでは仕方ない。
自分が頑なに拒絶した道を選んだ歌姫を沈黙で見つめる。その奧で何を考えているのか、バサラには見当もつかなかった。やがて三曲目に入る前に孤児院を代表する子供たちから花束の贈呈があった。男女一人ずつのまだ十歳になるかどうかの子供は両腕に抱えた花をエティルに手渡した。彼女が過去もらった物と比較すると、それはどうでもいいような花の寄せ集めに過ぎない代物だった。しかし、しっかりと受け止め香りを嗅ぎ子供の頭を撫でてやる。それから、他の孤児たちに聞こえるようにお礼を言った。見事だとバサラは感服した。その所作の全てに彼女の誠意を感じたのだ。バサラの目頭は熱くなっていた。隣を見るとショコラの顔色は逆に青ざめている。やはり理解を得るにはいたらなかったか。
「それじゃ、次が最後の曲になるのかな。その前に、私はどこで歌っても同じ言葉を必ず言うようにしているの。それはね、今日、私の歌で少しでも感動してくれた人がもしいるのなら、いつの日か同じ感動を誰か他の人に与えて欲しいの。そうやって繋がってきた歴史、これからもそうあってほしいから。それが私の生きた証になると思うの。だから、お願いね。歌だけに限らないわ。自分に出来ることがあるのなら、したいと思うことがあるのなら、まずは始めてほしいの」
そして、静かに歌い出す。後ろで演奏をしているのは普段は車椅子を押しているアレックスという女性でギターを担当している。後はベースもピアノもヴァイオリンもいる。ここ数年はこのメンバーを主体に大陸の各地を巡っている。息のあった演奏はエティルを高ぶらせ、彼女の身体を薄く光る蒼い鱗粉が舞っていた。それは夏に降る初雪のような透明さを持っていた。
「絶対領域」
バサラの言葉で不可解な現象を把握できた。強い力を持つ増減者のみが発生させることのできる絶対空間。それが発動された証拠として具現化されるのがあの鱗粉であるという。
有名な話だ。絶対領域を発動させたことのある増減者でさえ多くはないのだが、さらにこれを任意で自在に操れるのは世界に五人もいなのだから。エティルはその一人であり初めての人物でもあった。増減者の歴史は彼女から始まり、それは妖との抗争の時間でもあった。まだ十年も経っていないのに人は未知の生物への対抗策を見いだしていたのだ。
問題は人員の不足であった。ショコラはその辺りのことはもちろん知っていた。知らなかったのは、黄昏の罪人、シェリリールの罪が捏造されたこととさきほどバサラから聞かされたエティルの身体の事だった。彼女は最初から万人に受け入れられていたわけではない。ショコラの記憶にはない親という最も身近な人々の反感を買いながらも彼女は歌い出した。そして、周囲からは身体を労るようにと止められているに違いない。それでも彼女は歌う。命を燃やして。その生き様はショコラが持っていた――事実を知らない大多数の人がそう思っている――気紛れなお嬢様アイドルという軽い印象を打ち砕いた。
一点の曇りや過ちを犯さず生きていけるとは思ってはいないが、それでも、例えショコラ一人が詫びたところでどうしようもないのだが、なにかしなければと考えた。時間はない。もうすぐ小さなコンサートが終わり彼女はここを出て行ってしまう。そうすれば彼女との接点は永久に失われてしまうだろう。アイドルという点を除くと彼女は、世界のガリラロイ家の令嬢なのだから、本来ならばショコラが近づくことさえできない。チャンスは一度きりでその瞬間はもうすぐそこに迫っている。何も考えが浮かばない。ここでこうして見送ることしかできないのか。そんな後悔はしたくなかったが、どうすればいいのか判らなかった。
最後の一曲を歌い終わったエティルは身体にまとわりついている蒼い鱗粉を掌に集めて、ふぅ、という吐息で会場内に飛ばした。行為に意味はない。鱗粉自体は無害と実証されているのだから、ただそうした方が子供たちは喜ぶだろうと思ったのだ。
