母親
「紗ちゃん?何処か行くの?」
「うん、駅の近くの友達の家。けどすぐ帰ってくるよ」
「そう、気を付けてね」
「んー」
紗香は気の抜けた返事をして玄関を出た。
履きなれたスニーカーで闊歩して、最初に向かったのは花屋だった。
白い菊を数本買うと駅行きのバスに乗った。
「まだこんなに明るいや」
6時を過ぎても窓の外はオレンジ色の空が広がっている。
小学生くらいの男の子たちが一生懸命に自転車を立ち漕ぎする横を、バスが追い抜いて行く。
揺られること十数分。商店街を抜けて住宅街に入って行き、大きいとは言えないが近所の子供たちが集まりやすそうな公園前のバス停で紗香は降りた。
「わぁ懐かしいな、小学校以来か、変わらないな」
紗香は左右を見渡して少し迷ってから方向を決めた。
「確かこっち、だったような」
独りで言いながら記憶を頼りに歩いた。
「一回来ただけだと結構忘れちゃうなぁ、あ、ここは覚えてる」
古めかしい駄菓子屋と真っ赤なポストの組み合わせを見つけて少しほっとした。
薄れかけた記憶を何とか繋ぎ合せて歩いて行くうちに古い和風の家の前に立った。
「ここだ、この門は覚えてる。確か表札が、あった!」
門柱に掛かった表札の名前を見て紗香は安堵の笑みを浮かべた。
中に入るのがタメラワれて覗き込むように首を伸ばしてみる。
「ウチに何か御用ですか?」
驚いて振り向くと、小さな女の子の手を引いた中年女性が立っていた。
「すみません、私、公彦君と同じクラスだった一倉と言います。お線香をあげたくて来ました」
ここの家の主だとすぐに分かった。
「あらまぁ、それはそれは、どうぞ入ってください。まだ散らかってるけど、どうぞ」
公彦の母親は驚きながらも、とても嬉しそうに眼を丸くした。
小さな女の子は大きな瞳でジッと紗香を見つめている。
「お邪魔します」
紗香は軽く頭を下げると二人に続いて門を潜った。
居間に通されると最初に目に入ったのは小さな祭壇だった。写真の公彦は満面の笑みでこちらを見ている。
いつの写真だろうか、きちんと制服を着た公彦は少し凛々しく見えた。
「こんなに突然だと実感がわかなくてね、そのうち帰ってくるような気もしちゃうのよね」
「私もそんな気がします、一緒に学級委員をしていたので」
紗香はそう言うと線香に火をつけ、手を合わせた。
長い沈黙だった。
「あの子、学校での様子なんて全く話さないから知らなかったわ」
「何をですか?」
「こんなに可愛いガールフレンドがいたなんてね、ふふ」
母親は麦茶をテーブルに置きながら言った。
「ガールフレンド・・」
紗香は麦茶の前に座って少し俯いた。
「あなたは小学校も同じなのかしら?」
「はい、5,6年生のクラスが一緒でした」
「そうなの・・」
紗香も母親も俯いて、しばらくの間、日暮の鳴き声だけが遠くに聞こえた。
「学校ではどんな事してたの?」
「正直なこと言うと、あまり話したことは無かったんです。でも委員会での行事はいつも一緒でした。クールな感じで近づき難かったんですけど、ちょっと話したらそうでもなくて、たまに面白いことも言ったり」
「そう」
母親は眼を細めた。
「クラス、いや下級生にもファンが結構いたんですよ。球技大会とかすごい目立ってたし、私なんか、ガールフレンドってゆーか、ただクラスが同じだけの・・・」
「あなたみたいな娘が仲良くしてくれてたなら、公彦は楽しかったはずよ、間違いなくね」
「そうなら嬉しいです。私も話をするのが楽しみで」
紗香はそう言うと突然俯いた。
「・・・」
「私、今年の最初にクラスの子に意地悪されて3日位学校休んだんです。親にも先生にも言えず、このまま引篭もりになっちゃうかなって思ってたら、意地悪してた子達が突然謝りに来たんです。後から聞いたら公彦君が何か言ってくれたみたいで、凄く嬉しくて、また学校に行くのが楽しみになりました」
「まぁそんなことが」
「でも、ちゃんとお礼も言えないまま・・」
「いいのよ、こうして来てくれただけでも十分」
母親は優しく声をかけたが、紗香は頭を下げたまま首を振った。
「ダメなんです!ちゃんと言わなきゃいけなかったんです!こんなに突然いなくなっちゃうなんて思わなかったし・・・。好きだったんです、初めてだったんです。こんなに人を好きになったのは!だから、だからちゃんと言っておけばよかった」
紗香は鼻をすすり上げると、抑えきれなくなった感情が言葉と一緒に溢れ出した。
「うぅう、ごめんなさい、ほんと、ごめんなさい」
夕日に染まる部屋の中は紗香の嗚咽で満たされていく。
「一倉さん・・・ありがとうね、ありがとう」
母親も言葉に詰まりながら、涙が声になるのを懸命に堪えた。
「うちは父親が居なくてね。三年前、ちょうどあなた達が小学校を卒業した年に離婚しちゃって、あの子にも寂しい思いをさせちゃったから、せめてもう少し」
「・・・」紗香は俯いたまま肩を震わせている。
「大切な人がいなくなってしまうって、こんなに寂しい事はないよね」
そう言った母も、とうとう涙を堪えきれなくなって言葉を詰まらせた。
小さなテーブルを挟んで、二人は言葉もなく肩を震わせた。
静かな悲しみが部屋を一杯にしていく。
その光景を、公彦は立ち尽くしたまま見ていた。
下唇を噛み締め、握りしめた手は小刻みに震える。
「レイジ、居るよな」
眼の前の空を睨むように見据えながら言った。
「あぁ、ここに居る」
返事は後ろから聞こえた。
「あいつはどこだ?解るんだろ」
「北北西に30㎞、上空1万5千mだ。もうすぐ戻っちまう」
「分かった、必ず捕まえてくる。その代わり一つだけ頼みを聞いてくれ」
公彦はそう言うとレイジの返事も待たずに部屋を飛び出した。