9:ノーバディノーズ
Number 009
ノーバディノーズ
日も落ちた時分、パチンコ屋の二階の小さなファミリーレストランで、尾沢と日吉修太郎は落ち合った。喫煙人口の随分減った今でも、このような場所では壁がヤニで黄色くなっていたりする。客も給仕もそれぞれの悩みで忙しく、他人の話など盗み聞く余裕がないほど生気の無い様子である。吹き溜まり、といった感じの店だった。狭いドリンクバーから尾沢が注いできたカルピスを一口飲んだ日吉が口を開いた。
「……じゃあ、もう知ってるんだね」
尾沢から電話を受け、カンヅメの仕事を終えたらこのファミレスで待つと申し出たのは日吉の方だった。
「はい……」
答えて尾沢は下を向いた。
「ヒヨシさんは……わかってて佐古田さんにカンヅメの生き物を渡したんですか?」
尾沢は、ゆっくりと頷いた日吉の顔をはっきり見れないままに乳飲料のストローを吸い、
「何で…?」
と、消え入りそうな声を出した。初老の日吉は深く刻まれた皺に覆われた手でカルピスに突き刺さったストローを弄び、そして尾沢の質問に質問で返した。
「なんで尾沢くんは、俺にかけてきたの」
尾沢は言葉に詰まる。佐古田が日吉から譲り受けたガイライを、極秘に金で始末していると知ったなら、まず電話をすべき相手は日吉ではなく井上だった。そうしなかったのは。
「……信じたかったからです」
尾沢は自分を抑圧して常に社会的に立場の強い者の下についていた人間である。それが生まれて初めて、アウトローな人間の部下となった。抑圧などせず、自分自身だけを頼りに生きていく佐古田を諌めつつも、心の奥底で、押し込められた何かが佐古田に惹かれているのは確かで。それは尾沢がこれまでの人生で捨てて来た何かを、佐古田が持っているような気がするからなのかも知れなかった。
今までと同じように、理性的な判断を下せる条件はもう揃っている。けれど尾沢の感情は、最期の逆転を狙って日吉に電話をかけさせた。佐古田と、それに自分自身を信じたかったのだ。
「ヒヨシさん、僕は自分が信じて動いていくべきものは理性だと思って……それで今までうまいこと生きてきてたけど……だけどどうしてもまだ僕は、佐古田さんが生き物を殺すとは、思えなくて、」
カチャカチャと、給仕が皿を運ぶ音が店内に響く中、尾沢はもはやどこまでが言葉として日吉にさらけ出した部分か、どこまでが出さずに内なる心の声となっていたのか整理がつかなくなっていた。けれど日吉はまるで全て承知しているかのように、落ち着いた声で。。
「尾沢くん、佐古田は確かに罪を犯してる。でも君の思っているのとは、違う罪だ。殺してない……あの子にそれはできないんだ」
「違う……罪?」
尾沢はそこで漸く、正面から日吉の顔を見る。
「尾沢くんにはさ……」
日吉は一旦言葉を切ってカルピスを一口飲み込んだ。そして少し、悲しそうに目を細めた。
「あの子を、佐古田を守ってやって欲しい……」
日吉のその表情は、カンヅメの生き物を見る時の目に似ていた。
「……どういう意味ですか」
「裏切った俺が言うのも凄く狡い事だよ……恥を知れと罵って構わない。ねえ、けど君は、真相を聞くなら、出来れば……あの子の味方になってやってくれないかと、思うんだ」
尾沢には、日吉が佐古田の事を「あの子」と、まるで小さな子供のように呼ぶのが不思議だった。
「十三年前、あの子が高卒で衛生課にやってきた頃から俺は何となく、こういう事になるんじゃないかとは思ってた……昔話からになってしまうけど、聞いてくれるかな」
尾沢が新たに取って来たカルピスを受け取った日吉は、そのように前置きしてから語り始めた。
佐古田純三は配属された当初から問題行動の多い男だった。衛生課は危険性を考慮し、基本的に2人以上のグループで行動する決まりになっているが、佐古田は組んだ先輩と相性が悪かったようだ。そのうち、取り残されたように管理局の隅に設置されたカンヅメにふらりとやってきては、生き物たちを眺めていくようになった。
けれど彼は、ケージの中の生き物たちに触れはせず、眺めるだけ。抱いてみるかと誘っても、「ガイライは嫌いだ」と拒否する。そのくせ毎日せっせと眺めに来た。日吉もそれを放って置いたが、やはり何だか気になって、ある日、声をかけた。
「ラーメン食うか?」
銀縁眼鏡越しの攻撃的な双眸がギョロリと振り返る。
「いらねえけど……なんでいっつもラーメンなんだよ?気になんだよ」