「ありがとう。この絶対領域はもちろん私の意志で発動させることができるわ。でも、気持ちが高揚して勝手に出てきちゃうこともあるの。今みたいにね。それはここにいるみんなが私を応援してくれたからだと思うの。今日は本当にいいコンサートになったわ」
早々に会場を後にしようとする。アレックスはギターを仲間に渡して車椅子を押していく。早く身体を休めなければならないのだろう。エティルの耳元に顔を近づけて何事か耳打ちをしている。それに対して苦笑で応えているのが判った。寅族の男は片手を挙げて挨拶をしてきた。その隣にいるショコラはこちらを見ているが突っ立っているだけだ。
貰った花束を胸に抱えてみんなに手を振りながらゆっくりと礼拝堂の出口に向かう。ざわつきは右手からだった。そこにはバサラが居たはずなのでまずは彼を見るが腕組みをしたままだ。ならばこの騒ぎに危険はない。それほどに彼を信頼していた。
その横にいたショコラがいないと思ったら、すぐ目の前に移動してきていた。それで会場がどよめいたのか。なるほど、と納得はしたが、何か思い詰めた表情をしている。どうやらあの寅族の男から良からぬ事をいろいろと聞いたのだろう。まったく見かけによらずおしゃべりなんだから。
何かをする様子でもないショコラはそのまま立ち尽くしていた。
待ってみても良かった。五分か一時間くらいはこのまま。しかし、主人第一主義のアレックスは無情にも車椅子を進めた。絶対領域は体力を激しく消耗するのだ。早くホテルに戻って横にさせるのが侍女の役目だ。そのために通路を塞ぐ形のショコラの脇を通過する。その時、エティルの耳は微かな呟きをはっきりと捉えた。
「止めて」
彼女自身が動かしているかのようにピタリと止まった。背中を向けたままの少女に語りかける。
「私がこの街に滞在しているのは後一週間もないわ。ショコラさん、あなたその間に私のレッスンを受けてみる気はない?次を考えるのはそれからでいいんじゃないの?」
恐る恐る振り向くと侍女が肩を落としているのが見えた。当のエティルは瞳をキラキラと輝かせている。本気のようだ。なんでそうなるのか、この自由奔放さも各国の熱烈なファンから指示される要因なのか。だが、彼女に少しでも近づけるまたとない好機だった。いつの日か越えるべき相手となっていた。
バサラにとってのシェリリールがそうであるように彼女もまたショコラの対岸となったのだ。
「……はい」
「声が小さぁい!」
「はい!」
私のレッスンは厳しいわよ!覚悟しなさい。いつになく挑戦的だがとっても楽しそうだ。お嬢様、ほどほどに、などと侍女にたしなめられている。
「私はいつでも全力で取り組むことにしているの。知っているでしょう」
なるほど、だからこの侍女は苦労しているのか。
――一週間、それでどこまで吸収できるか判らないけど、それこそ死ぬ気でやるわよ。
『黄昏の歌姫』同様、落ち込んでいたショコラの闘志にも火が付いた。それは互いを高め合うものになるとバサラは信じていた。
レイアは街を出て、ショコラはエティルと共に行った。またしばらく退屈な時間が流れるな。ギルドに行って仕事でも探すか、レイアのアパートでテレビを見て帰りを待つのもいい。この街にもあると思われる武芸道場を訪れて技を見てみるのも楽しそうだった。そんなことを考えていたら、子供たちが集まってきた。
「お兄ちゃん、また遊んでよ!」
ここに滞在している間、彼の仕事は子供たちと相撲をしたりして遊ぶことだった。夕方までは付き合っても構わないだろうと思った。歌姫の優しい手と比べるのも申し訳ないが、遊び相手くらいはできるのだ。
「よし、では俺に戦いを挑む者は決戦の場、裏庭に集合だ!くれぐれも後片付けをしている邪魔にならぬように!」
こういうのも楽しいものだと彼は心から笑っていた。