未来4話 憤怒は無音を喰らう
孤独と監視だけが支配する都市で、“存在しない者”とされたオレ。
屈辱と怒りは、やがて炎となり、抗う力へと変わる。
これは未来の歯車に噛み合わない、外れ者の反逆の始まり――。
沈黙が戻る。だが、もう最初の無音とは違った。耳の奥で鼓動がひとつ、ふたつ、と数えられるたび、胸の裏側に小さな火の粒が生まれていた。カストの靴音は消えたのに、言葉だけが残っている。「君の未来は、ここには存在しない」。
肺の底で空気が重たくなる。吐く息は透明で、温度がない。温度がないのに、怒りは確かに熱だった。逃げ場のない熱はゆっくりと身体の隅々に広がり、皮膚の下で薄く赤く灯る。指先が痺れる。噛みしめた奥歯から、鉄の味が滲む。
歩く。白い通路は変わらない。等間隔の柱、継ぎ目の見えない壁。天井の光の線は規則を守りながら、ほんの僅かに脈拍とズレ続ける。ずれが積もって眩暈になる。壁の面は鏡のように滑らかで、映るのは輪郭の曖昧なオレの影。影のない都市に、影のような自分だけが浮いている。
足の裏で床を押す感覚を確かめる。かかと、土踏まず、親指の付け根。順に重心を移すたび、筋肉の線が一本一本思い出される。名前を奪う都市で、身体だけがオレの名簿だ。
通路の角に、淡く光る帯が走っているのに気づいた。近寄ると、それは高さ一メートルほどの位置で横に伸び、数メートルごとに小さな刻印を抱いていた。視線の角度で形を変える印。さっきは読めなかったが、今は意味のヒントを掴める気がした。
――通行ログ。
脳裏にそんな言葉が浮かぶ。ここを通ったものの影。記録の影だ。だが、オレの通行は刻印に現れない。指でなぞる。指先は文字の上を通り抜け、指紋だけが壁に吸われ、すぐに拭い去られる。痕跡は許されない。
喉が渇いた。水の気配はどこにもない。口内の唾液は味を失い、舌は自分が舌であることを忘れていく。空腹も、痛みも、すべてが弱くなる。弱くなるほど、怒りだけが輪郭を強くする。
目を閉じる。暗闇はここでは貴重だ。暗闇の中に、陽菜の笑い声が浮かぶ。夕暮れの坂道。自転車のハンドルに乗る手の重さ。小石を蹴る音。――それらは帳簿に載っていない。載っていないからこそ、ここでだけ強く光る。
「君の未来は、ここには存在しない」。
ならば、オレの過去はここで唯一の火種だ。過去で暖を取り、未来を燃やす。そう決めた瞬間、胸の奥の火は、少しだけ形になった。
広間に戻る。天井は高く、光の線が幾何学の網を張る。あの網は、すべてを数えるための目に見えない格子だ。格子に乗らない点は、誤差としてはじかれる。オレは誤差だ。誤差は嫌われる。だから、消される。
拳を握る。床に打ちつけた。鈍い音が骨に返る。床は痛みを吸い取らず、増幅せず、ただ通り過ぎさせる。オレの怒りが床に染みないことが、さらに怒りを育てる。
もう一度叩く。皮膚が破れ、血が滲む。ここでは血の匂いすら薄い。それでも痛みは確かにある。痛みは数えられない。数えられないものだけが、ここでの武器だ。
上方に、黒い影がふたつ現れた。羽ばたかない鳥の輪郭。金属の眼。
『監視更新……対象、欠番。挙動記録、継続』
意味の塊が降り、脳に沈む。
見ていろ、と心の中で言う。声にしても帳簿は笑わないが、オレの骨は聞いている。
ゆっくりと、広間の端から端へ歩く。一定のテンポを崩し、わざとリズムを外し、時に立ち止まり、時に小走りになり、突然に後ろを向く。監視のレーザーのような視線が、半歩遅れて追いかけてくる。
測りにくい動き。
たぶん、それだけで彼らには負担だ。規則に合わせることを強制する都市で、規則の外側を歩くだけで、わずかに砂が噛む。砂は歯車を殺す。
