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29:スタンド・バイ


Number 029

スタンド・バイ


 酷く、揺れた。

 地下の〈飛び穴〉と繋がる通信管から、

『きゃああ何か飛んできたあああ』

『こわいーっ』

 などと悲鳴が上がる。球体つまり「飛ぶ乗り物」内部で発射の合図を待っていたチュニとゼッカイは、突然の衝撃に舌を噛みそうになった。

『あいたっ!なあに!いますごい揺えたよっ』

『何が起きたケイメロ』

 ゼッカイはヤヌス星原産の植物を利用した通信管に向かって尋ねた。

『……拙い事になったわゼッカイちゃん』

 一瞬遅れてケイメロが穏やかでない匂いと鳴き声を送ってきた。

『キタイが、損傷した』

 ゼッカイは「キタイ」という言葉を知らなかったが、何故か嫌な予感に毛が逆立った。

『乗り物が攻撃されたのよ。外壁が一部、剥がれた。このまま飛んだらどうなるか知らないけど、とにかく無事に帰れる保証は無いわ』

 ケイメロの吐き出す、クワ、とかコキィ、という音に合わせて通信管の花弁が震え、その言葉の匂いも伝える。

『……では帰れないのか?』

 苦渋の匂いを返したゼッカイにケイメロは、

『修理は出来る。ただ、』

 地球人の標的にされるかも。そう答えた。

『外の様子が詳しくわからないから何とも言えないけど……』

 途中でチュニが通信管の横から、アミャ、と無意味な鳴き声を挟む。それを聴いてか数秒の間があった後ケイメロは柔らかな匂いでこう続けた。

『……大丈夫。何としても帰すわ』

 ゼッカイは朱色の眼球をじっと動かさずに通信管に咲いた白い大きな雌花を見つめる。

『ろーしたの』

 チュニがキノコをかじるのに適した前歯を覗かせて不思議そうに首を傾げた。

『おしっこ出たくなったの?そこにしていいってケイメロゆってたよ』

 ゼッカイは違う、とも、わかった、ともつかない曖昧な匂いで返事をして振り向いた。振り向いたまま、チュニを見つめながら、前足の爪に白い花を引っかけて引き寄せ、

『ケイメロ聞こえているか』

 告げて、

『どのように修理すればよい?やり方を教えろ』

 尻尾で少しばかりチュニの顔を撫でた。幼生の頃、祖父がしてくれたように。


 「飛び穴」のガイライの中に、キップリング小惑星団を繁殖地とする、キップリング・ジャンパーと呼ばれる生物が1匹、いた。

 この蝶と蟹を足して二で割ったような姿のキップリング・ジャンパーは、唾液の繭に全身を包んで冬眠し、宇宙空間を「渡る」という非常に珍しい生態を持っている。飛ぶ乗り物の外壁はその唾液に完璧にコーティングされなければ、着陸時の摩擦に耐えるのはおろか、宇宙空間に出る事すら困難な代物だった。

 様々な部分で生物の力に頼った、まさに手作りの乗り物。梅津真佐美とミミナ星の天才草食獣オルドマ、そして様々な星のガイライたちの設計した宇宙ロケットは、そういうロケットだったのである。


 『つまり、クーリがヨダレで修理しなきゃならないのよ、だからゼッカイちゃんには直せないし、だいたいあなた……』

 ケイメロの言葉を早々に遮って、

『理解した。ならばおれが彼を護衛しよう』

 ゼッカイは告げた。

『だって、あなた、撃たれたいの?あの人間の、気色悪い火みたいのに!ミミナに帰れなくなるわよ!護衛ならアタシがやるから……』

 通信管を通して、ケイメロの言葉の後ろから、薄く、むしろ僕がやろうか、と別の誰かの匂いも届いたが、ゼッカイは淡々と答えた。

『ミミナには帰る。だがこれはおれの仕事だと思う。そんな気がする』

『だってオルドマは、あなたを選んだのに!』 

 ケイメロは怒鳴った。

 全体に「飛び穴」のメンバーは器用だけれど戦闘向きでない生き物が揃っている。護衛に最も適任なのはミミナ肉食獣のゼッカイだ。ケイメロもそれは理解していた。しかし、

『オルドマちゃんはあなたがチュニちゃんと故郷に帰れるように、食べられたのよ……それを裏切る気!?』

 気持ちの整理がつかないのである。ケイメロの故郷でも食い食われる関係は在るし、そこに悪意や憎しみが無い事も充分承知していたが、

 オルドマはもういない。食べられた。

 という事実にやはり悲しみを禁じ得ないケイメロは、オルドマの意思を、生きているのと同じように、いなくなってなどいないかのように尊重し続けたかったのだ。

 ゼッカイに食われる選択、は、生前のオルドマの最後の意思であると言える。ケイメロの、或いは飛び穴の他の生き物、更にはエム、エムのアジトの生き物たちの抱く、オルドマの意思を汲みたいという感情を、ゼッカイは真摯に受け止めていた。あたたかな温度を伴って、ゼッカイの体内の血液がそれをしっかりと受け取っていた。

