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未来8話 司書の眼差し

孤独と監視だけが支配する都市で、“存在しない者”とされたオレ。

屈辱と怒りは、やがて炎となり、抗う力へと変わる。

これは未来の歯車に噛み合わない、外れ者の反逆の始まり――。

 裂け目を越えた瞬間、胸郭の内側で薄い紙がめくれるような痛みが走った。吸えば肺は膨らむ。だが膨らんだ空気は奥へ沈まず、肋骨の内側で薄く拡散して消える。取り込んだ息が体温に馴染まず、常温のまま喉の奥に戻ってくる感じ。生命維持は続いているのに、「生きている実感」だけが漂白されていく。味覚と嗅覚も同じだ。甘い匂い――いや、甘ったるい。熟れすぎた果実の芯に爪を立てたときの、少し腐敗へ傾いた糖の気配。気づいた瞬間に吐き気が喉奥まで上がってくるが、吐こうとした反射そのものが白に吸われ、形を持てないまま霧散する。

 床は白い。白いが、石ではない。一歩踏み込むたびに極薄のスポンジを押すように沈み、呼吸の遅れと同じ遅延で復元する。沈下と回復の間に、生物の拍にはない半拍のズレがある。オレは足裏の皮膚でそれを数えた。ズン――ズン。世界の鼓動が合わない。ならば合わさない。ここでは、違和こそが呼吸だ。

 天井も壁も白だ。だが発光ではなく、吸光の白。光は弾かれず、内部に沈み、視線の焦点を奪う。じっと見ていると、白い面の裏に黒い網目があるように錯覚する。網目はほんのり脈打ち、境い目が呼吸と逆位相で膨張・収縮する。観察されている。背筋を指でなぞられるみたいな感覚が、皮膚の内側で湧いた。

「また見られてるな」

 独り言は、反響せず、すぐ壁に吸われた。だが応答は別の形で来た。正面の白がじわりと濃くなり、薄い墨を垂らしたような影が広がる。瞳も瞼もないのに、眼差しとしか呼べない密度がオレの体表を撫でる。舌を鳴らすのをこらえ、わざと一歩、遅れて歩を置いた。影も遅れて収縮する。半拍。半拍遅れる。万能じゃない。万能じゃないなら、穴はある。

「いい子だ。遅れるなら、踏める」

 口角が勝手に上がる。こういう確信は体温を戻す。冷え切った背中のどこかに、微かな熱が灯る。


 通路が開け、両側に棚――いや、棚に似たフレームが並ぶ空間へ出た。フレームには透明の板が浮遊している。板の表裏には記号がびっしり刻まれ、呼吸に合わせてほんのわずかに揺れた。近づくと板は勝手に裏返り、刻まれた記号が走り書きのように崩れて粒子へ変わる。目で追おうとすると、視界の端に砂嵐が走る。

『閲覧不許可。観察対象は目録に触れるな』

 頭蓋の内側に声が落ちる。無機質。だがすぐ三つに分裂した。高音、低音、囁き。三方向から同時に、意味を押し付けてくる。言葉の内容よりも、音の配置で精神を削るつもりだと分かる。鬱陶しい。耳の奥が痒くなるような苛立ちが、舌下にたまる。

「うるさい」

 唇だけで吐き捨てたとき、板の影からひとつ、二つ、影が起き上がった。顔に付けた面は透明で、その表面には無数の目が描かれている。どの目も瞬きをせず、同じ方向を睨んでいた。視線の洪水。圧で押し潰すつもりのやり方。

「司書の代理か」

『記録を乱す者、欠番。矯正対象』

 代理は近づくたびに面の目を一つ閉じる。閉じられた目は口へ変態し、薄い声を垂れ流す。笑い、囁き、命令。十歩で十の口、二十歩で二十の口。意味のない喧騒が重なり、鼓膜の内側で泡立つ。面の縁には細い割れが走っていた。既にひび割れているのか、あるいは自発的な裂け目か。指先が、そこに刺されと囁く。

「矯正してみろよ」

 拳を握る。だが半透明の躯体は殴っても抜けるだろう。殴ることが目的じゃない。オレは息を合わせた。自分の拍に、だけ。ズン、ズン。二拍子。世界が半拍遅れるなら、こちらは半拍早く落とす。膝を沈め、足首の角度を外側へ、骨盤を一度だけ左へ回して、戻す。その間に、床の遅延が戻る。戻る瞬間に、踵で押す。代理の肩へは触れない距離。空気を押すだけ。だが面の目が一斉にわずかに遅れる。

