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22:アウト・オブ・ブレス


Number 022

アウト・オブ・ブレス


 割れたコンクリートの道を人魂のようにヘッドライトで照らして走るエレキングの運転席。尾沢はとにかく佐古田を奪還せしめた事で、少しばかり緊張のとけた息を吐いた。しかし、助手席から逆さになったままの佐古田が

「……なあ」

 と、かさついた声を出したことで、一度緩んだ尾沢の胸の辺りに締め付けられるような感覚が戻ってきた。

「何で、監査許可証ねーんだ……?ちゃんと証拠、渡したんだろ?」

 これほどの犯罪が絡めばさすがに局も動く。まだそう思っている佐古田の言葉が尾沢は辛かった。管理局は水上の共犯で、あなたが成し遂げようとした事は全て無駄だった、などと告げるのは残酷だと思った。けれども説明しないわけにはいかない。尾沢は佐古田の目をまともに見られないまま管理局での一部始終を語った。

「佐古田さん……実は、」

 あまりにも理不尽だ、人間世界は。

 尾沢はそう感じる。大多数の人間はこの世界の理不尽さに慣れ、迎合して生きていて、完全に真っ当だとは言えなくても、世界はそこまで酷くはないさ。みんなそう思っている。尾沢もそうだった。そういう大多数から外れて、世界の理不尽さの直撃をくらった時、こんなにも世界は理不尽なのかと初めて気付くのだ。

 この星では生き物の命は簡単に踏みにじられ、真っ直ぐな願いは叶わない。悔しかった。

 顛末を聞き終えた佐古田は右目だけを驚愕、もしくは絶望に大きく見開いて、呻くような声を出した。

「……何だと畜生、あいつら……」

「うっ、ごめんなさい、僕が、気付くのが遅すぎたんです……ごめんなさい、」

 尾沢は泣けてきて運転ができなくなってしまった。車を木陰に横付け、ポケットティッシュで鼻をかむ。佐古田は例の鮫の口で、くっ、と息を吐き出した後、

「畜生……冗談じゃねえ、俺は納得しねえぞ……ぶっ殺してやる、くそっ」

 きれぎれに言った。そう言うだろう事を尾沢は知っていた。そしてその通りの言葉を聞いて悲しかった。なぜなら、それはきっと報われない言葉だったからである。

 トランクに入っていたペンチで椅子のワイヤーを切る際、尾沢は佐古田の上着に靴型があるのに気付き、身体の痣も蹴られてできたものだと知った。

 馬鹿な事を訊いた。どうしたもこうしたもない、捕まった時に痛めつけられたに決まってるじゃないか。

 そんな目にあってまでサリエラを阻止しようとした佐古田を嘲った井上や鶴岡を、尾沢は改めて呪った。

「佐古田さん……ぼ、僕、悔しいです……」

 最後のワイヤーを切った時、尾沢の漏らした嘆きに、考え込んでいた佐古田は俯いたまま返事をした。

「駄目だったみたいな言い方すんじゃねえよ……切ったらとっとと行くぞ、運転しろクソッタレ」

 とぎれとぎれに佐古田は続ける。

「真佐美んとこに、行け……。事情話せば、マウスとカミツキの向かった場所、きけるかも知れねえだろ……無理なら、力づくで、」

 つまり佐古田は現場に行くつもりなのだ。気付いて尾沢は鼻をすすった。これも予想していた事だった。しかし、身一つで行ってどうにかできるものではない。逆に捕らえられて今度こそ監獄行きだ。或いは、と、尾沢は涙目で佐古田の割れた眼鏡と青黒く打ち身になった痣を眺める。

