2話 Injection
空が、近い。
店の入り口のステップに腰を下ろしていたベズロはそんなことを思った。
暗い天上に広がる星々の光、その密度。
それを感じ取ったということもある。
だが、思い思いに散らばるその輝きは雑然としているようにも思えて、それが人混みのように見えたのだ。その様に親近感のようなものを感じたからかもしれない。
その輝きが、より多くの人々が行きかう都市では薄くなってきているという。
薀蓄好きの客から聞いた話だ。山々に囲まれたこの街ではあと何年は先のことになるか分からないが、交通の発展した街々では電灯というものが立ち並び、日が落ちた街を明るく照らすのだという。
その光が星々の輝きを隠してしまうらしい。勿論、星が全て見えなくなるわけではない。だが、昔と比べてあの空に散らばる星の数が減ってしまったと。
便利な物だ。きっとそれだけ明るければ、暗い道を歩いて犬の糞を踏んづけることもないに違いない。
今彼を照らしているのは、弓のように細くかけたあの月と、無数の星の光を除けば、傍らに置いたハリケーンランプの光のみ。
これで十分だと思うし、長年この街で暮らしてきたベズロにはそれほど明るい夜の街というのが想像できなかった。
それにどうでもいいことだった。そもそも、こうして柄にもなく物思いに耽っているのは酒瓶を傾けることぐらいしか暇を潰す手段が無かったからだ。
そうしてちびちびと酒を飲みながら時間を潰し、最後の一滴を口に落としたところで、待ち人が帰ってきた。
「……よお、遅かったじゃねえかイヴ。なんて顔してやがる、叱られたガキみてぇだ」
「…………ただいま、店長。遅くなってすまない」
「ああ、それはいい。だがその格好で表から入るな、裏口を使え。とりあえずシャワー浴びろ」
元が赤い生地だから目立たないが、イヴのコートはいたるところに血が付着していた。さらさらと流れる彼女の灰色の髪も、今は黒く変色した血が固まってべっとりとしている。
「ありがとう。それで、店は……」
「まだひとりいる。いつもの爺さんだ。フェノが相手してる」
「なら、なるべく早く済ますよ。それと……」
そこでイヴは感謝と懐疑の入り混じった複雑な視線をベズロに向けた。
「正直、店長がこうして待っていてくれたことに驚いている」
何が可笑しかったのか、ベズロは思わず噴き出した。
「へっ。イヴ、お前は俺をダメな男だと思ってる。街の奴らも同じことを言うだろうし俺もそう思ってる。だがな、俺だって人の心配ぐらいはするんだよ。それに、俺が蹴り出したんだ。俺が待ってなくてどうする」
◆
高置水槽から送られた水がシャワーヘッドを通して、イヴの体を濡らす。
球になって肌を流れる水が、汗や土埃、獣の血を柔らかくしていく。
丁寧に、彼女はそれを洗い流していった。
この水は、昼間に彼女が運んで来た水だ。井戸の底の冷えた水も、タンクの中で太陽の光に温められて、震え上がるほどの冷たさではなくなっている。最も、日中に浴びるのならば、汲んで来たばかりの水のほうが心地良く感じるだろう。
髪に付着して固まった血はなかなか落ちなかったが、時間をかけて少しずつ綺麗にしていった。
シャワーを止めて、タオルで水滴をふき取っていく。
あれだけ洗っても、まだ体には自分が殺した獣の血の臭いが残っていた。こればかりはどうしようもない。
簡素なシャツとズボンに着替えて店内に向かうと、ウェイトレス服を着た少女と白ひげを伸ばした老人が向かい合って丸テーブルで酒瓶をあけていた。
老人の方はまだ余裕がありそうだが、少女の方はだいぶ酔いが回っているのか、テーブルに伏していて、肩口まで伸ばした艶のある茶色の髪も少々乱れている。
板張りの床の軋む音で老人がイヴに気づき、体を重そうに傾ける少女に指でサインを送る。あっちを見てみろ。
それを受けて体を起こす少女。イヴと目が合う。救いを見たかのように顔を輝かせた。
「おかえりなさいイヴさん! 私もお父さんも心配してたんでっ……」