「欠番」。
その呼び名を、今は逆に口の中で転がす。欠けた番号、列に入らないもの。空白。――悪くない。空白は、何でも書ける。
オレは胸の中央に手を当て、軽く叩いた。鼓動は速いが、一定だ。ここに書けばいい。帳簿が書けないなら、オレが書く。
指で床に線を引こうとした。跡は残らない。ならば、足で描く。円、円、円。足裏で薄いリズムを刻む。黒い影の動きが、そのたびに半歩遅れ、収束に失敗し、上方でわずかにぶれる。
『監視誤差……許容内』
まだ足りない。誤差を膨らませるには、もう一手がいる。
通路へ戻り、白い柱の一本に背を預ける。滑らかな表面に体温は移らない。体温が裏切られる。苛立ちが熱を増す。
カストの声が頭の中で再生される。音は平坦で、言葉だけが棘を持っていた。「棚にも載らない。棚を汚す」。
――汚してやる。
拳ではなく、言葉で。ここでは言葉は空気の振動以上の意味を持たない、と彼は言った。だが、オレの言葉はオレの中では意味だ。意味は熱だ。熱は拡がる。
オレは独り言を始めた。耳に届かないほど小さい声で、しかし、はっきりと。
「オレは、欠番。名前のある欠番。帳簿の外から、お前らの格子を歪める」
韻を踏む。リズムを作る。リズムは身体に残る。意味は骨に沈む。沈んだ意味は、動作を変える。
再び広間に出る。四角い枠――あの扉のような境界が、相変わらず淡く光っていた。中を覗くと、似たような通路が見える。違いは、向こうの天井の線の明滅が、こちらより半テンポ早いこと。
オレは境界に一歩だけ足を入れ、すぐに引いた。足首の皮膚に、薄い電気の舌が触れたような感覚が走る。境界は、侵入の仕方を覚えようとしている。こちらがリズムを崩せば、境界は学習に遅れる。
同じ動作を、今度は二歩でやる。入る、出る、止まる。黒い影がふらついた。
『監視基準偏差……微増。処理……保留』
保留。
また保留。
棚に載らないまま、棚の脚を揺らす。それが今は、唯一の楽しみだった。
息が上がる。喉は相変わらず渇いている。胃袋は空洞を掲げ、首の後ろがじんと痺れる。限界が近いのは分かっている。けれど、ここで倒れれば、オレは「欠番(要観察)」というラベルの下で、酸素だけ与えられ、長く長く何も奪い返せずに朽ちる。
嫌だ。
膝に手を置く。呼吸を一定に整える。
陽菜の顔を思い出す。彼女の声は、オレの中でだけ完全だ。完全なものは、ここでは外側にある。外側にあるものを、内側に持ち込むのは、オレだけの特権だ。
火の粒が一つ、二つ、また増える。胸の裏側が熱くなる。視界の端の白が、わずかに黄味を帯びる。怒りは色をくれる。
壁際に、手のひらほどの薄い切れ目を見つけた。切れ目というより、光の漏れだ。耳を近づける。音はしない。だが、風がいた。ここに来て初めて、動く空気が頬を撫でた。
指を差し込もうとする。滑る。掴めない。
それでも、ここには“隙”がある。隙があるなら、広げられるはずだ。
爪を立てる。表面は爪を拒み、しかし、ほんのわずかに引っかかった。
力を入れる。皮膚が切れて、血がまた滲む。
切れ目は、気のせいほどに広がった気がした。風が指先に強く触れる。風は匂いを運ばない。だが、温度のないここで、動くだけで価値だ。
黒い影が近づいてきた。上から、真下に落ちるように。
『対象行為……不明。観察強度、上げ』
意味が落ちる。落ちた意味に、心が沈まない。沈んでいられない。
オレは指を抜き、振り返らずに歩いた。
逃げているのではない。逃げるふりをして、監視の焦点をずらす。焦点がずれれば、切れ目の解析は遅れる。
