21:スクウィキー・クライ
Number 021
スクウィキー・クライ
宇宙生物管理局多摩支部、支局長室の客用卓に尾沢巧は、事の次第の説明を終えてまだ緊張にどくどくと脈打つ手をつき、出された珈琲の水面を見つめていた。
「……あの、」
シリコン玉でも飲み込んだかのような声を出してしまい、尾沢は咳込んだ。奥のデスクでは支局長、鶴岡と広報課、井上。それから部長クラスの局員数名が、パソコン画面を眺めている。
「驚きましたよ……」
「まさか、こんな」
「まったくだ」
溜息をつきながら口々にそう呟く彼らが目にしているのは、尾沢が持ち帰った証拠のデータだった。
「あのう……それで、」
尾沢が言いかけると井上が振り返った。
「……ホント驚いたよ尾沢くん」
井上は困ったような、引き攣ったような微妙な表情でそう言った。尾沢は早口で応える。
「ご、ご理解いただけましたでしょうか、あの、僕の考えではですね、すぐ正式なガサ入れの書類を……」
「わかってるよ。佐古田さんが警察に突き出される前に早急に正式な調査を入れた方がいい。そうだよね?」
井上は尾沢の言葉を途中で遮った。尾沢は不安になる。自分の言葉が、奇妙に上滑りしている感覚に囚われた。
何か、抜けてる。大事なことが。そんな気がした。
「お疲れ。後は僕らに任せて休んでよ」
井上は尾沢の肩をぽんと叩いた。
「いえ、大丈夫です、僕も行きます……」
胃の辺りが気持ち悪くなったせいで、尾沢はまたしても詰まった声を出してしまう。
何だろう?足りないんだ、何が、足りない?
僕、何か言ってない事があったっけ?
「あ、」
この場に欠けたものに思い当たった尾沢は、自分より僅かに背の高い井上の頭を見つめた。
井上や支局長は触れなかった。尾沢が裏切って佐古田に付いた事にも、結果的には佐古田が正しかった事にも、一切触れていないのだ。当然、そういう話になっていいはずなのに。
「いや、君は休んでいなよ」
向けられた井上の茶色い瞳に尾沢は違和感を抱いた。ごくり、と喉を鳴らしてから尾沢は小さな声でもう一度言う。
「僕も行きます」
「いいや、君は休みだ、尾沢くん」
井上が首を横に振り、そして鶴岡に目配せする仕草に尾沢の背中の産毛がぞわりとなった。
「なぜです……?」
おかしいんだ、この人達から佐古田さんへの謝罪の言葉が出ないのはあり得る。でも裏切った僕への文句や嫌味の一つもないのは、有り得ない。
ああまさか、つまりそれが無いって事は、
「なぜって?だって君はもう明日からずっと休んでていいんだから」
そんな必要も無いって意味なのか
「冗談、でしょう……?」
尾沢は声を震わせた。無性に喉が渇いていた。
懲戒免職。要するに、クビ。
「冗談でも嘘でも無い。君はあまりに余計な事をし過ぎた」
井上の代わりに鶴岡が、支局長本人が答えた。
「裏切るだけならともかく、君のような小賢しい男があいつに加担したせいでこんなモノまで……」
言いながら鶴岡はパソコン画面をこつこつと弾く。
「佐古田の馬鹿だけだったら何とか封じられたのに。まったく驚いたよ……大卒の君がここまで間違いを犯すとはな」
まちがい
まちがい、だって?
