6:フィールドワーク
Number 006
フィールドワーク
手土産の「吉祥寺ささのは」羊羹を下げ、尾沢は古びたアパートの前で立ち尽くしていた。
……うちよりボロいっ。
あずき色した、今時見かけぬ安普請のアパートの一室が佐古田の自宅であった。表札も何も無い、104号室のインターホンに、恐る恐る指を伸ばしたその時、中から硝子の割れるような音がして、尾沢はびくっと肩をすくめた。
「クソッタレ!大人しくしやがれこの野郎ッ!」
佐古田に間違いない怒鳴り声も響いてくる。尾沢は佐古田に折檻される憐れな何者かの姿を想像し、慌ててインターホンを押した。
ピンホーン……
途端に水を打ったように静かになるドアの内側。
「さ、佐古田さん?」
突然ドアが開いて、佐古田が顔を出した。
「誰だチクショー!」
「わあっ!」
尾沢は驚いて1メートルあまり飛び退く。
「ぬ……お前か。何しに来た」
謹慎中であるにも関わらず佐古田はワイシャツに黒い上着を引っ掛け、思いきり外出の準備をしていた。髪だけが、いつものオールバックにする前で、尾沢はつい、佐古田の下ろした前髪の辺りに視線をさ迷わせつつ、
「あの…お見舞いに。もう大丈夫なんですか」
と、羊羹を差し出した。
「当たり前だ馬鹿。不死身なんだよ俺は」
佐古田は面白くもなさそうにそう言い、羊羹をまじまじと見つめると
「……仕方ねえ、入れ」
足でドアを押し広げた。
佐古田の家は、飾り気の無い椅子や机、テレビなどがぽつん、ぽつん、と落ちているだけの殺風景な部屋だった。狭い台所に割れたコップが散っていて、尾沢はさっきの物音を思い出した。見た限り、この家には他に人間も動物もいない。気のせいだったのか?いや、そんな……と考えていると茶筒が頭にぶつかってきた。
「茶は自分で入れろ!」
そう言い捨てて佐古田は洗面所に向かった。尾沢は後頭部をさすりながら急須を探して棚を漁った。食器の数は数える程しか無い。客などほとんど来ないのだろうな、と尾沢は想像した。その割には無駄にお茶を葉で買っているようだが。
台所は割れたガラスが危険なので、尾沢は茶と羊羹を盆に乗せて狭い居間に持って来た。テレビとちゃぶ台と潰れたクッション。振り返ると、壁に、この家で唯一飾りめいた、数枚の古い写真が画鋲で貼付けてあり、何とは無しに尾沢はそれを眺めた。今では一部のマニアしか使わない、アナログカメラで撮った珍しい写真のようである。巨大な樹木、よくわからない鳥、それから、猿?ピンボケしている。
「出かけるから早く食え」
いつの間にか背後で、乱暴なオールバックに髪を撫で付け終えた佐古田が羊羹を食っていた。
「この写真……」
尾沢が尋ねると佐古田は答えた。
「幽霊の写真だ」
「幽霊て…普通の木の写真とかに見えますけど」
茶をすすりながら尾沢は首を傾げたが、佐古田はそれ以上説明する気は無いらしく、あからさまに面倒そうな顔で言った。
「うるせえ馬鹿。それよか早く食え!お前、運転やれ!」
「え、僕がですか」
「片目じゃ事故るだろが」
眼鏡のせいで目立ちはしないが、昨日、水上のボディーガードに殴られた佐古田の左目は、まだかなり腫れて、閉じかけていた。
「どこ行くんです?謹慎中なのに……」
「カミツキ探しに決まってんだろ。アレは俺の獲物だ、水上なんぞに渡すかクソが!」
そう聞いて尾沢は溜息をついた。
う、わぁ……懲りてないな……
佐古田の車は、窓ガラスとヘッドライトの枠の外れた、無惨な旧式電気自動車だった。
「と……、トヨトミエレキングじゃないですかあ!なんで!?」
尾沢は廃車寸前のエレキングに駆け寄った。ワープ航法発見後、まもなくして石油の採れる惑星が多数見つかりガソリン車が復興してからは、急速に絶滅したと言われる旧式電気自動車。しかも当時その見た目のいかつさが人気を博したという、トヨトミ社のエレキングをこんな所で運転できるとは……!レトロ趣味の尾沢の胸は高鳴った。
「すげえ……嘘ぉ〜」
思わずウキウキと車に乗り込んでから尾沢は
「ぬ?…珍しいのか?これ」
と、興味なさげに呟く佐古田が巨大な鞄を持っている事に気付いた。
「なんですかその鞄……うわ、冷たっ!なに!?」
真っ黒い大きな鞄は触れると氷のように冷たい。
「関係ねえだろ。いいから、まず昨日の河原行け」
鞄の中身を訝しく思いながらも、エレキングを運転できる興奮に負けた尾沢は、文句ひとつ言わずに車を発進させた。
「ふおお、ヤバいですよ、これ!」
