25:クロスライン
Number 025
クロスライン
山が盛り上がり、急降下して、また再び上がってゆくその一番低いところには大抵、川が流れているものだ。ゼッカイは、まだ柔らかい産毛も抜けきらぬ頃、群れの大人にそう教わった。けれどここに川は存在せず、代わりに地面がもぎ取られたようになっていて、得体の知れない奇妙な物体が信じられない数、堆積していた。
勿論、得体が知れぬと思ったのはゼッカイだけで、チュニはその堆積したものたちが、地球人が日常的に使用する道具の類だと分かっていた。打ち捨てられた冷蔵庫、或いは車、タイヤ、テレビ、こたつ、マッキントッシュ、ポリタンク、ストレッチャー、そば打ち機、エトセトラ、エトセトラ。二匹はそれらを高台の岩陰から見下ろした。混沌がそのまま形をなしたかのような廃棄物の山は、月の光に照らされて一塊の生き物のように見える。無論それは不特定多数の地球人が何十年とかけて築き上げた塊であるが、おかしな事にケイメロの残した匂いのマーキングは、その中へと誘導するように続いていたのである。
『どういうことだ?中に潜れと言うのか』
首を傾げるゼッカイの頭の上でチュニが、堆積物の上にまだ真新しい蛇口を見つけて
『あっ、お水飲むやつ』
と、暢気な声を出す。ゼッカイはしかし、それを見るなり背後の木に駆け上った。蛇口の表面に反射した赤い光は、地球人の道具から漏れるものに違いなかった。
なあに、と匂いだけの言語で尋ねたチュニに、ゼッカイはやはり匂いだけで注意を喚起するよう促した。チュニは音もなく枝に身を乗り出すと、耳をピンと立てて黒目を大きく見開く。ゼッカイは頭の中でチュニのその姿を切り取って、故郷ミミナ星の胞子の舞うシダ草原の背景に置き換えて想像しかけたが、廃棄物の山の向こう側の尾根に先回りした地球人達の囁く音だけの会話が微かに聴こえて、その映像は打ち切られた。
狩りの際に獲物を挟み撃ちする布陣である事は承知している。どちらにせよ敵に身をさらさなくては前に進めない。問題は、タイミングだ。
ゼッカイはそのように考えた。
問題はタイミングだ。
そう考えていたのはゼッカイだけではなかった。ミミナ生物達を対岸で待ち伏せる班とも、背後にラインを張る班の者達とも行動を別にしていたジョイハント・クラブ関東支部幹部、石神井豊広もまた、ぎりぎりのタイミングを見計らっていたのである。
彼は先刻、痛恨のミステイクをおかした。ミミナカミツキの心臓は胸より上、首の付け根の当たりに存在する。これを失念していた事による撃ち損じとあっては弁解の余地は全くない。石神井にとって、仮死状態から蘇ったカミツキに尾で張り飛ばされた事などは、直後に浴びた仲間達の冷たい視線に比べれば遥かにましな打撃であった。
誰よりも先に引き金を引かなくてはならない。
石神井が狙っていたのはチュニとゼッカイが飛び出すその第1番目の動作に合わせたタイミングである。既に待機している対岸の班よりも先に二匹の位置を掴んでいた石神井は、廃棄物の山のふもとに直立した業務用冷蔵庫の裏に隠れて、ゼッカイが照準の定められる位置まで出てくるのを待った。確実に一発で仕留めなければ、自分の弾がきっかけとなって一斉に射撃が始まってしまう。そうなればもう手柄は誰かに奪われてしまうに違いない。
そして、そいつが次のヒーローになるんだ。
と、白いライフルを握りしめたその時、石神井の肩を叩く者がいた。
「動画撮らしてくれよ。撃つとこ。な?」
バンの中で共にカミツキの尾の一撃をくらったハントクラブ仲間だった。
「ああ、いいよ。いい画が撮れたら俺にも送ってくれ」
石神井はクールに振る舞いながらも内心、恐怖に凍りついた。
こいつは俺の失敗を動画に残し、皆に配布して後で笑おうというのだ。畜生、何という酷い事を考え付くんだ!
