未来3話 白衣の処刑人
孤独と監視だけが支配する都市で、“存在しない者”とされたオレ。
屈辱と怒りは、やがて炎となり、抗う力へと変わる。
これは未来の歯車に噛み合わない、外れ者の反逆の始まり――。
白い枠を一つ抜け、二つ抜け、三つ目で足を止めた。
通路はわずかに広がり、天井の光の線が網目のように重なっている。明滅は規則正しく、しかし微妙に脈を外し続けて、見ているだけで神経をすり減らした。歩いても、景色は変わらない。変わらないという事実だけが、変わらずにオレを削る。
その時だった。
遠くから、硬い靴底で床を叩く音が近づいてきた。
カン、カン、カン――。
一歩ごとに、薄い水面を突くみたいに無音の空気が震える。反響はない。なのに、規則だけがやけに生々しい。人だ、と理解するのに、二拍もいらなかった。胸が勝手に期待で膨らみ、次の瞬間には警戒で縮んだ。助けか、捕獲か。ここではその二択しかない。
角のない直線の向こうから、男が現れた。背が高い。真っ白な服は白衣に似ているが、医者の柔らかさはなく、軍服の硬さだけを抽出したみたいな裁断だ。胸には見慣れない記号のバッジ。腰には細長い器具と、薄い板状の端末。髪は短く整っていて、顔は整っている。だが、目が笑わない。石膏の仮面に、冷笑だけが塗り付けられている。
男は立ち止まり、オレを一瞥し、鼻を鳴らす代わりに喉をわずかに震わせた。
「ほう……これが“欠番”か」
乾いた声。音程は平坦なのに、侮蔑の成分だけがはっきりと混ざっていた。
「お、お前は誰だ」
「検疫官カスト。旧人類由来の汚染と逸脱を評価し、処理するのが職掌だ」
旧人類。処理。
単語だけで喉の奥が熱くなる。
「オレは人間だ」
「自認の表明は自由だ。だが、帳簿に登録されないものは、人間とは呼ばれない」
言葉が喉の手前で詰まった。カストは一歩、こちらに近づく。靴音はやはり規則正しく、オレの鼓動とわずかに逆拍を踏む。端末をひと払いすると、空中に青白い投影が立ち上がった。記号の雨。オレには意味が分からない列が流れる。その最下段だけ、赤く点滅した。
《対象:不明》
《分類:欠番》
《処理:保留》
「人間ならば、識別子がある。君にはない」
カストは淡々と言い、腰のホルダーから細い器具を抜いた。先端に、針のない注射器のような口がついている。
「動くな。一次検査を行う」
拒絶の言葉を探すより早く、器具の先が喉元に触れた。冷たさはない。熱もない。触れている感覚だけがあり、そのまま皮膚を通り抜けて、声帯の輪郭を撫で、気管の内壁を測り、肺の容量を数え、血管の太さを見比べ、骨の密度を舐め、脳の皺を一枚ずつ撫でていく――そんな気がした。
逃げようとした。足が床に縫い付けられたみたいに動かない。見れば、足首の外側に薄い光の輪が、靴の縁に沿って浮かんでいた。縛るでもなく、乗るでもなく、存在を固定するだけの輪。
「血液組成、旧規格。乳酸値、やや上振れ。筋繊維、非最適配列。骨格、非調整。歯列、矯正痕なし。――ふむ、標本としては興味深いが、環境適応性は低い」
「やめろ」
「黙れ。検査中だ」
器具がこめかみに移動する。低い唸り。視界の端で、青い粒子が舞い、瞳孔の動きを測った。
次にカストは、手のひらサイズの透明な膜を取り出して、オレの頬に貼り付けた。膜はふわりと沈み、すぐに剥がれ、内側に指紋と皮脂の地図を残した。
「皮膚常在菌、旧系統。病原性は低いが、共生率も低い。面白い。自浄を社会に委ねていた時代の名残だ」
「オレは……病原体じゃない」
「概念の問題だ」
カストは膜を端末に送信しながら言う。
「汚染とは、数の外側にあるものすべてを指す。数字に載らないもの、規則に馴染まないもの、予測の誤差になるもの。病的かどうかは、二の次だ」
器具が胸骨の中央に当たった。軽い衝撃。咳が出る。肺が触れられる感覚に、全身の毛穴が逆立つ。
「やめろって言ってるだろ!」
「命令形は無効だ」
カストは感情を込めないまま、次の測定に移る。
「声帯の震えは粗い。言語系は非標準。感情の比率が高い。――旧人類の特徴だ。合理の外に足を置くのが習性になっている」
「だから何だ」
「だから、欠番だ」
言い切って、カストは痩せた笑いを、笑いの形だけで浮かべた。
