17:セカンドプラン
Number 017
セカンドプラン
テーブルの下、膝の上で両手を組み、尾沢は考え込んでいた。向かい側では佐古田が、東風商人独特の偽中国風の彫りの入った木椅子を傾けて眉間に皺を寄せている。
「へい杏仁おふたつっ」
店主が運んで来た杏仁豆腐を一口食べた尾沢の思考は一旦途切れた。
「あ。口の中でとろける」
そう呟いた尾沢を、佐古田は
「杏仁に夢中になってんじゃねえよ、考えろ」
と睨んだが、自身も豆腐の上に乗った枸杞の実をスプーンで掬い上げる最中だったので迫力は半減している。水上を出し抜くチャンスを失った佐古田は若干、落ち込んでいるように見えない事もなかった。
詳しい事情を知らなくとも尾沢には、朧げながら佐古田の激情の核になる部分が見え始めていた。水上は、佐古田の兄の死に関係していると考えて間違いない。だとすれば、佐古田と水上の因縁は尾沢が思っていたよりずっと深いという事になる。
つい先日、水上に襲いかかった佐古田の姿が尾沢の脳裏に瞬く。気が急いた。尾沢は、自身の押さえ込んだ感情の投影たる佐古田が、大企業の社長なんてものに敗北するのは見たくなかったのだ。だが佐古田は人間相手の策略はからっきしである。自分がサポートしないと、あの人は水上社長には勝てない。尾沢はそれをわかっていた。
とは言え名案はそう都合よく浮かんでくれるものではない。
「直接ミミナを捕まえなくてもフンや剥がれた角質を調べるんじゃあ駄目でしょうか」
尾沢の苦し紛れの意見に佐古田は首を振った。
「馬鹿テメエ、見ただろ?あの消毒薬の山。痕跡なんざ細胞核までグズグズになってるだろうよ」
「……ううん…ですよね」
下を向いた尾沢の鼻を、杏仁豆腐のほのかな柚子の香りがくすぐった。
「……いっそ証拠なんざ無視して野郎の研究所ごと爆破してえが…クソッ、法律邪魔だな」
「さらっと爆弾発言ですよそれ!」
佐古田の暴言を慌てて制した直後、尾沢の片眉がピクっと上がった。しばしの静止の後、尾沢は手振りを交えながら文節で区切るように喋る。
「ちょっと、待ってください佐古田さん……ギャラクシーファームの研究所の場所、知ってるんですか?」
佐古田はギョロ目で不思議そうに尾沢を見つめた。
「当然だろ。日本橋本社に併設してるヤツと、あと奥多摩に私設のが1つ」
そう聞いた尾沢は大きく口を開けて身を乗り出した。が、その思い付きを口に出す前に、冷静な心の声がストップをかける。
いや、駄目でしょ!下手したら犯罪じゃん。何考えてんだ僕は。博打すぎる。
尾沢は一旦は発言をやめて座り直した。けれど、向かい席のボスは尾沢の言葉を待っていた。
逆Vの字型に口を半開きにしながら次の言葉を待つ佐古田の表情が、子供の頃水族館で見た餌をねだるサメそっくりに思えて、尾沢は笑い出しそうになった。と、同時にこの期に及んでまだ社会的立場にしがみついている自分を馬鹿馬鹿しく感じた。
リスクが何だ。なにも人を殺す訳では無い、捕まったとしても数年の懲役で済む。
びびることじゃない。僕は船から降りてサメにくっついていくと決めたんだから、ねえ、分かりましたよ佐古田さん、そんな顔しなくても餌を隠したりしませんから。
「あの……軽く犯罪入ってる方法ですが、いいです?」
怖ず怖ずと片手を上げた。
「構うか、話せ!」
尾沢が思った通り、佐古田は身を乗り出した。
「フライング監査……と言えば聞こえはいいけど、泥棒です、要するに。研究所に直接侵入して証拠を漁るんです……つまり、」