上がった心拍数を気取られぬように息を調える石神井を、仲間はニヤニヤしながら眺めた。
「記念だからよ、うまく撮れなくても送ってやるよ」
失敗したら俺の人生は終わる。終わってしまう。
石神井は返事をせず深呼吸をして照準器を覗く。風が、止んだ。暗視機能付きの照準器を通した先に、緑色の画像で樹上の獣たちの姿が辛うじて確認できる。だが、どこまでが枝でどこまでがカミツキの、或いはマウスの体であるのか、石神井には自信が持てない。動くのを待つつもりであったが、背後で携帯を弄って動画を準備する仲間の存在が、彼を焦らせた。
くそっ……どうする?イチかバチか、あの毛が盛り上がって見える部分を撃ってみるか?いや、急所でなければ先刻の二の舞……
「えっ」
突然照準器の視界が真っ黒になる。指らしき形の影。仲間が、照準器をふざけて手で塞いでいるのか。石神井は
「おい、よせって」
少し強い調子で抗議した。
「おろせ」
照準器を塞いだまま、仲間は奇妙な声を出した。
いや、待て、違う。あいつこんなザラザラした声じゃなかった筈だ、誰だ?
振り返ろうとした石神井は首筋に冷たく硬いものが当たる感触に凍りついた。
え……何だこれ、えっ、銃か?
「えっ……だ、……なに……」
「黙ってライフル下ろせっつってんだ!ぶっ殺すぞクソ野郎!」
鼓膜を撃ち抜かれたような大声に、石神井は震え上がる。
「ファ……はいぃ!」
裏返った。声が。恐ろしさで。仲間はどうしたのだろう、俺のこの醜態を隠れて見ているのだろうか?
「かっ。気色悪ィ銃使いやがって」
ライフルを取り上げて舌打ちしたその声に、石神井は覚えがあった。視界の隅に眼鏡をかけた男の姿を認めて、石神井は確信する。
蹴られて鼻を擦りむいた痛み、忘れる筈がない。半年前、石神井がもう少しで仕留められる筈だったアトラス星の「熊」狩りを邪魔した悪魔じみた公務員だ。
畜生、そもそもお前が邪魔しなきゃあ、俺は今こんなに必死になる事はなかったんだ!
心は怒りに燃えていたが石神井にはそれを行動に表す度胸が無い。ただ震えるばかりである。
「クックッ……なあ、おい。撃たれる生き物の気分がわかるだろ」
悪魔じみた公務員、佐古田は言った。
「でもなァ、銃じゃねえんだぜ、これ」
途端、石神井の視界がカツン!と一瞬、光る。
何が起きたか把握するまでに数秒かかった。
「いっ……何すっ、ああっ!鼻血が!」
女座りのような体勢で地面に倒れた石神井は、殴られた頬を抑えて叫んだ。それを見下ろす佐古田が手にしているのは銃でも何でもない、ただの真っ黒なこうもり傘で。
「持ってんだろてめえ、出せや、トランシーバーみたいなやつ、あンだろ」
石神井の頭を小突く。
「ううっ、痛い……何なんだアンタ、なんでこんな事……」
「テメーに話してもわかんねえよ」
トランシーバーを引ったくると、使い方が判らないのか、佐古田は難しい顔でそれを弄りだした。
チャンスかもしれない。
石神井は傍らのライフルに目を留めた。佐古田の足元に無造作に置かれた白い愛銃に手を伸ばす。だが紙一重でその手を踏みつけられる。
「きゃうっ!」
「やらせるかクソ野郎!こっちも必死なんだ、大人しくしろ!」
佐古田は石神井の金髪を掴んで持ち上げると、ようやく探し当てたトランシーバーの通話ボタンを押し込んだ。
「聞けクソッタレどもっ!今から一発でも撃ったらコイツの命はねえ!あっ、ちげ、順番間違えた……お前、名前何つうんだコラ!」
「い、痛い、石神井です、石神井豊広……」
「が、死ぬからな!あと撃った奴も殺す!以上っ!」