 亡きオルドマはこれほどまでに慕われていたのだな。

 そういう素晴らしい生き物を、食うことができてよかった。

 ゼッカイは通信管の向こうに居る、オルドマを愛する生き物たちに言った。

『だが彼女がそう望んでいる。オルドマは消えていない、ここに、居る。俺と共に、』

 これは消失ではなく、融合なのだと。


 かつて

 佐古田純二は、蝶を喰らう蜘蛛を涙目で見つめる幼い弟を、こう諭した。

 食べられる、ことは消えることじゃないんだよ。

 ひとつになるだけなんだ。そうやって、続いていくんだ。残念ながら僕たち人間はそこから外れてしまったけど。

 弟は尋ねた。

 じゃあ人間は、死んだらおしまい?続かないの?

 兄は困った顔で笑い、弟はその脚にしがみつき、ぼくはやだ、兄ちゃんが続かないのは、やだ。と、呟いた。

 

「……う…っ…」

 弟の、つまり佐古田純三の意識は、再び現在に戻ってきた。いつの間にか瓦礫の上に倒れている。一瞬気を失っていたようだった。

 小型ミサイルに気を取られた隙に、警護の部下から渾身の延髄切りをお見舞いされた佐古田は、意識を失った時間こそ一瞬だったものの、目が回ってどうにも立ち上がる事すら出来なくなっていた。その回転するぼやけた視界の中をよぎる、いびつな球体からは白煙が上がっている。

 駄目なのか、もう、どうしようもねーのかよ

 繰り返されるのか?また、あれが、

 佐古田は瓦礫に手を着き身体を支えようとするが、ゆるく回り、流れて行ってしまう視界の中ではどちらが上なのか下なのか、力を入れるべき方向が定まらない。そうこうしているうちに秋月が何か指示を出し、ライフルを担いだシルエット達が球体へ近づいて行くのが見えた。

 いびつな宇宙船からマウスやカミツキが這い出てきたところを狙い撃つつもりだ、

 という事までは、佐古田の痺れた脳味噌でも理解できた。しかし思考がまとまらず、どうすればそれを止められるかまでは思い付けない。だからと言って、何もしないという選択肢は、そもそも佐古田には許されていなかった。とにかくも、

 ミミナの生き物達を逃がさなければ

 それだけが佐古田の脳裏を占めていた。

 目がよく見えねえ、なんだよこれ、ああ、そうだ、眼鏡……畜生、何でこんなみんなぐるぐる回ってんだよ動くんじゃねえよ、俺は、止めなきゃ駄目なんだ、止めなきゃ、畜生、立てねェ、くっそ、

 サイケデリックに低下した脳を絞って佐古田は、立てないのなら仕方ない、と、這いつくばったまま移動し始める。だが、すぐに警護班に行く手を阻まれた。


 「乗り物」の外壁の一部を吹き飛ばした小型ミサイルは、通常、危険地帯の岩盤内部に生息する鉱石生物を捕獲する際に使用する物だった。その値段、一発約一億円。

 水上秋月は舌打ちした。

 金が惜しい訳ではない。このプロジェクトに金は惜しまないと秋月は決めていた。それよりも、梅津博士の目論みたる「乗り物」が姿を現し、ミサイルを使用せねばならなくなる前に佐古田を退けられなかった事が、即ち自分自身の心が予想以上に制御できなかった事が、忌々しかったのだ。

