第二章「応援団長と妄想スローモーション」 ② 妄想世界開幕(脳内の文芸部部室)
それは、まったく突然の出来事だった。
僕がいつものように校庭の隅で、ライン引きの粉で白く染まった右手をじっと見つめていたとき。
風のように走ってきた彼女――如月舞――が、僕の肩をドンッと叩いた。
「ちょっとどいてッ!」
それだけ言い残し、彼女は僕の前を駆け抜けていった。
その瞬間、僕の時間は停止した。
「バッ……」
風が、頬を撫でた。
「タッ……」
スニーカーの音が、校庭の乾いた地面を弾いた。
「ヒュ……」
心臓の音が、鼓膜の裏側で軋むように鳴った。
世界が、スローモーションになった。
校庭の喧騒はすべてフェードアウトし、
音という音が、まるで水の中に落ちた木の実のように、遠く沈んでいく。
白線の上、彼女の髪が風に揺れる。
その一筋の影さえ、芸術的に思えてくる。
僕の中で、空気の分子が詩になった。
「これは……映画だ」
そう思った。脳内で、すでにサウンドトラックが流れ始めていた。
ヴァイオリンの旋律。フィルム調のノイズ。逆光。
自意識過剰の極致である。
そして何より問題なのは――
如月舞は朝比奈朱音ではないという点である。
これは誤算だった。
僕の妄想恋愛世界において、主演は朝比奈朱音であるべきなのに。
しかし今、僕の脳内には如月舞がスローで振り返っている。
その頬には汗が流れ、額には光が宿り、
「ちょっとどいて」の声だけが、いつまでも耳に残っている。
加賀谷薫、まさかの浮気の兆しである。
けれど、この瞬間だけは、許してほしい。
たとえそれが、ただの肩タッチであり、単なる通行人との接触であったとしても。
このスローモーションの中では、それはもう――運命としか言いようがなかったのだ。
(章末モノローグ)
肩に触れた手のひらの熱が、まだ残っている気がする。
一瞬の交差。それだけのこと。
だが僕の世界は、それを永遠にするためにある。
妄想は、時間の魔術師である。