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23:ビタースイートブラッド


Number 023

ビタースイートブラッド


 真っ暗な木の(うろ)の中でチュニは瞬きした。

 あっ!

 という、悲鳴ともつかない一瞬の鋭い匂いを感じたためであった。あんまり一瞬だったもので、チュニにはそれが誰のものか判断がつかない。硬く身体を丸めて腹の柔毛を噛み締めた。

 だれ?

 なにが あっ なの?

 こわい

 おかあさん

 悲鳴の後に続く声は何もなかった。チュニにはそれが余計に怖い。やがて、脈絡も何も無しに唐突に、ゆるやかな匂いが漂ってきた。

「……おかあさん?」

 チュニは頭を上げる。ゆるやかな匂いは、チュニが母親と共に研究所に居た頃に何度も嗅いだことのある匂いだった。

「ごはん……」

 チュニの喉が鳴った。

 木の根元では、水上の部下が白いものを掻き混ぜていた。

 粥のようなそれは、フクロツルタケの粉末を水でふやかしたものだ。地球人とっては猛毒の茸だが、フクロツルタケは、研究所でチュニとその母親が、ミミナの茸の代わりに与えられていた餌だった。特に幼体であるチュニは粉末を水で溶いた粥がお気に入りであったから、その粥の匂いを嗅いで、じっとしておられる筈が無かったのである。

「頭を出したぞっ」

 下に群がる地球人達の叫ぶ声に驚いて、チュニは再び洞の奥に引っ込んだ。

 やっぱりこわい。

 らって おかしいもん。

 こんなときに、ごはんの匂いが、何ですんの?


 ヘリコプターから降りて来た水上秋月は、何やら紙袋を抱えていた。

「出てきそうか?」

 尋ねられた部下は用意した檻の中に餌の皿を置いて水上の方へ向き直った。

「はい。今、少し頭を出しました。すぐに潜ってしまいましたが……」

「死んだ親マウスの使っていたクッションだ。これもエサに」

 水上は冷淡な声でそう告げると紙袋を檻の上に投げ置いた。

「……それから、あれも使ってみるか。効果のほどはわからないけれど。準備してくれ」

「えっ!しかしあれは……」

 その指示に驚いた部下を、水上はニコニコして眺めた。

「博士の説が本当かどうか、確かめるいい機会じゃないか」

 ワゴン車から慎重に運び出された、奇妙な煙突だらけの冷蔵庫のような物体。部下は大きなリモコン装置をうやうやしく水上に差し出した。

「これがマイクになっているようです」

「なるほどね……」

 梅津真佐美の発明したガイライ・コミュニケーションシステム・Mー01のリモコンを手にした水上は、しげしげとそれを眺め回した。

「正直、役にたつとは思えませんが」

 部下の言葉に水上は口の端を持ち上げた。

「僕は、学会の連中みたく博士を頭から否定するような非合理的な事はしない。利用できる可能性のあるものは1度は試してみるべきだ」

 スイッチが入る。Mー01はブゥンと音をたて、煙を吐き出した。

「おいで」

 オイデ

「降りておいで」

 降リテ、オイデ

 無感動な水上の声は、Mー01を通しても抑揚に変化は見られない。

「お腹がすいているだろ」

 水上は木を仰いで、少し、待った。

 左隣の部下が、あ、と声を上げそうになったのを水上は手で制した。チュニが洞から頭を出したのである。様子を窺っている。

「大丈夫。怖くはない。おいで」

 チュニはヒョコヒョコと頭を出したり入れたりした。出ていこうかどうしようか迷っているようだった。

「おいで。きみを虐めたりはしないから」

 嘘をついたわけではない。サリエラを抽出し終えたら、水上はチュニを大事に飼ってやるつもりでいた。

「あたたかい寝床もある。きみが好きだったテレビだってある。降りておいで」

 おそらく、

 水上は、チュニがヒョコヒョコ頭を動かす様子を眺めて微かな戦慄をおぼえた。

 おそらく、通じている。梅津博士の発明は本物だった。

 このM-01を商品化すれば膨大な利益を上げられるだろう。水上の明晰な頭脳の中で、製品化に向けたプランがあっという間に構築されていった。

 サリエラのワクチンで人を救い、更に、新製品ではガイライと人間のコミュニケーションを提示してみせる。

 完璧じゃないか。

 大衆は僕を手放しで支持するようになるだろう。

 幼い頃、あれほど僕ら家族を虐げた、大衆がね。

 チュニは前足を樹皮にひっかけて、穴から半身を乗り出した。きゆきゆ、と小さな鳴き声をあげる。水上の手もとのリモコンにはめ込まれた液晶画面はその鳴き声を不完全に翻訳した。

『何か』『こわい』『いくな』『どこ?』『いくな』『いや』

 バラバラの言葉の断片に水上は首を傾げる。

「距離が遠いせいか……?」

 だが、何かがおかしい。水上の目は画面上の、ある言葉を凝視した。

「……いくな、だって?」

 おかしい。これは〈二匹〉ではないか?

