16:ロストブライドグルーム
Number 016
ロストブライドグルーム
梅津真佐美は、佐古田と尾沢の車が去ってゆくのを反古紙の貼られた窓からぼんやりと眺めていた。車椅子の膝の上に乗ったミミックネコダコが、、キュウっと鳴く。真佐美は手元のリモコンの液晶に目をやった。
行かせてよかったのか?エム。あいつらからは針の匂いがした。放っておけばゼッカイ達を捕まえに行くんじゃないか?
「大丈夫よ……ミツは故郷に帰ろうとする生き物を撃ったりしないわ」
真佐美の言葉に連動して、背後のM-01が煙と音をたてる。ミミックネコダコはその機械の通訳を聞いてクニャリと触手の先を丸め、鳴き声は出さずに匂いだけで喋った。
知り合いなのか?
ええ、と真佐美は頷いた。死んだ恋人の弟、という言葉をそのままミミナ語に訳してもミミックネコダコには伝わらないだろう、と思った真佐美は
「地球人は、特定のパートナーと2匹だけの群れを作る事があるの。眼鏡の方の地球人は、あたしの、死んでしまったパートナーの弟なのよ」
と説明した。いつの間にか集まってきていたマルモリ達がきゃわきゃわと口を挟む。
めがねって、目に鉱物のようなのを嵌めてたアレか?
エムはもう特定の群れは作らないのか?
おなかすいた
「そうね……オルドマやあなたたちと出会えたから、あたしはもう地球人と群れは作るつもりないわ」
Mー01は、その淋しげなニュアンスまでは再現できなかった。
真佐美は平皿に紅茶を注ぐと、ミミックやマルモリ、長毛マウスや陸魚たちにふるまった。地球人のふりをして、このガイライだらけの建物をカモフラージュしてくれている彼らに対しての労いの紅茶である。
やったー
これを待ってた
騒ぎ立てるガイライ達をほほえましく感じながら、真佐美は自分も丸いティーカップに一杯用意して、喉を潤す。一息つくと、先程の佐古田弟の姿が脳裏に蘇った。純二が死んでからいつの間にそんなに年月が経っていたのか、当時7歳の餓鬼だった弟は、今や兄よりも背が伸びている。腕と足が妙に長くて少し猫背の体型は、兄ゆずりだな、と、真佐美は苦笑した。
真佐美が追憶に浸ることは滅多に無い。真佐美にとって純二に関する記憶は全ての原点であり、思い出にできるほどセピア色ではない。生々しい真っ赤な、傷痕のようなものなのだ。もしもオルドマに出会わなかったら、真佐美は純二の後を追って死んでいたかもしれない。それほどに、恋人の死は真佐美の心に暗い影を落とした。そして彼の弟、佐古田純三もまた、かつての自分と同じく純二の幽霊に引きずられて生きているのが真佐美は憐れでならなかった。
何を、考えこんで、いる?
一匹のマルモリ・エキセップスがM-01を通して問い掛けた。
「珍しく、昔の事をね……」
真佐美はそう答えた。
大学で宇宙生物行動学の研究をしていた頃の真佐美は才色兼備の女傑として有名だった。「匂い」のコミュニケーションについて論文を書いたのもその頃である。しかし当時真佐美以上に天才と呼ばれる男がいた。十七歳で大学に入り、招かれるようにして宇宙生物環境学の研究チームに加えられた、その青年こそが佐古田純二だったのである。
穏やかで、真佐美より2歳年下であるにも関わらず落ち着いた男だった。記憶の中の純二の顔は、いつも糸のように目を細めてニコニコしている。真佐美はその笑顔に一目惚れしたのだ。
「ああ……」
幸せな記憶が逆に胸を刺し、真佐美は溜息をつく。
純二は、よく歩く男だった。大学に入る前から植物学者の父と共に、宇宙生物が地球環境に与える影響について独自に山林調査を行っていただけのことはあり、インドア型の研究スタイルだった真佐美が生まれて初めて目にするような鬱蒼とした森や山を、平気でデートコースに選んで来る。真佐美にはそれがまた新鮮だった。
「生き物は、いいよ、真佐美さん。植物も、動物も、地球のものも、ガイライのものも。全部、いい、かわいい」