一方的にがなり立てて通話を切ると、佐古田はギョロリと石神井を睨みつけた。
「ああ痛い痛い痛い!」
耳を引っ張られて石神井は呻く。
「動くんじゃねえ。テメーは人質だ」
「ひ、人質……」
石神井はぎゅっと目を瞑った。佐古田の狂気的なギョロ目を直視できなくなったのである。
ああ、俺はここで、死ぬんだ、死ぬんだ。
「あァアくっそ見てるだけで頭にくるっ!畜生が!こんなもんはなァ!こうだ、こう!」
言いながら佐古田は石神井のライフルの銃口に湿った土やら石やら砂をざくざく詰め込み始めた。行動がいちいち奇怪で、それが石神井の恐怖を煽る。声も出せずに涙が頬を伝ったその時、石神井の身体は何者かにグッと引っ張られた。
「あ!くっそ!」
佐古田が叫んだ。
暗闇の中、
「は、早く、早く!」
と、焦った声で囁きながら自分の手を引いて走っているのが誰なのか、石神井にはわからなかった。暗視ゴーグルをかけているらしい赤い光だけがちらちら見える。
「ちょ、ま、待てコラッ!」
佐古田はどういうわけかライフルに砂を詰め込む作業を中断せず、大急ぎでそれを終えてから石神井達を追いかけ始めたため、出遅れた。
今、逃げ切れなかったら俺は殺される!
石神井は必死で走る。やがてどこか遠くで無線のアラームのような音が鳴った。次に
「くっそ!どいつもこいつも!」
毒づく声が続いたかと思うと、急に追いかけてくる気配がたち消えた。
それから更に5分走り続けたところで、石神井を先導していた人物は立ち止まった。息を切らして、半分裏返った声を出す。
「だ、大丈夫かよ豊広っ……何なんだよアレはよ~」
その言い方を聞いて石神井は漸く、自分を救ってくれたのが誰であるのか知った。
そんな
一人で逃げてしまったとばかり思っていたのに。見捨てられたと思っていたのに。
それは、石神井の後ろで携帯を弄っていた筈がいつの間にかいなくなっていたハンター仲間であった。
いや、いなくなったのではない。彼は隠れてチャンスを窺っていたのだ。
俺を助けるために。俺なんかを。
石神井は泣きたくなった。
「福本……」
口に出してから、石神井は自分がこの仲間の名前をほとんど呼んだ事がないことに気づき、ますます涙が流れた。
「え、何?」
携帯の画面の光に照らされた福本のもともと細い目は、安堵するように更に細まっている。
「ごめんなあ……ありがとうなあ……」
「いっや、気にすんなよ。しかしすげかったなァ……まじビビったべ。オレ、漏らしそうだったよ、尿」
福本はあっけらかんと答えてから、さっきの動画撮っとくんだったなァ、なんか、後でもし裁判とかなったら証拠になンだろォ?と頭を抱えた。
悪意は無かった。最初から。あるとしたらそれは、石神井の中にあったのだ。
「俺も。漏れそうだったよ」
そう言って石神井は、タハッと鼻声で笑った。
一方、石神井を取り逃がした佐古田純三は、神経質に眼鏡を上げる動作を繰り返し、無意味にうろうろ歩き回っていた。半ばパニックだったのである。ライフルに砂など詰めてないでさっさと追いかけるべきところで優先順位を誤ったのも、そのせいだ。そこに加えて、奪った石神井のトランシーバーから、アラームと共に、
心配ない。今の発信は気にせず各自持ち場を離れぬように。こちらで早々に対処する。
などと、随分落ち着いた業務連絡が流されたのが追い討ちをかけ、佐古田の脳はじわじわと焦燥感及び自己嫌悪に侵食されつつあった。
深呼吸ひとつ。呟く。
「だ、駄目だ何やってる……落ち着け……今落ち込んだら終わりだ」
役立たず。何でお前が生き残った?