 二匹分の言葉が混ざって、処理に不具合が出ているんじゃないのか?

 咄嗟に水上は、カミツキ、ゼッカイの死骸を保管してあるはずのバンを振り返った。


 その頃、バンの中ではジョイハント・クラブの石神井が、仕留めたミミナ星カミツキの尾の毛を切り取ろうとしていた。

「新鮮なうちに、眼を抜いて残しておいたら?最近流行ってるってよ」

 携帯カメラでホログラム画像を撮影しながら別のハント仲間がそう言った。

「眼を?」

 石神井は尾にナイフを入れる手を止めてゼッカイの閉じた目にカメラを近付ける仲間に尋ねた。

「そう、眼をさ。樹脂封入してアクセにすんの。知らない?下北あたりのハンターがさァ、」

「ああなんか、聞いたことあるな」

「こいつの眼、綺麗なオレンジ色だったろう。たしか……」

 仲間はゼッカイの眼を指でこじ開けようとして、急に口をつぐんだ。

「どうした?」

 石神井は硬直した仲間を訝しげに見つめた。

「や……今、動いた気がしたんだけど」

「ありえないだろ……」

 反論しかけて、石神井もドキリと肩を痙攣させた。

 待て。

 今、後ろ脚の爪は開いている。さっき尻尾を切ろうとしていた時は閉じていなかったか?

「おい……なあ、おい……本当に心臓撃ったのかよ豊広……」

 仲間の震えた声。石神井の口の中に、熱く酸っぱい味が広がる。

 待て。ミミナ星カミツキの心臓は

 胸部に、

 無かったんじゃないのか?

 まさか、これは致命的な

 ミス……

 ミミナカミツキの巨大な青い尾のひと振りに、バンが揺れ、石神井の思考は真っ白になった。


 バンの後部ドアーが内側からひどく歪み、やがて音をたてて外れた。

「くそっ……生きてたのか」

 呟いて水上は舌打ちする。

 中から飛び出た青い塊が地面すれすれの低い姿勢でこちらに向かって来る様を目の当たりにした部下、及びハンター達は慌てふためいた。ゼッカイを撃ち殺したと思っていた彼らは、既に対カミツキ用の装備を解いている者がほとんどであった。

「あああ噛まれる!」

「こ、怖い怖い怖い……」

 悲鳴や怒号の頭上を、ゆるい曲線で跳び越えたゼッカイは、爪で樹上に取り付き、吠えた。

『チュニ!地球人のもとへはいくな!』

 水上は伏せながら手もとのリモコンを確認する。

『なんでよう』

 ミミナマウスは、じり、と木の下の方に移動し、カミツキの乗る枝から距離をとった。

『そこはお前の帰る場所ではないからだ。チュニ、おれと来い』

 カミツキが言ったであろう言葉に、草むらの水上は冷ややかな笑みを浮かべた。

 よく言う。死んだふりをした事と言い、今の台詞と言い、まったく策士だ、あのカミツキは。帰る場所、とはつまり、お前の腹の中か?

 今までそうやって僕のマウスを丸め込んで、食糧を携帯していたってことか。

「面白い事を考える。あれが僕のマウスじゃなかったら、僕はあのカミツキも手元に置いておきたいよ」

 そう呟いて、水上はリモコンのマイクをオンにした。

「聞こえるかい、マウス……いや、チュニというのが君の名前か?いいかい、そいつの言う事をまともに受けてはいけないよ。降りてくるんだ」

 水上は、ライフルの準備をしている部下達に少し待てと手で合図しながら、M-01で木の上に語りかけた。

 もう少し、距離が必要だ。

 撃つのはカミツキだけで、マウスに当たってしまっては困る。だが、ただチャンスを待つだけの姿勢は水上秋月という人間の性分ではない。また、グズグズしていてはカミツキがマウスをこの場で食うという事も有り得た。