尾沢は床の上にへたりこんだ。膝が震えて、どうしようもなかった。
そうだ、考えてみたら当然だ……知ってたんだ、この人達は水上社長の罪を知ってたんだ。
「……共犯……だったんですね、最初から」
尾沢は胃の気持ち悪さがだんだんと、熱に変わっていくのを感じていた。
「〈犯〉って、人聞きが悪いよ君。裏切ったりしなきゃあ尾沢くんにだって口止め料もワクチンも手配してやるつもりだったさ、ちゃんと、家族の分もね」
井上が、さらりと、まるで昨日のテレビ番組について話すみたいな音階で喋る。尾沢は言葉も無く歯噛みした。
考えが甘かった。
水上は金銭だけでなく事前にワクチンを渡す、つまりサリエラを撒かれても100%無事でいられる、という保証を餌にして管理局上層部を既に犯罪に加担させていたのである。
信じきれない。長いものに巻かれろ主義で生きてきた自分とて、あらゆる生き物がボロボロと死んでゆくようなウイルスをばらまくなどという大犯罪に協力するなんて、絶対しない。そう思ってから尾沢は、
いや、本当にそうだろうか?
とその考えを打ち消した。では誰が水上がウイルスを撒くのを止めるというのか。自分が、やるのか、それを?そんな度胸が、果たしてあるのか?
その問いに直面して、恐らく彼らは
無理だ
きっとそう思ったのだ。協力して、事前にワクチンを貰い絶対確実に生きられる道を選んだのだ。
尾沢は、もし同じ状況なら自分も同じ選択をするだろう事がよく分かって、情けない気持ちになった。
「僕がクビって事は、佐古田さんはどうなるんですか」
俯いたまま、尾沢は尋ねた。
「それはもう僕らの知った事じゃないよ。僕なんかはクスリでも打って狂人扱いで警察に突き出すのがベストだと思うけどね、社長がどうするかまでは」
肩をすくめた井上がおどけた語調でそう答えると、鶴岡が話を継いだ。
「クスリを打つまでもない。もともとアイツは、コレだ」
「ははっ!ですね、」
井上の笑い声は尾沢の両耳から、身体の深い所に浸透した。
胃の辺りが、熱い。
尾沢はようやく気付いた。
ああ、これもしかして僕、今、
尾沢の手はコーヒーカップを掴んでいた。
……頭にきてんだ、
珈琲をもろに顔にかぶった井上も、コーヒーカップを額にくらった鶴岡も、さっきまで後ろでニヤニヤと傍観していた局員連中までも。その場にいた全員が、一瞬、静まりかえった。その静寂が終わらぬうちに、いつになく細めた目に水分を湛えながら客用卓を蹴り飛ばした尾沢の口から、抑える事のできなくなった言葉が転がり出て来た。
「……ふざけんじゃないっすよクソッタレ……」
怒鳴りはしない、啜り泣くような言い方だったが、井上は冷たい表情で
「そっくりだな佐古田さんに。言葉遣いまで感化されたか」
と、洩らす。尾沢は泣きそうになったのを、口を尖らせて堪えた。
「アンタ達に、あの人を悪く言う資格があるんですか?」
尾沢はあくまでも相手にちゃんと言葉が聞こえるように、できるだけ内心の怒りを制御して話した。
「ラクな方、選んだんでしょ?あの人よりアンタ達の方がずっと、戦える立場にいたくせに」
鶴岡はふうっ、と鼻から息を吐き出し
「当然だ、誰だって……」
反論しようとしたが、井上が勝手に台詞を奪って続けてしまった。
「そう、誰だってそう。生存競争だぜ、これは。尾沢くんも今まで似たような選択しただろ?あの人みたく馬鹿正直なのは地球で生きていけない」
尾沢は井上を睨み付けた。
「そうですか……いいです、だったら……」
怒りの感情、理不尽なものへの反抗、譲りたくない部分、心の中のそういうものたちと、物理的な自分の身体の動きが一致したのは、尾沢にとってこれが生まれて初めての経験だったかもしれない。
