第三章「沈黙と風の図書館」 ② 妄想発動:「沈黙の乙女」登場
……あの手と手が“触れかけた”瞬間から、世界は変わってしまったのだ。
いや、世界が変わったのではない。僕が、勝手に変えてしまったのである。
図書室。だが、すでにそれは現実の図書室ではない。
カーテンは重く、窓からは琥珀色の光が斜めに差し込み、
書架の奥には、誰も知らない扉が開いていた。
その小部屋の中に、彼女はいた。
羽生るり。沈黙の乙女。
現実の彼女は寡黙で、感情を見せず、委員として事務的に働くだけの存在だった。
だが僕の妄想の中では、彼女は言葉を用いぬ愛の伝道者であり、
その瞳には「書かれなかった詩」が宿っていた。
彼女は、深紅のスカーフを巻いていた。
季節に合わぬその色は、まるで情熱の象徴であり、
言葉では言えぬ“何か”を誤魔化すように、そっと首元に巻かれていた。
彼女は、無言で本を差し出す。
それは『沈黙論』ではなかった。
もっと古びた、皮表紙の詩集だった。タイトルは消えかけていて読めない。
しかし、彼女の目は語っていた。
「この本を読めば、私の心がわかる」
実際には、目も合っていない。
現実世界での彼女は、本を棚に戻すと背を向けて去っていったのだから。
だが、妄想世界の彼女は、目を逸らさない。
沈黙のまま、存在ごとこちらへ差し出してくる。
秘密の小部屋には、ふたつの椅子と、ひとつのランプ。
僕と彼女は、並んで座る。
会話はない。だが、沈黙が交わされている。
僕は、彼女の差し出した本をそっと開く。
そこには、ページごとに折り目がついていて、
言葉がない代わりに、白紙の余白がやたら広かった。
その余白を、僕は読む。
読むというより、感じ取ろうとする。
「これは……私に向けた手紙だ……!」
そう錯覚した時点で、すでに僕は手遅れだった。
この恋は、もう言葉を超えてしまったのだ。
書かれない手紙、交わされない視線、名前を呼ばぬ恋。
それが、僕の脳内図書館における最も純粋な愛の形だった。
(章末モノローグ)
言葉を交わせないなら、想像すればいい。
目が合わないなら、合ったことにすればいい。
恋とは、実在ではない。
妄想の中でなら、あらゆる沈黙が愛の詩になり得る。