2:ハングリー・ウルフ
Number 002
ハングリー・ウルフ
失敗した。
ゼッカイは、ミミナ星語でそう呟きながらよろよろと物影に隠れ、その横の地面にあいていた穴のようなものの中に潜り込んだ。中は暗く、湿っている。少し気分が落ち着いたが、何だか体が重く、うまく動けない。
あの小さな、硬い毛のようなものは、やはりよくないものであった。毒か、そうだ毒だったのだ。抜かねば。
ゼッカイは青い体から器用に前足で、佐古田に撃たれた麻酔針を引き抜いた。
しかし、体の重さはもとに戻らない。それどころか、時間がたつほどゼッカイの意識はますます混濁してくるようだった。
何か食わねば
ゼッカイは穴の奥へと歩き出した。そこは排水溝の一種だったのだが、そのようなものの存在しない、キノコ類とシダ類の楽園と言われる惑星ミミナの生き物である彼がそれを知るはずもない。揺らめく身体を引きずりながら、ひたひたと奥へ進んでゆく。どんどん重くなってくるゼッカイの脳髄に浮かんだ思いは。
ひょっとして俺はこの妙な場所で死ぬのではないだろうか?
彼は少し笑いたくなる程に絶望的な気持ちでその奇妙な洞窟の中を見回したが、暗くてよく見えない。黒い小さなものがチョロチョロと何匹も走っている気配。
と、その時。ゼッカイの嗅覚を司る細胞は、煌めく金色の微粒子を捉らえた。喉がゴクリと鳴る。地球の、蔓延する灰色の匂いばかりを嗅いで鼻がおかしくなりそうだったゼッカイにとって、故郷の金色の匂いは、たとえ微かでも、或いはゼッカイ自身の願望が生んだ幻臭だとしても、優しい恵みの匂いには違いなかった。
何処だ?肉はどこにある?
ゼッカイは本能的に匂いの方向に駆け出した。四肢の感覚は無くなりかけていたが必死に走った。金色の匂いが自動的にゼッカイを導く。倒れそうになっても糸で引っ張られるように、彼は進んだ。強烈な空腹感。
この肉にありつけなければ俺は死ぬだろう。
青いカミツキはそんな予感を抱いた。
ゼッカイは2年前、突然奇妙な乗り物に乗せられて地球、八王子宇宙生物園に連れてこられた。ミミナ星は、地球のシダ類やキノコ類に似た生き物たちで溢れた胞子の星。そのキノコやシダを食物としている動物がたった1種存在していて、ゼッカイらミミナの肉食動物はこれを食することだけで生命を存続させている。故にゼッカイは、宇宙生物園で貰う動かない赤い餌を食物だとは思えなかった。それは地球の豚肉だったのだが、ゼッカイは
邪魔なものを置くな。
と、吠えた。飼育係の地球人の方がましな気がしたが、なぜかそれは与えられず、仕方なく彼は、毎日水ばかり飲んで痩せ細っていった。
この土地、地球の生き物にはミミナのことばが通じない、という事は、ゼッカイにはすぐわかった。ことば、と言ってもミミナの動物達に地球人のような言語は存在しない。それは匂いと身振り、唸り声、微かな雰囲気のようなものからなる総合的な「ことば」である。常に同じ灰色の匂いばかりたてている地球人は、ゼッカイにとって、コミュニケーションの取りようのない相手に思えた。
そもそも、なぜ奴らは俺をこんな所に閉じ込めて、食いもせず眺めているのだろうか?
理不尽で意味不明な状況に放り込まれ、ゼッカイは頭がおかしくなりそうだった。腹は減るが赤い餌も飼育係も食う気がしない。
しかし何も食わずにいたゼッカイにもやがて限界がきた。宇宙生物園に展示されて半年が経過した頃、彼は遂に豚肉に口をつけた。途端にひどい吐き気に襲われ、ゼッカイは悶えた。檻の中では走り回って苦しむ事もできない。ギュイイ、と遠吠えをして、誰か遠くの群れの仲間が助けに来てくれないかと祈るが、そんな事にはならなかった。壁に爪を立てて暴れていると飼育係がやってきて、栄養を注射してすぐ出て行った。以来、ずっとその注射で生きながらえている。栄養注射の意味など知らないゼッカイは、こう考えた。
そうか。ここは死にたくても死ねない場所なのだ。
まるで悪夢のように。
故郷に帰りたい。群れの仲間に逢いたい。本物の肉が食べたい。
そればかり呟いて、檻の中でただただじっとしていたゼッカイのもとに、ある日、宇宙生物専門の獣医がやってきた。餌も食べずに檻の隅で丸まっているゼッカイを心配した飼育係が呼んだのである。鉄扉が開いて獣医が入って来た瞬間、ゼッカイは不安な匂いを嗅いだ。薬の匂いである。ところが、全くの偶然だが、その匂いはミミナ語で
『おマえをコロして××にしてちいさクなってふたをシめている』
という意味のことばになっていた。××の部分はミミナ語としても言葉になっていないが、とにかくゼッカイはその偶然の「ことば」に狂気と、身の危険を感じたのである。
獣医が手を伸ばしてきた。全身の毛をぞっと逆立てたゼッカイは、身を翻し、鉄扉に向かって跳んだ。
「わっ」
扉の所に立っていた飼育係が頭を低くしたので、ゼッカイはその上を飛び越えた。
外だ!
一瞬そう思ったが、扉の外も、灰色の匂い。
駄目だ、まだ外ではない。何処までゆけば、この悪夢から出られる?
