未来7話 白の奥の囁き
孤独と監視だけが支配する都市で、“存在しない者”とされたオレ。
屈辱と怒りは、やがて炎となり、抗う力へと変わる。
これは未来の歯車に噛み合わない、外れ者の反逆の始まり――。
白を抜けた先も、やはり白だった。だが、通ってきた廊下の白と、この広間の白はまるで別物だ。前者が「消毒」の白なら、ここは「漂白」の白。光は表面で跳ねず、繊維の奥へ沈み、見つめ返すたびに視線の焦点を奪っていく。壁を見ているのに、壁の向こうに落ち込んでいく感覚。立っているだけで背骨の節々が拾い上げられ、薄い電気に撫でられているみたいに皮膚の内側がざわついた。
息をひとつ、細く吐いた。肺に入る空気はかすかに甘い。けれど飴の甘さではない。熟れすぎた果実の芯が腐りはじめるときの、重たく澱んだ匂いだ。気づいた瞬間、喉の奥に吐き気がこみ上げる。唾を飲み込むが、味も匂いもすぐ薄まって消える。ここでは感覚そのものが、中性洗剤で何度も洗い流された布みたいに色と手触りを失っていく。
足音が、不自然に響く。床は鏡のように滑らかで、靴底が触れるたびにわずかな摩擦音が倍音を伴って広がる。歩くたび、背後に別の足音が張り付く。振り返っても、あるのは自分の影だけ。けれどその影が半拍遅れて動く。オレが止まったあとに影が止まり、首を傾けたあとに影が傾く。世界がオレを観察し、模倣している。
声を出すのはやめた。音を投げた瞬間、ここはそれを口実に別のものを呼び寄せる。そういう湿り気が、白の表面に薄く残っていたからだ。
広間は天井が高く、白い柱が格子状に林立している。柱のひとつひとつに銀色の管が絡み、透明な液体が脈動していた。拍動は心臓に似ているが、オレの胸の鼓動とは半拍ずれている。ズン、ズン、と自分の中で鳴るリズムに、天井の光がズレて重なり、不協和音を作る。管の中を小さな何かが泳いだ。虫の群れのように点で、魚の群れのように面で動く。輪になり、ほどけ、また集まる。視線を合わせると、群れは速度を変えた。オレの存在を計測している。息が細くなる。
『観察層へ到達。欠番、分類未完』
声が頭蓋の内側に落ちた。天井に黒い孔が開き、眼のようなものがいくつも覗き込む。前の階層の監視は単調だったが、こいつらは違う。視線に色がある。濁った灰、淀んだ赤、鈍い緑。感情を持たないはずの目が、嫌悪や嘲笑を模倣していた。
「色付きかよ。趣味わりぃな」
唇が乾く。色は意味だ。意味が付くなら、規則がある。規則があるなら、穴もある。
柱の陰から十人の人影が現れた。白い装束に灰色の面。面の口は笑いに固定され、目は黒い孔で塗りつぶされている。彼らは同じ歩幅、同じ角度で広がり、円を描いてオレを囲んだ。靴音の高さまで揃っているのが余計に気色悪い。
『ここは観察の層。君の振る舞いが未来を決める』
「未来? 笑わせんな。お前らの台本に“未来”って語はねえだろ」
掌の中心に赤い記号が灯る。床に幾何学模様の円が浮かび、オレの肩と腰に重しが載った。身体は動く。だが関節の角度だけが“適切”に矯正される。優しさの形をした暴力。群衆のひとりが甲高い笑いを上げる。電子音を混ぜた耳障りな笑い。すぐに十人全員が同じタイミングで重ね、広間が同じ笑いで満たされる。
「カーニバルか? いや、猿芝居の合唱か」
『祭りは秩序。秩序は清潔』
「祭りにしちゃ、拍が死んでる」
膝を沈め、一気に床を蹴る。押し付けられていた角度を筋力で撓ませる。円の輪郭が濁り、赤い線がガリッと不協和に震えた。群衆の笑いが半拍遅れる。
『逸脱。逸脱。逸脱』
十の声が重なる。オレは最も近い面に飛び込み、両手で面を掴んだ。硬いはずの素材が掌でぬるりと変形し、皮膚のように温度を持つ。剥がす。内側から現れたのは人間の顔だった。表情は剥ぎ取られ、目の位置は黒い孔に置き換えられている。嗚咽が喉の奥でひび割れ、意識の端で震えた。
「戻れねえなら――消えろ」