嬉しさのあまり急に立ち上がろうとした少女。だが酔いで世界がぐるぐると回る。
倒れそうになる彼女を、イヴは駆け寄り受け止めた。
「たたいまフェノ、遅くなってすまない。大丈夫?」
「ええご心配なくー私は大丈夫ですよー。でも頭がぐわんぐわんしてます、不思議ですねー」
にへら、と笑うフェノの顔は真っ赤だ。イヴに抱き留められたその体は火照っていて、ぐったりと彼女に身を任せている。
「……大丈夫ではないみたいだね。保安官、飲ませすぎだよ。それと貴方もそろそろ止めたほうがいい、深酒は老体に障る」
その言葉に、保安官と呼ばれた老人は傾けていたグラスを置くと、不満そうな顔を向けた。
「私はまださほど飲んでないぞ。ベズロのお嬢さんは弱すぎる。それにだ、酒は労働で疲れた体を癒す命の雫だ、水を差すもんじゃない」
そう言われてみれば、フェノの酔った姿を見たのは初めてだ。
両腕にかかる重さの感覚、彼女の力の抜けようがよく分かる。
口元を緩ませたその笑顔は、いつもの彼女のそれと同じようでいて、どこかゆるい(・・・)。
常日頃の、精力的に働き清楚な出で立ちを崩さない姿を見ていると、本当にベズロの子供か疑ってしまう彼女だが、今の様子を見れば親子だと分からなくもない。身も蓋もないことをいってしまえば、だらしない。
それに比べて老人の様子は至って普通だ。顔が赤いこともないし、立ち振る舞いも街で見かけたときと変わらない。
「なるほど、良く分かったよ保安官。お詫びといってはなんだけど、私で良ければ付き合うよ」
「そうしてくれ。こんな年寄りでも、美しい女性と飲めるのは嬉しいことだ。だがその前にお嬢さんを寝かせてあげなさい。ここは年中温暖だがね、油断していると風邪を引いてしまう」
イヴは運びやすいようフェノを背負うと、そのまま立ち上がった。
「そうさせて貰うよ。ちょっと待っていてくれ」
フェノをなるべく揺らさないようにゆっくりと歩き店の奥へ、狭い階段を上がろうとしたところで、ベズロと鉢合わせた。鼻腔を刺激するコーンの匂い。彼の持つトレイの上には白い湯気を昇らせるコーンチャウダーがあった。
「やっぱりフェノは潰されたか。イヴ、フェノの面倒を見たらどうせ爺さんと飲むんだろう? これはそこに置いとくからな」
「ああ、ありがとう店長。胃が空っぽだってこと思い出したよ。それで、店長は飲まないの?」
「寝る。皿は適当に置いとけ」
ぶっきらぼうな言葉を返すベズロに分かったと告げ、階段を上がる。さっきからフェノの熱い吐息が耳にかかってくすぐったい。
寝室に入り、フェノをそっと寝かす。やはり熱いのだろう、赤く火照った頬に汗が流れていた。
ランプに火をつけて、カーテンを閉める。
ウェイトレス服では窮屈だろうと思い、イヴは彼女の服を脱がした。
ジャンパースカートとエプロンを外し、ブラウスのボタンを外していく。
汗を吸ったシャツを脱がすと、滑らかな肌がランプの温かな光に照らされて、どこかなまめかしく見える。その体に流れる汗を、イヴはタオルで優しく拭った。
その過程で彼女の手を曲げたり、腰に手を回していたりするが、フェノは時折呻き声と吐息を漏らすだけで、起きる様子はない。
酒が入るとよく眠れるという話を聞くが、彼女はそれが顕著なのだろうか。たしかあれは少量飲んだ場合の話だったはずだが。
「……いや、少ししか飲んでないのか」
保安官が言っていたことを思い出す。泥酔しているように見えるが、摂取したアルコールは微々たるものなのだろう。
そんなことを考えながらも、イヴの手は淀みなく動いていた。代えのシャツを着せて、大きめのタオルをそっとかける。
すやすやと寝息をたてる彼女の様子を確認すると、イヴは脱がせた服を左腕にかけて、ドアノブに手をかけた。
「おやすみ、フェノ」
◆
ベズロお手製のコーンチャウダーは残念なことに少し冷めてしまっていた。それでも、コーンの甘さを引き立たせた素朴な味わいは、イヴの空っぽの胃を優しく満たす。
「こんなに美味しいのに、どうして店長は恥ずかしいと思ってるのかな」
