第一章「妄想文芸部の夜」 ④ 妄想暴走(再び脳内へ)
僕は、そのページを実際に開いてなどいない。
ページを破ることも、折ることも、めくることすらしていない。
それなのに、見えてしまったのだ。
脳内に焼きついた文庫のあの栞、その角度、あの厚み。
そのすべてが、僕の想像力に火をつけた。
気づけば僕は、ふたたび《幻影亭》にいた。
深紅のカーテンが揺れ、古い木の床が軋む。
書棚の本たちは今日も優雅に眠っている。
そして、テーブルの上には――あの文庫本。
『恋愛とは何か――感情と理性の境界』
そこに、栞が挟まれている。
僕は手を伸ばし、栞のページをゆっくりと開いた。
だが、そこには文字の群れではなく、たった一文だけが書かれていた。
「現実から逃げ続けて、愛を書けると思う?」
その瞬間、空気が止まった。
時が軋み、幻想がきしむ。
この部屋の重力が一段階、変化した気がした。
顔を上げると、向かいに朝比奈朱音が座っていた。
いや、妄想内朝比奈朱音である。
いつものような柔らかな笑顔はない。
代わりに、そこには真顔――いや、断罪者の顔があった。
「加賀谷くん。あなた、本当に恋をしてると思ってる?」
彼女は、カップにも触れず、ただ僕を見つめていた。
《幻影亭》は、いつから裁判所になったのか。
この場所は、僕の聖域ではなかったのか。
ここでだけは、僕は“好きなように愛してよかった”はずなのに。
僕は口を開こうとしたが、声が出なかった。
喉が凍っていた。
「それとも……自分だけが書くのを許されてると思ってる?」
朝比奈の言葉は、まるで活字で刻印されたナイフのようだった。
脳内でさえ、僕は逃げられないのか。
僕は震える声で問い返した。
「これは……叱責か? 試練か? それとも……愛の、警告か?」
その問いに、彼女は何も答えなかった。
代わりに、風が吹いた。
妄想なのに、確かに感じた冷たい風が、《幻影亭》の窓を揺らした。
そして――カーテンが、音もなく舞い上がった。
その光景を見ながら、僕は思った。
この妄想は、もうただの妄想ではない。
彼女の“現実”が、ここへ侵入してきている。
僕の脳内の文芸部は、今や閉鎖系のユートピアではない。
それは、現実との接続端末となりつつある。
僕は怯えた。だが、ほんの少しだけ、高揚してもいた。
――これが恋かもしれない。
(章末モノローグ)
僕の妄想は、もはや僕の制御下にはなかった。
妄想の彼女が、僕を裁くとき。
そこに、現実の彼女の面影が重なってしまったなら。
僕は、もう“戻れない”。