体の中に湧いてくる、声なき声に、クニャクニャとしゃがみ込んでしまいそうになるのを佐古田は必死に堪えた。
お前が死ねばよかったんじゃないのか?
死ねよ、出来損ない。
「……うるせえ!」
傘を握り締める。続けて頭の中で音楽を鳴らして紛らわす。
……アイスィトゥリーゾゥグリーン、レッドローゼストゥ……
不思議と。ごく自然に佐古田は、兄、純二がよく歌っていた古い古いメロディを口ずさんでいた。
ンッンーンン〜、フォミアニュ〜、
病的な幻聴は次第に鼻歌にかき消され。
空っぽになった脳の中に、純二が立っていた。
「ああ…、そこで見ててくれるんだね、兄ちゃん……」
エンナィスィンクマイセルフ
What a Wonderful World……
糸のように目を細めて兄が鼻歌を歌う姿。背景には屋久島の、赤い石南花。佐古田の心は静まっている。そして逆に、身体は全速力で駆けだしていた。
左手に持った傘の柄に、まるで居合い抜きのように右手を添える。
アイスィースカイゾブルー
エンクライゾゥホワイ……
地面を蹴り、草を、木の根を、飛び越える。佐古田の身体は、子供の頃、森の中で兄と遊んだ記憶をちゃんと覚えていた。
木陰に赤い光。
が、見えたと思った瞬間、佐古田は既に傘を振りかぶっていて。
「え、」
と振り向いたギャラクシーファーム社員の手元の銃に思い切り
「ていやー!」
打ち下ろした。暗闇の中、
「あいたっ」
と最初の悲鳴が上がり、草むらから廃棄物の山に向かってポーンとライフルが放り投げられる。
「えっ、何」
「どうしたんですか?」
「何かあったの?」
「え?」
対岸に待機していたハンターや社員らの隊列の端から波のように動揺のざわめきが広がった。先刻、トランシーバーで佐古田のがなり声を聴いていた彼らの心中に、既に不安の地盤は出来ていた。その点では、失敗に終わった人質作戦も全く無駄ではなかったのである。
ハンターと社員を片っ端からぶん殴って止めるという、豆を拾うような佐古田の作業は、精神安定剤の鼻歌と共に斯くして開始されたのだった。
樹上のチュニとゼッカイは、対岸の空気がざわついたのを敏感に察知していた。
一体、何が起きたのだ?
二匹は顔を見合わせた。これは、動くべきタイミングなのだろうか。ゼッカイはもっとずっと、自然的な、例えば故郷ミミナで言うところの胞子を大量に含んだ風や、雨、或いは遠くの肉食動物の群れの気配などによって地球人達の注意が逸れるタイミングを待っていた訳だが、彼らのざわめいた原因はそのどれでもない。どうする?動いてよいものかこれは。
チュニを安全に連れて行かねばならない分、ゼッカイは慎重になっていた。そこへ、
『何をしておる』
下から、訛りの強いミミナ語が飛んで来た。
『あっ!』
チュニは前足の間から枝葉に顔を突っ込んで覗き見おろすや、
『えりえらえり~』
と嬉しげに喉を鳴らした。
『こら、えり、で終わらすでない』
『不吉じゃ』
『あと、のばすな』
言い返す声は三匹のマルモリ・エキセップスのものだった。ゼッカイも葉の間から頭だけ出してその姿と匂いをきっちり確認する。
『なぜ、ここに?』
ゼッカイがそう尋ねる匂いが樹下まで届ききる前にマルモリ達は口々にプチプチと小さな鳴き声を飛ばして跳ね回った。
『いいからおまえらは早くに乗り物に乗るのだ』
『にわとりが囮になっておるうちにじゃ』
『今が丁度よいぞ』