『逸脱……補正』

 薄い声が少し濁った。オレはその濁りを待たない。半歩ずらし、面の縁のひびを指で弾いた。指は触れない。触れなくていい。ひびは音を待っていた。空気が震えた分だけ、ひびが自分で走る。面の絵の目がいくつか崩れ、閉じきれなかった目が口に変わり損ねて痙攣する。

「もっと笑え」

 面の口が同時に笑い、同時に固まる。笑顔は同じ角度だと、ただの記号だ。記号は折れる。オレは肩で押し、代理の重心を棚の影へずらした。半拍後、床が戻る。戻りの反動で代理は自分の足に蹴られて転ぶ。

『矯正不能』

「最初から無理だったろ」

 代理の体は白に吸われ、目も口も消えた。最後に一つだけ残った目が、ぎょろりとオレを睨んで沈む。睨み方までテンプレート。腹の底で乾いた笑いが生まれる。


「……見つかったら消される」

 白いフレームの陰から、細い声が落ちてきた。リエルが座っていた。白い衣の袖口は灰色に汚れ、髪の先は乾いた紙みたいにばらけているのに、瞳だけは澄んでいた。

「見つかったら、じゃなくて、もう見つかってる。けど、奴らは遅れる」

「遅れる?」

 彼女は息を呑む。オレは床を指で叩いた。タン、タン。二拍子。白が半呼吸遅れて揺れる。たったそれだけでも、彼女の瞳が微かに光ったのが分かった。

「完全なんてない。必ずズレがある。そのズレを叩けば穴になる」

「……穴に落ちたら、二度と戻れないかもしれないよ」

「戻る気はまだない。進む」

 短い会話でも、言葉の温度が変わる。リエルの喉が一度だけ動いた。恐怖の飲み込み方を知っている喉だ。恐怖を飲み込める奴は速い。遅れる世界で速いのは、それだけで武器だ。


 棚の列が切れたところで、空気の温度がわずかに下がった。白の壁が呼吸のように膨らみ、収縮し、また膨らむ。オレの拍と、壁の拍は合わない。合わないから、合わせない。そこへ、別の代理が現れた。今度は二人。片方は背が高く、面の目の数が多い。もう片方は低い。目の代わりに耳の記号がいくつも描かれていた。

『欠番、修正処置』

『欠番、削除処置』

「お前らまず会議しろよ。処置が二種類って、どっちに逃げ道があるかバラしてるようなもんだ」

 二人は同時に動く。だが同時ではない。高い方は早い。低い方は遅い。オレはわざと、早い方の前に影を置く。影といっても、足音の影だ。床の遅延を利用し、先に着いた足音を半拍遅らせる。早い代理はそれに反応し、さらに速まる。速いものは転ぶ。足首の角度をほんのわずか外へ向けさせ、骨盤の回転を止めるだけで、自分で崩れる。

 遅い方には触れない。遅い方の面の耳に向けて、オレは息を吹いた。音ではなく、気流。耳は風に弱い。耳の記号が波打ち、面の端が自分の音で裂ける。

『記録汚染!』

 合唱が壊れる。二人の声が別の高さでぶつかり、ハウリングのような不快音を生む。オレは耳を塞がず、むしろその音の中央へ踏み込む。不快は彼らの武器で、同時に弱点だ。白は「快」を定義しすぎている。定義しすぎると、定義外で自分が痙攣する。

 高い方を肩で押し、遅い方の足元に転がす。二人は絡まり、互いの面を割った。透明な破片が白に吸われ、床の遅延が少しだけ早くなる。彼らの消滅で、世界の処理が一瞬だけ軽くなったのだろう。

「ギャフンは?」

 返事はない。無音はここでは褒美だ。オレは息を吐いた。胸の奥に、さっきより温かいものが残る。


「……ほんとに、怖くないの?」

 リエルがまた訊く。喉の震えは少し収まっている。

「怖い。ずっと怖い」

「じゃあ、なんで歩けるの」

「怖さも、遅れる。遅れるものは、踏みつけられる」

 言いながら、自分の声が少しだけ柔らかいのに気づく。リエルはその柔らかさに気づいた顔をした。視線が床とオレの間を何度か往復する。

「司書の眼は、どこにでもある。彼らは、記録の『空白』を嫌う。空白は汚れ扱いになる。だから、全部塗りつぶそうとする」

「空白に落ちたこと、あるのか」

「いま落ちてる最中だ」

 それは冗談ではなく、事実の言い換えだった。オレの存在は帳簿の外縁部に書かれている。外縁は白に見えるが、記録のペン先からは一番遠い。遠い場所は、遅れる。遅れる場所は、足場になる。