幸せそうにそんな風に語る純二を眺め、当時まだ艶やかな黒髪だった真佐美は、
いや、オマエもかわいすぎるんだけど……。
と、ニヤニヤしたものだった。
地球生物及び宇宙生物に関して、比類ない知識と洞察力を持ちながら、純二は飄々としてそれを鼻にかけるような事はしなかった。朴訥な喋り方もかえって教授達に好かれていたようで、生きていれば政治家にも意見できる重鎮学者になり得た、と、大学関係者は後に一様にそう言っていた。
そう、生きていれば。
自らの回想に沿って出て来た言葉であるにも関わらず真佐美の顔は青ざめる。
純二は生きてはいないのだ。生きていれば、などと考えても純二は喜ばない。純二のいない世界で、私は、生きていかなければならないんだ。
真佐美は冷えた紅茶を一口すすった。
それでも、
と、真佐美はゆっくりとした動作で紅茶の皿を舐めている陸魚の、背中の鱗に反射した光を見つめながら思う。
それでも私には、オルドマがいたからよかった。
オルドマという小さなミミナ草食マウスに出会えて、彼ら、地球のガイライたちの手助けをする事が、純二の意思を継ぐことにもなると思えたから、真佐美は今しっかりと地に足をつけ、「エム」として生きていられるのである。けれど、あの弟、佐古田純三の所にはオルドマは現れなかった。先刻の姿を見て真佐美にはわかった。佐古田純三の心は未だに、小さなミツ少年のまま、兄が生きていれば、と、思い続けているのだ。
佐古田純二は、年の離れた弟を、純三の三の字をとってミツと呼んでいた。初めて純二の家に招かれた日、五、六歳だったミツが純二の後ろに隠れて頭だけ傾げ、不審そうに自分を眺め回していたのを、真佐美は昨日の事のように思い出せる。こんにちはミツ君、と挨拶すると、象の絵のプリントされたTシャツを着た小柄な少年は、慌てて頭を引っ込めた。純二は柔らかい小さな声で、
「ミツ、真佐美さんだよ」
そう言って少年を抱き上げた。ミツは真佐美を見ずに
「兄ちゃん……この人とケッコンしちゃうの?」
と悲しそうに呟いた。どうやらミツは兄を真佐美に取られてしまう、と思っていたようだった。
「まさみは、兄ちゃんを取るから、きらい」
小さなミツの言葉を真佐美は反復してみる。
純二はミツを溺愛していた。偏屈な植物学者の父親は当時まだ健在だったが、母親はミツを産んで数年後に他界していたから無理もないのかもしれない。今思えば、穏やかで寛容な純二は、ミツの母親も兼ねていたのだろうと真佐美は考える。
死ぬ数年前から、純二は研究と調査のために、ある島に一家で移住していた。ガイライによる島の生態変化を調べるためだ。純二は調査で山に入る時、よくミツを連れて行っていた。真佐美が島に顔を出すと、いつも純二の後ろにちんまりとミツがくっついてきたものだ。
家族の絆と恋人の絆と、どちらが強いかなどという議論に意味は無い。けれど真佐美には、これだけははっきりと言える。
真佐美が、純二を追って死ぬ事を考えた時のような気分を、ミツは、真佐美以上に長い間、抱え続けている。
一目見て真佐美にはわかった。
純二が生きていれば。
どうして死んだの?
どうして、あなたじゃなければならなかったの?
ああ、あなたのいない世界は、こんなにも……。
許さない、
みんな許さない
それはかつての真佐美自身の姿に他ならなかった。水上萬月と、そして全ての地球人類を呪ったあの気持ちを、真佐美は忘れていない。
ふう、と真佐美は深く息を吐き出した。不思議そうにその匂いを嗅ぎにきた長毛マウスに、大丈夫よ、と頷いてみせてから真佐美は車椅子を窓縁に寄せた。
水上萬月は既にこの世にいない。だが純二を殺したものは、この世に脈々と息づいている。萬月の息子、水上秋月もその一人。けれどそれを憎むが為に人生が台なしになってしまうのは、決して純二の望む所では無い筈だ。真佐美はそう思う。
小さな可愛い弟が、一生そんな風に苦しむのを、純二、あなた見たくはないでしょう?