「だったら、僕が佐古田さんを守ります!」
まず冷たい白い床、それから客用卓を踏み付けて、尾沢は奥のデスクのパソコンに向かって跳んだ。何をする気か最初に気付いた井上が叫ぶ。
「データを渡しちゃ駄目です!壊して!メモリースティックを壊すんですっ!」
見知った人事部長が素早くPCに手を伸ばす。その手に尾沢はかぶりついた。
「離せこらっ!」
「ウワッ噛み付きやがった」
もみ合っているうちに、すぐに警備員が駆け付け、尾沢を取り押さえる。
「こいつクビにされた腹いせに局内のデータを盗もうとしてね。このまま警察に連れてって欲しい」
「違うーっ!嘘だ、嘘だ、うそだっ!」
鶴岡の説明に尾沢は叫んだが聞き入れられなかった。警備員が尾沢の指を一本一本こじ開けて、メモリースティックを取り上げる。
「返せ!僕のだ、それは僕のなんです!」
メモリースティックは鶴岡の手に渡され、更に井上が、わざと尾沢に見える位置でミミナマウスの耳先が入ったカプセルを踏み潰した。
惜しかったな尾沢くん
井上の目がそう告げた。
証拠を奪還できる望みがなくなった事でおそらく尾沢は絶望し、抵抗をやめるだろう。井上はそう考えていた。確かに、破壊されたカプセルを見た瞬間、尾沢は絶望を感じた。しかしすぐに頭を上げると
「あっ」
尾沢は天井を振り仰いだ。レトロ趣味の尾沢と違い、警備員は二十世紀の漫画によくある手法を知らなかった。つられて上を向いた警備員は尾沢の体を床に押し付ける力をほんの一瞬、弱める。その隙をついて尾沢は匍匐前進の体制で警備員の手を逃れ、駆け出したのだ。
尾沢巧は、佐古田純三の「腰ぎんちゃく」である。井上は、そこのところを完全には理解していなかった。
大切な証拠を奪われ、破壊された。勿論それは尾沢にとって痛手である。己の無力さを悔いもした。それでも、じゃあもう無理だ。おしまいだ、と、諦めて警備員に捕まったなら、
佐古田さんはクスリを打たれて牢屋行きじゃないか!
尾沢はそれだけは絶対にさせない、と強く思った。さほど運動神経が良い訳でもない身体で、最大限の力を込めて床を蹴った。
「待てっ!」
背後に警備員が迫る。
もし神様とかいうものがいるんなら、どうか無事に逃がして下さい、佐古田さんを助けられるのは僕しかいないんだ!
祈りながら支局長室を飛び出た尾沢は神ではなく、別の者に出くわした。
扉の脇に立っていたその男の前を通り過ぎる時、尾沢は彼と目があう。
日吉さん……
カンヅメ飼育員、日吉修太郎はガイライ達の餌とカップラーメンを山ほど抱えていて。
「おっと」
尾沢の駆け抜けた後の廊下に、それをぶちまけた。
「うわぁっ、何を……」
警備員は、シーフードヌードルの容器を踏み割って激しく転倒した。
「おや、すまんねぇ。やっちゃった。ジジイなもんでゴメンなさいよ」
わざとらしく老人ぶった日吉の声にかぶって井上が
「ま、待て尾沢くんっ!まだ間に合う、行くんじゃない!取引だ、取引しよう……」
と怒鳴るのは聞こえていたが、尾沢の足がそれで止まるはずもない。振り返っている暇は無く、また、礼を言えば逆に迷惑がかかる事を承知していた尾沢は、ひたすらに走りながら、日吉の気持ちを思った。
絶妙のタイミングは、計算。尾沢が一人で局に駆け込んで来た時点で、日吉は佐古田に何かあった事を察していたに違いない。
あの子、
日吉は佐古田のことを慈しむような発音でそう呼んだ。
そして搬入口から、前に停めたエレキングに転がり込みながら、尾沢も。
あの古い、猫型ロボット漫画に出てくるキツネ目の腰ぎんちゃくは、なぜずっと同じガキ大将の腰ぎんちゃくであり続けたか?井上や鶴岡には決してわかるまい。