「や……いつも同じ匂いの方がこの子たちが安心するから」
日吉がケージの中の暗い目をした宇宙の生き物達を指すと、佐古田は
「アンタ、ここ長いの?」
眉間に皺を寄せつつも、初めて日吉の隣に腰を降ろした。以来、二人は徐々に話すようになっていった。
とは言え、日吉と二人でいる時も、佐古田は怒りっぱなしだった。話に管理局の人間の名前が少しでも出てくれば、バカだのハナクソだの、えらい勢いで罵る。ガイライ産業の会社名なんか出そうものなら、潰れろ消えろの応酬。
「まったく会話にならなかったよ」
そう聞いて、尾沢は十九歳の佐古田と、それを困ったようにふわふわ聞いていたであろうこの初老の飼育係の姿が想像され、少し可笑しくなる。日吉はカルピスを飲んで続けた。
「そんな風なのに、何でだか俺はあの子を嫌いになれなくてねぇ……」
佐古田は相変わらずケージのガイライを触ろうとはしなかったが、日吉はある事に気付いていた。
日吉には、カンヅメの生き物を引き取りに来た人々を何人も見て来たキャリアがある。毎日ケージを眺める佐古田の目は、珍しいガイライを物色しに来るガイライマニアの人々とは勿論違っていた。かと言って、ガイライ・ショップオーナーの商売ありきの視線でもなかったし、純粋に良心から気の毒なガイライを飼ってやろうという人々の目とも違うように思えた。一番近いのは、行方不明になったペットのガイライを探しに来た子供の表情かも知れなかった。そういう、切実な何かを抱えて、佐古田はケージを眺めていた。
「……何だか見てるとこっちが悲しくなる、そういう感じだったよ」
日吉はカルピスを掻き混ぜた。
ある時日吉は尋ねてみた。
「佐古田、お前…本当にガイライが嫌いなの?」
佐古田は例の表情でケージを眺めながら言い切った。
「嫌いだっつってんだろ」
「なら何で毎日見に来る?」
「…うるせえなァ」
「飼えるなら世話してやっても…」
「そんなんじゃねえ!」
日吉の言葉を遮るように怒鳴った佐古田は、最前列のケージ内のエクトル星トカゲがビクリとなったのを見て、声のトーンを落とした。
「こいつら地球に来なかったらどうしてたかって……考えてただけだ」
「そりゃあ、故郷で駆け回ってただろうよ」
その会話を、当時の日吉は単なる一般論的な話としか捉らえていなかった。
「後悔してるよ…もっと真剣に、あの子の話を聞いてやるべきだったんだね……きっと俺は、軽く考えていたんだろうねぇ」
尾沢は自分の飲み物を飲むのも忘れて日吉の言葉に聴き入っていた。佐古田に対して、日吉がなぞった通りの道を、自分もまた辿っているのではないか、そうも感じていた。
「それから三年程経ったあの日……ようやく俺は、あの子の言った事の重さを理解することになった」
けれど、全ては遅かった。日吉はかすれ声でそう言ってから、カルピスを飲み、先を続けた。
その日、管理局は朝から喧騒に包まれていた。普段と変わらないのは日吉の居るカンヅメぐらいだった。不思議に思い、日吉が業務連絡で入る放送に耳を澄ますと、どうやらどこぞのペットショップから逃げ出した、シャロン・マコーリフ記念惑星産の有爪マウスの捕獲に、手間取っているらしい。
「可哀想だけど有爪マウスは爪を抜かなきゃ飼育してはいけない事になってる……危険だからね。でもその店は、違法業者だった。逃げたマウスは抜爪をしていなかったんだ」
昼頃になって、そろそろラーメンを食いに佐古田が来るだろうな、と日吉はお湯を沸かしていた。けれど2時を過ぎても佐古田は顔を見せない。代わりに現れたのは佐古田とは折り合いの悪い、衛生課の先輩局員。彼は、「佐古田来てないすか」と、日吉に詰め寄った。今日はまだ、と日吉が答えると、局員は踵を返し、
「もし来たら引き止めといて下さい!逃げてた有爪マウスに、警察から射殺要請が出たって聞いた途端、あのバカ麻酔銃持って出て行っちゃって……ああもう!面倒な事に……」
言いながら慌ただしく走り去って行った。日吉は嫌な予感がして、すぐに佐古田の携帯に電話をかけた。十何回目の呼出しで、漸く佐古田は電話に出た。
「佐古田、今、どこにいるんだ?」
「あァ、今?……青梅…」
心なしか、息が上がっているような声で。
「…頼みが、ある……警察に、撃つなって伝えてくれ」
日吉の、携帯を持つ手は震えた。佐古田は、有爪マウスを麻酔で仕留めようとしているに違いなかった。ハンターに射殺されてしまう前に。
