7:エイリアンマーチ
Number 007
エイリアンマーチ
進むべき方角に向かって風が吹いている、という事が、ゼッカイにはひどく不安だった。
『……風が、』
チュニを振り返ると、あれほど言ったのにゼッカイの尻尾を離して、川に入りかけている。
『何をしているっ!馬鹿なのかお前は!』
慌てて首根っこをくわえて頭の上に乗っけると、チュニは悪びれもせず
『おひさまあついの。チュニはお水さん、はいったんのよ?ばかではないの』
と言って一部濡れた毛をブルブルっと震わせた。
『離すな、尻尾を!いいかげんにしないと……』
食う、と言いかけてゼッカイは口をつぐんだ。
『しないとなにー?』
『……怒る…』
頭の上のチュニはうまそうな匂いがした。食欲を振り払うように視線を遠くに向けると、赤茶けた奇妙な大木が川を跨ぐように倒れているのが見えて、ゼッカイは身を硬くする。
『チュニ、あれは何だ』
『はしっ』
チュニは答える。
『はしとは何だ?』
『うえ、乗んのね。そいで歩くの』
よく知っている。チュニは、憎たらしいぐらいにこの土地、地球の事をよく知っている。と、ゼッカイは思う。何が憎たらしいのか、ゼッカイ自身にもうまく説明がつかないが、チュニがそうした知識を披露する度に、ゼッカイは苛つくような悲しいような気分になる。けれど地球人のように感情を整理する習慣の無い、ミミナ星の生き物であるゼッカイには、その不快感を今は押し止めておくしか術が無かった。
ふと、「はし」の上に何かがいるようにも思え、ゼッカイは目を凝らす。だがこの位置からでは視覚よりも匂いに頼って生きている彼にはよく判らない。オルドマの予言とはいえ、こう見通しの良い場所で風下に向かうのはやはり恐怖を感じる。故郷ミミナであれば飛び散る菌や胞子達が多少なりとも姿を隠してくれるに違いないのだが、とゼッカイは溜息を漏らした。
『はしとかいうモノに危険はないのか。例えばその……毒があるとか、そのような事は?』
『どく?……テレビなめらんないからチュニわかんない』
チュニが首を傾げたその時である。
『毒、ない。でも、あそこあぶないです』
足元から生臭い「ことば」が聞こえてきた。
ミミナ語ではあったものの、非常にぎこちない片言で川の中から突然話し掛けて来たものに、ゼッカイもチュニもビクリと毛を逆立てて1メートルほど飛び下がった。
『何者だ?』
威嚇の匂いを滲ませたゼッカイが尋ねると、水の中から頭だけ飛び出させた乳白色のつるっとした生き物はこう答えた。
『あなた、ミミナですね。ワタシ、ミミナ語、チョット喋ります。ワタシ、知ってる。オルドマ、むすめ連れて来る、言いました。…予定ちがうけど、案内、ワタシ案内やる』
眼なのか何なのか、乳白色の下に透けた緑の丸い二つの粒が、ゆるくまたたいた。敵意の匂いはしない。ゼッカイはチュニを頭に乗せたまま注意深く川面に近づく。
『橋の上、います、地球人。行く危ない。逃げる道、ワタシ案内します、水の中』
『水の中だと?』
本能的にあまり濡れるのが好きでないゼッカイは躊躇した。
『はい。息、少し止めるます』
乳白色の生き物は、頭頂部の小さな十文字の裂け目から鳴き声や匂いを発して喋っているようである。チュニはその裂け目をしげしげと眺めた。
『そえ触ってもいい?』
体を傾け、ゼッカイの頭からずり落ちそうになりながらそう言うチュニの、恐ろしいほど好奇心満々の瞳を見つめた乳白色の生き物は
『ワタシのこれ触るなら、来て。どうぞ、水の中、怖くないです』
と、ヒレ状の手を差し出した。
たぷん、という小さな音をたてて、滑らかに水中に潜っていく乳白色の生き物。ゼッカイとチュニもその後を追って恐る恐る、深い場所へ。
緑色に見えた川は、中に入ると黄土色に濛々と煙がたっていて、ともすれば乳白色の生き物の姿を見失いそうになる。青い毛をもやのように揺らめかせてゼッカイは必死に水を掻いた。水が入ってくる痛みに驚いて目をつむってしまったチュニの首根っこをくわえ込み、生き物の白い尾を追いかけてゆく。鼻から湧き出た泡が額をくすぐる妙な感触に、ゼッカイは、こんな異界で怪しい生き物に連れられ水の中に潜っている運命の不思議を改めて感じた。
ぴゅう、
乳白色の生き物が、水の中でもよくとおる直線のような鳴き声をたてる。ゼッカイが目を凝らすと、生き物の正面で黒い岩のような塊がぱっくりと口を開くのが見えた。生き物は躊躇なく、その中に入ってゆく。かたく目を閉じて体を丸めているチュニをくわえたゼッカイも、急いでその後を追った。
背後で岩の口が閉まる気配が、水流でわかる。三匹は、細い通路の中をひたすら上昇した。ここまで来るとゼッカイも息が苦しくなってきた。
チュニは無事だろうか?