 或いは、もっと酷いことになりかねない。

 尾沢は告げた。

「無理です、佐古田さん……もう充分です……」

 これ以上、真っ直ぐなものが理不尽に敗北するのを見たくなかったのだ。佐古田は月明かりの車内で尾沢を怒鳴り付けた。

「ふざっけんな!」

 直進する佐古田の感情を否定するのは辛かった。けれど今度ばかりは尾沢も引き下がれない。

「無理です!監獄行きならまだマシなんだ、サリエラをばらまくような奴らなんですよ?殺されでもしたらって、考えないんですか!」

 尾沢が何よりも恐れるのは佐古田が、口が悪くて常識がなくて短気で暴力的な、この愛すべき上司が目の前から居なくなる事だった。

「うるせえ!無理とか言うなっ!殺されたくらいで死ぬか馬鹿!車、出せ!」

「嫌です!僕は嫌だ、あなたが酷い目にあうのはもう嫌なんです!」

「てっめえ……」

 佐古田が拳を振り上げる。尾沢は目をつぶった。殴られる、と思った。だがそれは振り下ろされず、佐古田は意外な言葉を吐いた。

「あ、あ、……駄目だ、畜生……限界だ……」

 尾沢は思わず、えっ、と音を洩らす。

「……佐古田さん?」

「てめーのせいだ尾沢……くっそ……駄目だ、俺……」

 がっくりと頭を落として佐古田は口をつぐんだ。何が起きたか尾沢には全くわからなかった。

「え!?ちょ……佐古田さん?」

 佐古田はゼイゼイと疲れた息の隙間に、大きな溜め息を挟んだ。そして、

「お……まえ、頼むから……無理とか酷い目にあうとか、あんま言うな……俺だって落ち込む……」

 スイッチじゃないんだから。

 こんな落ち込み方をする人間を尾沢は初めて見た。かける言葉のパターンが見あたらない。さっきまでの言い争いもすっかり忘れて尾沢は唖然としてしまった。

「ああ……俺、一回落ち込むと駄目なんだ、くそっ……何で兄貴じゃなくて、こんな能無しの俺の方が生き残んだよ畜生、そんなの考えてもしょうがねえのに、何でなんだ?考え出すと止まらねんだよ……」

 独白めいた佐古田の呻きを聞いて尾沢は真佐美の事務所での件を思い出した。

 純二の幽霊

 一体、佐古田が何に向かって突き進んでいるのか、今まさに、その答えに手が届きそうな気がして、尾沢はついに訊かずにいられなかった。

「お兄さんに、何があったんですか……?佐古田さん、あなた一体、何に苦しんでいるんです?」

 少しの間、佐古田は躊躇っていた、だが二、三回震える呼吸を繰り返し、やがて観念したように口を開いた。

「……宇宙を渡る蝶、って本、」

 それは一見、繋がりのない言葉から始まっていた。

「知らねえか」

 尾沢はその本のタイトルに聞き覚えがあった。確か、

「あ……宇宙生物環境学の教授が、ゼミで」

 使っていたはず。

「あれを書いた宇宙生物学者は、当時二十歳そこそこのまだ若い学者で……」

 でも、書いてすぐ死んだ。

 そう言って佐古田は悲しげに目をつむった。


 その若い学者は、ある島に住んでいた。植物学者の父親と共同で、ガイライが島の環境に与える影響について研究するためだった。

 ある年の冬、学者は、それまで島で見かけなかった、惑星カイゼル産のトカゲを大量に発見した。

 テレビアニメのキャラクターに起用されたのをきっかけに一時ブームになりかけたカイゼルトカゲだったが、程なくして子供を噛んだ事故が明るみに出たため、それは不発に終わっていた。学者はその事を知っていたから、先買いで入荷した業者が捨てたものだとすぐに気付いた。

 学者は研究と、「宇宙を渡る蝶」の執筆の傍ら、その業者を突き止めようと独自に調査を進めた。

 翌年の春の終わりに「宇宙を渡る蝶」はようやく完成し、そして例の業者の名も判明した。

 水上空産というガイライ販売専門業者であった。

 学者は訴訟の準備をし始めたが、その前に


 夏が来た。


 カイゼルトカゲはカイゼル星と同じく20℃以下に保った水槽で飼う生物である。また、ペット化されてからの歴史も浅かった。

 気温40℃のもとでカイゼルトカゲがどうなるのか誰も知らない。ましてやその体内で密かに眠る、サリエラウイルスという生き物など、発見すらされていなかった。

 静かに、呆気なく、

 その日、太陽が沈むまでの間に、島のほとんどの多細胞生物が原因不明の死を遂げた。

 夜になって二隻の船がやってきた。乗っていたのは防護服の人々だった。彼らは、1隻目の船に僅かに息のある数人の人間達を乗せ、もう1隻の船に亡くなった人間の身体を詰め込んだ。動物や植物は、置き去りにした。そして満遍なく島を消毒した。