快晴の空に向けて声に出さない言葉を投げかけたその時、真佐美の目に黒い塊が映った。
それは1機のヘリコプターであった。プロペラが風を掻き回す音が次第に近付き、そして止まる。真佐美は嫌な予感がした。部屋のガイライ達も不穏な空気を感じたのか、毛を逆立てたり、或いは体色を目まぐるしく変化させたりしている。
真佐美は弾の入っていないピストルを再び取り出した。もとよりこれは佐古田弟を脅すために用意した訳ではない。それ以上に、ここにやってくる可能性の高い者、水上秋月に向けて準備した銃であった。
真佐美が唾を飲み込む音を聞いてミミックネコダコが振り返った。
きたのか?ついに。
「ええ、そうみたい……」
M-01は硬質の匂いでそう答えた。
小型ヘリコプターを降りてこちらに歩いてくる水上秋月の姿を目にした途端、真佐美は口の端に虚無的な笑みを浮かべた。
可笑しかった。
「あの事件」に引きずられて生きるミツを心配しておきながら、いざ水上を前にした自分の中に氷のような憎悪が沸き上がってきた事が可笑しかったのだ。
けれど、その怒りは抑えなくてはならない。亡き友、オルドマのために。今、真佐美がすべき事はあくまでも、水上をロケットの発着場に行かせない事だけだ。
この無知な餓鬼を引き裂いてやった所で、純二は戻らない。そうして私が投獄されでもしたらガイライ達はどうなる?
真佐美は堪えた。
事務所風の扉を開けたのは水上本人ではなく、五、六人従えた部下の1人だった。
「どうも、梅津博士。お邪魔いたします」
水上秋月は格子縞のスーツに包んだ身を折り曲げて、慇懃に頭を下げると、真佐美の車椅子の裏に隠れて様子を窺っているガイライ達に冷たい一瞥をくれた。
「何しに来たんです?水上社長」
対する真佐美の口から出た言葉も、氷柱のような温度。しかし水上の口調は柔らかい。
「僕は貴女に御礼を申し上げに来たのです」
「……御礼?」
真佐美は眉をひそめた。
「逃亡したうちのガイライを預かっていただいた御礼ですよ」
整った顔に笑顔が張り付いている。
うちの、という表現が頭にきた真佐美は、車椅子の陰に隠したピストルを握り直した。
お前はそうして親父と同じように、生き物を、所有物としてしか見ていないわけだね、秋月坊ちゃん。
「お宅のガイライなんか私は預かっておりませんが」
ピシャリと告げた真佐美に、水上ではなく、隣に控えた部下の1人が詰め寄った。
「おばさんねェ、窃盗罪だよこれは!出るとこ出てもいいんですよ」
「よしなさい、失礼じゃないか。……しかし梅津博士、貴女のガイライをコントロールする術は実に見事でしたね、感服しました。どうです貴女、我社に来ませんか?」
水上の言葉に真佐美は思わず舌打ちした。
「ご冗談を。生き物をコントロールする事など出来るわけがありません。そんなのは愚かな考えですよ、社長」
厳しい目付きになってきた真佐美の膝を、ミミックネコダコが触手でそっと触れた。
ごめん、大丈夫よ。
真佐美は一度深呼吸してから、
「あなたのガイライとやらも自分の意思で行動しているはず。仮にここに居るのだとしても、本人の承諾がなければ渡すわけにはいきません」
ゆっくり唱えるように言った。
「ご高説賜う事が出来て光栄です博士」
水上は赤い唇を一瞬舐めて続けた。
「しかし、もと科学者の言葉とも思えませんね。確か貴女、それで学会を追われた筈では?」
表情の強張った真佐美に、水上は優しい声で語りかけた。
「梅津、もと博士。貴女随分、お変わりになった。僕が子供の頃は、第一線の学者だったじゃないですか。懐かしいな。〈彼〉の法事以来ですよね?あの頃の貴女は美しく、学者としても輝いていました……」
一歩近付いてきた水上から真佐美は距離を取ろうと車椅子を後進させた。
「僕の力なら貴女を昔の地位に戻すことも可能です。もっと評価されるべきですよ貴女は」
真佐美の腕に鳥肌がたつ。
「地位と引き換えにあの子を渡せって言うの?……はっ…馬鹿なのね?あんた」
真佐美はついに水上にピストルを向けた。
小ぶりの、真っ黒な銃に睨みつけられた水上は口許に笑みを湛えたままで、睫毛の長い目を閉じて両手を上げた。
「ああ……成る程。どうあっても渡さない、という意味ですね、それは」
「その通りよ。死にたくなければ出ていって」