 どうかしている。なぜ僕は純三くんのくだらない罵声なんかにこんなに心が波立つんだ……

 秋月は警護班と佐古田から目を逸らす。だが目を逸らしても秋月の耳は、佐古田の骨やら器官やらが傷んでゆく音を自動的に拾ってしまう。

 奇妙で、絶望的で、人間らしい幸せをまったく放棄して、結果、ひどい目に遭う。そういう音である。

 ああ……

 目を伏せて呼吸を調える秋月に、ヘルメットのサイズが合っていない部下が小走りで寄ってきた。

「社長、包囲は完了しましたが出てきません。もう一発ミサイルを撃ち込んで、マウス達をいぶし出しますか?」

「ああ、そうしてくれ」

 頷いた秋月の背後で小さく

「……ふざけんな……させるか…」

 と聞こえ、直後、ぐえっ、と鶏をまな板に叩き付けたような呻き声に変わった。

 秋月は合図を出そうとトランシーバーを持ち上げる。が、どうやったのか一時警護班から逃れた佐古田が、餌に食らいつく鮫よろしくその腕に飛びついてきた。

 秋月は怒りと憐れみと不可思議さがマーブル状に溶け合った気持ちで、素直にトランシーバーを離す。

「無駄なのに、」

 トランシーバーはその1つだけではない。また、合図を送る手段はいくらでもあった。

 秋月は足元の佐古田を見ずにそう告げる。瓦礫に這いつくばった格好で、ぎこちなくトランシーバーを地面に叩きつけた佐古田は、何も答えず、警護班に引きずり戻される。

 昆虫のようだ、

 と秋月が思った丁度そのタイミングで、部下の誰かが

「虫だ!」

 と、叫んだ。心を読まれた気がして、どきりと顔を上げた秋月の目に、「虫」の姿が映った。蟹のようでもあったが、蝶にも似ている。キップリング・ジャンパー。どこから飛来したのか、それはゆらゆらと球体の上に止まり、秋月は思わず唾液を飲み込んだ。

 まさか、こいつ、

 キップリング・ジャンパーはぶくぶくと泡を吹きながら、球体、乗り物の、白煙の上がる箇所に歩み寄った。

「直す気、なのか……?まずい、早くあれを撃て!」

 秋月は銃を構えた部下やハンターたちを怒鳴る。が、最も素早く引き金に指をかけたハンターのライフルが火を吹くより更に早く、球体の下方が歪曲した長方形にぱっくり開き、青い塊が飛び出してきた。


 極めて正確な判断。球体から飛び出たゼッカイは、最初に引き金に指をかけたハンターを踏みつけて足場にし、二番目にライフルを撃った筈であろう部下に向かって跳ねた。悲鳴を上げる部下の頭をくわえてまた跳ねる、右に、左に、素早く。

 もはやキップリング・ジャンパーに照準を合わせている者はいない。目の前の恐怖を打ち砕かんと、数人が発砲し、乾いた音が連続して鳴り響く。うち一発がゼッカイの身体を掠めるが、急所ではない、耳だ。

 悲鳴と弾丸の飛び交う球体周辺をサーチライトが照らす。秋月の位置からはどことなく現実離れした光景に見えた。しかしその位置であるからこそ、秋月にはカミツキの意図が、見えた。

 カミツキは

 キップリング・ジャンパーに乗り物を修繕させる間、自らが攻撃の標的となるべく姿を現したのだ。

 それに気付いた秋月の腕の皮膚はぞっと粟立った。

 どうして、そんな事をするのか?

 乗り物を、無事に飛ばすためか?

 自身が命を失う可能性があるのに?

 マウスを、救うためだとでもいうのか?

「馬鹿な」

 と、秋月は声に出して呟いた。カミツキにとって、マウスは非常食に過ぎない。いくら梅津博士に何か吹き込まれたとはいえ、根本的な生態は、変えられる訳がないのだ。

 そうして秋月の頭は、なぜか自然に後ろを、もはや警護の部下達のサンドバッグとなり果てている佐古田純三を、振り返っていた。

 両側から腕を掴まれて無理矢理立たされた佐古田は、閉じきっていない方の片目で秋月に視線を刺し返し、「け、」と嘲笑った、ように見えた。秋月には、そう感じられた。

 おまえ、

 わかんねえのかよ

 青の電子カンテラの光の下でどす黒く見える血漿を吐き出した佐古田純三は言った。或いは、秋月の中の、波立つ何かが作り出した幻聴であったかもしれない。

「……何故なんだ?」

 秋月は尋ねていた。部下のボディブローにがくりと頭を垂れ、すっかり呼吸困難に陥っているはずの佐古田が答える。

 あのカミツキは そういういきものを 喰ったんだ

 融合 したんだ

「融合、だって……?それが喰うことだって言うのか?僕に、」

 僕に、融合しろと?父さんと?あの愚かな、悪人と?