木製のスプーンで最後の一掬いを口に運びながら、イヴはそんな疑問を口にした。
「ベズロはな、あれが格好悪いと思ってる。男は家の中では何もせずふんぞり返ってるほうがいいと思ってる古い男なのさ」
イヴが食べ終わったのを見計らって、保安官は2人分のグラスに酒を注ぐ。空のグラスに透明な液体が満たされ、芳醇な香りが鼻を抜けた。
「ラムをノーチェイサー。このままで大丈夫ですか保安官」
「さっきと同じ言葉を返そう、水を差すなと」
にやりと口元を吊り上げる保安官。グラスを一気に傾けた。
「これは失礼。私も、無粋なことを繰り返したくはない」
イヴの頬も自然と緩む。舌に乗せた酒が、心地よい灼熱となって喉を通った。
「これで、その臭いも少しは紛れるだろう」
「フェノには、気づかれなかったのだけれどね」
「お嬢さんは酔っ払っていたからな。そうでなかったら彼女も気づいていただろう」
腕を鼻に当てて臭いを確かめると、その時のことが脳裏に蘇る。それを流すように、グラスの酒を飲み干した。
「どれくらいの数をやったのか、気になるところではある」
「数時間前の事だ。思い出すのは簡単。でも、出来ればしたくない」
空いたグラスに保安官は酒を注ぐ。彼女の分と、それから自分の分だ。
「なら、無理に話すことはないぞ。私も、無粋なことはしたくないからな」
再び満たされたグラスをイヴは両手で持って、舐めるように少しずつ飲み始めた。
「銃を撃つことに躊躇いは無い。必要とあらば手にとるし、生存の為なら迷い無くトリガーを引く。でも、今回は数が多すぎた」
「相手はソルジャーウルフだったんだろう? なら良くやったさ、むしろよく1人で行って帰ってきた。狩猟組合の奴らが聞いたら驚くぞ」
「……次々と、絶え間なく新たな群れが襲い掛かってきた。身を守るために全て殺した。必要なことだったって今も思ってる。でも、彼らは仲間のために駆けつけただけだ。そもそも、先にトリガーを引いたのは私のほう。街の安全を図る為だったとはいえ、私が先に手を出した」
白い頬に赤みがさす。グラスを通してみる抽象的な世界に、ランプの火が映りこむ。
「生きるために殺した。でも、本当は殺すために殺していたんじゃないかって、そう思うと怖くてね」
半分程まで残っていた液体を、一気に喉へ流し込む。見れば、保安官のグラスも空になっていた。
今度はイヴが2つのグラスに酒を注ぐ。
「イヴ、私は臆病な男だ。この年になっても、銃を握ると手が震えてしまう」
ラムの満たされたグラスを手に取った老人は、その表面に映る暖かな光をじっと見つめていた。
「よく、その年になるまでその仕事についていたね」
「食いっぱぐれるのが怖かったからさ。この仕事も慣れはしたが、怖いものは怖い」
おどけた様に肩を竦めて見せると、酒をあおって右眼を不恰好に閉じた。ウィンクのつもりらしい。
「だからな、イヴ。私のような臆病者には、この街に住む大多数の住人には、お前のような者が必要なのさ。私たちを守ってくれる頼もしい者が。だからイヴ。お前は決してそんなことのために銃を撃っちゃいない」
きょとんと眼を丸くするイヴ。珍しい顔を見たと、保安官は得した気分になった。
その顔も、穏やかな微笑みへと変わる。
「保安官の言う台詞じゃないよ、それ」
「まったく、その通りだ」
日を跨いで既に数刻。眠りについた街の中、ランプの光に照らされた店内で、グラスのぶつかる透き通った音が鳴り響く。
◆
重くのしかかる瞼を開けると、既に日は高く昇っていた。
未だ酒気を帯びる体を預けていたのはあの丸テーブルではなく、間借りしている寝室のベッドだった。
結局、空が白み始めるまで飲んでいたのを思い出す。それからどうやってここまで来たのかは覚えていない。
保安官は帰ったのだろうか。窓を開ければ外は相変わらずの陽気だ。抜けるような青い空、戯れる小鳥、街並み、全てが強い日差しに焼かれてる。
大きく背伸びをして、体に篭る熱を吐き出した。新鮮な空気が肺に入っていく。
今日も水を汲みに行かないといけない。
