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19:カース・オブ・フルムーン


Number 019

カース・オブ・フルムーン


 天井のカメラがそっぽを向いた瞬間を狙って、よく磨かれた無機質な床の上を大きな段ボール箱が駆け抜けた。

「遅ェんだよ、馬鹿!たらたら走りやがって。お前には泥棒の素質がねえ」

 ステンレスのロッカーの陰に隠れた途端、箱の中でそう囁いた佐古田に尾沢は、

 そんな素質べつに無くていいし、僕が言わなければ監視カメラの存在すら思いつかなかったアナタに言われたくない……

 という複雑な感情を抱いたが、その文句は口に出す前に、床を通じて感じた硬い靴音の振動に凍り付いた。

「……!」

 だれかきましたよう!

 声には出さずに尾沢が佐古田の背中を突くと、微かに舌打ちが返ってきた。箱の中で身を硬くしながら尾沢は、見つかった時のための言い訳を頭の中で練習する。許可をとってあるかどうかは隠しておき、慌てる事なく身分証明書を見せ付け、こう言えばいい、

 失礼。宇宙生物管理局・衛生課の者です。監査中ですのでお静かに願います。優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さ……

 全然だめだ。

 震えを止めるため、そっと、箱の側面に肘が触れぬように尾沢は膝を抱えた。青白い蛍光灯の光が覗き穴から僅かに箱の中を照らし、佐古田が左手をゆっくり開いたり閉じたりする様が尾沢の目に映る。見つかったら殴り倒す気でいるに違いなかった。

 靴音が立ち止まる。

「んーん、んっんん~」

 鼻歌、ロッカーを開ける金属音、きぬ擦れ。息を殺してじっとする段ボールを気にする事なく、足音の主は着替えをしているようだ。「七つの栄養スペースフード」の段ボール一枚を隔ててすぐ傍では、半開きの口から尖った歯を覗かせる佐古田が、少しでも箱に触れたら先制でぶっ殺す、という殺気を濃縮させているのにも関わらず。

 再び、耳障りな金属音。足音が離れてゆく。自動ドアーの開閉による振動が伝わって更に十秒ほど経過した時点で、ようやく二人は息を吐き出す。

「な、殴るつもりだったでしょ佐古田さん……」

 尾沢の言葉に佐古田は、

「何で判る?」

 と眉をひそめた。

 佐古田と尾沢は足音の主がやってきた方角に向かって慎重に歩を進めた。先に立って箱の取っ手から目を出している佐古田と違って尾沢のポジションからは外の様子が判らない。耳を澄ますと換気孔から空気の出入りする音がよく聞こえて、そういう微かなものに神経を敏感にしていると、まるで自分が動物になったような不思議な気分だった。足音のせいで速まっていた尾沢の鼓動がゆっくりになって来た頃、

「たいていの生き物は秘密を地面に埋める」

 そう呟いた佐古田が箱の上面の蓋から頭を覗かせたので、尾沢も後ろからヒョコリと目元まで顔を外に出してみた。

 地下に続く階段。

 蛍光灯の明かりが届かない下の方は薄暗く、よく見えない。換気孔のような音がしているのも階段の先からだ。佐古田が秘密の匂いを嗅ぎ取った理由は尾沢にもよく分かった。

「ああー……こっれは、怪しい、ですね」

「だろ。するだろ、ケモノ臭」

 佐古田が眉間にシワをよせて言った通り、尾沢もケモノ臭い匂いを感じた。それがミミナ草食動物のものかどうかまでは同定できなくとも、日吉が様々な生き物の世話をする、あのカンヅメにも漂う、一種独特のまろやかな香りが、この地下から流れているのは確かだ。だが生物がいるにしては妙に、

 静かすぎる。

 箱を脱ぎ捨てた佐古田が五段飛ばしで階段を駆け降りた。

「ちょ、待っ……」

 箱を抱えた尾沢も急いで後を追う。背後から射す上階の青い光によって二人の影は、やけに泥棒らしく長く伸びている。その影に数歩遅れで足を踏み入れた地下室で、まず尾沢の目に飛び込んで来たのは、白い檻。清潔そうな。しかし中にはやはり、生き物の姿は無かった。格子の隙間から佐古田が手を突っ込んで、檻の色よりも有機的にクリームがかった白い毛を掴んで振り返る。