面ごと床に叩きつける。幾何学模様が乱れ、赤い記号が切れた。群衆が叫ぶ。叫びは悲鳴ではなく、システムのエラー音。次々に面が崩れ、押し付けられていた重さが剥がれた。
「ギャフン。言ったな」
広間が静かになる。静寂はここでは消毒液だ。音の形を溶かし、同じ温度に戻す。だからこそ、次の囁きはよく響いた。
『面白い。やはり、君は欠番だ』
冷たく、しかし愉しげな声。カストの平板でも、ベルクの軽薄でもない。もっと深い。床下を這う配線を伝って骨に触れてくる感じ。群衆が左右に割れ、ひとりが前へ出る。口元の笑いがより深く彫られた面。手には輪を備えた短い杖。輪の内側を微細な記号が流れている。
「親玉か」
『式次第を司る者。式司と呼べばいい』
「肩書きのセンスが悪い」
『肩書きは秩序の響きだ。君には似合わない』
「似合わなくて結構」
輪が小さく鳴る。音は出ないのに、胸骨の内側がチリ、と震えた。床に三重の円が展開され、外周から白い“指”が芽吹く。数十、数百の指が足首や膝裏、ふくらはぎの筋に触れ、そっと押してくる。痛くない。だが逃がさない。“最適”という名の角度に身体を連れ戻すための優しい圧。優しさほど始末の悪い拘束はない。
呼吸を半拍ずらす。ズン、――ズン。吸う間を意図的に伸ばし、吐く瞬間に肩甲骨を内へ寄せ、骨盤をわずかに回す。指の押しが、リズムのズレで空を撫でる。第二の円が起動し、指は増え、触点が増えたぶん制御が厳密になる。オレは逆に、指と指の隙間を身体ごと滑った。最適の隣は穴だ。そこへ落ちる。
『補正値、上げ』
「上げ続けて窒息しろ」
輪が強く光る。第三の円で指が刃に変わった。紙の縁みたいに薄い刃が皮膚を裂き、足首に熱い線が走る。血が落ちる。落ちた瞬間、白に吸われる。だが刃は血を嫌った。白は汚れを嫌う。すぐに天井の孔が開き、白い霧――除染のシャワーが降りてきた。床を洗い、刃を洗い、世界の輪郭を“正す”。
「床が汚れてるぞ。先生。掃除はお前の仕事だろ」
式司が輪を振る。白の霧はさらに濃くなる。視界の白さが増すほど、白は自分を削る。オレはわざと姿勢を崩す。肩を落として背中を丸め、片膝を内へ倒す。霧は「直せるもの」を優先する。歪みを正すためには近寄らなければならない。近寄る瞬間が、穴だ。
霧が肩を撫でる瞬間、上体を落とし、床の刃の間へ腕を差し入れてひとつ折る。パキ、と骨に似た手応え。第二、第三の円の位相がわずかに乱れ、輪の刻印が一瞬チラついた。そこへ半歩踏み、半歩引く。十一回目で二歩、十二回目で静止。自分の拍と、霧の拍と、床の拍。三つのリズムをずらし、その継ぎ目に重心を置く。白は嫌うものを先に消す。だから、先に近づく。能動になった白は掴める。
式司が帯を呼んだ。透明の帯の縁に微細な刻印が流れる。衛生刻印。ベルクの玩具と同系統。オレは帯の縁に自分の血を塗る。赤が白を汚す。帯が一瞬ためらった、その隙に帯を捻って輪に通し、式司の手首へ返す。
『外部汚染、検出。局所除染、優先』
白い霧が式司の肩口に噴きつけられる。装束が湿り、繊維が溶け、輪の刻印がにじむ。式司は笑いを崩さない。面の口元が固定されているから、笑い続けるしかないのだ。
『私は例外処理だ』
「ここでは例外が一番先に洗われる。構造の神サマ」
霧は止まらない。式司が除外命令を投げても、広間は緊急衛生基準に切り替わっている。ローカルの例外は通らない。白が白を攻撃する。清潔が自分を削る。その滑稽さに、喉の奥で笑いが泡立つ。オレは床の刃をもう一枚折り、式司の足元へ投げた。彼はよろめき、同心円の境に足を突っ込む。帯が足首を捕まえる。動く汚染源は、拘束の第一対象。白い帯が膝と肘を背中で交差させ、姿勢を“最適”に矯正した。最適な惨めさ。
「肩書きが剥がれたお前は、ただの汚れだ」
面の孔がかすかに揺れた。反射だ。彼はなおも輪を掲げようとして、帯に肘を締め上げられる。オレはつま先でその顎を持ち上げ、黒い孔と視線を合わせる。孔の底は空っぽだ。よかった。ここで哀れむ理由はどこにもない。
