未来5話 白の枠
孤独と監視だけが支配する都市で、“存在しない者”とされたオレ。
屈辱と怒りは、やがて炎となり、抗う力へと変わる。
これは未来の歯車に噛み合わない、外れ者の反逆の始まり――。
沈黙は檻、規則は鎖。ここで生き残るには、噛み切るしかない。
白い枠は、入口でも出口でもない。境界そのものだ。踏み越えた瞬間、空気の密度が変わる。音の粒子が細かくなって、呼吸がひゅっと浅くなる。オレは枠の手前で立ち止まった。ここから先は、戻れない感じがした。
天井の光は、規則の通りに点滅を続ける。だが、その律動は鼓動と微妙にずれていて、胸の内側をじりじりと擦り傷のように削る。遠くで、羽ばたかない鳥の輪郭が四つ、五つ。黒い眼孔だけが生き物みたいに収束と拡散を繰り返し、オレを中心に網を張っていく。
『対象、欠番。挙動記録、継続』
脳に石を落としたみたいに意味が響く。オレは息を細く吐いた。
「記録ばっかしてねえで、意味を覚えろよ」
独り言の体裁で挑発する。帳簿に響かない声でも、身体には残る。声帯が震え、歯の根が鳴り、舌先に鉄の味が滲む。これがオレの“記録”だ。
右から二つ目の枠は、明滅がわずかに遅い。昨日(と呼んでいいのか分からないが)から目を付けていたやつだ。足先を半分だけ入れ、すぐ引く。皮膚に薄い電の舌が触れ、脳の奥に粟立つ寒気が走る。三度目で、足首の外側に輪のような光が、ぱっと灯った。
『通過申請、拒否。観察優先度、上げ』
黒い眼が一段階近寄る。天井の網が、目に見えるほど密度を増す。視線の圧が骨を重くし、関節の回転に砂が噛む。オレはあえて歩幅を乱し、無意味に半回転し、ついでに中指を立てた。
『挙動……異常。処理……保留』
「それしか言えねえのか」
吐き捨てる。保留は棚上げだ。棚にも載らないなら、棚の脚を蹴るだけだ。
枠の縁に掌を押し当てる。硬いのに柔らかい、あの矛盾した弾力。表面は水のように波打ち、中心は石のように動かない。押すほど、掌は飲み込まれ、骨の輪郭だけが残っていく。そこで、空気の密度が変わった。
背後から、規則正しい靴音。乾いた金属の咬合音。あのテンポを、オレはもう忘れない。
「招集に応じないのは、衛生観念が低い証拠だ」
振り向く。白衣の処刑人――検疫官カストが、淡々と歩いてきた。顔の作りは整っている。だが、表情は相変わらず石膏の仮面だ。
「お前……」
「君の動向は逐一、監視されている。枠の通過は拒否だ。検査施設で再評価する」
「勝手に決めるな」
「勝手ではない。規則だ」
カストは端末を払う。空中に青白い記号列が展開し、最下段で赤が点滅する。
《対象:不明/分類:欠番/扱い:要拘束》
「やめろ」
「命令形は無効だ。無害化プロトコル、起動」
足首の光輪が一瞬だけ熱を持ち、次いで冷えた。重心が奪われ、膝の角度が固定される。オレは体勢を落としながら、床に拳を叩きつけた。鈍い衝撃が骨に返る。皮膚の下で血が広がる感触。床は赤を吸い、跡形もなく飲み込んだ。
「……またそれかよ」
「痕跡は衛生を損なう」
カストの声は平板だが、言葉だけはよく切れた。嫌味というより、無味。味がないことが、いちばん鬱陶しい。
「連行に応じれば、痛みは最小限に抑えられる」
「断る」
「では、最適化する」
空中に薄い枠がもう一つ現れた。棺の形。イヤな予感しかしない。カストが指を弾くと、枠から透明な帯が伸び、オレの手首に絡みつく。布ではない。プラスチックでもない。冷たくも熱くもないのに、動きを奪う。
「舐めるな」
オレは身を捩り、全力で帯を引きちぎろうとする。筋繊維が悲鳴を上げ、背骨の筋が軋む。帯はきゅっと音もなく締まり、関節の角度を“最適”に矯正した。
「君は非効率だ」
「人間は非効率でできてんだよ」
「だから、欠陥だ」
喉の奥で何かが爆ぜた。怒鳴ろうとした瞬間、帯が首筋に軽い痺れを走らせ、声を薄く削いだ。
「検査施設まで搬送する。名称はクレンゼ・ベイ。衛生の湾だ。美しいだろう?」
「最悪のネーミングだな」
「評価は不要だ。――転送」
白い棺の中に、細かい粒子の霧が満ちる。視界が霞み、耳の奥で自分の鼓動が遠のく。だが、完全には落ちない。意識はぎりぎりのところで踏みとどまる。多分、それも“最適化”の一部だ。逃げられない程度に、痛みは残す。
次に目を開けたとき、世界は同じ白だが、匂いが違った。無臭の中に、微弱な消毒の甘さがある。カストの言う「衛生」は、味を持たない甘さで世界を塗りつぶすらしい。