 秋月はこめかみを押さえた。頭が痛い。

「嫌だ。僕はあんなふうに罵られたくない、不幸だけを残して死んだりなんかしない!」

 膨れ上がった風船を思わせる何かが、秋月の脳と心を圧迫していた。球体の周囲の阿鼻叫喚、銃声、恐らくカミツキの咆哮、それに佐古田純三の途切れ途切れの息づかいが秋月の焦燥を加速させる。たまらず手近な部下の腰からトランシーバーを抜き取る。

 吹っ飛ばせ 全部。急げば死骸からでもサリエラは採れるはずだ。もう嫌だ はやく 終わらせなきゃ


 秋月が新たなトランシーバーを握り、二発目のミサイルを撃たせる号令をかけようとしているのが、佐古田には見えていた。思考能力の90%を失って霞のかかった佐古田の脳髄は、「あれを奪ってもどうせ別のトランシーバーが幾らでもある」という事など判断できなかった。諦めて大人しく全ての意識を手放す、などという選択肢も勿論ない。反射的な反応で地面を蹴る。

「…………」

 掴まれた両腕に、ビイン、と衝撃が走り、前進しかけた身体が止まった。構わずもう一度、蹴る。右腕だけするりと自由になるが身体は進まない。佐古田はもう片方の腕を固定しているものに噛みついた。

「噛まれたァ!」

 悲鳴が上がって警護の手が離れた。


 秋月は解りかけていた。佐古田純三の執念深さの中に溶け込んでいるものを、解ってしまいそうになっていた。

 膨張する。秋月の頭の中の風船が膨張する。焦燥を超えて恐怖に近い。

 爪の捲れた佐古田の手が秋月の握ったトランシーバーにかかる。人間でない生き物のような、手が。秋月は悲鳴を上げたい気持ちになった。

 純三くんに溶け込んでいるのは、兄の、佐古田純二だ。

 そしてその兄には、死んだ生き物たちが、屋久島そのものが、溶け込んでいた。佐古田純三に融合した佐古田純二は、

 そういういきものだったのだ。

 秋月の体は、その次の段階に思考が及んでしまう前に動いていた。

 掴まれたトランシーバーを離すと同時に、片腕はラグビーボールを拾うかのような鮮やかなスピードで、足下の黒いPCをすくい上げていて、左足は佐古田の頭を綺麗に蹴り上げ、右足は距離を取るため走り出していた。

 僕は、

「親父の残した負の遺産なんかに、負けない!」

 崖上に配置させたトラックが装備する小型ミサイルはPCからでも操作出来る。佐古田が執念で追いすがるよりも早く、操作できる。直接この手で、片を付けるのだ、と、秋月はPCを開いた。

 エンターキー

 だが

 エンターキーが 無い

「……え!?」

 固まった秋月の背景の、いびつな球体から、蝶が舞い上がる。

 黒い、マットな表面加工の施された小さなノートパソコンのエンターキーは、無い。否、エンターキーだけではなく、実のところキーボードそのものが、おかしかった。配列がむちゃくちゃで、キーに記してある文字も、見たこともない何か模様のようなものになっていて、

 のみならず次第にそれはぐにゃりと捻れ、窪み、或いは膨れ、別のものへと変貌を遂げ、

『残念。俺でした』

 奇怪な声で、鳴いたのだ。

 ワム星変形動物、ミミックネコダコ!

 あ、と声を上げる間もなく肉球のある触手が秋月の顔面に絡み付いた。視界が覆われて、秋月は音だけの世界に放り込まれる。

 何てことだ、まだ生きている!

 遠くで誰かがそう叫んだ。

「まずい、」

 ミミックネコダコを引き剥がした秋月が最初に目にしたのは、撃たれて紫色に染まった身体を引きずりつつも、球体にぽかりと口を開けた円い入口から「乗り物」内部に滑り込むカミツキのシルエットだった。

 視線を上に移すと、球体の天井に留まっていたキップリング・ジャンパーの姿が無い。修理は、完了したのだ。もう今にも球体は、

 飛ぶ。

「うそだろ……」

 今度は秋月がその言葉を口に出す番だった。このほんの数十秒で、手品のように形勢が逆転してしまったというのか?

 ああ脳内で膨張を続ける何かが

 破裂しそうだ!

 そこで秋月はもう1つ、気付いた。

 そうだPCは、何処だ?