「日吉さん…俺が、ガイライ嫌いなのは、人間が持ち込んだ生物だからだ……捨てたガイライが繁殖して、地球の動植物が駆逐されるからだ……」
数回、咳が入った。
「お前、怪我してるのかい!?マウスの爪か?」
「人間のせいで、生き物の運命が操作されるのが、我慢ならねーんだよ俺は……ガイライだって…勝手に連れて来て、勝手に射殺するなんてそんなの……真っ当な死に方じゃねえ……頼むから…」
何か大きな衝突音がして、唐突に電話が切れた。
今思えば他にやりようは、いくらでもあった。日吉はそう言って、カルピスの氷を見つめた。
電話が切れた後、日吉はすぐに管理局の上層部に知らせた。佐古田の身を案じての行動だったが、上層部は日吉の考えていたのとは違うアクションをとった。支局長らは、麻酔銃を持って応援に駆け付けるのではなく、警察と、その公認ハンター達に電話で情報を伝えただけだったのである。当然日吉は抗議した。しかし上も警察も全く聞く耳を持たない。日吉は現場のハンターを直接説得しようと青梅に向かったが、着いた時には既に一帯は封鎖されていた。そして救急車が一台。担架の上には、マウスの爪にやられたのか血まみれの佐古田が救急隊員に押さえ付けられていた。
「佐古田……すまない、」
かすれた声でそう言った日吉を、佐古田は割れた眼鏡で睨みつけた。
「何でだよ畜生……っ…アンタは生き物の気持ちが解る人だって思ってたのに…アンタも水上と同じなのかよ…」
銃声が轟いた。ハンターが、マウスを撃つ音だった。ベルトで担架に括りつけられた佐古田はそれを聞いて起き上がろうともがいた。
「誰が撃った馬鹿野郎!クソッタレ!…畜生、何で…」
後にも先にも、佐古田が泣くのを見たのはその一度きりだった、と日吉は語り、少しく目頭を押さえた。
それ以降、佐古田が用も無くカンヅメに来る事はなくなった。
「俺は、あの子ほど切実に生き物たちの事を想ってはいなかったんだねぇ……」
その意味においてやはり自分は佐古田を裏切ったんだ、と日吉は言って、氷ばかりのカルピスを振った。
「ずっと姿を見せなかったあの子が次にカンヅメにやってきた時が、その違法行為の始まりだった」
二人はもう前のように親しく話す事は無かった。淡々とケージの中のガイライを指差し、こいつとこいつよこせ。佐古田はそう告げただけだった。日吉は何も尋ねないまま、佐古田の連れ帰ったガイライを、書類上「死亡」という事にしておいた。
「何も、聞かなかったんですか……?」
尾沢の問いに、日吉は答えた。
「聞かなくてもわかった……。ねぇ、ガイライたちにとって、佐古田の言ったように真っ当な死に方ができる場所ってのはきっと、故郷の星以外には、無いんだ…そうだろ?」
「じゃあ、佐古田さんはガイライたちを……」
尾沢は隣席と繋がったソファから半分立ち上がった。許可を受けた法人団体以外が生き物を地球外に持ち出すのは、宇宙生物管理法違反である。それがたとえ故郷に帰すためであっても、違法に変わりはない。
つまり佐古田の犯している罪とは、「極秘に、ガイライを、故郷の星に帰している事」なのだった。
上司がガイライを殺していないと知って、安心していいはずの尾沢の心は何故か、喉元まで、泣き出したい気持ちで一杯になった。
佐古田は、他の何もかもを捨て去って生き物を救おうとしている。熱心な愛護団体だってそこまでしない。
何でそこまで?何でそこまで、あなたが必死にならなきゃいけないんですか?
まるで地球人類全体が生き物に対して犯した罪を、たった独りで償おうとしているような。尾沢にはそんな風に思えた。けれどそれは無謀すぎる。佐古田はスーパーヒーローでも何でもない、ただの公務員なのだ。否、それ以下かもしれない。味方が、いないのだから。
日吉に礼を言ってファミリーレストランを後にした尾沢は、意味も無く走った。既に外は暗く、看板たちが色とりどりの発光ダイオードを燈している。今の尾沢には、そういう人間人間した風景がとても嘘臭く、狡いもののように見えた。
尾沢はこれまで、社会に溶け込むために様々なものを我慢してきた。抑圧してきた。そうまでして縋っていた人間の社会そのものを否定する、佐古田の生き方に引き付けられるのは、ある意味、押さえていたものの爆発であり、それは尾沢の宿命であったのかも知れない。
この日、この時、尾沢巧は、上司・佐古田純三の、純粋なる腰ぎんちゃくとなる事を決意した。