未来6話 笑う監督官
孤独と監視だけが支配する都市で、“存在しない者”とされたオレ。
屈辱と怒りは、やがて炎となり、抗う力へと変わる。
これは未来の歯車に噛み合わない、外れ者の反逆の始まり――。
輸送区画の白は、消毒液の甘さを含んでいた。鼻が慣れてしまえば匂いは掴めない。だが喉がわずかに痺れる。舌の奥で金属を舐めたみたいな味が広がり、唾はすぐ薄まって消えた。壁は相変わらず滑らかで、天井の光は規則正しく点滅し、足元は鏡のように反射してオレを歪める。そこに、靴音が混ざった。乾いた、やけに威勢のいいテンポ。軽薄な自信が音になったような足取り。
「やれやれ。これが噂の“欠番”か」
声の主は細身で背の高い男だった。白衣の裾をひらつかせ、胸には衛生局の徽章。髪は艶が出るほど撫でつけられ、口元には自分だけに聞こえる拍手みたいな笑みが貼りついている。眼鏡のフレームは鋭角に尖り、レンズの向こうで目は笑っていない。
「清掃監督ベルクだ。君のような不始末を“目に見える清潔”に直すのが仕事でね」
清掃監督。言葉だけで、もう鬱陶しい。
「検疫官カストの案件だ。テメェの出番はない」
「おっと怖い。君は発話の衛生が悪いな。下品な言葉は菌を呼ぶ。だからこそ、私が磨く価値がある」
ベルクは指先で軽く弧を描いた。空中に白い枠が現れ、枠の内側に工具の影が並ぶ。薄刃のカミソリのようなもの、透明な粘膜のようなもの、霧を吐く短い管。どれも音を立てない。代わりにベルクがうるさく喋る。
「私はね、秩序が好きなんだ。光が一定の間隔で点滅し、影が等しい長さで伸びる世界。埃の一粒も、呼吸の乱れも、私は嫌いだ。旧人類はそこがダメだ。感情で喋り、感情で動く。非効率の極みだ。――さて、君も今日から清潔になろう」
透明な帯が足首に絡みついた。昨日の連中より質が悪い。柔らかいのに、動きを奪う角度だけを正確に掴んで締めてくる。ベルクは満足げに頷き、次に薄い膜を取り出した。
「これは“衛生刻印”。肌理の上に理想の規則を写し込む。素敵だろう?」
オレは腕を引いた。帯はたわまず、むしろ笑うみたいに微かに震え、関節の回転を制限する。
「じっとして。雑な抵抗は嫌いだ。――始めるよ」
膜が頬に貼られた。貼られた瞬間、微弱な熱が皮膚の表層を撫で、毛穴の一本一本に無言の命令を刷り込む。無表情で従う命令。オレの内側で、何かが逆立つ。
「旧人類の皮脂は面白い。油断と怠惰の組成をしている。だが清掃は希望だ。磨けば光る、ね?」
「鏡張りの床に自分だけ映してシコってろよ」
ベルクは瞬きもせず笑みを濃くした。「言葉が汚い。まずそこから直そう」
霧の管が喉に向けられた。噴かれた瞬間、気道の内側に薄氷が張る。咳が出る。ベルクは咳の回数を指で数え、満足そうに頷く。
「君は咳も下品だ。いいか、咳は二回で止めるのが上品だ。三回以上は猿の音楽だ」
「お前の顔は一生猿回しだ」
「はは。いいね、活きがいい。磨き甲斐がある」
鬱陶しさは、技術の無機質と相まって毒の濃度を上げる。ベルクは道具を踊らせ、オレの動脈の拍動を測り、舌苔の厚みまで評価し、鼻腔の湿度に点数を付ける。点数はすべて彼の気分に従って上下し、そのたびに彼の笑みは小さく増減した。
「この点数がね、君の“価値”になる。数は残酷だが公平だ。安心しなさい、私の手は誠実だ」
「誠実な手で、どれだけの人間の顔を潰した?」
「潰す? 違うよ。整えるんだ」
「鼻を真横から折っても?」
「必要ならね。形は意味のためにある。意味が優先される」
オレは呼吸を整えた。心を冷やす。――やり方が見えた。ベルクの膜は静電で付着し、短時間は肌の上で識別子として働く。さっき貼った一枚は、ベルクの端末と同期している。なら、貼り返せばいい。オレはあえて暴れてみせ、手首の帯を強く擦って出血させる。血はこの施設にとって“汚染源”だ。汚染源は即座に処理対象になる。ベルクが眉を顰め、霧の管を近づけた瞬間、オレは顔を横に振り、頬の膜を自分の肩に滑らせ、そのまま肩をベルクの胸に打ち付けた。
膜が移った。ベルクの白衣の胸、徽章のすぐ下に薄い透明が張り付き、微細な光が瞬く。
『外部汚染、検出。局所除染、優先』
天井の目が動いた。ベルクの肩口に白い霧が噴きつけられる。彼の笑みが一瞬止まり、次の瞬間にはさらに濃くなった。
「悪戯か。可愛いじゃないか。だが無駄だ。私は“例外処理”だ」
彼は端末を払って除外命令を投げる。だが霧は止まらない。除外はシステム全体の承認がいる――さっきオレが出血したせいで、輸送区画は“緊急衛生基準”に切り替わっている。ローカルの権限では止められない。