 若い学者は、どちらの船にも乗っていなかった。

 研究調査のために森の奥深い所に潜っていた学者は、救助隊に発見されなかったのだ。

 学者は、島の他の生き物達や、カイゼルトカゲの死骸と折り重なるように横たわっていたという。

 天才と呼ばれた宇宙生物学者、佐古田純二は、二十四歳の若さで、こうして屋久島と共に逝ってしまった。

「1隻目の船に乗っていた学者の父親も、昏睡状態だった。そのまま五年生きて、目を覚まさないまま、死んだ」

 佐古田は泣くような笑うような、よくわからない表情を半分くらい手で覆いながら話す。

「学者の血縁で生き残ったのは、歳の離れた、出来損ないの弟だけだ。その時7歳のガキだった弟は、高熱で30日間死にかけはしたものの、どういうわけか……」

 その時尾沢は、助手席で身体を折り曲げる長身の佐古田が、一瞬、小さな子供の姿になる幻を見たような気になった。

「結局、死ななかった。熱が引いたらど近眼になってたけどな」

 自嘲の代わりに佐古田は咳をひとつした。

「じゃあ、佐古田さんは、あの事件の、」

 尾沢の言葉は喉の所でつかえた。

 見たんだ、佐古田さんは、屋久島事件を、地獄を、実際に目の前で。

 ヒトのせいで生き物が理不尽に死ぬ、という事の恐ろしさ、悲しさを知っていたから、だから

 尾沢は佐古田が全身全霊で怒りを吐き出していた姿を思い、そこに隠されていた感情に泣きたくなった。

「部屋に貼ってあった古い写真、屋久島だったんですね」

「親父が撮ったんだ……クソでけえ化石みてーな杉とか、猿とか……携帯の着メロもヤクシマカケスの鳴き声だ。でもみんな、もういない」

 もういないんだ。

 かつて小さなミツ少年だった男は嘆いた。

 島で死んだ生き物たちの念いは、きっと佐古田の中に乗り移っている。生き物の運命を変えてしまうガイライ企業への激しい憎悪。佐古田の全ての原動力は、幽霊たちに違いなかった。

 つまり

 尾沢は理解した。佐古田の激しい感情や突き進む力は屋久島事件という運命に翻弄され、そうならざるを得なくてなったものなのだ。

 そして、本来の佐古田純三とは、

「兄貴が生きてたらガイライ業界そのものに歯止めをかけてた筈だ。なのに俺ときたら水上ひとり止めるのに、この有り様だ……無能にも程がある」

 劣等感だらけの、どこにでもいる弱い人間の1人、なのかもしれなかった。

「あ……あの……」

 尾沢は、慰めの言葉の代わりに、ペティグリーストーンを購入したコンビニエンスストアでついでに千登勢屋の一口ようかんを買っていた事を思い出し、1つ佐古田に差し出した。

「食べませんか……僕、落ち込むと甘いもの食べたくなるんです」

「……うん」

 しばらくの間、二人は黙々とようかんを噛った。包み紙の音と、どちらともなく鼻をかむ音以外、車内は静かだった。

 オケラやミミズ、といったような、そういうちっぽけな生き物が月の下、二匹並んで、悲しげにようかんを噛る。

 尾沢の脳裏にはそんな映像が浮かんだ。

 淋しいような、悔しいような、やさしいような、不思議な気分だった。

 オケラやミミズのようなものの尾沢に、オケラやミミズのようなものの佐古田が、ようかんを口に入れたままで言う。

「どこのだ、これ」

「千登勢屋。コンビニに売ってますよ」

「……千登勢屋か」

「落ち着いてきました?」

 尾沢が尋ねると佐古田は頷いて頭を上げた。

「うん……」

 尾沢は、自分とそう変わらない、ちっぽけな生き物である佐古田が、今までどれほど、なけなしのエネルギーを絞って走っていたのか想像した。その想像は、悲しくて痛いものだったけれども、

 同時に、

 尾沢の心に、奇妙にも微かな勇気を与えた。

 ……できるものなんだな。僕らみたいな生き物にも。

 高い所に見えていた鳥の、墜落した姿を見たら、それはゼイゼイと息切れしつつギリギリで飛んでいた、自分とそう変わらないオケラとかミミズとかそんなようなものだった。

 その事実に尾沢は、奇妙にせつない勇気を貰ったのだった。

 尾沢(自信皆無の下っ端気質)は、尋ねた。

「……どうします?」

 佐古田(世渡り能力ゼロの劣等感の塊)は答えた。

「多分な……俺、諦めたら諦めたでノイローゼになる気がする……それも怖ェ……だから、」

「わかりましたよ……」

 尾沢はキーを回した。

 あなたは飛び方を、見せてくれた。なら僕も一緒に、もう少しだけ飛べるかも。

「いきますか。駄目もとで、第2ラウンド」


 どうしようもない二匹の乗った、ボロボロの旧式電気自動車が、再び夜の闇を疾走し始めたちょうどその頃。山裾の市街地で怪しい一行が歩を進めていた。

『間違いないんか?』

『間違いないぞよ』

『では、ゆこう』

『痛い!引っ張るな』

 一見、まるで石が移動しているとしか見えないが、それは複数の宇宙生物であった。匂いを頼りに道を辿る三匹の丸い生き物、マルモリ・エキセップス達が、石の張りぼてに擬態したミミックネコダコを、テントのように被って移動していたのである。