わざと転ぶ。膝を打つ。痛みが鮮明になる。影の影が広間の床に落ち、輪郭が歪む。
立ち上がる。走る。急に止まる。後ろ向きに歩く。四角い枠を跨ぎ、戻る。
動作の連鎖は、むちゃくちゃだ。むちゃくちゃだから、記録には“ノイズ”として残る。ノイズは嫌われる。嫌われるだけで、価値が生まれる。
『監視誤差……上限近傍』
よし、と思った。
視線で天井を刺す。黒い眼は反応しない。だが、見ている。
その眼に向かって、声にはならない声で言う。
――見とけ。欠番のやり方を。
息が荒い。喉は焼けつくように乾き、胸は打楽器みたいに鳴る。指先の血はすぐに乾き、赤はこの都市の白の上で妙に目立った。床に落ちた点は、すぐに吸われ、跡形もなく消える。
それでも、オレは見た。消える前の瞬間、赤は確かに、ここに“存在した”。
存在は、ゼロに戻される。それがこの都市の流儀だ。
なら、戻される前に、次の点を打つ。点を線にし、線を形にし、形を意味にしてやる。意味はこの都市が最も嫌うものだ。
通路の果てへ向かう。距離感は狂い、時間も狂う。それでも足を止めない。止まれば、思考が沈む。沈めば、怒りが冷める。怒りが冷めれば、ここに同化する。
同化は死だ。
オレは怒りを抱いたまま、人間でいる。人間でいるとは、非効率でいることだ。非効率はこの都市の敵だ。
それなら、なおのこと誇らしい。
オレは、無意味な歌を口の中で繰り返す。意味のない韻を踏む。踏みながら、歩く。
足音は規則を持たず、規則を持たない足音は、この都市のログに穴を開ける。穴は、風になる。風は、音ではないが、動きだ。動きがあれば、温度のない世界にも“時間”が生まれる。
いつの間にか、白い枠が並ぶ回廊に出ていた。枠の向こうはどれも似たような通路だが、明滅の速度が少しずつ違う。
右から二つ目の枠の前で立ち止まる。明滅は遅い。遅いということは、学習が遅い。監視の目も、たぶん薄い。
足を半歩だけ入れ、また引く。
背後で、黒い影がひとつ、わずかに沈む。
『追跡優先度……調整』
調整の瞬間には隙がある。隙は、積み重ねれば穴になる。
オレは半歩を十回繰り返し、次に一歩を三回、二歩を一回。乱数のつもりで、しかし心拍と同期させる。自分の内部にだけルールを持つ動きは、外から見れば無秩序だ。
黒い影の投下する光が、わずかに遅れる。
『監視遅延……閾値内』
閾値内。なら、閾値を越えさせる。
膝が笑う。体力は尽きかけている。ここで倒れれば、本当に終わる。
それでも、最後にもう一度だけ、壁の刻印を探す。
帯の区切りに、小さな点滅があった。息を止めて眺める。点滅の間隔は、オレの脈拍の二倍。ならば、脈を上げれば同期を崩せる。
駆け足でその場を回る。回りながら、数える。七、八、九――。
呼吸が乱れ、視界が白む。点滅が一瞬だけ止まり、すぐに再開する。
止まった、その一瞬。
オレはそこに、存在した。
帳簿が読み損ねた瞬間、オレの名前は、オレだけの帳簿に太く刻まれる。
壁に額を預ける。冷たくも、熱くもない。だが、今はそれでいい。
胸の火は、もう消えない。
カストの言葉は、もう刃ではない。柄だ。握るための柄だ。
オレはもう一度、ゆっくりと、はっきりと言う。誰にも聞こえなくていい。
「オレは欠番。名前のある欠番。ここで、生きる」
天井の光の線が、規則通りに脈打つ。
黒い影は、少し遠くで静止した。
沈黙が戻る。が、今度は味がある。薄いが、確かな苦味だ。
オレはその味を舌で転がし、四角い枠に向き直った。
次は、踏み越える番だ。
怒りは、準備を終えた。
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