この場合のヤバい、は「素敵」の意である。ギャルルルルという怪獣じみたモーター音は、電気自動車にあるまじき馬力を持つエレキング独特の音。マニアには堪らない。尾沢は、佐古田が少々まずい動きをしても、よっぽどでなければ井上に報告するのは止めておこうか、という気分になっていた。
入間川の脇に停めたエレキングを、通行人が物珍しげに眺めて行く。佐古田と尾沢は河原にしゃがみ込んで、昨日カミツキと、赤頭巾のような草食マウスが歩いていた辺りを、地道に検出機で調べていた。
「暑い……こんな地味な捜査で見つかるですか?」
「うるせえ!言うな」
河原に残された僅かな菌類を検出して、その跡を辿ろうというのである。尾沢は気が遠くなった。五月とは言え温暖化の進む昨今、日中の気温は高い。
「しかも見つけたところで撃っちゃいけないんですし、何か……不毛な感じが」
「撃てば不毛じゃねえ」
佐古田はちまちまと検出を続けながら、移動していった。
しかしおよそ三時間かけて地道な検出を行い、二人が得たものは、カミツキとマウスは、ススキ林から河原に入って来て、その後、川の中に逃げたらしい。という先行きの無い情報のみであった。川の中は検出出来ない。
「万事休すです佐古田さん。諦めて昼飯でも食いに行きません?……暑いし」
尾沢が舌を出して呼吸しながらそう告げると、さすがに佐古田も腰を上げた。
「くっ……仕方ねえ。飯食って別の方法考えるか」
窓ガラスの無いエレキングに乗って、二人は「東風商人」という中華料理屋に入った。陶器の風鈴の音が涼しい。出された烏龍茶の冷たさに尾沢は生き返った心地がした。
注文するや否や迅速に出て来たねぎラーメンをつるつる吸いながら、地図を睨んでいた佐古田が唐突に頭を上げる。
「尾沢。ゲロ野郎が追ってんのは草食マウスの方だけなのか?」
とりたてて旨い訳では無いチャーシュー麺をすすっていた尾沢は、食事中にゲロて……と思いつつも箸を止めた。
「水上社長のことですか?そう聞いてますよ。あの赤頭巾、ギャラクシーファームの企業秘密らしくて。傷つけて欲しくないみたいです」
「じゃあカミツキだけ撃つなら問題ねえじゃねーか」
「流れ弾とかあるから、駄目ですよ。赤頭巾に麻酔針の1本でも刺したら、佐古田さんクビ飛びますよ」
「む……」
佐古田は眉間に皺を寄せて再び地図に見入った。
「店主!杏仁豆腐!」
「あい、ただいま!」
地図から目を離さぬままに意外なメニューを注文した佐古田の声に、尾沢はチャーシューの汁を吹きだしかけた。
こ、この顔で杏仁を……。
「あァ?何だテメー」
「いえ、何にも……それよかどうしてさっきから地図を?」
「カミツキと赤頭巾が辿ったルートを逆算してんだよ」
「成る程、過去のルートから、次に何処へ向かうかを推測するんですね」
我ながらグッジョブな話の逸らし方だ、と尾沢は心で自賛した。
「あい、杏仁おまち!」
脱サラ風の店主が運んで来た杏仁を一口食ってから、佐古田は地図を机に広げた。
「いいか。ススキ林から河原に入ったのは確実だ。とすると……」
佐古田によれば、ススキ林に入る前、カミツキ達が潜伏していたと思われる場所は一つしかないと言う。
「逃げたガイライはたいがい緑地に潜伏する。最初にあのカミツキを見た時の事を覚えてるか?奴は、鳥獣保護区に入りたがっていただろう」
「あ……じゃあススキ林に一番近い緑地にいたと」
「で、これだ」
佐古田はデザートスプーンの柄で地図を指し示した。点在する十数の緑地はひとつながりの線で結べる。ススキ林から今や廃墟になった里山の小さな街まで、緑地はまるで道のように列んでいて。恐らくカミツキ達はこの廃墟街から緑地を伝って河原まで来たのだろう。
「逆だろ普通」
佐古田はそう呟いた。
エレキングを飛ばして緑地ルートを逆に辿り始めると、何が逆、なのか尾沢にもすぐ理解できた。
段々と人気が少なくなっているのである。住宅や車の数も進めば進むほど減っている。つまり、カミツキ達は静かで安全な場所から、わざわざ危険の多い方角へ向かって行ったという事になる。
「納得いかねえ……ルートと言い赤頭巾と行動を共にしてる点と言い、おかしな事が多すぎる。何かがよ…アンテナにひっかかるぜこれァよ……」
助手席の佐古田は眼鏡を拭きながら唸った。
「確かに変ですけど僕ら探偵じゃないんですから、あまり首突っ込むのも……んん?」
妙な匂いに尾沢の言葉が途切れた。