『しかし、十匹揃わぬと調子が狂うのう』

『仕方あるまい。全員で来たら、誰がエムを介抱するのだ』

 彼らはミミナ語で囁き合った。

 三匹のマルモリ・エキセップスとミミックネコダコは、小さな荷物を抱え、ある匂いを探していた。小さな、とは言え長さ15センチの黒い荷物はマルモリ・エキセップス1体の身長の半分ある。彼らは交代でそれを運ぶ事に飽き始めていた。

『ミミック、貴様はなぜこれを持たぬか』

『ずるいぞ』

『何だと?だったらおまえら、擬態ができるのか?これはな、おまえらが思っているよりずっと神経を使う仕事なんだ』

『だって重いし面倒臭いのだっ』

 不協和音に輪をかけていたのは、彼らの任務そのものだった。

『だいたい、いくらエムの頼みとは言え、わしはあんな奴ら認めん。はっきり言って、行きたくないぞ』

 マルモリの1匹がキイキイと喚く。

『俺もだが、それしか方法が無いなら仕方ない』

 ミミックネコダコも嫌そうな匂いで答えた。別のマルモリが渋々頷く。

『むう……確かに、アンギはこわすぎてわしらでは手が出ぬからのう』

 「アンギ」とは、マルモリ・エキセップスの故郷の惑星の言葉で言う「死に神」のようなものだった。梅津真佐美の事務所に現れた水上秋月のことを、マルモリ達はそう呼んだのである。

 まるで生き物でないものに対するような態度で、ただ風で飛んで来たゴミでも始末するように、水上の部下は事務所のガイライ達を蹴ったり壁に投げ付けたりし、更にはエム、真佐美の脚(かれらは車椅子を本物の足だと思っていた)を破壊した。その様子に、マルモリ達は失禁する程の恐怖を味わったのだ。

 アンギの水上らが去った後、脚を潰されて身動きの取れなくなった真佐美ことエムは、発射台に援軍を送る必要があると説いた。

 このままでは、チュニもゼッカイも水上に捕らえられてしまう。計画を成功させるためには、地球人の援軍が必要だった。

『ワタシは動ケまセん。ドうカ、要請、ト、案内役ヲお願イシマす』

 例の奇妙な喋り方でそのようにエムは頼んだ。こうして、三匹のマルモリ・エキセップスとミミックネコダコは、微かな匂いを追って東風商人の辺りまでやってきたのであるが。

『あ奴ら、わしの首根っこをつまみよった』

『俺なんて人質にされたんだ、腹立つ』

 援軍は、マルモリやミミックにいまいち評判が悪かった。

『でかいほうは頭が悪そうだし、ちいこいほうは風が吹いてもビビりそうだったしのう』

『あのような奴らで、こわいアンギに対抗できるのか不安じゃ』

『エムの知り合いでなきゃあかじってやる所だ』

 口々に勝手な事を言い合いながら、アスファルト道路の匂いを嗅いでいたガイライ達は、ぴう、と風が吹いた瞬間黙り込んで頭を上げた。

『おう』

『今の匂いは』

『くるぞ』

 三匹のマルモリ達は、向かう先からこちらに迫ってくる、丸い二つのヘッドライトを凝視した。

『荷物は俺が預かる。しっかり止めろよ』

 ミミックネコダコは通常の姿に戻って黒い塊を抱え込む。

『わかっておるわ』

 マルモリ達は高く、跳ねた。


 止まれ止まれーい

 伝令じゃーい

 聞けい、聞けーい

 いきなりバンパーに飛び乗って来た3体のマルモリ・エキセップスに驚いた尾沢は急ブレーキを踏んだ。

「うわーっちょ!えええなになになにィ?」

「いってェ!何すんだっ」

 ダッシュボードに思いきり額をぶつけた佐古田が叫んだ途端、窓から何やら抱えたミミックネコダコが無遠慮に入り込んできた。

「な……、待てまさか、お前ら真佐美んとこの……」

 ビシッ!

 ミミックは佐古田の顔めがけてエムの託した手紙を投げ付けた。

「デハッ!てめ……カドが、カドが当たっ……」

「こ、これ、真佐美さんからですよ」

 頭と肩にマルモリの乗った尾沢が手紙を拾い上げた。

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