どうにも話が見えないゼッカイは訝しげに口を挟んだ。
『にわとりとは何か?』
『にわとりはエムの知り合いの地球人じゃよ』
『援軍ぞ』
マルモリ・エキセップスはあまり木登りが得意ではない生き物だが、もどかしいのが嫌なのか三匹はよじよじとゼッカイの鼻先まで這い上がってきて、一本の毛髪を差し出した。
『こいつとわしらが対岸のアンギ達の隊列を乱しておくからの、お前らは急いで飛ぶものに乗るのだ』
地球人の頭の毛である。ゼッカイは、その匂いに覚えがあった。
『彼か、にわとりとは』
脳裏に、佐古田に細かな針で打たれた時の記憶が思い起こされ、ゼッカイは少しく身震いする。
『……承知した。心遣い、感謝する』
『なんのなんの』
『次はわしらが帰る番じゃから』
『達者でな』
ゼッカイはマルモリ達1匹1匹に丁寧に尻尾を掲げると、チュニに背中に乗るよう促した。対岸の様子に再度目を遣ると、何か長い棒状の物体が立て続けに月明かりに放られるのが見えた。〈にわとり〉が何をしているのかゼッカイには見当もつかない。それはチュニも同じなようで
『おとりってなに?何か投げる事?』
と好奇心顔で囁いた。ゼッカイはチュニがミミナ草食動物お得意の、囮、を知らない事を悲しく思ったが、星に帰ったら学べばよい、という意味の匂いを込めて鼻でチュニの頭をなぜた。
巨大な旧式衣類乾燥機の側面、外れた廃車の扉。ケイメロの残した匂いの目印を、チュニとゼッカイは頭を低くしてそっと、辿る。
こっち。
と目印の導く先は小高く盛り上がった鉄筋の束の向こう側。慌てず、しかし素早く、滑らかな動きでゼッカイはスルスルと鉄筋を乗り越えてゆく。一瞬、獲物の足跡を追っている気分になったが、今は背中にその獲物が乗っているのだと気づいたゼッカイは可笑しくなった。
『ら!』
背中の獲物が叫んだ。パッと頭を上げたゼッカイは「未来、その先へ」と書かれた廃棄看板の裏に素早く身を隠す。未来の未の字の部分が吹き飛び、破片がチュニの頭の上を通過していった。火のトゲだ。
「テメーこら!そこのお前だこの野郎!撃つなって言ってんのが聞こえねえのかっ!」
「あっ!ちょ……あんたそんな事をしたら落ち……きゃあああ」
「いってえ!」
がしゃん、と廃棄物の擦れ合う音と共に地球人の鳴き声がして、その、礫は飛んで来なかった。様子を窺おうとゼッカイが廃看板の裏側から少しだけ頭を覗かせると、視界が眩しく黄色に照らされた。慌てて頭を引っ込める。
「いつまで……持ってんだよ、畜生が……っ」
「だってこの銃、高かっ……」
「知るかっ!」
風を切る音。細長いもの、ライフルが回転してゼッカイの後方のビニールチューブの塊に突き立たる。
『わーお』
チュニが唸った。
『こえ、あれよね。あの、こわいこわいの火が出るやつ』
突き刺さった銃に鼻を近づけてまじまじと見つめるチュニをゼッカイが注意するより早く、看板の裏から地球人の手が伸びてきた。
『わっ』
チュニは驚いて飛び退き、ゼッカイはシャッ、と唸り声を上げて身構えたが、手は小さな悲鳴と共に、銃身を掴む直前で地面にドサリと落ちて動かなくなったかと思うと、ずるずると引っ張られるように看板の向こうへ消えていった。
その一瞬、ゼッカイは確かに、シンプルな、故郷の同族によく似た感情の空気を嗅いだ。吸い寄せられるように看板の向こうを覗き見て、牙の間から言葉を漏らす。
『……にわとり、』
『知ってる子?』