「うわークサッ!何で窓ないんですかこの車!」
「割れたんだよ!うるせえな!」
窓ガラスの無い佐古田のエレキングの中に漂ってきた奇妙な匂いは、廃墟街に近づくほど強烈なものになっていった。
「ウェエ…何ですかねこの極悪フローラルな香り」
「…むう……嗅いだことがある気がする…」
入口に車を停め、鼻をつまみながら二人は廃墟、旧大岳ニュータウンに足を踏み入れた。少し前に再来した廃墟ブームもすっかり影をひそめ、人っ子ひとり見当たらないぼろぼろの住宅街。打ち捨てられた車、冷蔵庫、看板、靴、洗濯機、ガラス破片、クラゲの死骸のように劣化したビニール、そのどれも匂いの元ではない。三階建ての小さなビルの前に差し掛かった時、尾沢と佐古田の足は止まった。
「うぇっ」
「コイツか…極悪フローラルの正体は」
朽ちた外装から、もとファストフード店だった事が一目瞭然のその建物は、空から散布されたに違いない殺菌消毒粉を頭から大量にかぶって真っ白に染まっていた。
「ぐわー管理局で使ってんのも臭いけどこれ、臭過ぎですよ尋常じゃない。フローラルの香りでごまかしてるけどめちゃくちゃ強力な消毒粉じゃないです?」
むせ込みながらの尾沢の台詞に佐古田も頷く。
「……気に入らねー。怪し過ぎんだクソッタレ!」
蹴りつけた粉だらけの看板が、バタッと倒れた。
「ぉう?」
佐古田が妙な声を上げる。倒れた看板の後ろに狭い路地が現れたのである。その路地に、消毒粉は線となって続いていた。
「マジに探偵モノみたいになってきちゃいましたね……殺し屋が出て来たりしなきゃいんですけど…」
そう言って尾沢は軽く身震い。日が傾き始めていた。
「馬ッ鹿野郎、殺し屋が怖くて公務員が務まるかっ」
「えええ警察ならともかく宇管局と殺し屋は関係なくないすか…」
粉を辿って路地に入っていく佐古田を、尾沢も渋々追いかける。
右折、左折、建物の中、また出て、右折。有機的な線は生き物の足跡をそのまま粉で隠そうとしたかのようだ。
そして二人が最終的にたどり着いたのは、小さな平家の一戸建てであった。外観はやはり、消毒粉で真っ白。それも奇妙な事に、その家の中は枯れ葉と枯れ枝が敷き詰められており、消毒粉はその上からまぶされていた。
「こ、これ……」
尾沢はあんぐりと口を開けた。どう見てもそれは、生き物の「巣」なのである。
「…カミツキはこういう巣は作らねえ……となると、コイツはあの赤頭巾の方の…」
ブツブツと呟きながら佐古田は奥に踏み込んでいく。そうして部屋の隅の一際枯れ葉の盛り上がった部分の前で立ち止まり
「どうしました?」
と聞く尾沢を無視してそこを掘り返し始めた。葉の下から出て来たのは、ミミナ星草食マウスの、骨と、毛皮。
佐古田は頭骨の部分を持ち上げ、見づらそうに片目で眺め回すと、断言した。
「まだ新しい。それに牙の痕跡がある。カミツキの牙だぜこれァ……アイツがここに居たのは間違いねえな」
「……よくわかるなあ」
尾沢は佐古田のこういう学者並の博識さだけは尊敬している。性格に問題さえ無ければ、これほど有能な局員は居ないのではないかとすら思う。
「佐古田さんて実はすごいですよね…」
「世辞はウゼえ!」
「いっ……何で叩くんですか、もう……あれ?」
その時尾沢の目は、葉の中に何か光るものを捉らえた。
「何だそりゃ」
「…わかりません…何でしょう」
尾沢が拾い上げた陶器の塊は、しずく状の形をしていて、そのしずくの頂点に空いた穴に麻紐が通されていた。ペンダント、だろうか。青の釉薬で描かれた図柄は温泉マークの下部の輪が楕円ではなく真円になったような奇妙な記号だった。しかし何より最も不思議な点は、その麻紐に絡まった、白い毛である。
ミミナの、草食動物の毛。
「クソッ、草食マウスがペンダント付けてどうすんだよ!何のお洒落だそれはっ!」
事態が頭の中で繋がらず、いらついてきた佐古田は行き場の無い拳を振り上げ、ふと動作を止めた。
「ぬ!今何時だっ!」
「四時二十分ですけど……」
尾沢が答えると
「ぬうっ、まずい!尾沢、テメーそのペンダントの出所、調べとけ!行くぞ!」
佐古田は大股で、来た道を戻り始めた。
「えっ?ちょ……佐古田さん!行くって何処へ?」
「横田だっ、五時までに横田に行かなきゃならねんだ、急げっ!」
横田宇宙ターミナルは、昔、米軍基地だった場所を利用して作られたロケットやシャトルの発着場である。
そんな場所に一体何の用があって?