「止まれ」
静かな声。けれど霧は冷徹に続行する。ベルクの白衣が湿り、次第に繊維が溶け、胸元の徽章が床へ落ちて転がる。彼の表情が初めて歪んだ。
「冗談だろ……私は監督官だぞ」
『肩部除染、継続。二次:角質除去』
白い粒子が強くなり、皮膚の表層が削がれていく。ベルクは慌てて後退しようとしたが、オレは足を一歩踏み出して彼の進路に重心を置く。見かけ以上に彼は軽い。肩が当たるだけで、反射でバランスを崩した。
「どけ」
「衛生の先生、足元にゴミが落ちてるぞ。お前だ」
ベルクの目が憎悪で濁る。「汚い口だ」
「だから言ったろ。お前の顔は一生猿回しだ」
ベルトが彼の足首に絡み、倒れかけた体勢を更に崩す。システムは“動く汚染源”を拘束するよう設計されている。ベルク自身が今、その定義に落ちた。
『対象:汚染。拘束、展開』
透明な帯がベルクの手首を取り、背中で交差して締め上げる。床の鏡面に映る彼の顔は、さっきまでの得意げな笑みが見る影もない。白衣は霧に薄く透け、肌はまだらに赤く、非対称に腫れ始めている。彼は必死に端末を操作するが、承認が弾かれる音が乾いた空気に吸われた。
「君……この汚い旧人類風情が……!」
「静かにしろ。口から菌が飛ぶ」
「お前ごときが――」
「お前ごときに、言われたくねえ」
オレは彼の顎をつま先で持ち上げ、視線を合わせた。冷えた怒りを、そのまま言葉にした。
「オレは人間だ。お前は肩書きだ。肩書きから剥がれたお前は、ただの汚れだ」
ベルクの目が揺れる。彼はなおも虚勢を張る。「私は戻る。私は監督官だ。君を必ず磨く。磨き尽くして、跡形もなく――」
「うるさい」
オレは彼の口元に貼られていた小型の“音量制御膜”を剥がし、逆さに貼り直した。膜は命令を反転し、彼の声帯を“無音”へ固定する。喉が動くのに、音が出ない。口の形だけが猿芝居を演じる。
『外部汚染、払拭未完。三次:衣類剥離』
霧の粒子が箒のように彼の白衣を撫で、繊維を一枚ずつ分解する。ベルクは声にならない悲鳴を上げ、床に転がり、関節の角度を“最適”に矯正されながらじたばたともがいた。滑稽で、惨めで、正しい。
オレは彼の端末をつま先で跳ね上げ、空中の表示を目で追う。緊急衛生基準、除外権限の制限、監視網の誤差許容幅――さっきから少しずつ広がっている。乱した甲斐があった。
上方で黒い影が三つ、こちらを観察している。カストのあの冷たい目ではない。末端の監視。報告は上がるだろうが、今、この瞬間の主導権はオレの手にある。
ベルクが床を這い、オレの足に爪を立てようとした。オレは軽く足を引き、彼の指を踏み外させ、ついでに踵で端末の停止キーを叩いた。表示が崩れ、解像度の荒い彼の顔が一瞬だけ映る。憎悪、羞恥、恐怖。そこに悲哀は一滴もない。あるのは自分への怯えだけだ。
「覚えとけ。オレは汚れだ。お前らの規則じゃ落ちない汚れだ」
冷酷に言い捨て、オレは背を向けた。後ろで霧が続き、ベルクの衣類が紙屑みたいに千切れていく。拍手の音はない。代わりに、天井の光が一拍だけ遅れ、すぐ規則に戻った。
輸送区画の枠が一斉に明滅を切り替えた。“搬送経路再計算”――ベルクが除外され、手動が介入できない。今なら一つ、通せるかもしれない。半テンポ遅い枠の前に立ち、呼吸を半拍ずらす。心拍を意図的に加速し、視線を天井の角と角のちょうど中点に固定する。影の目がそこへ集中する瞬間、オレは半歩、半歩、そして一歩、白へ入った。
空気が変わる。骨の内側が冷える。背後で何かが崩れる気配がした。ベルクか、帯か、どちらでもいい。オレは前を見る。白の向こうに、白が続く。だが、さっきより光の濃淡がある。目が慣れたのではない。世界のほうが、オレに焦点を合わせ損ねている。焦点が合わなければ、管理は鈍る。鈍れば、穴が開く。
扉の先で、別の人間の声がした。硬く、訓練された声。「搬送ライン異常、監督官応答なし。観察対象、移動。――誰が手を出した?」
オレは笑った。歯を見せない笑い。
「衛生の神さまにな。祈りが届いたんだろ」
足音が近づく。新しい鬱陶しさが来る。いいだろう。オレは汚れだ。消毒を嫌い、規則を喰う汚れだ。
心臓が速く打つ。ズン、ズン。世界の律動とは合わない、オレだけの拍。
この拍で、白壁の檻を、少しずつ内側から腐らせていく。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
本作は今回から毎週〈月曜・木曜〉更新 で続けていきます。
少しゆっくりになりますが、そのぶん一話一話を大切に仕上げていきますので、これからもお付き合いいただけると嬉しいです。