チュニがピィ、と鼻を鳴らしてゼッカイに尋ねた音を聞き、気絶したハンターの身体を引き摺って運んでいた佐古田が振り返った。
「……お前ら、まだそんなとこでグズグズしてんのかよ。とっとと地球から出てけ、早く」
ハンターの頭から引き剥がした、ヘッドライトのついたヘルメットを被りながら、〈にわとり〉、佐古田は地球人語でそのように言った。もちろんゼッカイに言語そのもの、喋っている内容は理解できない。しかしゼッカイは、初めて佐古田に遭遇した時そうだったように、その縦に長い形の地球人が何を思っているのか、まるで群れの仲間の心を共有するかの如くダイレクトに感じてしまうのだった。
ゼッカイがじっと自分を眺めているのに気がついた佐古田は。少し戸惑って口を尖らせる。
「何見てんだよ……こないだ撃ったの怒ってんのか」
佐古田はそのように言ったのだが、
失った。
仲間も、縄張りも。
悲しい。
とても悲しいんだ。
〈にわとり〉の、口から出る言葉以外の言葉が、ゼッカイにはそうきこえた。
『……なぜそんな事になったんだ?』
ゼッカイは相手が地球人であることも忘れて尋ねた。
「……な、何か喋ってんのか?お前。真佐美の機械は尾沢が持ってんだ、何言ってんのか俺にはわかんねェんだよ」
M-00を通さない佐古田の地球語の説明は、ミミナ生物達には伝わらなかった。
『お前はチュニを捕らえようとするあの地球人達に縄張りを奪われたのか』
空き缶を踏んづけて、ゼッカイは〈にわとり〉に一歩近づいた。チュニはゼッカイの頭の上に顎を乗せて、やはり佐古田の言語にならない言語を、ぼやけたミミナ語として感じていたようで。
『泣いてんの?このこ』
と気の毒そうに耳を伏せる。
「何なんだよお前ら、もういいから早くどっか行けって!いつまで……」
佐古田にわとりは何か言いかけたようだったが、ゼッカイは、このような境遇の同族に対するミミナ肉食動物の礼儀作法を忠実に実行した。
即ち、舌で、〈にわとり〉の目蓋を舐めたのだった。
「……な……、」
佐古田は唾液まみれになった眼鏡の内側のギョロ目を瞬かせた。掴んでいたハンターの片足も離してしまう。
「……なんで、そんな事をする?俺は、前にお前を、撃ったのに」
喘ぐような声を絞り出したのを、ゼッカイはあくまでもミミナ語として受け取った。
みんないなくなった
淋しくて死にそうだ
いっそ殺してくれ
それは、群れも縄張りもどこにもない、この星に連れてこられたゼッカイが宇宙生物園で嘆いたのと全く同じ匂いであった。
『お前はとてもいい見張り番だから、きっとまた、よき群れと大地に巡り会えると思う』
ゼッカイはミミナの作法に則り、頭を擦り付けて〈にわとり〉の幸運を祈った。
「くそっ……馬鹿だ、おまえらは……もっと地球人を憎んでいいんだ……当然の、」
佐古田は唾液の糸ひく眼鏡を外し、頬に擦り付けられるゼッカイの頭を両手で抱え込んだ。
「……畜生、何でだよ……」
その一瞬ゼッカイの頭骨に、〈にわとり〉の低い体温と脈拍のリズムが、洞窟の反響音のようになだれ込んできた。
ありがとう
ありがとう、ありがとう、ありがとう、……
『こぇ飲んでよい?』
〈にわとり〉の眼から零れた水を舐めとったチュニが
『ぶえ、しょっぱ』
と、顔をしかめた。同時に〈にわとり〉はゼッカイの頭をそっと離し、鉄筋の裏に隠れていた別の地球人を追いかけて走り去った。振り返りはしなかった。




