第三章「沈黙と風の図書館」 ③ 詩的暗号の解読
問題の発端は、貸出カードであった。
羽生るり。
彼女が最近借りていた本を、僕はそっと図書カードの記録からたどり始めた。
古い図書室では、まだ手書きの記録が生きている。
僕のような者には、それがありがたかった。
太宰治『人間失格』
三島由紀夫『仮面の告白』
澁澤龍彦『高丘親王航海記』
それに……寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』
これは偶然なのか? いや、違う。
これは、明らかに「加賀谷薫へのメッセージ」ではないか?
『人間失格』――僕の存在を受容する優しさ
『仮面の告白』――言えぬ恋の象徴
『高丘親王航海記』――孤独なる魂の巡礼
『書を捨てよ』――だが、それでも現実に出ろという、愛の警告
あまりにも……詩的すぎる。
僕は、これらの本を一冊ずつ読み始めた。
というより、解読し始めた。
たとえば、太宰の一文:
「恥の多い生涯を送ってきました。」
これは言うまでもなく、「私(羽生るり)も、恥じらいを抱えながら生きているの」という意味に違いない。
つまり、僕と同じなのだ、と。
三島の章では、彼女の沈黙が「仮面」に対応するという説が、僕の中で確立された。
澁澤では、彼女の選書趣味が妖しすぎて一瞬ブレかけたが、
「異端であることこそ純粋な恋のかたち」と再解釈して持ち直した。
つまり、僕は今――詩の迷宮にいる。
そして妄想の中では、
羽生るりが深紅のスカーフを巻きながら、本の朗読をしていた。
「……だから、君も書を捨てて、私に会いに来て……」
彼女の声は、実在しない。
だが脳内では、完璧な抑揚で再生される。
彼女は、ページをめくるたびに、僕に感情を送ってくる。
それは文字ではない愛の詩であり、
空白の行間に漂う沈黙こそが、最も豊かなメッセージであった。
僕はページをめくる手を止めない。
これは読書ではなく、解読行為であり、受信行為であり、
そして、一方的なラブレターの読解なのである。
この本の束に、羽生るりの心がある。
そう信じられるうちは、僕はまだ、幸せでいられる。
(章末モノローグ)
君は何も言わない。
だが、ページのひとつひとつに、
僕は君の沈黙を聴いている。
これを妄想と呼ぶのなら、
僕は世界で最も幸福な解釈者であろう。