 水上は、マウス自身が完全にこちらに懐柔されてくれれば随分動きが取りやすくなると考えたのである。

『お前は誰だ。エムではないな?』

ゼッカイは毛を逆立ててそう言った。

「僕はチュニのもともとの飼い主だよ、カミツキくん。チュニは僕の研究所で生まれて、僕の研究所で育った」

 ゼッカイは研究所、の意味を知らなかったが警戒して鋭く吠えた。

『姿を見せろ』

 水上は、部下の不安げな視線を無視してゼッカイの言葉に応じた。

「いいだろう」

 草むらから立ち上がった水上を見てチュニが小さく懐かしむような匂いを発した。

『らっ……。のっぽくん』

「久しぶりだね。僕がおやつをあげたのを覚えているだろ?おいで」

『うん……』

 チュニはもじもじと、数センチだけ地面に近づく。白い小さなマウスは迷っていた。どうするのがよいのかわからなかった。

 研究所では食事やテレビや毛布を与えてくれた。けれど地球人達は、火の石を撃つような事もする。その矛盾が、チュニには謎だった。不安だった。

 一方、ゼッカイに対しては心の根本的な部分が、何故だか怖くてたまらなく、長い牙や、爪が目に映るだけで毛が逆立つ。走って逃げたくなる。

 チュニはどちらを選ぶのも恐ろしい気がしていた。

 ゼッカイが鳴く。

『駄目だいくな。お前の本当の家はそいつの所ではない』

 水上が言う。

「騙されちゃいけない。君の家は、こっちだ」

『わかんないよう』

 チュニはミャア、と嘆いた。

「わからない、だって?ならば僕が教えてあげよう」

 M-01を介した水上のその言葉に、ビクリと耳を反応させたのはチュニではなくゼッカイの方だった。

「いいか、そいつは……」

 その瞬間、ゼッカイが言葉になりきらない焦りの匂いを滲ませたのをチュニは敏感に嗅ぎ取った。毛を逆立て、真ん丸い目玉で次の言葉を待つチュニに、水上はゆっくりと視線をあわせて。

「そいつはね、」

「喰うよ」

「君を」

 チュニは口を開けたまま爪を深く樹皮に食い込ませ固まった。

 大きな口。大きな牙。大きな爪。

 おおかみ

 お母さんが言ってた、すぐに逃げなきゃだめよって。

 ゼッカイが、そうなの?

 チュニは震える膝で一歩下がった。

『ほんとうなの?……ゼッカイは……チュニを、食べうの?』

 水上の口の端が満足げに持ち上がる。ようし、下がれ。あと二歩下がれば撃っていい。部下を振り向いて準備を確認し、水上は腕に付けた情報端末をこっそり操作した。

 ネットワークに接続して、ミミナ肉食動物の狩りを映したホログラム画像をダウンロードしたのだった。

 これを見せれば、研究所育ちのチュニも、自らと肉食動物との真の関係を理解するだろう。水上はそう考えた。

 だが、その必要は無かった。

『ああ、本当だ』

 ゼッカイは告げた。

『おれはお前を、喰う』

 ぎらぎらと牙を剥き出しにして、真実を。

『お前の母親の母親、オルドマも、おれが喰った』

 ゼッカイは肉食動物らしい吊り上がった眼でチュニを凝視した。その眼で見つめられて、チュニは、ひうっ、と息を詰まらせる。

 水上は声を張り上げた。

「諦めて自分からけものの本性をあらわにしたな、カミツキくん。……さあチュニ、おいで早く、喰われてしまうよ」

 しかし

 チュニは、どういうわけか動かなかった。射すくめられたように浅く息をして、ゼッカイをじっと見ている。ゼッカイの語る全ての匂いと音を聴いている。

『噛った、頭から。味は金色で……チュニ、きっとお前もそういう美しい味がするはずなんだ……』

 ゼッカイは舌で呼吸した。紫色の、巨大な舌。

 怖い

 チュニの瞳はゼッカイに吸い寄せられ、引き付けられ、

 すごく怖いのに、

 なんで?

 言葉が、匂いが、催眠のようにチュニを搦め捕った。

『約束したのだ。おれはお前の婆さまを喰った。あの肉の望みは、おれの望みだ。オルドマは、お前が本当の故郷に帰ることを願っておれに喰われたのだから』

『おばあちゃんが……?』

 チュニは瞬いた。

「騙されるな!餌と約束なんかするわけがない。お前を騙して食べるつもりなんだよ、チュニ!」

 水上が口を挟み、チュニは僅かに後じさる。

『だますの……?』

 尋ねたチュニにゼッカイは、真摯に、答えた。

『騙さない。お前を喰うのはミミナに帰ってからだ』

「何をしてる?早くおいで」

 水上はチュニの好きだった餌の皿を掲げるが、チュニは振り向かなかった。振り向けなかった。

『来いチュニ。故郷の森の中を風の速さで駆けるお前をおれは追いかけ、頭から噛り喰ってやる』

 ゼッカイの語るミミナの香りが、チュニの頭の中の奥の奥の部分をちりちりと焦がした。

 心臓の鼓動が、指先まで高く鳴り響く。金色胞子が、血液の中で渦を巻く。

 死んだり、死ななかったりの血まみれの遊びがしたくてしょうがないこどもは、

『捕まんないよチュニ。はやいから。ゼッカイはお腹すいて、しぬの』

 震えながらチラチラと舌を動かし、青い狼を、選んだ。

『いい子だ……』

 ゼッカイは、これ以上ないほどやさしげに目を細めた。

 ぎゃぎゃぎゃぎゃっ

 恐怖とも喜びともつかないMー01では翻訳不能のけたたましい鳴き声をあげて幹を蹴ったチュニが、鞠のようにゼッカイの頭の上に乗っかった、その姿と、リモコンの画面を水上は交互に見返し、忌ま忌ましげにため息をついた。