「毛根に金色の角質がついてる。こいつはミミナ草食マウスのものだ」

 言われて尾沢が覗いた檻の床には、同じ毛が大量に落ちていた。

 尋常でない量の抜け毛が散乱している以外の点では、その白い檻は一見完璧だった。広さはミミナ草食マウスの成体が充分走り回れるほどであるし、加えて設備がすごい。動物が近付くと反応して自動で水の出るセンサー付き水道。ビロードのクッション、幾つも。破けてはいたが、綺麗な赤い、人のものより高級そうな布団。地球の、猫が遊ぶような玩具がたくさん。それから、壊さないように透明なアクリル板で保護されたテレビまで完備されていた。

「うちよりいいテレビ……」

 気付かなくてもよい箇所に目が行ってしまった尾沢は少し卑屈な気分になる。佐古田は苦々しげに、けっ、と檻を睨みつけた。

「くだらねえ。テレビよりシダ入れろ馬鹿がっ。こういうクソみたいな設備が何の……」

 小声で高級設備を斬って捨てていた佐古田の文句は、廊下の更に奥の円形になったスペースを見遣った途端に中断した。

「……あ、」

 ど近眼の佐古田より尾沢の方が先に、気付いた。

「死骸だ」

 丸いスペースの真ん中には、学校の理科室にあるような固定式の大きな机。その上に、冷凍ケースに保存されたミミナ草食マウスの死骸が無造作に置いてある。透明なケースの側面にぴったり張り付いた長い尾は、死骸が成熟した個体である事を示していた。上着のポケットから出した手袋を嵌め、佐古田は慎重にケースを開く。

 妊娠経験のある成体、メス。外傷は無い。だが自然死するには若すぎる。

 佐古田は無表情でそう判定し

「……サンプルを取っておく必要がある。悪ィな」

 内ポケットから小さなサンプルケースとカッターを取り出すと死骸の耳の先を切り取ってしまい込んだ。

「研究の過程で死んだんでしょうか……」

 尾沢は、カンヅメの生物たちを見る時と同じ、やる瀬ない気持ちで死骸を眺めた。

「知るか」

 と答えた佐古田の声質が投げやりに聞こえても、それは冷静でいるために感情を殺そうと努めているせいなのだと尾沢はもう知っている。だからその時上司がどんな表情だったのか、わざわざ見たりはしなかった。

「足りねえな証拠が。あるはずだ、もっとなんか……決定的な……」

 ブツブツと呟きながら佐古田は引き出しを開けたり、顔をくっつけんばかりにして書類を見たり、外見の悪漢ぶりも相俟ってさながら本職の泥棒のようであった。その手元を後ろからひやひやしながら覗き込んでいた尾沢は、

「おい、そっちにコンピューターみてーなのあんだろ、探れ」

 と、頭を叩かれて慌てて佐古田の指し示したパソコンに駆け寄った。机を貫くようにして生えている太い柱に電灯のスイッチがあったけれども、それは押さずに、暗い中で尾沢はPCの起動ボタンを見つけた。画面の青い明かりがブゥン、と辺りを照らす。

 パスワードを入力してください

 無駄のない、すらっとしたフォルムのパソコンの画面に、そう表示が出た。カーソルがチカチカと瞬く。尾沢の脳裏に二十世紀の古いスパイ映画の音楽が流れた。

「パスワード……パスワードなんかわかるわけないって……無理ですよこれ」

 尾沢はとりあえず「galaxy」と打ち込んでみたが

 パスワードが違います

 と弾かれた。

 だよなーそんな簡単なはずない。

「僕、ハッキングなんかできませんよおお」

 振り返って小声で泣きついたが、佐古田は顕微鏡写真のようなものに見入っていて返事をしない。

 映画ならこうしてパスワードを試してる時、警備員が来るんだ……

 尾沢の脈は再び速まる。

 mimina

 ……駄目だ。

 mizukami

 ……これも駄目。てか、僕、発想乏し過ぎなんだけど!