だが水上は優雅にもう一歩を踏み出し、くつくつと声を立てて笑った。
「しかし、逃げたミミナを追っている中で貴女の名前が出て来たのには驚きましたよ……一瞬判りませんでした。まだ父の罪が、僕の人生を邪魔するのかっ、てね」
弾倉が空である事を知っているかのような態度。
「憎むべき父が自殺してしまった腹いせですか?それ」
この男は何も学んでいないわね……。
真佐美は答える気すらおきず、銃口をしっかりと水上に合わせながら、存外冷静にそう思った。腹は立つが言わせておけばいい。というのも、このように、あたかもミミナが自分の手元にいるかのようにして水上を引き留めておくのが真佐美の狙いだったからである。知ってか知らずか、水上は気持ちよさ気に自説を語った。
「博士、過去は乗り越える為にあると僕は思うんです。僕に協力して、昔の貴女を凌ぐ学者になるのが人間らしい選択だ。そうは思いませんか?」
「思いませんね」
真佐美が嫌そうに答えた瞬間、水上はパチンと指を鳴らした。
水上の合図で、部下の一人が真佐美の車椅子を蹴り倒した。ガイライ達がピクリと飛びのく。
「何をするのっ!?」
「本当に勿体ない。貴女のその足も、おおかた〈彼〉を追って服毒自殺でもしようとして不随になったんでしょう。くだらない。過去はね、乗り越える物だ。そのために僕にはあのミミナが必要なんです」
カンに障る水上の言葉も、真佐美は我慢できた。叫んだのも、演技。
これでいい。脅迫でも拷問でも何でもしてくれればよい時間稼ぎになるというものだ。
「で?それでも協力しないと言ったらどうするの?」
床の上の真佐美は、わざと挑発するように尋ねる。ところが、ここで水上は真佐美の予想外の答えを返した。
「ご協力いただけないなら、それまでです。大人しく帰りますよ。これは単なる警告です。今後貴女が、僕の邪魔をなさらないようにという、警告」
滑らかなターンでくるり、と背を向ける。
嘘、諦めるの?
真佐美の頭を、そんな希望的な考えが一瞬よぎる。しかし水上に限ってそれは有り得ない。考え得る可能性としては、
水上は、今現在既に真佐美の元にミミナが居ない事を「知っている」。
これ意外になかった。真佐美の喉が、緊迫に動く。
そんな馬鹿な。ゼッカイにもチュニにもGPSの類は付けられて居なかった筈だ。
水上が、チュニの位置を把握している筈は無かった。エレベーターの入口で計器を使って調べたのだ、発振機は存在しなかった。首輪は勿論、埋め込み式の物も無かったのだから……。
じゃあ、何でなのよ!?
真佐美の上がった心拍数を察知したのか、マルモリ達がきいきいと騒ぎ出した。水上が、頭だけ振り返る。
「……どうしました、博士。ご気分がすぐれないようですが」
「何を使ったの?……あなた」
真佐美の問いに水上は、にに、と唇を歪めた。
「4億です、4億。高くつきましたよ。雪まで降らせる羽目になるとは」
雪……しまった。
真佐美は歯噛みした。
コストを度外視するなんて!
最新中の最新機器、通称、雪と呼ばれる発振装置はまるで粉のような大きさ。それを使われては真佐美の所の設備では見抜く事ができない。だが雪を降らすには恐ろしく値段がかかる。本来はガイライを群れごと捕獲するのに使用する機器だ。たかがミミナ草食マウス1匹に使うには、あまりに大袈裟。だが水上は、割に合わない出費はしない男である。つまり、水上にとってチュニは、それ以上の利益をもたらす存在でなければならない筈だ。
「あなた……あの子で何を研究していたの!?」
真佐美は床から這いずって水上ににじり寄った。真佐美の胃の腑に再び、嫌な予感が上がってきた。
「残念ながらそれは企業秘密ですので」
水上の吸血鬼のような唇から答えは聞けなかった。だが真佐美は、その氷の微笑の中に、何かとてつもなく不吉なものを感じて、ぞっとした。
水上秋月は私が思うより、更に残酷な男だったのかもしれない。或いは父親以上にこいつは……
真佐美の思考を途切れさせたのは、小さなマルモリ・エキセップス達の威嚇の声だった。
ギキョエ〜ッ!
1匹が、水上に向かって飛び掛かる姿勢をとっているのが見えて、真佐美は悲鳴を上げた。
「駄目!やめて……!」
だが、その言葉を拾うはずのM-01のリモコンは、車椅子を倒された時、数メーター先に弾き飛ばされていた。