「くそっ……けものめ……。もういい、撃ってしまえ」

 休眠状態のサリエラは、宿主のチュニが死ねば生きてはいけない。しかし、死体を早急に回収して抽出作業を行い、すぐ別のマウスに注入すれば計画は予定通り進められる。水上は、世話をしてやったはずの チュニの裏切りに憤りを抱いた。

 テレビもソファも用意してやって、お前は、喜んでいたじゃないか。

「撃て撃て」

「先回りするんだ!」

「C班に連絡を取れ!」

 俄かに騒然となった地上の様子に一瞥をくれることもなく、ゼッカイとチュニは木々を飛び移って山の奥深い方へどんどん入って行く。

 ケイメロが目印に残していった微かに甘い匂いのマーキングを鼻孔に吸い込みながら、チュニはゼッカイの大きな耳に囁いた。

『ゼッカイごめんね』

 尾を掠める火の石を避けながらゼッカイは応えた。

『なんだ』

『おばあちゃんを食べたんなら、ゼッカイはやっぱしチュニのおばあちゃんじゃんね。うそつきじゃないね』

 それを聞いてゼッカイは、心底愉快そうに口を開けた。

『そうか……。そうだな』


 地球で生まれて地球で育ったチュニは、ミミナ星の生き物の心をすぐに理解できないのではないか、自分から逃げてしまうのではないか、ゼッカイはそう思い、捕食者である事を隠していた。オルドマとの約束が守れなくなるのを恐れたのである。

 ああ、でもそんな必要は無かったのだ。

 今、ゼッカイは頭の上のチュニの体温を感じて、悲しくなるくらい幸せだった。

 この子は理解するに決まっていたのだ。あの素晴らしく美味い肉の孫娘なのだから。

 おれの愛したあの肉の、孫娘なのだから。

 ゼッカイは、身体の中の、もとオルドマだった血液が喜びにぷつぷつと震えたような気になった。脳にはオルドマの最期の姿が焼き付いている。その映像は、波のようにゆらめきながらどんな時でも意識の奥底に確実な気配を持ってゼッカイの中に存在していた。

 地球の毒の空気ですっかり身体は弱ってしまっていたけれど、オルドマの絞り出す言葉は、その時空腹と淋しさで死にかけていたゼッカイには太陽のような暖かさを持って感じられた。

 いとしいわたしの、故郷の悪魔。

 ここでお前に出会えたのは奇跡だ。

 故郷に帰って死にたかったのだけれど、どうもわたしの身体はそれまでもちそうもないんだ。

 ねえ、お前もわたしも死にかけている。だから

 遊ぼうじゃないか。

 排水溝の中、息も絶え絶えの、けものが二匹、1匹は追いかけ、1匹は逃げ、そのうちふたりは絡み合う。

 微かな光に照らされたオルドマの白く美しい喉に、ゼッカイは牙を突きたてた。

 ぱっ、と、金色の匂いが、洪水のように溢れ出す。

 よくやった さあ、わたしの悪魔よ

 ひとつに、なろう、

 まるで抱きしめるかのように、倒れ込んできたオルドマの身体を、ゼッカイは喰らった。

 呼吸をするのも惜しんで喰らった。

 オルドマは、悲しさも喜びも幸福も絶望も、何もかもすべてが混じりあった、故郷そのものの味がした。そしてゼッカイは、

 あなたの望む事は何でもする。

 そう誓ったのだった。


 オルドマの記憶を抱いて、ゼッカイは走る。

 この奇妙な星から抜け出して、帰るのだ。故郷に。

 石神井に撃たれた傷は致命傷ではなかったが、ゼッカイの体力をだいぶ奪っていた。舌を出して呼吸の表面積を増やすゼッカイを、チュニが心配そうに覗き込む。

 その丸い目玉を見るにつけてゼッカイは、地球で死ぬ事がとても怖くなった。故郷では死そのものは少しも恐怖の対象にはならなかったのに。

 乾いた破裂音。感情のない火薬の匂い。地鳴りのような車の振動が、捕まった木の幹を揺らす。ゼッカイは、身体の中のかつてオルドマだった血肉に祈った。まるで地球人が、神に対してするように。

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