と、アクセルに力を込めた。
一方その頃、奥多摩にある水上の私設研究所、普段は倉庫として使用されている一室では、奇妙な勝負が行われていた。
「じゃあ次の問題です。セイタカアワダチソウの地下茎から分泌される……」
植物図鑑を開いた水上の部下が、問題を読み終える前に、椅子に縛られた格好の佐古田は即答した。
「あァ、DMEだろ」
「はやっ!」
出題した部下が正解、と言いかけるのを久留米が遮った。
「ま、待て!略号じゃなく正式名称で答えなきゃ私は認めないっ!」
「シス・デヒドロ・マトリカリア・エステル。てめえ何でこんな事すら知らねーんだ?勝負になんねーな」
淀みない佐古田の答えに久留米が
「あああ……何で!?」
と頭を抱えた。
そもそも何故こんな事になったか。発端は、サリエラが地球環境に与える影響について佐古田が、久留米ら水上の部下全員を
「無知、脳がスポンジ。生物学のせの字も知らねえ馬鹿ども」
と罵倒した事にあった。
地球生物学の権威とされる大学を卒業し、IBO(国際生物学オリンピック)で入賞した経験もある久留米には、「君の豊富な地球生物学の知識をまだまだ未開な宇宙生物学の分野に応用して欲しい」と言われ、ギャラクシーファームに入社してきたプライドがある。例え今はクビ寸前であろうとも。
佐古田の罵声に煽られ、地球生物学なら負けない、と、つい口走ってしまった事を久留米は後悔した。
「も、もう1問、もう1問だけ……動物だ、動物で出してくれ」
という久留米の願いに応じて今度は水生動物の本を開き、部下の1人が出題した問題。
「ウニ類の幼生の……」
「エキノプルテウス幼生っ!」
叫んだ久留米を部下が押し止めた。
「まだです。ウニ類の幼生の他に、ブンブク類の幼生もエキノプルテウス幼生と呼ばれますが、この2つの幼生の違いは何でしょう」
「……え、」
久留米が一瞬固まったのを横目で眺めて、うんざりした様子で佐古田が言った。
「傘みてェに腕が幾つもあるのは同じだがな、ブンブクにはケツ側にも1本腕があんだよ、わかったか?大卒」
「ば、馬鹿にしやがって……」
久留米は呻いた。
「…馬鹿にしやがって……わかってるのか?お前、今、縛られてるんだぞ、」
久留米は漸く自分の使命を思い出し、威圧的な態度を取り戻すと佐古田の縛られた椅子の脚を、カーテンレールのような長い棒で払った。当然、椅子は佐古田ごと床に横倒しになる。
「いってェな、クソッ……馬鹿のくせに調子こいてくだらねークイズ大会なんざ始めたのはテメエだろうが。大体よォ、地球生物学かじってて何でてめえは水上を止めねーんだよ!腰抜けがっ」
床の上から吐き出した佐古田の言葉は久留米の痛い所を突いた。
「うるっさい!お前に何がわかる!」
久留米は苦悩をごまかすかのようにカーテンレールで床をパシンッと打った。
久留米。久留米忠洋は、後退した額のせいでだいぶ老けて見えるが、実際は38歳である。ギャラクシーファームに入社して十年。 入社当時は、夢も理想もちゃんとあった。
地球生物学を学んだ身でガイライ企業に就職する。
その選択そのものに彼の夢は託されていた筈だった。例えば、他惑星産の動物によって地球の生態系を補う事は可能だろうか、或いは他惑星の似た性質を持つ生物を母胎にして、滅びた地球生物を復活させられないだろうか、そういった構想を胸に抱いて働き始めたはずだったのだ。
だが十年の間に、それらは頭から消え去ってしまった。やらなければならない事をこなし、クビにならぬようおべっかを使う毎日。久留米は諦めた。大切な物を。