「……君の拍、さっきから同じ」

「同じにしてる。ズン、ズン。二拍子」

「わたしも合わせたら、見つからない?」

「半歩、ずらせ。オレと同じではなく、オレから半拍ずらす。それなら、どっちの網にも同時には引っかからない」

 リエルは頷き、胸に手を当てて呼吸を整えた。彼女の胸郭が、オレより少し遅れて上下する。白が二人を別々に追いかけ始める。追いかける対象が増えるほど、白は散漫になる。散漫は、穴だ。


 通路の先で、壁が呼吸していた。膨張、収縮、膨張。人間の呼吸と逆相の波。オレは壁の正面ではなく、端の縫い目に視線を置く。縫い目は白い糸で縫合されているみたいに見え、よく見ると糸一本一本に細い記号が連なっている。衛生記号。破けたところへ貼るための、簡易の縫合線。

「ここ、開くの?」

「開かせる」

 オレは足先を縫い目の手前に置き、踵で床の遅延をひとつ拾う。ズン、ズン。二拍目に、指で縫合の糸の向きを逆に撫でる。糸は「正しい向き」に反応するようできている。正しさを逆さに撫でられると、自分で抜ける。一本、二本、三本。白が自分で解体を始める。

『逸脱検出。補整開始』

 頭蓋に落ちる声が低くなる。遅れが大きくなっている証拠だ。補整の指示が下りても、ここへ届くまでに何拍もいる。届く前に、切る。繕う前に、破る。

 縫合が六本抜けると、壁がひとりでに吐息を漏らし、裂け目が開いた。中から同じ白が覗く。だが濃度が違う。喉で感じる甘ったるさが、ほんの少し薄い。

「行くぞ」

 リエルの手首を掴み、裂け目の縁を跨ぐ。縫い目は背後で自動的に閉じ、跡形もなく白へ戻った。視線の圧が一瞬だけ強くなる。が、すぐに散る。二人分のズレが、白の配分を狂わせたのだろう。


 新しい通路は、前のものより天井が低く、温度もわずかに高い。床の遅延はそのまま残っている。壁には時折、薄い影が走る。影は人の背丈ぐらいで、足音はしない。白い靄が流れ、鼻の奥に消毒と蜂蜜を混ぜたような匂いを残す。

「監視は、どこまで届く?」

 リエルが掠れた声で訊く。

「全部。だが『同時』には届かない」

「同時じゃないなら……」

「割り込める。縫い目の間に。記録が紙なら、オレは爪だ。帳簿の余白に引っかき傷を残すための」

「……君を消そうとする理由、分かった気がする」

「オレも分かる。邪魔だろうな」

 会話の合間にも視線の圧が来ては去る。時差のある潮汐みたいに。オレはその満ち引きに合わせ、歩幅をわずかに変える。右三歩、左二歩、止める、落とす。止めてから動くのではなく、動きながら止める。息を止めるのではなく、吐きながら止める。欠番の歩法。世界の拍に、最後まで合わせないための癖。

 通路の角を曲がった先、三つの影が立っていた。さっきの代理と同型だが、面の配置が違う。中央の個体は目でも耳でもなく、面いっぱいに口だけが描かれている。周囲二体は、その口の言葉を繰り返す役割らしい。中央が囁くと、左右が大声で叫ぶ。中央が笑うと、左右が泣き真似をする。鬱陶しさの演算。

『欠番、停止。欠番、停止』

 中央が囁く。左右が叫ぶ。面の口が増え、音の層が重なる。

「三人で一人前ってわけか。手間のかかる器用貧乏だな」

 オレが肩を鳴らすと、中央の口がいくつか笑った。笑いのタイミングが微妙に合わない。面白い。中央の囁きが指揮をしているはずなのに、左右の反応はぴったりには合わない。遅延は構造だ。構造が遅れるなら、そこから壊れる。