幾つもの扉を越え、何匹もの叫ぶ地球人の横を摺り抜けた。姿はミミナの肉に少し似ていたが、灰色の匂いのする地球人を積極的に食う気にはなれない。腹ごしらえは後にして、とにかく外を目指した。
遠くでキノコの匂い。肉が居るかも知れない。ゼッカイは匂いの糸を辿った。
だが彼はキノコの匂いのする場所までなかなか辿り着くことができなかった。理由の一つは、林立するビル、住宅、鉄塔の類である。これらによって匂いの糸が分断され、或いは何度も複雑な迂回を重ねており、無駄足を踏む回数が非情に多かったのだ。勿論、ミミナ生物のゼッカイにはそれらが人工の建物である事など理解できない。
なぜこんな妙な大岩ばかりが並んでいるのか?マニキ(ミミナ語でキノコの事である)の1つも生えていないつるつるの岩ばかりで気味が悪い。
もう一つは、車。ゼッカイは車を生き物と思っていた。一度、停まった車を噛ってみたが、どうにも硬くて食えない。ゼッカイはこれを岩肉と呼んで嫌った。できるだけ岩肉から身を隠して進んでいった。
ようやく到達したキノコの匂いがする場所は、金網で閉じられた鳥獣保護区だった。雑木林は、ゼッカイが地球で初めて目にするまともな風景だった。ミミナのシダ樹とは違う、不思議な地球の森にゼッカイは、しばし見とれた。
ああ、これは森だ。この悪夢のような土地にも、森があるんだ…よかった。
ほんの僅かだが優しい気持ちになってゼッカイは尻尾を揺らした。
と、そこに岩肉、車の近付く気配がした。慌てて身を隠したゼッカイの鋭敏な耳に、理解不能な地球人の鳴き声が入ってくる。
「…もうここには居ないんじゃないすか」
気配は2匹分だが、もう一匹は音をたてない。空気が剣呑な匂いに変わった。
四角い岩だらけの土地よりも、森の方がいいに決まっている。しかし森に入るには、二匹の地球人の前を通らなければならない。ゼッカイは捕まって、また檻に戻るのは避けたかったが、この2年で見て来た情報を総合して考えると、地球人はミミナの肉以上にひ弱な生き物であるように思われた。油断しなければ問題無く倒せる。ただ、気になるのはそのうちの一匹、目の辺りに妙な氷のようなものを付けている方の地球人が、全身から「かみついてやる」という敵意を放出している点だ。やることなすこと全てが意味不明の地球人の意図が、これほどはっきり読み取れたのは初めてで、ゼッカイは僅かに驚く。
噛み付いてやる、という相手には先手を取るのがミミナの肉食動物の常識。狙うべきは長身の方の地球人である。ゼッカイは一気に地面を蹴って奇襲をかけた。
長身の地球人、佐古田の撃った針が身体に刺さったがゼッカイはそれを植物のトゲか何かだと解釈して構わず突っ込んだ。栄養失調のゼッカイは血の巡りが悪く、麻酔がすぐには効かない。ゼッカイ自身理解していなくとも、それは幸運だった。
「…何だと、畜生」
と鳴いた地球人の頭にゼッカイは飛び蹴りをくらわせ、地面に押さえ付ける。素早く喉笛を噛み切ろうとしたものの、地球人は意外な力で抵抗し、牙は届かない。その瞬間まで、地球人は明解な感情を持たないのだとゼッカイは思っていたが、それは間違いだった。
「てめーもいつまでのっかってん、だっ!」
と吠えて膝蹴りを放って来た地球人のことばをゼッカイは理解した。
ここはおれの縄張りだ。近付くな!
匂いも雰囲気も、吠えた音も、全てがそう言っていた。
なるほど…それならば仕方ない。
殺して縄張りを奪うという方法もあったが、身体に異変を感じていたゼッカイは、諦めて退いた方がよいと判断した。昔、故郷でゼッカイも、他の群れから必死で縄張りを守った事がある。そういう生き物は、倒すのが難しいと、ゼッカイは知っていたのだった。
そのようないきさつで体中に麻酔針を打たれたゼッカイは今、排水溝の中でふらふらになって金色の匂いを追い掛けている。
朦朧とする意識。
動作は緩慢になっていた。肉を見つけても、おそらくそれを捕らえる力は、自分にはもう無い、とゼッカイは悟っていた。
だが、それでもよかった。この灰色の奇妙な土地において、最後に故郷の匂いに出会えて死ねるのならば、少しはましな死に方なのだろう。もはやそんな気分になっていた。
急速に視界が暗くなって来る。
ああ、だめだ。
ガクンと膝が折れる。
汚れた水しぶきを巻き上げて、ゼッカイの青い身体は崩れ落ちた。
ゴトン。重い音。
もう目も開けられないゼッカイにも、瞼を透かして顔に光が当たった事がわかった。金色の匂いが濃厚になる。細かな匂いのニュアンスまで嗅ぎ取れる距離に肉が居るのを感じて、ゼッカイは本能的にビクッと震えた。すると小さな鳴き声が聞こえた。
『珍客だね…』
理解できる。ミミナのことば。故郷の、匂いと音と雰囲気の。
ゼッカイは立ち上がろうともがいた。今すぐ捕らえて、味わいたかった。あの金色の味が、こんなに手の届く距離にあるのに。
『懐かしい悪魔、おまえにここで逢うとは…』
そう肉が言った時、ゼッカイの腕が微かに、持ち上がった。