ここが検査施設か。壁はさらに滑らかで、天井の光はより深く、床は鏡のように反射した。反射の中のオレは輪郭が崩れ、影だけ濃い。
『搬送、完了。対象、固定』
頭に降る声。オレの手首足首には、見えない“角度”が設定されていて、それを外れると静かな痛みが刺さる仕組みになっている。
カストが歩み寄り、器具を取り出す。針のない注射器のような口、透明な膜、光を飲む黒いレンズ。
「二次検査を行う。抵抗は意味を持たない」
「意味は自分で決める」
「意味は規則が与える」
「なら、規則を喰う」
カストはほんのわずか眉を動かした。感情というより、“異常値”に触れたという反応だ。
「興味深い表現だ。――開口」
器具が喉元に触れる。冷たくも熱くもない、あの嫌な感触が喉から胸へ、肺から血管へ、脳へと通り抜けていく。気道の内側を撫でられると、身体は反射的にむせた。涙が滲む。オレは歯を食いしばり、呼吸のリズムを故意に乱す。測りにくい呼吸。測定は誤差を生む。
『誤差、微増。許容内』
「許容の幅が広いのが、お前らの弱点だな」
「適応の幅だ」
「言い換えは得意かよ」
透明な膜が頬に貼られ、すぐ剥がされる。内側に皮脂の地図が描かれる。カストはそれを端末に流し、淡々と評価した。
「皮膚常在菌、旧系統。病原性は低い。だが共生率も低い。社会に依存していた時代の遺物だ」
「人は互いに寄りかかって生きる。お前らみたいに、誰にも触れずに生きない」
「触れることは汚染だ」
「だから、お前は汚れてるんだよ。心が」
カストは答えず、黒いレンズをオレの瞳孔に向けた。光が射し、視界が白い霧で満たされる。思考の輪郭がふわりとほどけ、記憶の棚から陽菜が現れた。夕暮れの坂道、小石を蹴る音、ポニーテールの影。触れそうで触れられなかった指先の熱。
「――待ってろ」
知らずに漏れた声に、カストが首を傾げる。
「誰だ」
「お前には一生関係ない人だよ」
「関係のない情報は、記録しない」
「それが、お前らの欠陥だ」
検査は続く。喉は焼け、鼻は乾き、耳は自分の鼓動をやたら大きく拾う。痛みは最小に抑えられているのに、精神だけが摩耗していく。人間から“雑味”を剥がす作業だ。味がなくなるほど、オレの怒りははっきりした輪郭を得る。
『二次検査、完了。対象評価:予測、困難/処理:保留/管理:強化』
赤い語が最下段で点滅する。
「保留ね」
「分類不能は、保留だ」
「分類できないなら、分類する側が間違ってる」
「世界は、間違わない」
「世界は人が作った。人は間違う」
カストは一瞬だけ黙り、端末を閉じた。
「輸送区画で待機させる。君の居場所は、そこで定義される」
「居場所は、自分で決める」
「決めた結果が、ここだ」
透明の帯が緩み、オレは立ち上がった。足元は滑らかすぎて、重心が逃げる。天井の光は規則を刻み続け、壁の白は息を呑むほど清潔だ。清潔は暴力だ。汚れを許さない清潔は、人から生を奪う。
輸送区画と呼ばれた部屋には、白い枠が六つ並んでいた。明滅の速度はそれぞれ違い、右端の一つだけが半テンポ遅い。オレはそこを選ぶ。選ぶという行為だけが、ここでの自由だ。
黒い眼が天井からゆっくり降りる。数は十を超えていた。網はさらに細かくなり、呼吸の隙間さえ測られている感じがする。
『対象、欠番。遷送準備、開始』
「準備ばっかだな。結果出せよ」
『結果……処理:保留』
笑ってしまう。こいつらの語彙は、世界を狭くするために作られているのだろう。狭ければ、管理しやすい。だが、狭い世界ほど、外側からの一撃に弱い。
オレは胸に手を当て、鼓動を数える。ズン、ズン。ゆっくり増速し、同時に呼吸を浅く速くする。自分の内部のリズムだけで、外部の律動を乱す。半テンポ遅い枠に、半歩だけ足を入れ、引く。入れ、引く。十回繰り返し、十一回目で二歩、十二回目で静止。
『監視誤差……微増。許容内』
「許容を越えるまで、続けるだけだ」
オレは笑い、唇の内側を噛んだ。薄い血の味が、ここで唯一の色だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
本作は次回から 毎週〈月曜・木曜〉更新 で続けていきます。
少しゆっくりになりますが、そのぶん一話一話を大切に仕上げていきますので、これからもお付き合いいただけると嬉しいです。