狭く、日中でも薄暗い階段を下りて店内に入ると、昨日あれだけ飲み散らかしたテーブルは綺麗に片付いていた。
ウェイトレス服に身を包んだフェノが最後の仕上げとばかり、丁寧に濡らしたタオルで磨いている。
「あ、おはようございます、イヴさん」
にこやかな笑顔を浮かべるフェノは日ごろイヴが眼にする健常な姿だ。
昨日の酒を引きずっている様子は感じられなかった。
「おはようフェノ。昨日かなり酔っていたみたいだったけど大丈夫?」
「ええ、私酔いやすいけど覚めるのも早いんです。昨日はイヴさんにご迷惑をお掛けしたみたいで……ありがとうございます」
「いや、いいんだ。私のほうこそ片付けさせてしまったみたいだし」
「じゃあ、お相子ですね」
窓から差し込む日差しが作り上げる心地よい明るさ。街の喧騒から遠い静謐な店内の中で2人の少女は笑いあう。
「そういえば、店長は?」
「いつも通り、厨房に篭ってます。私もお掃除しますから、イヴさんもお仕事しましょう!」
言うや否やパタパタと店の奥に消えていき、ウェイトレス服を抱えて戻ってきたフェノ。
ぐい(・・)と、それをイヴに押し付ける。
「……いつも思うのだけれど、今来てる服じゃだめなの? 水を汲みに行く度にそれを着ていたら折角の服がすぐダメになって……」
イブが自らの主張を言い終える前に、フェノはその白く細い人差し指を彼女の唇に当てた。
「いいですかイヴさん。その服は『アウダーツァ』の看板のような物なのです! つまり、それを着て街を歩くことはこのお店の宣伝にもなるんです! しかも、イヴさんはこの街に来てまだ1月ほどですから、私がやるよりその効果は高いはずです!」
「……ああ、良く分かったよ……」
確かに理解はした。だがそれ以前に、こう一気に捲くし立てられては頷くほかないだろう。
ウェイトレス服の必要性と共に、ベズロの心境も少し理解したイヴであった。
◆
大きく口を広げた水袋に清涼な水が満たされていく。
金属製の長いハンドルを上下に動かすこと数十回。
ポンプ式の井戸から汲み出される水は良く冷えていて、錆びた鉄の臭いがした。
この冷たい水も給水塔の中で太陽の熱を蓄えて、夕方頃にシャワーを使うとちょうどいい人肌の温度になっている。
八分目まで水を入れたところで口を閉じて背負いあげる。チャプチャプと水の弾ける音が鼓膜を打った。
これで4杯目。アウダーツァのシャワーは客が使うこともあるから、余裕を持って多めに水を蓄えておかなければならない。
この日差しも、昨日と比べるとまだマシだ。重い荷を背負うイヴの足取りも心なしか軽い。
昼下がりということもあって、通りを行き交う人々は多い。泥だらけの靴を履いたまま冷えたビールを飲む農夫。
軒先で語らう老夫婦。ボールを追い掛け回す子供たち。湖で獲れた白身魚を揚げるサンドウィッチの屋台。
その営みの中に、珍妙な格好をしたエルフの少女がいればそれはもう目立つ。
それが続くこと1ヵ月。顔を覚えられるのも早かった。
「あー! エルフのお姉ちゃんだ! ねぇ遊ぼうよー!」
「はは、また今度ね……」
きらきらとした瞳を向ける子供たちに対して、仮にも働いている最中のイヴは、困ったような笑みを浮かべることしか出来ない。
「こらこら坊主ども、このお姉ちゃんはお前たちよりも重いものを運んでる途中だ。邪魔するもんじゃない」
そこで救いの手を差し伸べたのは、気前のいいサンドウィッチ屋の男。
通りの端の屋台から良く通る声で子供たちをたしなめる。
「ええーっ! つまんないよ!」
「無理言うなって。ほら、これやるから、みんなで分けて食べるんだぞ」
その手にあるのは揚げたての白身魚を大き目のまるいパンで挟んだサンドウィッチ。自慢の一品だ。
ボールを抱える男の子を先頭に屋台へ駆け寄っていく子供たち。
「わあ……! ありがとうおじさん!」
「いいってことよ。その代わり、お前たちが大きくなったら、湖で釣った魚を持ってきてくれるとお兄さんはものすごく嬉しい」
「分かった、約束するよ!」