 オレはリエルに目で合図し、半歩下がらせた。彼女の呼吸はオレの半拍遅れを守っている。いい子だ。

『停止。停止。停止』

 囁きと叫びが重なり、白い通路に波紋が走る。オレはその波の前縁ではなく、後縁を踏む。波が引いた瞬間にだけ、床の遅延が顔を出す。そこで踵を落とし、指で空気を押す。押すのは中央の面ではなく、左右の口の端。端は弱い。端は、規則が届くのが遅い。

 右の個体の口の端がぐにゃりと歪み、遅れて中央の囁きが裏返った。指揮と反応の線が切れ、三人の合奏がばらける。

『記録汚染、記録汚染』

 左右が勝手に叫びはじめた。中央は囁きを増やして収拾しようとするが、増やした分だけ遅れる。遅れた囁きは、命令ではなく残響になる。残響は命令にはならない。

「ギャフンの準備はいいか」

 オレは中央の足元を見た。白い床の縫い目が、さっきより太い。縫い目の糸に、左右の叫び声が微細な振動として乗っている。乗った振動は、一定周期で強弱を繰り返す。強い瞬間に糸を逆撫ですれば、一気に抜ける。

 ズン、ズン。二拍目で、オレはしゃがみ、指先で糸の流れを逆向きに撫でた。糸は自分で抜け、床が一瞬だけ凹む。中央の面が膝を折り、囁きが潰れた音になった。左右の叫びが、その偏差に耐えられずに高すぎる音へ跳ね上がり、面の口が割れる。

「おやすみ」

 片手で中央の面を軽く弾く。指が触れない距離。だが自分の重さで面は床に落ち、白に吸われる。左右も追う。

 静寂。静寂はここでは薬だ。舌の上で転がして飲み込む。胃のあたりの温度がやっと人間の温度に戻る。


「君、笑ってる」

 リエルが小さく言った。

「悪いか」

「悪くない。……いや、少し怖い。でも、嬉しい」

「嬉しい?」

「穴が、あるって分かったから」

 オレは頷く。言葉で整えるより先に、体の奥が頷いていた。穴は、救いだ。救いは、戦場でしか光らない。

「お前はまだ、戻れる場所を探してるか」

「分からない。戻れる場所が、本当にあったのかも分からない。でも――」

「でも?」

「今は、君の半拍の後ろを歩く。それが一番、呼吸がしやすいから」

 それは告白とも宣言とも違う。生存の決定だった。オレは「了解」とだけ答え、前を見る。


 白い通路の終端に、呼吸する壁がもう一枚ある。前のものより呼吸が速い。白は焦っている。焦りは、遅延を増やす。遅延が増えれば、穴は広がる。

『観察対象、進行阻止』

 声が落ちる。だが遅い。落ちたあとの余韻が長い。オレは胸を叩く。ズン、ズン。二拍目で壁の縫合を逆撫でし、縫い目を三本、抜く。白が震え、四本目、五本目が自動で抜けた。

「司書。見てるなら見てろ。万能の眼は、瞼を知らない。だから乾く」

 返答はない。あるいは遅れているだけだ。遅れる返答は、返答ではない。

「行くぞ、リエル」

 手を差し出す。リエルの指は冷たい。だが握り返す力はしっかりしていた。二人で裂け目を跨ぐ。背後で白が自動で縫合され、痕跡を消す。

 新しい白は、少しだけ青い。温度も匂いも、少しだけ変わっている。足裏の遅延は、オレの拍に慣れてきた。世界がオレの拍を学習し始めたのなら、こちらは拍を裏切らなければならない。

「次は?」

 リエルが訊く。

「次は、『外』に逸れる。誘導の外で一歩。小反逆だ」

「反逆って、こんなに静かでも、いいんだね」

「静かな方がよく刺さる」

 オレは笑い、口を閉じた。声は白に吸われる。だが拍は白に残る。ズン、ズン。オレの二拍子が、白の呼吸と交錯し、縫い目の一本一本に小さな揺れを刻む。揺れはやがて裂け目になる。裂け目は道だ。

 道の先に、また影が立つだろう。代理の別型か、もっと嫌な何かか。どれでもいい。オレは歩く。万能を気取る世界に、半拍早い足音を打ち込むために。

 そして、どこかで確かに、あの声が遅れて笑った。遅れて笑う声は、もう脅威ではない。白い世界の奥で、やっとオレの鼓動が自分の体温で鳴り始めていた。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

今後の更新予定日は【月曜・木曜】の22:00です!

よろしくお願いいたします!

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