第二章「応援団長と妄想スローモーション」 ⑤ 締め:夜の教室で一人、空を見上げる
運動会は、終わった。
僕の出番も、終わっていた。いや、始まってすらいなかった。
「すみません、ちょっと……熱中症っぽくて……」
そう言って、僕は保健室に逃げ込んだ。
この保健室は、数少ない“安全圏”である。
ここにはスコアも順位も、応援の声すらない。
あるのは、ただ静寂と薄暗さと天井のシミである。
仰向けに寝かされた僕は、冷えピタを貼られた状態で天井を見つめていた。
視界の端に、白いカーテンがゆらゆらと揺れている。
それがまるで、妄想文芸部部室のカーテンのように見えた。
ああ、如月舞――
君は僕に触れた。たった一度だけ。
それは、ただの肩タッチであり、言葉も「どいて」の一言だけだった。
だが、僕の中ではその接触が人生の分岐点となっていた。
「ほんの一瞬、彼女と接触した。接点は点であって線ではなかった。
だが、妄想の世界では接点を無限に伸ばすことができるのだ。
なぜなら、そこに制約はないからである」
天井のシミが、彼女の横顔のように見える。
いや、錯覚ではない。これは脳内映写機による上映である。
僕は、そのまままぶたを閉じた。
保健室のシーツが心地よく、脳が夢の回路に切り替わるのを感じる。
気づけば僕は、夜の校庭に立っていた。
如月舞と、再び向かい合っていた。
彼女は微笑んで、手を差し出す。
先ほどの舞の続きだ――今回は僕がリードする番である。
妄想は、裏切らない。
少なくとも僕の中では、そうだった。
誰かに名前を忘れられても、視界の外に追いやられても、
妄想のなかでは僕は舞台の主役であり、
彼女は、僕を選び、僕と踊る。
手と手が触れ、ステップが重なり、月光が差し込む。
音楽はないが、心の中で完璧な伴奏が鳴っている。
演舞は永遠になった。
現実では、誰にも気づかれず、保健室の片隅で
僕はそっと、ひとつ微笑んだ。
(章末モノローグ)
彼女の名を知らなくてもいい。
彼女が僕を知らなくても、なおさらいい。
僕は、僕の脳内で、
彼女と百回だって、踊ることができるのだから。