「えと……他に何がある?ああ、駄目か」

 焦りながらもなるたけ静かにキーボードを押し続ける尾沢の背後から。ぽつり、と佐古田が口を挟んだ。

「屋久島……」

「え?」

 肩越しに見ると、佐古田はぼんやりした顔でまだ顕微鏡写真に眼鏡をくっつけていた。

「何ですか?パスワードですか、今の」

 尋ねてもまた返事が無い。尾沢は駄目もとでその単語を入力してみた。

 これが駄目だったらもう諦めよう。

 yakushima

 エンターキーを柔らかく押し込む。すると、

「うっ……そ」

 洒落た色彩のデスクトップ画面が現れた。彩度を抑えたレトロ調のファイルフォルダが数個並ぶ画面。背景画像には同じくレトロ調に仕上げたギャラクシーファームのロゴが使われている。

「えぇなんで!?」

 あくまでも囁き声で驚愕した尾沢は、佐古田の袖を引っ張った。

「開きましたよ!ほら!何でわかったんです?まさか、その写真に書いてあっ……」

 尾沢は言いかけた台詞を飲み込んだ。佐古田の様子が妙だったからである。一言も口を利かない。額には、一筋の脂汗。

「ど、どうかしたんですか」

「……尾沢」

 佐古田はかすれた声で部下の名を呼んだ。

「はい?」

「……俺は画面を見ない。お前がファイルを開けて……何を見たか、言え」

「僕あんまり専門的な事はわからないですけど、いいんですか?自分で見たほうが……」

 躊躇う尾沢に、佐古田は棒読みで

「いいから、言われた通り、やれ」

 と返すと、くるりと後ろを向いてしまった。

「……はい」

 一体どうしたと言うのだろう?

 尾沢はマウスを静かに動かしながら、チラリと横目に上司の姿を映し込んだ。硬い印画紙にプリントされた顕微鏡写真が、佐古田の左手の中で握り潰され、くしゃくしゃになっている。尾沢は以前佐古田が、管理局に来た水上に襲いかかった時の事を思い出す。水上への異常な怒りと執着が、この男を無口にさせる事を尾沢は既に学習していた。

 何から調べればいいか見当のつかなかった尾沢は、とりあえず一番上のフォルダ内にあった「血中濃度記録」と題されたファイルを開いてみる。折れ線グラフだ。尾沢にはさっぱり意味がわからなかったが、とにかくも声に出して報告する。

「えーと……多分、横軸が時間ですね、で、ピンクの線は数値が右上がりになって終わってるのに対して、青い線は途中でがくんと下がってます。それ以降はゼロに近いままで横這いです」

「何の数値がだ」

 問われて尾沢は自信なさ気に、

「ば……バエル数値、って書いてあるんですけど、……なんでしたっけ?」

 と質問に質問で答えた。何となく、大学で聞いた事のある語のような気がしたのである。佐古田は尾沢ともパソコン画面とも目を合わさないまま暗い小声で解説した。

「バエル数値ってのは、全体の赤血球のうち、サリエラ熱病ウイルスに侵された赤血球の割合だ……大学で習わなかったのか?」

「サリエラ……習ったような気もするんですが」

 大学で宇宙生物分類学を専攻していた癖に判らなかった尾沢は、知識の深い佐古田に頭が上がらず、しおしおと背を曲げて次のファイルを開きにかかる。

「重要項目として教えてねえのか……クソッタレ」

 勢いの無い佐古田の罵声を背後に浴びながら、尾沢は画面に現れた図解を目にして思わず

「あ……」

 と声を上げた。

 知ってる、これ。

 図示されたアメーバ状の物体と、その横に線を引いて拡大されたダイヤモンドのようなもの。注釈、摂氏40度で活性化。

「この図は僕でも判ります。これ、有名な……」

 言葉の途中で尾沢は気付いた。

 あ、パスワード。

「屋久島事件の、カイゼルトカゲに寄生してたウイルスですよね確か、ええと……」

「サリエラ熱病ウイルスだ。さっき言ったただろうが」

 先に佐古田に答えられ、尾沢は耳を赤くする。

「そ、そうそう……それが、これでした。よかった思い出した」

「全然よくねえ!あと指示代名詞連続やめろ……あァ、クソッ……水上の馬鹿、サリエラを何に使ってる!」

 佐古田は頭を抱えるような体勢で怒りを封じていた。

 サリエラ熱病ウイルスは摂氏40度で活動する。あまり好きでは無かった宇宙菌類学の教授のだみ声が尾沢の記憶から引き出された。屋久島事件そのものは中学の歴史で習うが、教科書にはウイルスの名や特性までは記載されていない。簡素にこう書かれている。