式司の口元に貼られていた小さな膜を剥がし、逆さに貼り直した。命令が反転し、声帯は無音へ固定される。口の形だけが猿芝居を続け、音は出ない。相応しい沈黙だ。天井の孔が点滅する。
『三次:衣類剥離』
霧が装束の織り目をほどき、紙吹雪のように剥ぎ取っていく。床はそれをすべて飲み込む。式司の肌はまだらに赤く腫れ、拘束された姿勢が惨めさの形を完成させた。
杖を拾い、輪を指先で回してみる。近くで見るほど安っぽい。数式のふりをした合印。オレはそれを足で踏み割った。割れ目が広間の同心円へ伝わり、床から生えていた白い指がふっと萎む。空気の重さがひとつほどけた。呼吸が通る。脈が浅く速い奴らの足音が遠くで跳ねたが、近寄ってこない。彼らは“進入禁止”と“清掃中”を同じ意味で扱う。便利な習性だ。
『進め。君の“無”は刃になる』
さっきの声が、今度は耳介の内側に触れるほど近くで囁いた。命令ではない。誘導だ。オレはあえて逆へ歩く。管の脈動が不規則な列を選ぶ。管の中の群れが反応し、接続部で小さな渦ができる。渦が残る。残るものは、この世界では珍しい。残るなら、そこが穴になる。
渦の真下に立つ。天井の孔がわずかに寄り、色が薄くなる。色が抜けた眼はただの孔だ。孔は通路だ。オレは掌を天井へ向け、指を一本ずつ折った。五本目が掌に触れる瞬間、床の下から低い唸りが這い上がってくる。嫌がっている。嫌がるなら押す。踵で床をわずかに打つ。ズン、ズン。音は消されるが、拍は残る。拍で白を叩く。
孔が開いた。白の向こうに白が続く。だが、濃淡の差が見える。同じ白は存在できない。コピーは必ず誤差を生む。誤差は裂け目になる。そこを越える。
踏み出すと、背骨の内側が冷え、次に熱が走る。後ろで何かが崩れる音がした。式司か、帯か、床の刃か。どれでもいい。前を見る。新しい通路の白は、先ほどより粘度が低い。靴裏が床を掴める。
角を曲がった先に、人影があった。白に溶けかけた輪郭だが、足音は生だ。訓練された靴音。三人。呼吸は浅く速い。遮断命令が飛ぶ。
「搬送ライン異常! 監督官応答なし! 観察対象、移動! ユニット三、四、遮断!」
盾が展開された。透明な六角形が蜂の巣のように重なり、甘い匂いが鼻の奥に触れた。蜂蜜の匂い。吐き気が少し戻る。いい合図だ。オレは吐き気の波に合わせて半歩遅らせ、天井の角と角の中点へ視線を固定し、呼吸を一瞬止めた。床の白がわずかに沈む。沈んだ白は戻る。その反動で盾の縁が一瞬遅れる。継ぎ目に、つま先を差し入れて外から内へ押す。甘さは腐る。盾は音もなく崩れた。
後方の二人が帯を放つ。オレは帯の手前で止まり、わずかに下がった。帯が空振りし、開いたバルブから白い霧が彼ら自身に降る。咳が三回以上重なり、上品だと教えられた回数をあっさり超える。端末が床に落ちる。オレは踵で踏み潰し、表示の記号を泥のように歪めた。泥は白に嫌われる。白は白を洗い続ける。その間に通り抜ければいい。
足音を消し、鼓動だけを残す。ズン、ズン。世界の律動とは合わない自分だけの二拍子。この拍が、ここでの唯一の自由だ。拍で白を叩き、ひびを広げ、指をかけ、少しずつ壁を内側から腐らせる。
『いい拍だ。君の歩き方は美しい』
「お世辞は要らねえ」
『構造の観点からの評価だ。――進め。私も進もう。君の少し前で、君の少し後ろで』
「ストーカーの言い訳が構造ね。くたばれ、構造」
言い捨てて、もう一度だけ深く息を吸った。陽菜の横顔が、ふいに浮かぶ。坂道の風、頬にかかった髪、笑い声の高さ。触れられなかった指先の温度。ここでも消えないものがある。消えないなら、白は完全にはならない。完全じゃない世界は壊れる。壊せる。オレの拍で。
白は沈む。影は遅れてついてくる。遅れる間だけ、世界はオレのあとを追いかける。それが今の、唯一の贅沢だった。
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