あと少しですよ、というように乳白色の生き物が振り返り、チチッと短い音波を発した。
上昇。水の色が明るくなってくる。
『ぷわっ』
水面に顔を出したゼッカイは前足でチュニを抱いて思いきり酸素を吸い込んだ。
どこだ、ここは……
辺りを見回す。ミミナ生物のゼッカイには、天井の高い洞窟のように思えたが、そこはコンクリートでできた建物の内部であった。硬いタイル張りの陸地に上がった乳白色の生き物が、三股に分かれた尾鰭を器用に使ってペタペタと歩きながら胸鰭で手招きした。
『こっち。中、行くです。むすめ、介抱します』
そう告げられて、ゼッカイが前足で抱えたチュニを見遣ると、チュニは丸まったままぐにゃりとしていた。
『しまった……水を飲んだか!おい、チュニ!』
呼んでも揺すっても、反応が無い。
『こっち』
地球人達に追われる身としては、ポタポタとしずくで跡が残るのが気になったが、チュニを救うのが先決と考えたゼッカイは、乳白色の生き物に付き従ってタイルの陸の奥に取り付けられた丸い扉の前に立った。
『ケイメロ、ワタシです。ミミナのむすめ連れて来ました。開けてください』
乳白色の生き物の言葉に、扉の内側からの声と匂いが答えた。
『正確に伝えなさいよ、バーミラ、あんたと、娘と、もう一匹いるじゃない!誰なの?』
流暢なミミナ語だった。バーミラと呼ばれた乳白色の生き物は困ったように振り返る。
『説明は後だ、チュニを介抱してくれ、頼む』
ゼッカイがそう告げると、内側から扉が開かれた。
『いいわ。入って』
出てきたのは、頭部に大きな眼球をひとつ持った、紫色の生物だった。
『ケイメロ、むすめ、水のんでます。寝床借りるいいですか』
バーミラがそう尋ねると、紫色の生物、ケイメロはゼッカイに近付き、
『よこしなさい、水を吐かせなきゃ』
と、四本の太い前足を差し出した。上背がゼッカイよりあるケイメロは、随分頑強そうな体をしているにも関わらず、奇妙な事に、柔らかい、メスのような発音のミミナ語を話した。ゼッカイは微かに警戒の匂いをたてながらも、その四本の腕の中にチュニの身体をそっと預けた。
『助かるか?』
尋ねるとケイメロは、軟骨のくちばしで笑うように短く鳴いた。
『そこまで深刻な状態じゃないわよ。あんた水に入った事、ないの?』
扉の内側は、しっとりと苔に覆われた感じの良い洞窟になっていて、奥には葉を敷き詰めた寝床がきちんと設置されていた。ケイメロがそこにチュニを寝かせると、バーミラが頭部の裂け目からホースのような細長い器官を伸ばしてチュニの口の中に突っ込んだ。どうやらそれで水を吸う事ができるらしい。心配そうに見守るゼッカイに、ケイメロは言った。
『大丈夫よ。バーミラはこういう事がしょっちゅう起きる惑星の生き物だから』
オルドマも「わくせい」という単語を使っていた事をゼッカイは思い返す。つまりバーミラは、そして多分ケイメロも、ゼッカイ達と同じようにこの地球以外の場所から来た生物なのだ。
飲んだ水を、バーミラが全て吸い出した後も、チュニは葉に埋もれてすやすやと眠ったままだった。
『疲れてるみたいだから寝かせときましょう。あなたに聞いておきたい事もあるし……』
ケイメロはそう告げて、大きな複眼をゼッカイに向けた。
『…まず、娘じゃないわね?この子は、孫でしょう、オルドマちゃんの』
ふわふわの苔の床に腰を降ろしたケイメロに、一対多く付いた前足で奨められてゼッカイもその場に座る。
『おそらく、そうだ。オルドマは娘が来ると言っていたが、何かあったのだろう、娘は来なかった。だがこの子供がオルドマの言った目印の赤い布を巻いていたので、連れて来たのだ』
『やれやれだわ……初めての計画とは言え予想外の事が起こりすぎじゃない。…で?アンタは何者なわけ?』
溜息まじりのケイメロの問いにゼッカイは、一瞬眉根を寄せて考えてから、ゆっくり一語一語区切りながら喋り始めた。
