第四章「恋愛とは妄想の形式である」 ④ 自己反省と覚醒未遂
幻影亭のカップから、湯気がすっかり消えていた。
冷めた紅茶のように、僕の頭の中もいまや冷めかけていた。
店内には誰もいない。
朝比奈も、如月も、羽生も。
彼女たちは、三者三様の抗議を終え、最後に一言もなく幻影亭から立ち去った。
僕は残されたソファにひとり腰を沈め、銀色のティースプーンをぼんやり回していた。
「僕がしていたのは……恋ではなかった。
ただの“愛されてるごっこ”だったのかもしれない」
そんな言葉が、ふいに口をついて出た。
彼女たちは、僕の理想に“合わせてくれていた”だけだった。
朝比奈は「文学的に美しく」、如月は「体育会系で情熱的に」、羽生は「寡黙で詩的に」。
だが、それらは全て──**僕の望んだ“設定”**だった。
僕はそっと立ち上がる。
幻影亭の出入口、重厚な木の扉の前まで歩く。
「帰ろう、現実へ──」
そう言って、ドアノブに手をかける。
しかし。
次の瞬間、僕は震えていた。
外の世界には、教室があり、クラスメイトがいて、期末試験があり、
そして──僕を「空気」としか見ていない朝比奈たちがいる。
「いや……やっぱ現実は怖いわ」
僕はそっと手を引っ込め、またソファに座り直した。
結局、逃げるのだ。
「この世界には、理屈がある。静けさがある。
それに──紅茶だって、ちゃんと淹れてもらえるし」
そうやって、また“物語の住人”になろうとしたそのとき。
カラン。
店内のドアが、音だけを響かせて、開いた。
誰も入ってこなかった。
でも、たしかに──開いた“気配”があった。
風もないのに、カーテンがかすかに揺れる。
紅茶の香りが、どこからともなく立ちのぼる。
僕は凍りついたまま、ドアの方を見た。
だれ?
なに?
答えはなかった。
ただ、次の物語が幕を開けようとしている気配だけが、店内に満ちていた。
「……僕は、もうすぐ誰かと出会うのかもしれない。
それが現実なのか、妄想なのかは──まだ、わからない」