「いつ、すり替えた?僕のPCは、何処だ!」

 秋月は、不穏な振動を始めた球体と壊れた傘のように転がった佐古田の上に、忙しく視線を漂わせた。

「聞いてんのかよ、佐古田弟!僕のPCで……何をしたんだっ!」

 球体を取り囲む柱が、青く輝き出す。

「落ち着いて下さい、もうこいつに聞いても無駄です、それよりもミサイルを、」

 警護班のリーダーに窘められる。

「社長、駄目です急所を撃ったはずなのに!カミツキは中に乗り込んでしまいました、早く、ミサイルを撃ち込むしかありません!」

 カミツキをしとめ損ねた部下の一人が走ってきた。

「うるさい、知ってる!」

 秋月は怒鳴った。

 どうしてこの星は、こんなにうるさいんだ

 大事なことに集中出来ない

 秋月はカミツキの報告を叫んだ部下のトランシーバーを震える手で引ったくった。

 直後、

「ちょっと待ってくださいよ水上社長」

 声がして、振り返る。

 別の部下だ。先刻、ヘリコプターの中で媚びを売ってきた小柄な部下が、錆びた洗濯機の上に立っている。その手に、秋月のPCが、抱えられていた。

「……何をしている?」

 膨れる焦燥感に圧迫された秋月は、目の前の状況が何を意味するのかすぐに理解出来ない。小柄な部下は、警護班の下でピクリとも動かない佐古田を一瞬眺め、畜生、と泣きそうな顔をした。

「その通信機を降ろしてください」

 小柄な部下はそう告げた。

「僕に、命令するのか、部下のくせに、裏切ったのか、僕を」

 浅く速く、何度も酸素を吸いながら吐き出した秋月の言葉に

「裏切った?ぼくはあんたの部下なんかじゃない、佐古田さんの手下です」

 ギャラクシーファーム社員に扮した尾沢巧は敵意のこもった声を返す。

 佐古田純三の手下。秋月はその顔を知らなかった。気の弱そうな下がり眉の下の目は、どことなく佐古田同様ぎらぎらした光を宿しているように思えた。

「いいから手を降ろしてください、これの意味がわかりませんか?」

 PCは尾沢の携帯端末に繋がっていた。

 何をするつもりだ?

 秋月は圧迫感と戦って必死に脳を回転させる。

 まさか

「キーのひと押しで警察にデータを転送します。PCのデータ全部、鶴岡支局長とやり取りしたメールとかも、全部です。嫌ならミサイルを撃つのは止めてください。あなたの、負けです、水上社長」

 尾沢の台詞に重なって、周囲の細かな礫片がカタカタと揺れ出す。球体が、溜め終わる、飛び立つ力を。秋月は敗北を認めたくないだけの空虚な言葉を発した。

「馬鹿な……鍵が、かかっていた筈だ、パスワードがなければ、そんな事は、」

 瞳に球体の青い閃光が映った尾沢の、

「パスワードはカンが当たりました……」

 唇が

 full moon

 と、秋月の父親の名を告げ、そして球体は空に打ち上がった。


 濃紺色の夜空に浮き上がった「乗り物」の丸いフォルムは、さながらいびつな満月。仰ぎ見た秋月の頭の中で遂に、膨れ上がった何かが、

 破裂した。

 焼いた果実の水分にも似た、甘くて熱い感情、25年分の濃縮された、

「あ……あ……」

 秋月の口から、意識しない呟きが流れ落ちた。

「……僕のおとうさんは……死んだんだ……」

 死んじゃったんだ

 世界が、悪と定義した水上満月は、どういう生き物だった?

 閉じ込めていた記憶が、大波になって秋月の全身を駆け抜ける。

 日曜日に絵本を読んでくれたのは誰?

 大人なのにニンジンが嫌いだったのは誰?

 真夜中に抱きしめてくれたのは、誰?

 死んでからの世間が作り出した父の姿がパチンと破裂して、中から出て来たものの姿に秋月は愕然とした。

 生きていた頃の父が、どういう生き物だったのか、思い出してしまった。

 けれどその生き物は、世界が何と評しようとも秋月には優しかったその生き物は、もう、死んでしまったのだ。

 ああ、

 秋月は思った。

 これが死なんだ。

 苦しいな

 知らなかった、こんなに大きな穴があいてしまう事だなんて

 昇っていく丸い乗り物がどんどん小さくなってゆくのを見ながら、秋月はいつしか泣いていた。声を出して、9歳の子供が初めて死を理解した時のように泣きじゃくった。




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