『名はゼッカイ。オルドマや、あの孫、チュニと故郷を同じくする生き物だ。オルドマとは偶然出会い、予言通りにすれば故郷に帰れる、そう言われた……正直、混乱している。わからない事が多すぎるのだ。一体、何が起きている?オルドマの予言通り、おれは故郷に帰れるのか?』
じっと聴いていたケイメロはぱちくりと複眼を瞬かせた。
『予言て!……まァ…じゃあアンタ何も知らないのね!』
排水溝で偶然出会ったオルドマに命を救われるまでは、この灰色の土地が地球という名である事すら知らなかったゼッカイにとって、ケイメロの話はオルドマの予言以上に衝撃的なものだった。
「いい?これは予言なんかじゃないの。オルドマちゃんとアタシたちの、計画なのよ」
そのように前置きしてからケイメロは、コホンと咳ばらいをひとつして、少しばかり大仰な身振りで語り始めた。
『ゼッカイちゃん。まずね、アナタが知らなきゃいけないのはこの土地、地球が、ひとつの星だっていうことよ』
『星……?空の、夜の、あの星のことか?』
『そうよ』
『嘘だ』
ゼッカイは不審そうに目をすがめた。
『アタシだって最初は信じられなかった。でも、事実なの。この地球だけじゃない、アナタやオルドマちゃんのふるさとだってミミナと呼ばれる小さな星。アタシもヤヌスっていう地味な星から連れてこられた生き物なの。ここまでは理解できた?』
『む……待て。要するに、この世は、〈星空〉でできているという事か』
首をひねるゼッカイの肩をケイメロはバシバシと叩き、ロマンチックねえと言って笑った。
『まあそんな所よ。でも本題はここから』
急に声をひそめたケイメロは必要以上にゼッカイに顔を近づけて囁いた。
『沢山ある星の中でも、地球は最悪の、地獄よ。アタシもゼッカイちゃんも運が悪かったのね』
ケイメロは、この惑星、地球を支配する「地球人」という生き物は、どうにも理解できない理由で他の星の生き物をさらって来る性質を持っているのだ、と熱っぽい口調で語った。
『運悪くさらわれた生き物達はね、閉じ込められ、訳のわからない事をされて、死ぬのを待つしかなかったのよ。……これまではね。アンタもそうだったでしょ?』
言われてゼッカイは八王子こども宇宙生物園での地獄のような日々を思い出し、身震いする。
『故郷への帰還。オルドマちゃんはね……その共通の願いを叶えるために、種族のバラバラな仲間で群れを作る事を考えた、偉いお方なのよ』
『群れ……?』
群れ、という言葉の懐かしい響きに反応してゼッカイの巨大な耳が垂直にピンと立つ。胞子の霧が視界を覆う故郷ミミナでは、群れで狩りをする際、仲間の合図を逃さぬように耳をこのように立てるのがならわしなのだった。
だがこのおれの耳が、故郷の仲間の遠吠えを捉らえる事は、地球にいる限りは無い事なのだ……。
一時の懐かしさは、故郷に焦がれる苦しい気持ちに変わり、諦めたようにゼッカイは続きを促した。
『お前やオルドマの作る群れは故郷に帰る方法を知っているのだな?』
『知っている、と言うか、今回の計画がその初めての一歩なのよ……でも』
ケイメロは一旦、言葉を区切る。
『アンタに聞かなきゃならない事がもう一つある』
静かに告げながらも心底に爆発寸前の悲哀を孕んだ酸性の匂いを滲ませ、ケイメロの複眼が正面から、ゼッカイの裂け目のような眼を覗き込んだ。
『…なぜオルドマちゃんはこんな大事な時に来ないの?ねえ、まさか……オルドマちゃんは、やつらに殺されたの?』
裂け目の中でオレンジの瞳がツイ、と、眠るチュニに向く。呼吸はゆっくりと、チュニが完全に寝入っている事を示していた。
ゼッカイは、ケイメロの言う「やつら」が何なのかまでは知らない。しかし、オルドマを殺した者が誰なのか、その答えなら知っていた。
『オルドマは死んだ。殺したのは……』
ゼッカイの告発にケイメロの喉が、動いた。