サリエラウイルスを使った計画に久留米の心は無論、反対を叫んでいた。けれども、それを口にしたらクビになる。乗り気でなくとも仕事はこなさなければならない。
知らぬ間に、後戻りなどできなくなっていた。
腰抜け。
あまりにその通りの事を言われて、久留米は傷ついた。そんな事は己が一番よくわかっている。
「うるさいんだ畜生っ、だったら止めてみろよお前が!縛られてるくせに大層な事を言うな!」
久留米は椅子と佐古田を目茶苦茶に蹴りつけた。だが彼が本当に蹴りたかったのは、大好きだったはずのこの星の生き物を殺す計画に手を貸している、卑劣な腰抜けの自分、だった。
「久留米さん!あんまりやり過ぎると警察への説明が面倒ですから!」
部下に止められ、久留米は肩で息をしながら引き下がる。
「お、お前なんかに言われなくても、もう……とっくに、」
血混じりに噎せ込む佐古田を見下ろし、久留米は呟いた。
「……とっくに、終わってるんだ私は」
そうして、僅かな良心のせいか無意識に佐古田の椅子を起こすと、部下に
「警察に、連絡してくる」
と、告げて部屋を出た。
耳に当てた携帯電話。発信中を示す高い電子音に紛れて、低くうなるような音が聞こえて。
おかしいな
携帯を一度耳から離した久留米は、低い音は外からのものだと気づいた。
ギャロロロロ、という怪獣じみたエレキングの低いエンジン音の振動を骨盤に感じながら、尾沢はブレーキを踏まぬように右足を律して、研究所の入口のガラス窓に
「ウワ〜こわいこわい怖い怖い……怖、いっ!」
突っ込んだ。鼓膜も裂けんばかりの音量で砕け散った硝子がキラキラ降り注ぐ中を通過して、エレキングの黒い車体は呆然と立ち尽くす久留米の前に斜めに横付けた。
「こ、こらー……宇宙生物管理局の強制監査ですよっ」
多少及び腰になりながらも、尾沢は声を振り絞る。
「強制監査だって……?ば、馬鹿な、」
そう小さく呟いた久留米の背後の扉が開いていて。尾沢は一も二も無く飛び込んだ。
「お静かにー!宇宙生物管理法、第二十一条、各管理局は宇宙生物を扱う企業及び個人に対し、本法に著しく違反している可能性が認められる場合に限って、強制的に監査を行う権利を有する。とゆう訳なんで、ご協力お願いしまっす!」
本法、著しく、権利を有する、といった整然とした単語の力を楯にして尾沢はほんの少しの間、久留米や部下たちの動きを止める事に成功した。
「佐古田さんっ」
尾沢の呼びかけに、倉庫部屋の隅の佐古田の頭が驚いたように持ち上がった。眼鏡のレンズの片方にひびが入り、両足は椅子の前脚に、両腕は後ろ手に背もたれに括りつけられている。
「……尾沢、」
ヒュルヒュルとひっかかるような浅い呼吸をしながら尾沢を見上げた佐古田が
「どうなった……?上は、動いたのか?」
と尋ねた。尾沢はどう答えていいかわからず、無性に悲しくなった。
「う、あの……」
口をパクパクさせながら、とにかく佐古田を車まで連れてゆこうと椅子ごと引きずる。しかし扉の前に研究員の1人が立ち塞がった。
「ちょっと、お待ち下さい、アナタ少し怪しいな……監査許可証は出ているんですよね?見せてもらえます?」
「い……嫌だな、ありますよ。ほら」
尾沢は一瞬だけ小さな白い紙切れを摘んで見せると、すぐに懐にしまい込んだ。
「いやいや、冗談やめましょうよ」
研究員の笑顔は引き攣っている。
「いやいや、急いでるんで」
尾沢も冷汗を浮かべた作り笑いで返すが
「いやいやいや、」
ごまかせない。仕方なく、尾沢は懐からやけに細かく折り畳んだ紙切れを取り出して手渡すと。研究員が幾層もの折目を開けている間にするりと脇を駆け抜けた。
「ちょっとアナタ、待っ……、え?」
蔵の町本舗・お中元
書かれた文字の明らかになった紙を研究員が
