第一章「妄想文芸部の夜」 ⑤ 締め:夜の教室で一人、空を見上げる
チャイムは、とっくに鳴り終わっていた。
教室の中に残っているのは、埃と紙の匂い、そして僕だけである。
誰もいない。
正確に言えば、誰も残っていてくれないというほうが近い。
放課後の教室は、いつもこんなふうに、感情の抜け殻みたいに静かだ。
窓の外を眺めながら、僕はぼんやりと空を見上げた。
曇天。灰色の雲が重なって、どこか湿ったような夕暮れだった。
しかしその空の奥に、僕は幻の風景を見ていた。
それは、妄想の中の文芸部部室。
高窓のカーテンが、風もないのに、ふわりと揺れている。
その光景は、もう何度も見てきたはずだった。
でも、さっきは違った。
彼女――妄想内朝比奈朱音――が、あの部室で僕に言ったのだ。
「現実から逃げ続けて、愛を書けると思う?」と。
僕は今でもその問いの正体が分からない。
叱責なのか。挑発なのか。あるいは――僕自身の良心だったのか。
しかし一つだけ、分かっていることがある。
僕は妄想から抜け出せない。
けれども――そこにしか、僕の恋はないのだ。
妄想という言葉は、滑稽だ。
哀れでもある。現実逃避、非生産、片想い以下の概念。
けれど、僕の世界ではそれがすべての起点であり、終点でもある。
妄想は、終わらない。
それはまるで、読まれなかったラブレターのように、机の中で眠り続ける。
でも、たとえ読まれなくとも、書いた時点で恋だったのだ。
空に、わずかに月が浮かび始めていた。
あまりにも控えめな、遠慮がちな、ひとつきりの月。
それを見上げながら、僕はそっと目を閉じた。
(章末モノローグ)
僕の恋は、今日も彼女の視線一つで始まり、
机上の栞一枚で試される。
なんと甘く、そして残酷な季節であろうか。
これを恋と呼ばずして、何をか――。