もはや有名無実と化しているが、本来、疑わしい個人及び業者に対して管理局は監査の権利を持つ。尾沢はそれを利用しようと考えた。もちろん上層部に無許可で行うのだから実際は単なる泥棒行為だ。だが宇宙生物管理法違反の証拠さえ得られれば、局も動かざるを得ない。そうなれば上層部の事だ、マスコミへの建前上二人の暴走を監査だったという形で処理するに違いない、と尾沢は読んだのだった。
「逆に言うと、何の証拠も掴めずに捕えられて警察に突き出されたら、僕らはオシマイ……って事です」
一気に話し終えた尾沢はチラリと上目遣いで佐古田の表情を窺ってみた。非常な悪人面である眼鏡の上司の口角は、上がっている。もう泥棒する気満々だ。佐古田には「ドロボー」の一語だけで説明など充分だったかもしれないと尾沢は思った。
「奥多摩だ、」
そう言って佐古田は弾かれたように椅子から立ち上がる。
「日本橋からなら目撃情報がもっと無きゃ、おかしい。距離から言ってもあのマウスは奥多摩の研究所から逃げたに違いない……いつまで食ってんだ、行くぞ!」
「ちょ……待って下さい!まだ僕、一口しか……」
慌てる尾沢を振り返りもせずに佐古田は早足でレジに向かうと。
「店主っ!」
「へいっ!?」
カウンターに千円札を叩きつけられ、東風商人の店主は一瞬ビクリとした。佐古田は悪魔的に尖った歯を覗かせて店主を睨みつけ
「持ち帰りはできるのか」
脅すみたいにそう尋ねて、尾沢の、食べきれなかった杏仁を指し示した。
「ど……どうぞ」
呆気にとられてカクカクと頷いた店主を残して佐古田は駐車場に出て行く。杏仁片手に後を追った尾沢は、それが佐古田なりの、部下への労いのつもりである事に気付くまで時間を要した。
鬱蒼とした常緑の鳥獣保護区に囲まれた道路には、跳ねるように走るエレキング以外に通行するものの姿は見当たらない。ところどころ剥がれた二十世紀のアスファルトは、この道が廃れて久しい事を示している。運転する尾沢は、どんどん山奥になっていく窓の外の風景に少なからず不安を覚えた。
「ほんとにこっちでいいんですか?」
「まっすぐだ、まっすぐ」
何故か窓から半分身を乗り出した状態でナビゲートしながら佐古田が言った。メモも何も見ていない、曲がれだの脇道に逸れろだのの指示は、どうやらほぼ勘で行われているようである。尾沢はますます心配になってきた。
宇宙生物の研究施設を新たに設ける場合、管理局への登録が必要である。ギャラクシーファームではなく水上の本名で申請された奥多摩の研究所の登録データにまで逃さずチェックを入れていたのは、佐古田の執念と言える。
ただ、
と、尾沢は残念に思う。
番地ぐらいはメモしておけばいいのに……。
「手帳とかに、書いてないんですか?」
「あるか、そんなもん。覚えてるっつってんだろが!……次、右だ」
答えながら佐古田は目を閉じて指でなぞるような仕草をした。どういう記憶の仕方をしてるんだ、と呆れた尾沢の顔を、山の空気が撫でる。尾沢は自分も少し窓から身を乗り出したい気分になった。
停めろ、と言われて尾沢が車を付けた場所はこんもりと雑木雑草の生い茂る、けもの道の前だった。視界は葉と枝に隠され、建物など見えもしない。しかし佐古田は音をたてぬように静かに車を降りると双眼鏡片手に、けもの道に分け入ってゆくではないか。尾沢はつられて音をたてず驚きながらも背丈ほどある草の隙間を縫って後を追いかけた。
枝を踏むな、馬鹿!早くこっち来い!
