07
2ヶ月が過ぎた
「ご主人さまご起床の時間です」
「……う、ん……」
眠気を払うようにまぶたを擦り瞳をゆっくりと開くと
枕元に立つ少女の姿が目に入った淡い桃色のワンピースに白いエプロン細い体躯にやや大きめの衣装が不釣り合いに見えたが
その身のこなしには既に躾の成果が滲んでいる
イリナ――僕が名付けた少女は今や完全に僕の命令を生活の軸とし
忠実な従者としての役割を果たし始めていた
元は打ち捨てられた奴隷だった少女僕が命を救い
肉体を修復し心に繰り返し刻み込んだ命令と報酬教育と訓練それらが着実に成果を上げている
「おはよう、イリナ」
「おはようございます、ごしゅじんさま」
抑揚の少ないけれどはっきりとした発声言葉遣いも表情も最低限の礼儀として仕上がりつつある教育係を任せた屋敷の侍女たちの教えを彼女は実によく吸収しているようだった
彼女に求めているのは単なる従者ではない僕の命令に即応し実験や調合、将来的には外部との折衝や護衛すら担わせる“補助機構”としての存在だ
だからこそ今のこの段階――礼儀、動作、生活管理、簡易作業、基礎体力、集中力
それらすべてを身体と精神に叩き込み、自然に動けるように仕上げなければならない
そしてもう一つ、大切な狙いがある
依存心の育成
イリナにとって僕が唯一無二の庇護者であり存在の支柱であるという認識を深層にまで浸透させること
朝、目を覚ましたらまず僕を起こす
衣服を整えるのも食事を用意するのも掃除も薬の準備も
全部僕のため
そのすべてが日常の一部になった時彼女は知らぬ間に僕無しでは日々を成り立たせられなくなる
その状態こそが理想だ
服従の魔法も、恩義も、恐怖も、いずれ揺らぐ
だが依存
それだけは、本人すら自覚しないほど深く刻み込める
それが、僕の永遠への礎になるのだ
だから今日もまたイリナに「僕の朝」を始めさせる
さらに半年が過ぎた
「ぐはっ!?」
鳩尾に訓練用の木の棒を強かに突き込まれて男は草むらに崩折れた幼児の身で大人一人を打ちのめすという偉業を達成したイリナはいつもの感情が窺えない顔でそれを見下ろしている
身体能力の向上を企図した訓練を開始して一年近くが経つ例の一代騎士の男が
かつては戦争で手柄を立てたこともあるとか言っていたのでついでに剣も習わせてみたのだがその結果がこれだ
大の大人それも手ほどきを施してくれた相手を倒す七歳(推定)の少女いやはや末恐ろしいにも程がある
「本日もご指導、ありがとうございました」
「な、何がご指導だ……」
生まれたての小鹿のように足を震わせながら
たっぷり一分近く掛けて立ち上がる騎士の男イリナの一撃が相当に堪えているのだろう
何しろ、彼女の筋力は僕が調合した薬剤のお陰で大幅に向上している骨格の成長を阻害しないよう筋肉の量ではなく質を高める薬を探し出すには苦労したものだ
その過程で奴隷を五人ばかり無駄死にさせてしまったいずれも最安値の下手をすれば玩具やお菓子より安い奴隷だが処分の手間が掛かったのは頂けない
一度など死体の火葬を見咎めた父にこっ酷く叱られ教会にまで説教の為に連れて行かれたこともあった
だけどその甲斐あってかイリナの身体能力は相当に強化出来ているおおよそ七歳でこれだけ戦えるなら想定より早く探索の仕事に就かせられるかもしれない
明るい未来を思い描いてホクホクする僕に家臣の騎士は渋い顔を向ける
「坊っちゃん……この娘の相手は今日限りにさせてくだせえ」
その声は痛みとは違う何かで震えているように聞こえた
「はい? なんで?」
「正直、あっしじゃあこれ以上教えるもんが無ェですそれに毎日これじゃあ身が持ちませんや」
言いながら何度も打たれた腹や手首をさすっている顔にも青痣を幾らか拵えていた確かにイリナは彼より強くなった既にこの男から学べるものは特に無い
それに彼も自分の鳩尾にさえ届かない子どもにここまでされては騎士の面目が立たないそこを慮ると、切り上げ時ではある
まあ、一代騎士になれたのは戦功よりも傍仕えを評価されてのことと聞いている
この世界の戦闘要員の平均レベルがどれ程かは知らないが彼はそう高い位置にいるものではないだろうイリナにももっと高水準の教材が必要な時期かもしれない
僕が肯くと、男は這う這うの体で帰っていった
「さて、明日からどうしようか? 冒険者でも雇って、魔法か探索の技能でも教えて貰うかい?」
「……よろしいのでしょうかそれでは、実験台や素材の購入に掛かるお金が――」
殊勝にもそう言うイリナだがそれは気の回し過ぎというものだ
「君が早い段階で物になれば、そんなの幾らでも取り返しがつくよ
寧ろ早いところそうなった方が最終的には得ってものさ」
素材の入手に金が掛かるのはわざわざ人から買っているからだ自前で素材の採集が出来るようになればその方面のコストがほとんどゼロになる
「ま、新しい教師役の手配が済むまでは、町外れで動物かモンスターでも狩って訓練の代わりにしよう出来るね?」
「はい街の近くに現れるゴブリン程度には後れを取りませんその自信はあります」
イリナは平然とそう言ってのけた実際この野原で出くわしたモンスターは主に彼女が倒している僕やさっきの騎士が手を貸したのは最初の一ヶ月程度だこれなら近場の森での探検程度なら出来そうだが
何が起こるか分からないのが実戦である一度に大きな群れを相手取るかもしれないし
連戦となると疲労や傷で不覚を取る恐れもあるのだ本格的に探索に出すのはもう二、三年ほど訓練に当ててからでも十分である
これでも当初の予定を大分繰り上げてのことだそれも予想を上回る彼女の成長ぶりが原因というプラスの要素によってのこと
焦ることはない丹念に丹念を重ね、じっくりと行こう彼女ほどの逸材は、他にはいないのだから