 2XXX年。業者によって廃棄されたカイゼル星産トカゲが屋久島で繁殖し、トカゲの持つウイルスによって同島は壊滅的な被害を受けた。翌年、政府は宇宙生物管理法を制定し、国内の宇宙生物の完全管理を義務付けた。


 そして大概、消毒された無残な島の写真が添えられている。尾沢はその写真に背筋が寒くなった感覚を少し思い出した。

 屋久島事件のウイルスについてこんなに調べて、水上社長は何をしてるんだろう?

 薄ら寒い心地になった尾沢は早くここから立ち去りたくなって次々にファイルを開いた。

「こっちのファイルは両方とも画像です。電顕写真かな……何だかよく判りません」

「役立たずが!てめー何のために脳みそついてんだよくそっ……」

 という佐古田に頭を下げつつも少々苛ついた尾沢は抗議してみる。

「ご、ごめんなさい……ていうか、何で自分で見ないんです?こんな事やってたらそのうち誰か来ますよ」

「くっ、仕方ねえ……」

 大きく溜息をついた佐古田は、真顔で宣言した。

「俺がPCぶっ壊しそうになったら止めろ。分かったな」

 尾沢は廊下と、奥の電気系統制御室らしき扉をちらちら気にしながら、佐古田の命ずるまま機械的にファイルを閉じたり開いたりを繰り返した。そっちの上のヤツ、だの、赤いフラグのそれ押せ、だのしか言わなくなった佐古田は段々と紙のような顔色になっていき、目玉だけをぎらつかせ、時折

「くっ……殺す、絶対殺す」

 などと呟くので尾沢は神経がまいってしまいそうになる。そうして、とうとう、「スケジュール/概算」というタイトルの付いた書類をクリックした時、それは起こった。

「うわっ!ちょ……」

 尾沢は、佐古田がチクショウだのクソッタレだの言ってから事を起こすと思っていたのでひどく慌てた。無言で手近な丸椅子を振り上げた佐古田の両腕を正面からなんとか押さえ、

「ストップ佐古田さんスト〜ップ!証拠を破壊しない!証拠っ、これ!」

 半泣きで制止する。

「……」

 ゼイゼイと呼吸を乱してはいたが、ややあって漸く椅子を降ろした佐古田は床に体育座りになると、膝と腕の中に頭を沈めた。静かなうちに、と思い付いて尾沢は急ぎ携帯のメモリースティックをPCに差し込み、データのコピーを開始しておく事にした。

 データコピー中……

 画面を確認して振り返ると上司はまだ、じっとしている。

「佐古田さん……」

「……ああ……やんねえと……」

 佐古田はそう呻いて腰を上げた。

「判ったんですか?水上社長が何をしてるのか」

「……ああ」

落ち着いたと言うより、疲れ果てている。尾沢の目に佐古田の姿はそんなふうに映った。

「あいつ……ミミナを使って屋久島の事件を再現するつもりだ……」

 のこぎりを挽くような声で佐古田が答える。

「再現?」

 尾沢にはいまいちピンとこない。屋久島でサリエラウイルスを媒介したのは。ミミナ星の生き物ではない。砂漠の惑星、カイゼルのトカゲなのだ。

「サリエラみたいに凶悪なウイルスが、ミミナ星にいましたっけ?」

 尾沢の問いに佐古田は首を振り、そして意味深な台詞を吐いた。

「あの星は、目に見えないもの方が多い」

 一般に、ミミナ星はシダとコケとキノコばかりの星だと思われている。しかし実際には、数も種類もそれらを大きく上回る生き物がミミナを支配していた。細菌、ウイルスの類である。

