第一章「妄想文芸部の夜」 ③ 現実との対比
「――あなたの愛、ちょっと気持ち悪いけど……素敵ね」
その余韻がまだ耳の奥に残っている。
紅茶の香りが立ち上る幻影亭の空気ごと、脳内で静止したまま、
僕はそっと目を開いた。
現実が、そこにあった。
蛍光灯の光はやや白すぎて、机の木目は乾いている。
ざわつくクラスの空気は、あまりにも情報量が多く、
目を覚ましたばかりの僕には、やや刺激が強すぎた。
だが、何かが視界の端に引っかかった。
朝比奈朱音の机。
そこに、文庫本が置かれている。
それは、文庫というより、遺跡だった。
この教室の喧騒とは異なる時制に属し、まるでひとりで時間を止めているような佇まい。
カバーには飾り気のない文字が、静かに刻まれていた。
『恋愛とは何か――感情と理性の境界』
僕は息をのんだ。
これは、明らかにただの読書ではない。
これは……宣戦布告である。
というのも、僕が妄想内で朝比奈朱音と語り合ったのはまさに、
「愛とは盲目なのか、それとも明晰なのか?」という命題である。
彼女がそれを知っているはずはない――
だが、知らないとは言い切れない。
脳は解釈を求めている。
そして妄想は、解釈を真実に変換する装置なのだ。
しかも、その文庫には――
栞が挟まれていた。
それが、まるで「ここを読め」と言わんばかりに、
ページの右端からちょっとだけ顔を出していた。
斜め45度。
明らかに計算された、指し示し型の挟み方。
もはやこれは、ページ指定付きの恋文である。
僕の脳内は一気に熱を帯びた。
「これは……メッセージだ」
“愛とは何か”と問う本を、わざわざ机の上に放置し、
しかも栞で読んでほしいページまで明示するという高度な技。
これはいったい何の試練か。
いや、これは選別である。選ばれし者のみが解くことを許される、恋愛的暗号なのだ。
現実に戻ったはずなのに、脳内は再び幻影亭の扉を開けようとしている。
「読め」と言われたわけではない。
けれど、読まねばならぬ気がしてくる。
その“気がする”ことこそ、恋の本質ではないのか?
僕は目を細めた。
文庫の栞の位置を記憶し、心の中でそのページを開く。
まだ読んでいないのに、そこに何が書かれているか、すでにわかったような気がした。
きっと、こんなふうに書かれているに違いない――
「愛は、理解されたいという欲望の変形である。
だが、理解されたと錯覚する瞬間にこそ、最も強い恋が宿る」
僕は、ほとんど溺れかけていた。
現実の文庫本一冊に。
だが、そこにしか、僕の恋はない。
(章末モノローグ)
教室の机の上に、一冊の本。
栞の先が指し示すのは、ページではなく、僕の妄想の延長線だった。
現実の中に、恋の入り口が開いた。
妄想は、加速する。