「これギフトセットの申込書じゃないか!」
と叫んで打ち捨てた時、既に尾沢はつるつるの床素材に佐古田の椅子を滑らせて、廊下に停めた車に到着したところだった。
「す、すみません、後で直すんでちょっとだけ我慢して下さい」
急いで助手席に詰め込んでしまったため、逆さまになってしまった椅子つきの佐古田に謝って、運転席に回り込んだ尾沢は、それに対して佐古田が何の罵声も飛ばさないのを不安に感じた。
そういえばさっきから、あまりにおとなしい。キーを回しながら尾沢は
「大丈夫ですか?」
左手で椅子を揺さぶってみた。
「……何がだよ……早く出せよ、車…」
億劫そうにそう言った佐古田は、よく見ると至る所、青痣だらけで。
「ちょっとこれ……どうしたんです!」
尾沢が息を飲んだのと同時に、車が揺れた。
揺れの原因は、エレキングの屋根に飛び乗った番犬、クレーグ鉱石生物。フロントガラスに垂らした黒光りする尻尾がふらふら左右に動いている。その鉱石生物に久留米が大声で命じた。
「よし、ペス、キャッチ!」
鉱石生物ペスは
ろおん、
と、ひと鳴きするとガラスの入っていない窓から車内に触手を伸ばしてきた。ひどいネーミングセンスに突っ込んでる余裕は無い、尾沢はすかさず座席の下から紙袋を取り出す。
ロンちゃん(鉱石生物の愛称)大好き!ペティグリーストーン。
鉱石生物の餌である。
「はいペスごはんですよ~っ」
尾沢は窓から身を乗り出してペティグリストーンをばらまいた。
軽い層状になった紫の石が突然降り注ぎ、ペスは首を傾げる。
ふしぎ。
わたしまだ「きゃっち」をしていないのに、おやつがでてきたわ?
車から触手を抜いたペスの6つの瞳は、ペティグリーストーンにくぎづけになっていた。
「ペス食べるな!キャッチしてから。してからだッ」
久留米はそう言ったが、ペスの耳には届かない。
いいにおい、この石食べたことないな。食べたいわ。今すぐたべたい。
そこでペスはやっと久留米を振り向いた。
「そうだペス、キャッチしてからだぞ!」
久留米がそう言うとペスは短く、ろん!と吠えた。
ううん。わたし食べてからにする!
そういう意味の鳴き声だった。
ボンネットをたわませ車の上から降りたペスが、床のペティグリーストーンを掃除機のように吸引し始めるや否や、エレキングが急発進する。
「ああっ!畜生っ!」
久留米はすぐに、玄関口の防犯シャッターを下げようと壁面のレバーに手をかけたが、何故だか、力を込めることが出来なかった。
いや、出来なかったと言うよりも、「しなかった」のだ。
「何やってるんですか久留米さん!」
慌てた研究員が久留米の手ごとレバーを押し下げるが、黒い電気自動車は砂煙を上げてガラスの無い大窓を出て行った後だった。
「どうして!」
別の研究員に肩を掴まれた久留米は、判らない、と、ただ首を振った。自分の行いに最も驚いていたのは、外ならぬ久留米自身だった。
「……何してんだ?私は」
走り去るエレキングのエンジン音と、それを追い掛けようと駐車場に駆けていく研究員達の足音を聴きながら久留米は呟いた。
ああ、クビだな、これで完全に。
「クビだよ、ペス」
ペスはペティグリーストーンを口に含んでほんの少しだけ久留米に一瞥をくれた。
「駄目だ、タイヤに穴があけられてる!」
「本社に連絡だ!」
外からそんな声が聞こえてきたが久留米の耳に入ってきたのはそれではなく、山の、夜の、鳥の声だった。
あ、アオバズクだ……。
久留米はぼんやりと、頭の中にアオバズクの精悍な姿を思い描く。目を閉じる。
一番、好きな鳥だ。
ラボの喧騒の中、久留米はいつまでもその声を聴いていた。