尾沢は少なからず嫌な予感がした。尻ポケットに入った井上の赤い携帯電話の硬い感触。
これを使うような事態にならなきゃいいんだけど……
そう考えながら尾沢は走った。
佐古田に命じられるがままに、信号無視までして尾沢が飛ばしたエレキングが横田宇宙ターミナルに到着したのは、五時ちょうど。おそらくほとんどがターミナル利用客であろう人込みでごった返している小さな広場、古い航空機が展示してあるその公園の前に車を横付けすると、ガラスの入っていない窓から佐古田が怒鳴った。
「おい!俺だ!」
すると飛行機の真下に立っていた、背の高いサングラスの女がつかつかとこちらに向かって歩いて来た。
「ブツは?」
女は事務的な口調でそう言った。女の顔は夕方の逆光でよく見えない。尾沢は目を細める。
「こいつだ」
佐古田は例の黒い鞄を差し出した。
状況からして、デートでは有り得ない。尾沢はサングラスにスカーフという女のいで立ちに何やら犯罪めいた雰囲気を感じた。ポケットの中で握りしめた赤い携帯が湿り気を帯びる。
「確認するわよ、中」
女は佐古田から受け取った巨大な、黒い、そして何故だか異常に冷たい鞄のジッパーを開けた。佐古田の背中越しに尾沢の目にもちらりと、その中身が見える。
ああ、それは、
水色の人工冬眠装置に入れられた、二匹のガイライ、シャロン記念惑星産の美しい羽を持つマウスであった。
「二匹で四十万。振込はいつもの口座で」
女は淡々とそう告げ、
「了解した」
佐古田も事務的に答えた。
どうする?どうすべきか?
女が鞄を持って立ち去った後も、尾沢はエレキングのハンドルにしがみついたままぐるぐると考えていた。
「おい、何やってんだ。帰るぞ、今日のとこは。早く車出せよ」
佐古田が苛々したように足をダッシュボードに引っ掛ける。尾沢は、
「佐古田さん……あの冬眠したマウスは、どうしたんです?あのマウス達を40万円でどうするつもりなんですか?」
懇願するような気持ちでそう尋ねた。しかし佐古田は舌打ちした後、冷たく言い放った。
「あいつらは俺が日吉ん所からもらってきた。俺がもらったモンをどうしようが俺の勝手だ、テメーに報告する義務はねーだろうが」
「まさかマウスを……金で、処分させてるんですか?…嘘でしょう?」
いくらガイライを嫌っていても、金でこっそりカンヅメの生き物を処分するなんて。先日のジフテリアの件以来、口では色々言っていても佐古田はガイライを心から憎んでいるわけでは無いのかもしれない、と思い始めていただけに、尾沢は、裏切られたような気がした。信じたくなかった。けれど佐古田は答えた。
「そんなに知りたきゃ教えてやる……捨てるんだ!二度と戻って来れねえ場所に!宇宙になァ!俺は地球にあいつらが居るってだけで虫酸が走るんだよ!」
決定的な一言だった。尾沢は、言葉も出なかった。
どうやって家に帰ったのか覚えていない。気がつくと尾沢は携帯を手にしてキッチンの前でぼんやり突っ立っていた。
報告すべきだ。人を襲ったわけでもない気の毒なカンヅメの生き物を、許可もなく処分する事は宇宙生物管理法に違反している。尾沢は勝手なイメージで佐古田を善人と思い込んでいた自分の馬鹿さ加減に呆れていた。呆れていた。それなのに、
何でまだ僕は迷っているんだ?報告しよう。単純に、法律違反を報告するだけだ。ちょっとでもあの人を信じた僕が、馬鹿だったんだ。
意を決して開いた携帯の液晶が薄青く尾沢の顔を照らした。
「もしもし……尾沢です。今、ちょっといいですか…」