「肉眼では見えないが、ミミナ星は細菌ウイルスだらけだ。どこにだっている。地球の倍以上いるんだ。特にミミナ草食動物は体内に、大量に細菌とウイルスを飼っていて……」

 そこで佐古田は口惜しそうに下を向いて息を吐いたので、尾沢は空いた隙間に言葉を挟んだ。

「つまり、その中の1種が、気付かれなかっただけで実はサリエラ並に危険なやつだったと。そういう事ですか?」

「いいや。無害だ。だからまずいんだ」

 屋久島事件以降、他惑星から持ち込まれる生物には厳重な検査がなされていて、現在までミミナ草食動物の身体から有害な細菌やウイルスは発見されていない。

「新たに発見したのでないとしたら、じゃあ……」

 尾沢はPCを振り返ると先ほど開いたままになっていたファイルの一つを注視した。色分けされ、長く長く羅列された2つの遺伝子情報。

「右がサリエラの遺伝子配列。左はミミナマウスの体内に住んでるウイルスの遺伝子だ。そっくりだけどな……左は、無害だ」

 佐古田が解説を加えた。

「ミミナ生物の体内でもサリエラが飼える可能性はある。改良すれば」

 そして水上は、改良に成功したのだった。

「で、でもそんな事をして何の意味があるんです!?」

 困惑した尾沢が詰め寄ると佐古田は、

「マウスの体内で新型サリエラを飼うって事はだ、尾沢。そのマウスからはワクチンがとれるって事だぜ。……人間に詳しいお前ならわかるだろ」

 と、顎でPCを指した。

「ら……、」

 尾沢はピンときて、直感的に例のスケジュール/概算ファイルをクリックする。

 表計算のファイルを見て尾沢は絶句した。

 計算してあったのだ。どのタイミングでワクチンを市場に出せば最も利益が出るか。

「……信じられない」

「偶然の類似性までは有り得る。それに気付いたのが、あいつだって事が最悪なんだ……くそっ……」

 佐古田は拳を握り締める。あまりの事に腰が抜けそうになった尾沢は、机に体重を預けた。執拗に水上を敵視し続けていた佐古田が、結果的には正しかったのだ。井上や支局長らはどう思うだろう。

「佐古田さんは、水上社長が怪しいって知ってたんですか?」

 尾沢の質問と同時にチチッと音をたてて、PCが「残り10%」と表示した。佐古田はそれに目を遣りながら。

「お前の世代じゃ、屋久島事件を引き起こした会社の名前も知らねえだろうな」

「?……知りません。てか、教科書とかにもあんまり企業名出てきませんよね」

「水上空産。社長は、あいつの親父だ」

「は!?」

 尾沢はパチクリと目を瞬かせた。

 屋久島事件があったのは25年も昔。当時まだ生まれていない尾沢は、事件と水上秋月の接点など考えもしなかった。事実そのものにも驚愕したが、それより何よりあれほど悲惨な出来事を引き起こした親の失敗を、また意図的に繰り返す水上秋月の心情が尾沢には解りかねた。

 僕なら、そもそもガイライ産業とは縁もゆかりも無い職を選ぶ。あの過ちを逆に利用しようとするなんて、大胆どころじゃない、どうかしてる。

 尾沢はテレビで見た水上秋月の笑顔を思い出してぞっとした。

 怖い。

 秋月も、佐古田とは違う意味で、強烈に何かに突き動かされている人間なのかも知れなかった。


 コピー完了を知らせるマークがPCに現れる。素早くメモリースティックを抜いた尾沢が、

「終わりました、早いとこ逃げましょう」

 と責っ付くと、佐古田は頷いて歩き出しかけたが、ふと立ち止まり、

「……充分か?証拠は、それで」

 神経質に眼鏡を押し上げながらそう言った。

「やってる事がやってる事ですから!これ見て何の捜査もしないなら犯罪だと思いますよ」

 答えて尾沢は、段ボール箱を持ち上げる。何の躊躇もなくその下に滑り込んで来た佐古田は

「絶対だな?これで、止められるな?あいつを」

 もう一度聞いた。言葉の中に何か、怒りとは別の感情が混じるのを尾沢は敏感に察知したが、何か言葉を思いつく前に上司は歩き出していた。

 廊下の蛍光灯に代わって非常灯と思しきオレンジの光が箱の隙間から漏れてくる。研究員たちはもう帰宅したのかもしれない。尾沢は希望的観測で心を紛らわせた。小市民の尾沢にはあまりに荷が重い。ここで捕まってせっかくの証拠を奪われれば、人間も含め屋久島の動植物をほぼ全滅させたサリエラウイルスが、もう一度地上にばらまかれる事になるかもしれないのだ。時間の経過とともに、その恐怖は尾沢の中で膨らみ、リアルさを増していった。それでも、尾沢が叫び声を上げたり気を失ったりせずに済んでいたのは、方向を定めて箱を押し進める佐古田が前にいたからだった。