貰ったサンドウィッチを大事そうに持って駆けていく子供たち。暑い日差しもなんのそのといった様子だ。
「どうもありがとう。正直どうしたらいいものか困ってた」
いつの間にかイヴも、その重い荷物を背負ったまま屋台の前へ来ていた。
ちょうどそこは影になっていて、そよぐ風が涼しく感じられる。
「これぐらいどうってことないさ。イヴちゃんの方こそ大変だ、毎日やってるんだろうそれ」
「いや、もう慣れたよ。こうして貴方と会話を楽しむくらいの余裕は出来た」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。お兄さん気分良くなったからサービスしちゃうよ」
そう言って鼻歌交じりに白身魚のフライをパンに挟む男。手馴れたもので、ものの数秒で包装紙に包んだそれをイヴに差し出していた。
「……嬉しいのだけれど、流石に2日続けて貰うのは申し訳ないよ……」
困ったように眉を寄せるイヴ。断るにも愛想良くした方がいいと思ったのか、口元がぎこちなく上がっている。
「はは、そんな事気にすることないって。貰える時には貰っとく、これ大事。なに、俺もベズロの店にはよく行くからね、その時にサービスしてくれると、とても嬉しい」
にっこりと白い歯をこぼす男。つられてイヴもクスりと笑った。今度は愛想笑いではなく本当の笑みだ。
「そういうことならありがたく。サービスするよ、店長が」
「はは、そいつはちょっと嫌かなあ……」
今度はサンドウィッチ屋が苦笑する番だった。
◆
香ばしい匂いを立てていたフィッシュサンドを胃に収めて、さらに数時間。日は傾き始め、空は青と赤のコントラストを描いていた。
流れる雲もその光を受けて、腹を真鍮色に輝かせていた。
この時間になると、暑さも多少はそのなりを潜めてくる。
耳朶を打つのは水が揺れて弾ける、どこか涼しげな音。これで最後だ。今背負っている水を給水塔に入れれば今日の水汲みは終わり。
その後はこの服を着た本来の仕事が待っている。
相も変わらずゆっくりと水を溢さぬよう歩く彼女を照らす沈む太陽。茜色の光を受ける彼女の灰色の髪は、その毛先を金糸のように輝かせていた。
その光を遮る大きな影が2つ。
発達した脚と、それとは対照的な小さな翼。象牙色の羽毛は2メートルもの全長に比して小さく、丸く太いくちばしは、先が鉤爪のように丸まっていた。
ピマと呼ばれる気性の大人しい鳥だ。トゥラルアなどの辺境では車の代わりによく利用されている。
その上に跨る2人組みの男は腰に銃を提げていた。頭の高低差から見上げたイヴは差し込む夕日に眼を竦める。
「ちょっといいかい。ベズロのとこで働いてるエルフってあんたの事かい?」
「ああ、そのエルフなら私だ。貴方たちは狩猟組合の……?」
「その通りさ、俺たちァ、あんたに礼が言いたくてね、ソルジャーウルフを蹴散らしてくれたんだって?」
「最近奴らやたら増えてねえ、俺たちだけじゃ捌き切れなくて困ってたんだよ」
筋肉質でガタイのいい男の言葉を、後ろの細身の男が引き継いだ。
「……例を言われるようなことじゃないよ」
イヴの表情は平素のままだ。だが、彼女と親しい者が見れば、その表情がどこか固くなっているのが分かったかもしれない。
その時の心の靄は保安官との酒の席で洗い流せたが、こう面と向かって賞賛されてはそのような言葉を返したくもなる。
だが、それを謙遜と受け取ったハンターたちはさらに賞賛を重ねた。
「……とにかく、死体は全て燃やしたから疫病が起こることもないよ。その事を伝えられて良かった。じゃあ、まだ仕事が残ってるから」
やんわりと会話を切ってアウダーツァへと急ぐイヴ。その背中を、2人の男はピマの背に乗ったまま見送った。
人混みの向こうに彼女の姿が消えていった頃、素朴な疑問を細身の男は口にした。
「……なあ」
「ん? なんだ」
「あの子、死体は全て燃やしたって言ってたけど、それだけの物を燃やす燃料、どっから持ってきたんだ?」
その問いに対する答えは、ここには無かった。