次に、霧のような消毒をオレの肩口に吹きかける。泡はすぐに乾き、皮膚の色だけがわずかに薄くなった。
「除染完了。数値に変化なし。――よし」
端末の投影が切り替わる。再び赤が点滅し、その横に、無機質な単語が増えた。
《発話:雑音域多》
《感情:高》
《予測:困難》
《処理:保留》
「予測、困難……?」
思わず口に出た言葉に、カストは小さく顎を動かして頷いた。
「困難。不能ではない。困難だ。ゆえに、保留だ」
「保留ってのは、棚上げってことかよ」
「正確には、棚にも載らない。棚を汚すからな」
薄く笑って、カストは端末を閉じた。
「――以上、一次検査。帳簿への登録は不可。分類は欠番のまま」
「待て」
声が出ていた。怒鳴ったつもりだったのに、擦れた低い音しか出なかった。
「オレには名前がある。家があって、友だちがいて……過去がある。お前らの帳簿に載ってないだけで、オレはここにいる」
「いるだけでは足りない」
カストは振り向かずに告げる。
「ここで“ある”とは、記録され、再生され、参照され、最適化に寄与することを言う。君は寄与しない。ゆえに“ない”。それだけだ」
「ふざけるな」
「ふざけるのは、君の自由だ。帳簿は笑わないがね」
喉の奥で何かが爆ぜた。恐怖でも絶望でもない。名前のない熱が、骨の内側から膨らむ。拳を握る。殴れば届く距離だ。けれど、あの足首の光の輪は未だ消えていない。腕を振り上げようとした瞬間、肘の周りの空気が硬化し、関節の角度を固定した。
「暴力の試行。――稚拙だが、旧人類らしい」
カストは無感情に記録し、腕をひと振りして拘束を解いた。オレは一歩よろめき、床に片膝をついた。
床は相変わらず、温度の概念を拒絶したままだ。冷たくも熱くもない。ただ、受け止めない。支えるのでも、拒むのでもなく、存在を透過していく。
「最後に」
カストは端末に短い報告を打ち込み、半身だけこちらに向けた。
「君の主張――“人間だ”という自己定義は、ここでは効力を持たない。帳簿に響かない声は、空気の振動以上の意味を持たない」
そこでほんのわずか、口角だけを上げた。
「言い換えよう。君の未来は、この世界には存在しない」
言い捨てて、規則正しい靴音を鳴らしながら歩き去る。振り返らない。振り返る必要のない者の歩き方だ。遠ざかるにつれて、靴音は規則しか残さず、やがてその規則すら音の形を失った。
広い通路に、再び沈黙が降りた。
だが、二度と同じ無音ではなかった。
耳の奥で、自分の呼吸が荒くなる。鼓動が、さっきより早い。肋骨の間を擦り、胸の裏側を叩き続ける。
怒りが、はっきりと形を持って立ち上がった。
欠番。
病原体。
棚にも載らないもの。
――上等だ。
オレは立ち上がった。足首の光の輪は消えている。足の裏は床を確かに踏んでいる。
こめかみの内側に、陽菜の声が小さく響いた気がした。記憶の中の笑い声は、帳簿の外からでも届く。いや、帳簿の外にあるからこそ、届くのかもしれない。
オレはその音に錨を下ろし、呼吸を整える。
さっきカストが触れた場所が、じんわり痒い。消毒の泡は跡を残さないのに、屈辱だけが皮膚の下に沈んでいる。
胸に手を当てた。鼓動はまだ速い。だが、乱れてはいない。
ゆっくり、広間の中央まで戻る。天井の光の網を見上げる。規則は揺るがない。揺るがないなら、外から揺らせばいい。揺らせないなら、読み方を壊せばいい。読むことそのものを、不能にすればいい。
唇の内側を噛む。血の味は薄い。味覚を奪うこの都市でも、痛みはまだ奪えないらしい。
だったら、痛みで刻む。
オレは欠番だ。
名前のある欠番だ。
帳簿の外側から、帳簿ごと噛み砕く。
白い枠の向こうに、さっきと変わらない通路が続いている。
同じに見えるものの中に、違いはきっとある。違いを見つける目は、まだ死んでいない。
背筋を伸ばす。肩の力を抜く。足元を確かめ、一歩、前へ。
世界の帳簿から外されたなら、外されたままでいい。
外側から、世界に書き込み直してやる。
【更新予定】
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その後は【月・木】に定期更新していきます。
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