 通路の最後の角を曲がる。小走りでちょかちょかと一直線に、侵入ってきた裏窓にたどり着くと佐古田は箱をぽん、と窓の外に放り出した。空気の流れがぱっと肺に流れ込み、辺りに何の人影も無いのを見て尾沢はほんの少し元気が出る。

「ああ……何とか、逃げ切れそうですね。よかった、後はもう……」

 しかし佐古田は神経を尖らせてギョロリと目玉を動かす。

「馬鹿、ボヤボヤしてんな。窓に上がれ」

「いたっ……はい」

 ぺっ、と頭を叩かれた尾沢が窓に足をかけたそのタイミングで。佐古田が、

「あ」

 と声を上げた。尾沢は背後に、何かが上から下に風を切る気配を感じた。

 背中ごしの激しい揺れ。尾沢は驚いてバランスを崩し、そのまま前のめりに窓の外へと転がり落ちた。息が止まるような一瞬を経てコンクリートにぶつかる。肘を擦りむいてしまったがそれには構わず、尾沢は慌てて窓の内側を振り返った。

「何ですか!いまの……」

 残りの言葉は喉の奥に詰まって出なかった。窓枠を隔てた向こう側の、絵のような光景は

「あ、あ……そんな……」

 天井から、黒くキラキラと輝く巨大な生物が吊り下がっている。尾沢にも見覚えがあった。セレブの間で番犬として人気のある、惑星クレーグの鉱石生物。その、硬い宝石に覆われた触手が佐古田の枯れ枝のような身体を掴んでいた。

 体長約1.5メートル。クレーグの鉱石生物は、二本の長い触手を持ち、クレーグブラックと呼ばれる美しい鉱物に体表を保護されている。力は強いが肉食でないため比較的調教が容易で、犬に代わる存在として売れ筋のガイライ生物である。その優美な長い触手でぐるぐる巻きにされた佐古田は、何とか片腕を捻り出すと、呆然と立ち尽くす窓の外の尾沢に向けて小さなケースを投げ付けた。ミミナマウスの耳が入ったケースである。

「さ、……」

 尾沢はケースを受け取り、ふやけた目で上司を見つめた。佐古田の絞り出した言葉が尾沢の胸に突き刺さる。

「おい……やること……ちゃんとわかってんだろうな?」

 尾沢は「やるべきこと」を解っていた。

 僕だけ、局に行けって言うんですか?でも、そしたらあなたは……

 尾沢の脳裏に真佐美の言葉が浮かぶ。

 あの子を死なせちゃ駄目

 けれどそこに被さるように日吉の顔も現れた。

 ……助けになってやって欲しい

「何迷ってんだ……ぶっ殺すぞこの野郎……」

 佐古田がか細い声で罵る。

「だって、僕、置いてくなんて、そんな」

「ざっけんな馬鹿!ど低脳!ゴミ!チンカス!お、まえ、が行かなかったら……どんだけ生き物が……ああ……」

 一旦息をつき

「尾沢……頼むから、」

 そう佐古田が言った途端、ろろ~ん、と鉱石生物がいなないた。反応した警報機が、鳴り出す。

 自分でも気付かないうちに尾沢の両足は、警報機のベルに追われたこまねずみみたく、夜の闇の中を駆け出していた。暑くも寒くもない空気を裂いて、一体これまで自分はここまで速く走った事があっただろうか?という速度で尾沢はまっしぐらにエレキングを目指した。

 はやく

 ああ

 置いてきた

 管理局

 サリエラ サリエラウイルス

 佐古田さん

 どうして

 ああ

 生き物が

 しぬ

 脳の部分部分がバラバラに思考して、それで総合的に自分が何を決断したのかよく理解しないまま、尾沢は車に乗り込み、震える手でキーを回した。助手席には誰もいない。ひとりでやらなければ、ならないのだ。


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