佐古田がきつい目で振り返る。
す、すいません、
尾沢は草のトゲを気にしながらようやく佐古田が双眼鏡を構えている場所までたどり着く。草木はそこで急に途絶えていた。
途切れた茂みの端から顔を出した尾沢は、目に映った景色にひどく違和感を感じた。約100メートル四方が切り取ったように平らなコンクリートで綺麗に固められていて、その真ん中に、白磁器のようなつるつるの立方体がそびえている。洗練された都会的なデザインンが、山の中では不粋に見えるから不思議だった。反対側から一台、車が出ていくのを見て、尾沢は自分の位置がちょうど建物の裏側である事に気付き、舌を巻く。
「……ベストポジションですね。お見それしました」
「基本、風下背後。常識だろ。肉食う動物で知らねーのは人間ぐらいだ。ふん、……裏窓があンな、あそこから入りゃいい」
双眼鏡に額を食い込ませた佐古田は頭を低くして囁いた。
「警備員がいたら先手打ってぶん殴る。棒で。棒拾っておけ」
「な、何言い出してんですかマズいでしょ!それは!」
原始人か、と罵りそうになったのをぐっと堪えて尾沢は足元に落ちていた段ボール箱を拾い上げる。
「そんなんじゃなくって、例えばこれとか、使えませんか」
畳まれた箱には、七つの栄養スペースフードと書かれ、キャラクター化されたミミナ草食マウスと思しき生き物のイラストが入っている。研究所で捨てたもののようだ。
「そんなモンで警備員殴っても気絶しねーぞ」
という佐古田の発言を尾沢はブンブン首を振って激しく否定した。
「ち、違いますよ!」
数分後。底板を抜いた、七つの栄養スペースフードの箱の中に、仏頂面で収まる佐古田と尾沢の姿があった。
「すみません……思ったより駄目なアイデアでした」
警備員を殴って即効で捕まるよりはましだが、我ながらあまりに情けない恰好だと尾沢は嘆息した。誰か来たら上蓋を閉め、座って箱のふりをするというこの作戦、しかし意外にも佐古田は気に入ったようで
「ぬ……?駄目か?これ」
箱の取っ手の穴から外を覗いてみたりしている。
と、その時。ざあっと木々の高い所が音をたてた。研究所の屋上から飛び立ったヘリコプターが爆音をたてて、箱の中の二人の遥か頭上を通過していった。
「高そうなヘリでしたね……」
赤く染まりかけた空を仰いだ尾沢の頭を、箱を被ったままの佐古田が小突いた。
「おい、ボヤボヤすんな。さっきの車だろ、で、ヘリだろ?かなりの人数出て行ったぜ、あれは。やるなら今がチャンスだろうが。車から麻酔銃取って来い!」
「あ、はい」
一回出すのにも結構な予算がいる大型ヘリコプターは、ヒラの社員がおいそれと飛ばしまくれる代物ではない。水上社長が乗っていたかもしれないな、と尾沢は思ったが、こと水上に関してはすぐ頭に血が上る佐古田には黙っておく。これから泥棒をするにしては随分自分が冷静でいる事に尾沢は少し驚いていた。
長く伸びた建物の影の中を辿って走る、段ボール箱ひとつ。移動中はちょうど電車ごっこのような形になる。前に位置する佐古田のコンパスの長い足に遅れぬよう、後方の尾沢はチョカチョカせわしなく走らねばならない。見つかれば、即アウトの危険な状況であるのに尾沢は笑いたくなった。子供の頃からろくに悪戯も出来なかった自分が、まさか泥棒とは。しかも電車ごっこで。
バカだな、僕は。
尾沢は、ニヤリと口の端を上げた。
こんな日を望んでたんだ。僕はずっと、なりたかったんだ、バカに。
「ヘマすんなよクソッタレ」
裏窓を前に佐古田が振り返る。
「はいっす」
尾沢は小さな敬礼で答えた。