第三章「沈黙と風の図書館」 ① 導入:放課後の図書室
僕は放課後の教室に溶け残った、冷めた紅茶のような存在であった。
喧騒と笑い声と帰宅準備のざわめきの中で、僕の居場所は徐々に空気へと溶解していく。
その過程は毎日同じで、まるで陰キャ的儀式の一種である。
だから僕は、図書室へ向かう。
図書室は、他者からの評価という毒素を無害化する中和装置だ。
本の背表紙が並ぶだけで、そこに人格や成績や交友関係は持ち込まれない。
僕が“在る”ことを誰も咎めない空間。
それが、図書室だった。
僕は今日も、「読みたい本を探している」という偽装行動を取りながら、書架の間をうろうろする。
決して誰かに見られてはいけない。だが、見られたい気持ちもゼロではない。
これは、陰キャの危うきバランスである。
そのとき――。
僕の目に一冊の本が飛び込んできた。
それは、以前から何度も手に取ろうとして取れなかった本。
タイトルは『沈黙論──言葉の不在と存在の哲学』。
今こそ、手を伸ばす時だ。
指先が、本の背に触れ――
その瞬間。別の指先が、同じ本にそっと触れた。
羽生るりだった。
図書室の女神にして、沈黙のミューズ。
寡黙な図書委員として知られる彼女は、気配を殺す技術においては僕をも凌駕する達人である。
手と手が、“触れかけた”。
触れてはいない。だが、触れなかったとも言い切れない。
その曖昧な刹那が、時の流れを変質させる。
空気が、微かに振動した。
木枯らしが窓を叩く音が遠くで聞こえた気がした。
書架の隙間から差し込む光が、羽生るりの髪をほんの一瞬だけ照らしていた。
彼女は何も言わず、ただ手を引っ込めた。
そして、静かに別の本を選び、無言のまま去っていった。
それは、本を読む者のための言語であり、僕には十分すぎるメッセージだった。
僕の胸の奥で、図書室という劇場の幕が上がったのを感じた。
(章末モノローグ)
触れたのではない。
触れかけたのだ。
だがその“かけた”という未完の構文こそが、
僕の脳内に千の恋文を生成しはじめる。
言葉がなくても、沈黙が語る。
これを恋と呼ばずして、何をか――。